ジゴワットレポート

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感想『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』 絶対に「平成ライダー」にしか作れない、奇跡的かつ露悪的な怪作

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嬉しいことに、公開日朝一番で鑑賞することができた。『仮面ライダージオウ』の劇場版、『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』。ジオウの真の最終回として大々的に煽る宣伝が打たれているが、果たしてそれはどんな意味を持っているのか。たまらず、公開日に映画館に駆けつけるに至った。

 

劇場版仮面ライダージオウ Over Quartzer オリジナル サウンド トラック

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前段として、『ジオウ』という作品には、大きくふたつの軸がある。「ジオウの物語」と「平成ライダーの歴史」だ。前者は、最低最悪の魔王になってしまうかもしれない主人公の、運命に抗うストーリー。後者は、『クウガ』から『ビルド』までの平成ライダーをコンテンツとして物語に組み込んでいく構成を指す。『ジオウ』は、このふたつの軸が時に混ざり合い、片方が光ったかと思えば、もう片方が色濃く見えてきたりする。そのバランスや緩急が面白いのである。

 

もちろん、商業的な意味で、クウガからの平成ライダーを劇中に登場させる狙いも大きい。しかしそれは同時に、「平成ライダーとは一体何だったのか」という問題提起を作り上げてしまう。『ジオウ』はどこかで必ず、これにアンサーを示す必要があった。

 

先の記念作『ディケイド』は、それまで独立していた作品群をシリーズ化した意義が大きかったが、『ジオウ』に与えられた課題はそこから更に10年分も大きい。「平成ライダーとは一体何だったのか」。10年前には避けられたオリジナルキャストを怒涛の勢いで出演させながら、『ジオウ』は、この課題に対するアンサーを一年間かけて模索してきたのである。

 

仮面ライダーディケイド Blu-ray BOX

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当時、『ディケイド』が約半年間の放送だったことで、いわゆる「夏映画」のポジションは大きく変化した。

 

それまではシリーズの途中に公開時期が当たっていたため、大規模なパラレル設定を持ち込んだり、本編との連動を図ったりと、比較的「実験作」な性格が強かったのである。それが、『ダブル』以降はTVシリーズ最終回間近となったため、そこに「集大成」の意味が込められるようになった。その作品が持つテーマを総括しつつ、いくつかの要素をリプライズしていく。それこそが、直近10年の「夏映画」なのだ。

 

以上の、「ジオウの物語」「平成ライダーの歴史」「平成ライダーとは一体何だったのか」「夏映画の集大成的な性格」、その全てを煮詰めて固めたものが、『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』である。

 

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先の『平成ジェネレーションズFOREVER』が「平成ライダーを観てきたファンへの感謝」だとしたら、今回の『Over Quartzer』は「これこそが平成ライダーだ!」と言わんばかりの、コンテンツそのものの客演作と言えるだろう。良く言えば奇跡的で挑戦的な一作であり、悪く言えば、ひどく露悪的で開き直った一作だ。おそらくSNS等でも多彩な感想が飛び交い、紛糾することもあるだろう。

 

しかし私としては、「他のどのコンテンツも絶対に作れない、平成ライダーにしか出来ない映画」という意味で、驚くほど本作を気に入ってしまった。

 

というのも、このブログでも以前から何度も書いてきたように、平成ライダーの魅力は、「不揃いさ」に尽きるのである。原則としてそれぞれが交わらない独立した作品群であり、作風も、モチーフも、テーマも、何もかもがバラバラ。「仮面ライダー」という看板を掲げながら、実験的な作品を次々と繰り出し、それがいつした一時代を築いた。

 

この、「結果的にシリーズとして発展してきた」という部分が肝なのだ。決して、計画的に、緻密に作られたシリーズではない。その時その時で、「やれること」「やりたいこと」に雑食のように手を出していく。なんの道筋もなく出来上がっていく、有象無象のキメラ。それが結果として独特の魅力(個性)を光らせていく、なんとも稀有なシリーズなのだ。

 

本作『Over Quartzer』は、その平成ライダーシリーズの「不揃いさ」こそを最大のメッセージとして取り扱い、更には、平成という一時代についても言及していく。当初はファンが使用していたただの俗称としての「平成ライダー」を、いつしか公式が看板として掲げ、その最後の劇場版で平成という元号そのものを扱う。平成ライダーを通して描く、平成という時代。そして令和へのバトンタッチ。こんな作品は、他のどのアニメも、漫画も、映画も、何もかもやれないのだろう。こんな怪作を送り出せるのは、平成ライダーより他にない。そこを一点突破していく作りは、なんとも白倉伸一郎プロデューサーらしいアプローチである。

 

以下、作品のネタバレに言及しつつ、感想を残す。

 

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いわゆる「春映画」的なノリを持つ本作だが、その雑多でごった煮な作りにひとつの明確なメッセージを持たせているのは、記念作らしい構造と言えるだろう。

 

新規の敵ライダーが、BLACK RXやネオライダー、アマゾンズをモチーフとしているのは周知の事実だが、本作はまだまだアクセルを踏み続ける。もはや悪ノリと言っても過言ではない仮面ノリダーからの客演に始まり、漫画版クウガが漫画の作画のまま画面に登場したり、OVからゴライダーやブレン、バラエティ企画からG、舞台から斬月の新フォームなど、 「平成の仮面ライダー」を文字通り総括していく一連の流れは痛快ですらあった。

 

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そう、「平成ライダー」は、何も『クウガ』から『ジオウ』までの20作だけではないのだ。その時その時で様々な挑戦を重ねてきた結果、テレビ番組の枠に収まらない展開を無数に生み出してきたのである。本作『Over Quartzer』は、その全てを総括し肯定しながら、「その時その時を懸命に生きる大切さ」というメッセージでコーティングしていく。重ね重ね、唯一無二だ。

 

平成という時代には、沢山の出来事があった。事件や事故、自然災害、スキャンダル。インターネットの加速度的な発達もあわせ、経済も政治も教育も何もかも、日本社会はこの約30年で大きく変化した。今回敵として登場する時の管理者・クォーツァーたちは、この平成という世を凸凹で不揃い、「綺麗でないもの」と断定し、自分たちの思うがままに作り直そうとする。「結果として出来上がった不揃いな歴史」という意味で、平成という一時代と平成ライダーを重ねていく構成である。

 

そんな問いを登場させたのちに、「雑多なコンテンツに仕上がった平成ライダーは確かに不揃いだけど、それは、その時その時を懸命にやってきたからだ!」というアンサーで殴り返す。「平成ライダーとは一体何だったのか」。本作がそこに用意した解答は、「不揃いさ」だ。しかし、それこそが良いんだと。その時々の取り組みこそが、意図していなくても、綺麗でなくとも、結果として時代や歴史を作るのだと。そういう、平成ライダーというシリーズの性格こそを作品テーマに持ち込んだ、奇妙な作品に仕上がっていくのである。

 

「春映画」的な文法で次々と登場するまさかのヒーローたち。アイテムを使い、ベルトが光り、最強形態へ姿を変えていく平成ライダーたち。これまでの20年の歴史で散々観てきた「やり方」ではあるが、本作は、それ自体が自分たちのアイデンティティなんだと、執拗にそれをアピールし続ける。果てには、巨大化した敵が突然大きなプレートを使って攻撃してきたかと思えば、全平成ライダーが番組ロゴとなりキックを放ち、プレートに開いた穴が「平成」の二文字として完成する。新元号が発表された際の、日本人なら誰もが見たことのある構図に寄せながら、「平成」の二文字が盛大に爆散していく。こんな、こんな意地の悪い奇天烈な演出を、平成ライダー以外のどのコンテンツが作れるだろうか。

 

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そういった、「平成ライダーとは一体何だったのか」というテーマは、最終的にシナリオにまで影響を及ぼしていく。

 

本作のラスト、死んだはずのウォズがしれっと登場したり、消えたはずのゲイツやツクヨミが普通にクジゴジ堂に戻っていたりする。なぜそうなったのか、そこに理屈はあるのか。登場人物も、物語も、そこに最後まで一切の解答を用意しない。意図的に説明を行わない。

 

構成として不揃いだけど、凸凹だけど、綺麗じゃないけど、ウォズが死んでいくシーンは物語として盛り上がるし、ゲイツやツクヨミが消えるくだりも感傷を誘う。「その時その時」は盛り上がる。それが決して、整っていなくても。そんな構造面でのメッセージを、なんとも自覚的に、シナリオのオチにまで組み込んでいく。これは『ディケイド』におけるメタフィクションとの距離の取り方とも近い。

 

反面、そういった演出を「わざと」「開き直って」やることに、拒否反応を覚える人もいるだろう。私も、その全てを盲目的に肯定しようとは思っていない。本作『Over Quartzer』は、とても良い意味で「平成ライダーらしい映画」だし、同時に、とても悪い意味でも「平成ライダーらしい映画」だ。こういったものを、ある種冷笑的に、露悪的に繰り出してくる辺りも、実に「平成ライダーらしい」。「そういうのが苦手なんだよ」と言う人に、真正面から「そういうの」をぶつけるような、確信犯(誤用)な物語構成だ。よって、前述のように、この映画にNGを出してしまうファンも少なくはないだろう。そして、それを制作サイドは誰よりも分かってやっているのだ。

 

一方、『ジオウ』単体の物語としては、タネを明かしつつ新たな謎を蒔いていく作りになっていた。

 

ISSAこそが本当の常磐SOUGOであり、我々が知るソウゴは、「オーマジオウにそれらしい過去(物語)を付与するため」に作り上げられた、偽物の存在。前半の織田信長のくだりを使って、「伝わっている歴史の数々は、所詮誰かによって紡がれた物語である」という構造を見せていく流れも面白い。

 

しかし、ソウゴがライドウォッチを集めきったのは、「オーマジオウだから」ではない。「常磐ソウゴだから」である。彼が、その時その時を懸命に生きたからこそ、レジェンドたちはライドウォッチを託してきたのだ。だから、替え玉でも、偽物でも、そんなのは関係ない。・・・といった、先の「平成ライダーとは一体何だったのか」をソウゴにまで重ねてくる辺りも、とても重層的である。

 

総じて、何度も書いているように、実に「平成ライダーらしい映画」であった。もうシンプルに、これに尽きてしまう。こんな映画は平成ライダー以外には作れないし、ファンとの信頼関係の積み重ね方も、距離の取り方も、このシリーズだからこその線引きだ。

 

終わってみると、「平成ライダーを総括する作品の劇場版」としては、確かにこの解答しかなかったようにも思えてしまう。まるで、針の穴に糸を通すかのように、一点だけを狙い、一点だけで突破する。平成ライダーとは、「今」を懸命に生きたものの集合体であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。だからこそ、平成という世が終わり、これから様々な苦楽が時代に降りかかろうと、それでも、我々個々人が「今」を懸命に生きるしかない。道は、歴史は、歩いた後にしか出来ないのである。 

 

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