公開日に劇場に駆けつけることができた、『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』。
副題を除けば、タイトルがシンプルに『仮面ライダー』となっており、妙に感慨深い。「令和の仮面ライダー映画」といえば、既に夏に前例があるにも関わらず、つい本作が新元号一発目のように錯覚してしまう・・・。
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本作は、『MOVIE大戦』シリーズから続く冬の共演作、その最新版。お馴染みのフォーマットを踏襲するように、ジオウとゼロワンの物語が交わり、相互に作用していく。
しかし、本作が従来のシリーズと一線を画するのは、その片方が他でもない『仮面ライダージオウ』である、という点だ。平成仮面ライダーシリーズ20作記念として打ち出された『ジオウ』は、シリーズの精神性をアクロバティックにまとめ上げ、勢いのままに走り抜けた。『ゼロワン』が始まって数ヶ月が経つが、あの夏の異様な空気は未だ記憶に新しい。
そんな『ジオウ』の記念作ならではの設定として、歴史改変のギミックが存在した。タイムジャッカーがアナザーライダーを生み出し、それが本来の仮面ライダーに成り代わることで、発生以降の歴史が歪められてしまう。レジェンド出演する過去作のキャストが「すでに仮面ライダーの力を失っている」という変則的な観せ方は、作品そのものが持っていたテーマやイズムを浮き彫りにする効果を有していた。
その構造を今一度活用しながら、『ゼロワン』の物語における過去を改変することで、デイブレイクの真相に迫る。或人の父とされるヒューマギアは、何を目的に活動していたのか。正史と偽史を織り交ぜながら、父から子へ受け継がれる「夢」、ひいては令和の仮面ライダー1号、そのオリジンを語る。
実に、堅実かつ真摯なアプローチである。『ジオウ』は非常にあくが強く、ともすれば他の作品でも容易に自分の色に染めてしまうポテンシャルを持っているが、本作ではそこにあえて線を引き、構造的なギミックを中心に拝借している。ソウゴも貫禄たっぷりに立ち居振る舞うが、あくまで本筋には絡んでこない。『ゼロワン』の物語を、『ジオウ』の構造を借りて展開する。それはつまり、『ジオウ』テレビシリーズにおける「ゼロワン編」の解釈にも近く、王道なパズルと言えよう。
また、一度完結した作品としての『ジオウ』が登場するため、改めてそれがひどく異質なものであると感じることができた。濃すぎる記念作『ジオウ』の相対化。こうして一歩引いた立場でその作品を捉えると、やはり、相当変わった番組である。
基本設定のように繰り返された「アナザーライダーによる歴史改変」も、一期の頃に馴染み深かった「(劇場版等の)パラレル展開」、その発展型に見えてくるのだ。なるほど、アナザーライダーという便利なギミックを使えば、本来様々な都合で分離していくかもしれないパラレルな語り口を強制的にひとつの物語にパッケージできてしまう。本作のルックが『パラダイス・ロスト』に近いところからも、そういった、白倉プロデューサー積年の手腕(強引さ、とも言える)を感じるところであった。
インドの民族音楽のような劇伴も、実にエッジが効いている。一度離れて実感する、その異質っぷり。
そういった構造の上で、本作は、衛星アークの打ち上げを軸に『ゼロワン』の第0話として展開していく。以下、ネタバレ込みで感想を記す。
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タイムジャッカーによりアナザーゼロワンが誕生し、本来の歴史が歪められる。アナザーゼロワンが発生した時点で或人の記憶が瞬時に書き換わっていないとおかしいのでは・・・ と思いきや、作品のラストにて、「衛星ゼアとリンクしていたから改変の影響を受けなかった」とのフォロー。なるほど細かい。第1話の初変身におけるラーニング描写等が、それに相当するのだろう。『ジオウ』本編でも地球外で神様として活躍する葛葉紘汰がアナザー鎧武の改変を受けていなかったので、その影響はあくまで地球内、ということで良いのだろうか。
などと毎度のように理屈をこねくり回しながら観ていたが、作品のメッセージとしてはとてもシンプルかつ明快だ。「お父さんを笑わせたい」という或人。それを受け、「親子で笑いたい」という夢を抱く其雄。この思いの交錯の上に立つのが、「人間とヒューマギアが共に笑って暮らせる社会を目指す」、そういった主人公の動機である。或人が度々主張していた理想論、それを今一度、彼の実体験を通して語り直す構成。
だからこそ、最も身近なヒューマギアとして活躍するイズが重要な役どころになる。ヒューマギアでありながら人間のレジスタンスに味方する彼女は、迫害されながらも人間のために動き、果てには、人間側の武装チームが彼女を救出するために敵陣に乗り込んでいく。或人の影響を受けて学習を続けるイズが、人間とヒューマギアの架け橋になり得るかもしれない。そんな示唆に富んだクライマックスには、なるほど納得感がある。
或人自身がお笑い芸人であった、その「笑い」「笑顔」というキーワード。彼がクオリティに疑問の残るギャグに熱心なのは、それが人間であれヒューマギアであれ、他者を笑顔にしたいからである。そういった番組の基本設定を応用しながら、「笑顔」というワードの解釈を次第に広げ、親子のドラマから奴隷解放、異種共存にまで繋げていく。メインライター・高橋悠也による脚本ならではだ。
中でも、「夢に向かって跳べ」の台詞は印象深い。「跳ぶ」は、もちろん「ジャンプ」のアビリティを指し、それはそのまま「ライダーキック」でもある。「飛ぶ」と言い換えれば「飛電」でもあり、アークやゼアが宇宙へ「飛ぶ」のも本作の重要なポイントだ。こういった、言葉遊びにも数えられそうな意味づけをミルフィーユのように重ねるのは、大森敬仁プロデューサーの得意とするところだろう。
夢に向けて拳を交える親子は、共に必殺技を放ち、「跳ぶ」。1型として戦った父親もまた、息子に夢を託すために、夢に向かって「跳ぶ」のだ。
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そういった堅実なアプローチがひしめき合った本作では、(終わってみれば驚きなのだが)、「令和」という単語が劇中に登場しなかった。前作『ジオウ』ではあれだけ「平成」を強調し、劇場版を含め、ことあるごとにその枠組みを叫んでいたのに。「令和」をタイトルに入れはしたものの、劇中では誰一人口にしなかった。
そう、『ゼロワン』が描く新時代は、必ずしも「令和」を意味しないのだ。もちろん、平成ライダーがその元号を用いてセルフブランディングを行ったからこそ、令和ライダーとしての枠組みが求められるのは必然であった。しかし、そういったメタな枠組みを劇中には持ち込まず、あくまで「新しい時代」として捉える。それは、AIが発達し、ロボットが実社会で活躍する、既存の価値観の変革が迫られる時代。旧来の価値観にわざわざ疑問を投げかけ、それにアップデートを重ねていくことが必須となる時代。まさにシンギュラリティのような大きな変化に直面しているのが、令和の「今」なのである。
本作『令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』がそれとなく上品なのは、明らかに「平成」に対する「令和」を意識させつつも、その枠組み(元号そのもの)に頼るのではなく、純然たる「新しい時代」を描いている点にある。ロボットが街を行き交い、人々の仕事を奪い、生き方を変える。これまで当たり前に存在していた「普通」が揺らぐ時代。だからこそ、「そんな激動の時代を他でもない自分から始めてみせる!」、そんな傲慢にも受け取れる強烈な自負が、プライドが、これからの若き社長には求められるのかもしれない。
『ジオウ』における「平成」はストレートに「平成」だったが、『ゼロワン』の「令和」は「新時代」。技術革新を受け、価値観のアップデートを余儀なくされる時代。それを牽引するのが、「新時代の1号」、始まりの仮面ライダーだ。
だからこそ、「平成」の看板を掲げるジオウもその精神性を今一度主張する。「仮面ライダーに原点も頂点もない!」。なんとも痛烈な自己批判だが、これこそが、バラバラな個性を全力で肯定した『ジオウ』という作品のスタンスなのだ。新たな個性、これが平成。歪でも、凸凹でも、不揃いでも。それぞれが懸命、それ自体が美しい。「力の由来が悪である」というアナザー1号が主張する概念に、「課せられた運命は個性で越える」と殴り返す。それが、平成ライダーというキメラのような混沌シリーズの成果でもあった。
しかし、個性が叫ばれたそんな時代も、今や過去になろうとしている。先進技術が既存の価値観を破壊するこれからの時代は、平成ライダーが主張した「平成」それ自体も、壊していくのかもしれない。価値観をアップデートさせるために、「平成」を過去にする。決して交わってはならないからこそ、物語のクライマックス、平成のジオウと令和のゼロワンは拳を交えるのだ。
それは、単に記憶の消去が云々といった、作劇の都合だけの展開だろうか。そう簡単には拭い去れない過去の価値観・平成と、それを振り払いまだ見ぬ未来へ跳躍する新時代・令和。各々が相容れずに殴り合い、互いのイズムを衝突させる。そういった自己批判の精神こそが、新しい価値観を生み出し、時代を前に進めていくのではないだろうか。
『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』は、元号に頼らずに改元を描く、そんな超変則な「新シリーズ一作目」なのだ。これは平成の延長戦ではない。リスタートである。
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