毎週、娘を寝かしてから正座する勢いで夫婦でテレビの前に陣取り、録画を再生。観終わったら涙をぬぐいながら「はぅあ〜 面白いなあ〜〜」って言ってます。ドラマ『アンナチュラル』、本当に面白い。面白すぎてびっくりする。
最初は法医学のドラマと聞いて「死体を解剖する仕事でどうドラマを作るんだろう?」と思ったんですね。科学捜査で事件にアプローチするのは『科捜研の女』や『相棒』等で鉄板の流れだけど、そういう事件解決の路線でいくのかな?、と。
しかしフタを開けてみると、確かにそういった刑事ドラマ的な面白さもありつつ、それをベースに「人の死」「生き方」「他者との関わり方」といったとても普遍的なテーマに深く切り込む物語になっていて、なるほどと唸るばかり。
スポンサーリンク
とにかく役者陣が豪華なんだけど、どちらかというと「演技が上手い」というより「芸達者」な人たちが集められている印象。
石原さとみ演じる三澄ミコトと市川実日子演じる東海林夕子のリアルなOLトークの間の取り方もさることながら、井浦新=中堂の核心に居ながらギャップで笑いを取りにいく万能なキャラクター設定も素晴らしい。六郎こと窪田正孝の後ろめたさを感じさせる好青年っぷりも見事にハマってるし、そんな個性豊かな面々を緩くカッチリと締めていく所長役・松重豊も絶妙。なんと隙のない配置だこと!
『シン・ゴジラ』『リッチマン、プアウーマン』『デスノート』と各役者コンビの再会模様も楽しい。
しかしやはり特筆すべきは、その脚本だろう。あまりのバランス感覚のすごさに、毎回驚きが止まらないのだ。
描くは『掟上今日子の備忘録』『逃げるは恥だが役に立つ』の野木亜紀子氏。『逃げ恥』は実は完全にブームに乗り遅れてしまって正月の再放送で少しだけ観たのだけど、この方の脚本は本当に「巧い」。「上手い」というより、「巧い」。
例えば『アンナチュラル』8話。雑居ビルで火災が起こり、身元不明の遺体9名がUDIに運び込まれる話。お話の縦軸は、この焼死体の謎を解剖で追いながら「なぜ火災が起こったのか」「現場で何があったのか」を展開していく。刑事ドラマやミステリードラマにおける王道の組み立て方で、次々と明らかになっていく真実や、ふとしたヒントが解決を導くなど、その作りにもソツがない。
しかしこの話のすごいところは、その縦軸を取り巻くテーマの配置にある。
ストーリー冒頭で「ミコトの帰る場所について義母が心配する」というシーンが描かれる。そして、コウモリのようにUDIに潜入「させられている」六郎の父親が登場し、一見関係なさそうなゴミ屋敷のお爺さんも現れる。この全然繋がっていない要素の数々に、本筋である「ビル火災の真実」がスーッと一本串を刺していくのだ。
銃創によって前科が判明した焼死体と、駆けつけて怒鳴る父親。「ろくでなしが!」というその叱りのワードに反応する六郎。ここで、今回は「息子を認めない父親」という親子のテーマが配置されていたことに視聴者が気付く。
そしてそれが、単なる親子関係の話を超え、「帰る場所があるという幸せ」にまで波及していく。ここで、冒頭のミコトと義母のやり取り、勘当された六郎とUDIが繋がっていく。そして、恋人と同時に「帰る場所」を失ってしまった中堂の過去により深い影を落としていく。
更には、ここに震災というキーワードまでもが絡んでくるから素晴らしい。
「亡くなった人ともう会えないという現実に、残された人はどう向き合うべきか」。これを追体験させるようにゴミ屋敷のお爺さんを登場させ、全く絡むことのない焼死体とその親子、そしてまた、他でもない中堂とその恋人を重ね合わせていく。
決して、「俺も同じだ。まだ迷ってる」とか「私もあの親子と同じで〜」とか、そういう直接的な説明は挟まない。そんなのは無粋すぎる。さらっと、自然に、しかししっかりと、要素を重ね合わせるその巧妙さ。
同時に、歯に関するデータのデジタル管理という現実問題を取り上げてドラマと我々の実生活の距離を詰めつつ、それと先の震災を絡めることで、当時奔走したという所長のバックボーンにもスポットを当てる。
ストーリーの終盤、「帰る場所」があることに涙する六郎、それがあると義母に報告するミコト、そして「帰る場所」を失って復讐に傾倒する中堂が次回予告でセンセーショナルに取り上げられる。「引き」も巧妙だ。
スポンサーリンク
事件自体は本筋(中堂の復讐など)に絡まない話だが、しっかりとメインの物語に重なっていくこの気持ちよさ。
7話の学校を舞台にした生中継事件も、喪失感と復讐に支配された学生と対面するのが他でもない中堂だったのが良かった。ミコトが電話越しに少年に語りかける言葉は、中堂にもそっくりそのまま当てはまる「残された者の生き方」であり、中堂はまるで自分自身と向き合うように少年を自殺から救う。
ダブルミーニングどころか、トリプルにもクアドラプルにもクインティプルにも意味が重なっていく複雑なパズル。なんてこったい、すごすぎるでしょう、この脚本。
そして、いくらでも痛快なオチにできるところをそうしないバランス感覚。
例えば3話。法廷に引っ張り出されたミコトが男vs女と揶揄される回。圧倒的な法医学知識と根気のデータ収集で男の弁護士に逆転してぎゃふんと言わせて「やったぜ!」とすれば痛快で面白く視聴者の溜飲もすーっと下がるのに、このドラマはそうはしない。
「そもそも男vs女という構造が前時代的なんですよ」と言わんばかりに、表舞台と裏舞台をスイッチさせて中堂に事件解決を担当させる。ミコトが法廷で勝ってもそれはそれで十二分に面白くなるのに、そうはしない。
今回の雑居ビル火災の話も、死者との対話を小馬鹿にする六郎の父親に法医学のすごさで一泡ふかせて「六郎、お前の仕事も捨てたものじゃないな」とか言わせれば普通に面白いのに、そっちには決して持っていかない。
堅物の父親は変わらず堅物のままで終わるし、親子関係はむしろ悪化してしまった。
このドラマは、様々な価値観が交錯する現代において「変えられるもの」と「変えられないもの」に正面から向き合い、「変えられるとしたら、それは自分の考え方や向き合い方なのかもしれない」というアプローチを示している。
男vs女は周囲がこぞって火に油を注ぐため容易な解決が難しい話だが、それを解決に導いて勝利を勝ち取るのではなく、そもそもの土俵に違う角度から向き合ってみてはどうだろうか。悪化した親子関係は長年の蓄積があるため容易には氷解しないが、本来のそれに準じるような「大事な居場所」が他に持てれば良いのではないか。
決して「逃げ」ではなく、「向き合い方」「考え方」ひとつで人は前進することができる。そんな普遍的なテーマや気づきを、他でもない死者に学ぶことができる。死と向き合うことは、生と向き合うこと。
人の死が医学を進歩させ、医学が人の死から想いを汲み取る。その「想い」は、ドラマの展開を通し、視聴者という受け手に向けて、とても身近な処世術の可能性を提示してくれる。
兎にも角にも、『アンナチュラル』の脚本は本当に素晴らしい。
全てが巧妙で、隙がなく、ほとんど同じ色の難解なジグソーパズルが毎回綺麗に完成するかのような痛快さ。物語は遺恨が残る辛い結末でも、ストーリーの完成度こそに爽快感を覚える。
ここから、中堂を主軸に物語はクライマックスに向かっていくのだろう。何においても楽しみである。「ここ!」というタイミングで流れる米津玄師の主題歌も圧がすごい。こういうドラマが原作付きでなくオリジナルで出来上がってくると、やっぱりテレビってまだまだ捨てたもんじゃないな、と思うのだ。
◆続き(9話、最終話感想)