『仮面ライダーゼロワン』の放送が、16話までを終えた。
敵として設定されていた滅亡迅雷 .net との最終決戦が繰り広げられた年末。本作と同様のスタッフ布陣(大森プロデューサー&高橋メインライター)による『エグゼイド』よろしく、敵がある程度のスパンで移り変わっていく構成と思われる。
平成仮面ライダーシリーズ20作品記念として、華々しく、それ以上に騒々しく駆け抜けた『ジオウ』。そのバトンを受け継いだのは、久方ぶりの直球「バッタ」モチーフの仮面ライダー、『ゼロワン』。AIという現代技術をメインテーマに据えながら、その問題や可能性を描写し、入り乱れる複数ライダーの群像劇を展開していく。
公式には謳われていないが、16話までが便宜上の第一章「滅亡迅雷 .net 編」と考えられることから、このタイミングで、本作に対する感想を書き記しておきたい。「魅力的なポイント」と「気になってしまう部分」、それらがぴったり背中合わせになっている、この特殊な作品について。
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「泣きながら前に進む」、その矛盾と手順
『ゼロワン』には、非常に大きな矛盾、問題点が存在する。それは、主人公である或人のスタンスだ。彼は「人間とヒューマギアが共に笑って暮らせる世界」を夢見て、その実現のために奔走する。しかしそんな彼こそが、暴走したヒューマギア(=マギア)を破壊する使命を負っている。
例えるなら、「人間と動物の共生」を訴えるキャラクターが、人里に降りてきた熊を退治する。あるいは、「異国同士の平和」を信条とするキャラクターが、その目的のために敵国の兵士に手をかける。こういった、上辺だけをピックアップすれば非常に矛盾に満ちた、そういった行動を取るのが他でもない主人公・飛電或人なのだ。
もちろん、それ自体が『ゼロワン』の大きなストロングポイントだ。本歌取りの意味でも、同族の改造人間を殺してきたのが「仮面ライダー」である。単純な善悪二元論では割り切れないからこそ、その苦悩や涙を隠すために仮面を被る。それが、「仮面ライダー」の偉大なるイズムだ。近年のシリーズではこの構造を「ライダーと怪人が同じパワーソースを持つ」に読み替えることで、メモリ・スイッチ・ ボトルといったキーアイテムを橋渡しに、「同族殺し」のフォーマットを踏襲していた。
『ゼロワン』はここを割と正直に、しかしやや変則的に描いている。つまり、或人自身がヒューマギアという訳ではないが、彼の夢の大事な部分にヒューマギアが位置している、という図式だ。これにより、個体と個体の「同族殺し」が、夢と個体の「同族殺し」に置き換えられるため、ある意味では前者より不憫と言えるだろう。或人は、夢を叫びながらその大事な構成要素をスクラップにしていくのだ。
だからこそ、主に作劇の面で、本作には非常にひりひりとした「危うさ」が存在する。それは第一に、「敵であるマギアを撃破する行為そのものがカタルシス不足ではないか」という点。そして第二に、「或人の心情が読み辛い」という点だ。前者については、ザイアが本格始動する年明け以降の展開で動きがありそうなので、ここでは割愛する。ポイントは後者、視聴者の或人に対する印象、その出来高だ。
3話「ソノ男、寿司職人」に、寿司職人の元で働くニギローというヒューマギアが登場する。しかし、敵の手によってマギア化してしまい、或人は変貌したニギローを前に絶望を味わう。同時にその他の一般ヒューマギアもマギアになってしまったため、寿司屋の前には複数のマギアが入り乱れる事態に。
ここで或人は、苦難の表情と共に、こう漏らすのだ。「やっべぇ!ニギローがどいつか分かんねぇ!」。なんとも、背筋が凍る台詞である。或人がニギローを助けたい気持ちはよく分かる。しかしこの台詞は同時に、「或人にニギロー以外のヒューマギアを救う気持ちがあるのか?」という疑念を生んでしまうのだ。
ゼロPです。現場リポートです。
— 仮面ライダーゼロワン (@toei_zero_one) 2019年9月15日
03話登場の魚住役の #渡辺哲 サマ、一貫ニギロー役の #内野謙太 サマと記念撮影。
ニギローサンにココロ動かされた魚住サマは二代目ニギローととてもイイ感じ。ワタシも先輩Pからラーニングしツツツ次はバスガイド編です。#仮面ライダーゼロワン #ゼロワン #ゼロP pic.twitter.com/RdjiUJfcqk
彼は、自分が触れ合ったヒューマギアに対しては、実に友好的である。愛情を持って接し、そこに可能性を見い出す。最も長い時間を共に過ごしているイズが故障した際の取り乱し様にも、彼のヒューマギアへの想いが見て取れる。しかし、そうでないヒューマギア、特に接触のない状況から知らぬ場所でマギア化した個体については、やけにドライに破壊行動を取る。何なら、軽口を叩きながら陽気に退治するノリまである。
これは一見、「或人という人間の不誠実さ」にも映る。ヒューマギアが大切な夢の一員と主張しておきながら、結局は「知っているヒューマギア」を守っているだけではないか? 当然、そういう指摘もあるだろう。
しかし、これを書いている私を含め、そんな或人を責められる人間がどれだけいるだろうか。つまりは、THE YELLOW MONKEY『JAM』の歌詞である。「外国で飛行機が落ちました。ニュースキャスターは嬉しそうに、『乗客に日本人はいませんでした』」。当時物議を醸したとされるこの歌詞。「乗客に日本人がいなかったことへの安堵」は、或人に突きつけられる「不誠実さ」と鏡写しではないだろうか。
「知っている相手」「触れ合ったことのある個体」。それらを優先して守り、それ以外が人類に仇なす存在になってしまったのなら、ドライに破壊するしかない。そのパワーも、立場も、与えられている。そして本当は「ドライ」でも何でもなく、シンプルに「知らない」からこそ「そこまで心が傷まない」のかもしれない。色んな意味で、何とも人間臭い。親と他人が同時に溺れていれば、やはりどうしようもなく、先に親に手を差し伸べたくなるのだ。
劇中の描写を観ていると、或人はヒューマギアを人間のように扱いながら、でも心のどこかで彼らを絶対的に「ロボット」と認識しているように受け取れる。もちろん、撮影の都合上、生身の人間が演じているのだ。どこからどう見ても、それは人間である。しかし或人は、マギアとして破壊されたヒューマギアにはすぐに代替機を用意し、それで一件落着かのような表情を見せる。ヒューマギアの可能性を信じ、破壊対象でも、道具として割り切る訳でもないが、それでも、彼らは代替のきく「ロボット」。そういった歪な一線を引いているからこそ、或人の行動は時に矛盾の塊のように見えてしまうのだろう。
「共に笑って暮らせる世界」といえば聞こえは良いが、その理想像は、本当に両者の肩が並んでいるのだろうか。ヒューマギアは人間が作らなければ存在しない。誰かがラーニングを施さなければならない。そこに絶対的に生まれる、上下や使役の関係。或人はこれを無意識に振りかざしながら、それでも「共に」を叫ぶ。人間臭さを伴いながら。・・・まるで氷の上に立つような、非常に「危うい」スタンスだ。
だからこそ、例えば2話「AIなアイツは敵?味方?」のように、或人が心で泣きながらマギアを破壊する様子は、非常にグッとくる。彼なりの矛盾を、誰よりも本人が分かっているのだ。理想の世界を実現するために、“壊されてくれ”。そう念じながらマギアを倒す。なんとも「仮面ライダー」的だ。しかし一転、「サメちゃん!トリちゃん!」などと意気揚々とプログライズキーを操り、スポーツのようにマギアを破壊する場面もある。同じ人間とは思えないほどに、両者にはテンションの差がある。
つまりは、「手順」なのだ。或人の良くも悪くも人間らしい側面、「顔見知りのヒューマギアを大切に扱う」を、シナリオの構成としてどういう「手順」で描くか。或人がそのヒューマギアと知り合うくだりに始まり、彼の心情と信念、果てにどこかのポイントで諦めを悟り、破壊するしかないと舵を切る。この複雑な工程をCM込みの30分で描かなければ、一転して「なんて不誠実なヤツなんだ」になりかねない。構造として、或人が仮面の裏で「泣く」ことを、ヒューマギア毎に視聴者に納得させなければならないのだ。
これが、どんなにハードルの高いことか。事実、それがあまり上手くいっていないと感じられる回もあった。一手も間違えられない詰将棋を指すように、シナリオの「手順」が神経質なまでに整っていなければならない。そう、『ゼロワン』は、自らに非常に大きなハードルを課した番組なのである。テーマが繊細すぎるからこそ、そこを描いた際の効果は大きいが、同時にリスクも高い。
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ロボットが洗い出す「お仕事」の問題点
そんな緻密で危ういパズルの上で描かれるのが、ヒューマギアが活躍する近未来である。
「AIが活躍する社会」「ロボットが人間と一緒に働く世界」といった要素それ自体は、実はそう珍しいことではない。さかのぼれば手塚治虫の漫画や、多くの洋画等でもすでに手垢のついた描写である。しかし、「仮面ライダー」という看板のもとでこれを一年間描くのは、随分な「挑戦」と言えるだろう。そういう枠組みでは、新鮮味がある。
更には、そのロボットを実際の職業現場に落とし込み、(ラーニングという学習機能にフォーカスしつつ)そこに発生するリスクを描く構図になっているのが興味深い。これにより、全編を通してとても痛烈な風刺が効いているのである。
例えば寿司職人の回は、オチがなんとも絶妙であった。「職人の主張する真心、という名のブラックな気質を受け止めて継承できるのは、人間ではなくロボットであった」。職人の後継者問題が叫ばれる現代社会、AIを活用したそこへの答えとしては「あり」だが、果たしてそれで本当に良いのだろうか。なんとも、考え込んでしまう。
あるいは5話「カレの情熱まんが道」では、ヒューマギアによる作業効率化の果てに情熱を失ったとされる漫画家が登場した。この回は、放送終了後にTwitterで議論が白熱したのが印象深い。つまり、「機械を使って作業を効率化させる」ことは、「情熱を失った」として後ろ指を指される行為なのか、という論点である。或人のヒューマギア観、そのシナリオの「手順」において、かなりひやっとした回でもあった。(この回は、ヒューマギアの利点を「勤勉さ」と形容したのが実に良かった)
一方、毎日のようにネットを騒がせる「教員のブラック労働問題」に触れたのが、7話「ワタシは熱血ヒューマギア先生!」である。時間外労働の最たるものとされる部活動の指導、それをヒューマギアに任せるという筋書きは、なんとも痛烈だ。例えば、生徒が「もっと練習したいです!」と主張した時に、ヒューマギア先生が機械的に「教師の仕事は17時までです」と答えたとして、そこにはどんな問題が発生するのだろうか。教育現場として、それを是として良いのだろうか。そんな脳内シミュレーションが、ついつい始まってしまう。
寿司職人・漫画家・教師に限らず、観ている人それぞれの身近にある職業をケースに、「ここにヒューマギアが投入されたらどんな問題が起こるだろう」と考えることができる。大森プロデューサーが強いこだわりをみせる「お仕事」描写には、そういった、AIの可能性と危険性を描く目的があるのだろう。
そして事実、それはドラマとして結実している。「人間とそっくりなAIロボットが実社会で活躍していたら」「AIが実際の職業をラーニングしたら」。そんなお題に対して思考を巡らせ、そこから出てくる「問題」をこねくり回して「ドラマ」に昇華させる。『ゼロワン』の各エピソードは、そういったアプローチで作られているのではないだろうか。
もちろん、ここをもっと踏み込むと『鉄腕アトム』におけるロボット差別の描写に近づくことは言うまでもない。これをあの時代に描いた手塚治虫は、やはり化け物である。
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滅亡迅雷 .net との決戦、その意味は
決戦が描かれた16話「コレがZAIAザイアの夜明け」にて、或人は迅に対して憐れみの視線を向ける。人間を滅ぼすようなラーニング、それ自体が悪であり、迅というヒューマギアの根本は「倒すべき敵」ではない。しかし、彼が信じる夢のために滅亡迅雷 .net は根絶しなければならない。
相手が一般マギアから敵組織の幹部ライダーになっても、「泣きながら前に進む」スタンスは変わらない。第一章の幕引きタイミングで今一度作品の根っこに触れる作りは、なるほど誠実である。
【次回ゼロワン】
— 仮面ライダーゼロワン (@toei_zero_one) 2019年12月15日
第15話いかがでしたでしょうか。
ゼロワンは覚醒した迅を止めることができるのか!?
そして、遂に動き出すZAIA社長…!
その目的とは?!https://t.co/qMe78CT35D#仮面ライダーゼロワン#ゼロワン
しかしこのくだりが怖いのは、或人が考える「ラーニングの善し悪し」である。そんなものは、本当に存在するのだろうか。
日本でも世界でも、信仰の違いによる争い、それによるテロ行為は、絶え間なく発生している。信じるもののために、容赦なく他者の命を奪う。それは、或人の言うところの「悪いラーニング」と何が違うのだろうか。人間だって、そう教えられれば、それを信じれば、その通りに行動してしまう生き物なのだ。「ラーニング」をただの技術的な行為と見るか、ある存在の学びという広い意味で取るか。これはもはや、「銃を作る人間は悪者か?」といった問いかけを超えた、なんとも重い課題である。
あちこちで公開される本作のスタッフインタビューを読むと、「AIについて勉強すると結局は人間について学ぶことになる」という記述が散見される。回が進むごとに、そのフレーズの意味が、視聴者にもズッシリとのしかかってくるのだ。
前述の「手順」を含め、或人が抱える矛盾や問題点は、彼の夢やスタンスなどという箱には収まらないのではないか。彼のやっていることは、ともすればひどく独善的で、恥知らずの、無知の成せることではないか。台詞や描写を細かく拾えば拾うほど、飛電或人というキャラクターの「危うさ」ばかりが目についてしまう。
また、「アークの意思のままに」戦う敵ライダーがいる一方、ゼロワンは、「ゼアの意思のまま」にプログライズキーを使っていく。ゼアの判断で新しいキーが作られ、イズを介して、それを何の疑いもなく使用する或人。自分の夢のために自発的に戦っているようで、ゼアの誘導や、あるいは祖父の遺言に操られているようにも取れるのだ。「○○の意思のままに」拳を振るっているのは、本当に敵だけなのだろうか。仮にこれがアークとゼアの代理戦争だとしても、現状、何の支障もないのである。
更には、その或人の夢についても、実のところ疑問が残る。育ての父がヒューマギアだったからこそ、理屈ではなく感情で「人間とヒューマギアの共存」を主張する。それは、生まれて初めて目にしたものを親と認識する「刷り込み」と、どこまで異なるのだろうか。育ての親であるヒューマギアを用意し、調整し、あてがった人間もいたはずなのだ。或人の夢そのものも誰かによる「ラーニング」の結果だとしたら、彼が仮面の裏で泣きながら迅を破壊する行為は、もはやピエロである。
このような構造面の「不穏さ」は、果たして人為的に仕込まれたものなのか、あるいは描写の結果として浮かび上がったものなのか。現時点では、その判断は難しい。実のところ両陣営共に「ヒューマギアの理想」を語っていたこの戦いは、本当に意味のあるものだったのだろうか。
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見えない飛電と第二の社長ライダー
そんな『ゼロワン』への個人的な不満点として、飛電インテリジェンスという会社の描き方が挙げられる。本音でいくと、16話が終わった今でも、この飛電という会社にあまり愛着が湧かないのだ。
それは一重に、或人の社長業務の少なさにある。いや、飛電インテリジェンスというヒューマギアのメーカー、その社長として、業界人にヒューマギアを推薦・手配する業務にあたっていることは分かる。しかしそれはどちらかというと、前述の「お仕事」というシナリオの導入として配置されたプロットの印象が強く、彼の職業人のイメージとしては弱い。その他には、記者会見や株主総会でピンチに陥っている場面が多く、「飛電或人」というビジネスパーソンが何かしら精力的に仕事に向き合っている印象に繋がっていかないのだ。
もっと言えば、飛電の沢山の社員が「或人という社長」をどのように認識しているか(信頼を勝ち得ているのか・不安視か・期待か・疎まれているのか)、それが見えてこない。前述の社長業務についても、何も「押印作業に追われて欲しい」とか、「財界での活動や決済業務に時間を費やして欲しい」とか、そういうことではないのだ。要は、「飛電ではどういう人が働いていて」「新社長をどのように捉えていて」「ヒューマギア事業にどんな想いを持っているか」、この部分である。
これらがあまり描かれていないため、飛電が世間からバッシングを受けても、警察の立ち入り捜査が入っても、或人が社長解任のピンチに追い込まれても、ザイアから乗っ取りを突きつけられても、いまいちそこに緊迫感が生まれないのだ。そこで働く人の顔や想いが見えないため、連動するように、飛電インテリジェンスに対する(視聴者の)思い入れも薄い。現状だと、飛電という会社が「或人とヒューマギアを関わらせる」ための舞台装置の域を出ていないのではないか、そう感じられてしまうのだ。実に惜しい。
例えば、ヒューマギア製造工場の責任者と或人が共に何かの案件にあたるとか、飛電の法務部署がA.I.M.S.と揉めるとか、ある部署が新規事業を社長に直談判してくるとか。そういった社内の声を、もう少しプロットに入れ込むことはできなかったのか。
・・・いや、おそらくできなかったのである。多くの話を一話完結で構成し、「お仕事」の紹介から導入〜落とし所までを描き、「手順」に気を配りながらアクションシーン〜マギア撃破に持っていく。言うまでもなく、アイテムや武器の販促ノルマも立ち塞がる。優先順位として、「飛電という会社の内部」=「或人の社長業務」は割を食ってしまったのではないか。
しかし、だからこその天津垓なのだ。或人と全く同じ「社長で仮面ライダー」という属性を持つ新キャラクターは、自ずと、或人を相対化していくのだろう。
【動画情報】
— 仮面ライダーおもちゃウェブ公式 (@bandai_ridertoy) 2019年12月26日
12/28(土)発売「変身ベルト DXザイアサウザンドライバー」のCM公開中!
2つのキーをベルトの左右にセット!中央の扉が開いて #仮面ライダーサウザー に変身!
専用武器「DXサウザンドジャッカー」も登場!https://t.co/GL07ZZqwtQ#仮面ライダーゼロワン pic.twitter.com/Aqamv9mRHY
同じ社長で、同じ仮面ライダーなら、果たしてどこに両者の違いがあるのか。きっと、そのポイントが描かれるはずである。そしてこれは、本稿でも何度も書いてきた「或人の氷の上に立つような危ういスタンス」にも通じてくる。仮面ライダーサウザーは、或人という登場人物に付きまとう「危うさ」「弱さ」「不誠実さ」「描写不足」、その全てにストレートに異を唱えることができる、格好の立ち位置にいるのだ。
年明けからの展開、天津垓の急襲により、或人周辺の要素や設定がより明確になるのではないか。そこを、大いに期待したい。
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「お前を止められるのはただひとり、俺だ!」
そんな、ギリギリのバランスを走り続ける『ゼロワン』。その決め台詞は、「お前を止められるのはただひとり、俺だ!」。しかしこれもまた、何とも矛盾に満ちたフレーズである。
揚げ足取りのようで欠かせない視点として、マギアを止めて破壊することができるのは、何もゼロワンだけではない。バルカンも、バルキリーも、マギアを止めることができる。特殊な能力の兼ね合いも特に説明されていないので、もしかしたら、通常兵器でも破壊できるかもしれない。じゃあ果たして、何が「ただひとり」なのか。
これこそが、或人のプライドとスタンスを意味しているのだろう。これは「止められるか否か」の事実を述べているのではなく、そうせざるを得ない立場にあり、力を託された主人公が、自身を追い込み鼓舞するためにそう叫んでいるのではないか。ヒューマギアを世に送り出すメーカーの社長として、マギア化した存在を破壊する責務がある。他の誰かが同じようにできたとしても、それでも、歯を食いしばって自分がやらねばならない。そうして或人は、他でもない自分自身に「俺だ!」と言い聞かせる。
そうして責任を背負い込み、自身の信条のために、会社のために、理想のために奔走する或人。だからこそ重ね重ね、彼のスタンスの「危うさ」や飛電インテリジェンス自体の描写不足が惜しい。ここが厚ければ、決め台詞はもっと熱くなるはずだ。とはいえ、「手順」と「お仕事」にリソースを割かねばならない、そのパズルもよく分かる。『ゼロワン』は、何とも難しいのだ。そして、難しいからこそ、何度か訪れる「針の穴に見事に糸が通る瞬間」は、驚異的な爽快感を生む。
そして、この或人の「危うさ」こそが、16話までの展開で最も積み上がってきた部分とも言えるのだ。ここに物語が手を突っ込んだ時、大いにブーストがかかることは間違いないだろう。その担い手は天津垓か、あるいは・・・。
ヒューマギアは、人類の夢か。敵か。道具か。そしてその人類は、ヒューマギアを使役する資格を有しているのか。AIを描けば描くほど、突き詰められるのは「人間」そのもの。我々視聴者、その各々がロボットに抱く価値観を丸裸にする『ゼロワン』は、サウザーの襲来と共に次なる展開に踏み込んでいく。
それが1000%面白いことを願って、ひとまず、「滅亡迅雷 .net 編」の感想としたい。
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