ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

「1,800円の価値」を下げるために

FOLLOW ME 

オタク趣味における「数」の議論は、SNS等でも定期的に巻き起こる。例えば映画であれば、「年間10本を観る人」と「年間500本を観る人」は、どちらがよりオタクとして「よい」とされるのか。

 

こういった「数」におけるマウントや争いほど、不毛なものはない。たったひとつの作品に深く潜って愛し抜く人もいれば、無数の作品を自身に取り込んで体系的に解釈する人もいるだろう。それは楽しみ方のスタイル違いに過ぎないので、ただ単に「数」で優劣を競うのは、実にナンセンスである。ひたすら牛肉の味付けを追求する人もいれば、鶏も豚も馬も猪もとにかく沢山食べる人もいる。

 

ただ、純粋に「数」が多ければ多いほど幅広い「比較」が可能になるので、自身の感想の引き出しは増えるだろう。これ自体は間違いない、シンプルな真実である。「この作品はあの作品と比べてどう」とか、「どれそれの影響がどう」とか、「あれとこれを並べて捉えるとこう」とか。ポイントは、「引き出しの多さ」に価値を見い出す人もいれば、そうでない人もいる、という点だ。必ずしもそれが、あらゆるシチュエーションで求められている訳ではない。

 

SNSが覇権を握る今のご時世、オタクは「数」の呪いからそこそこ解き放たれたのかもしれない。前述のような綺麗ごとを並べたとしても、「数」を重ねる自分を心のどこかで誇りたくなる、そういうマインドを払拭するのは難しい。「数」を重ねることが、オタクの必須条件であるかのような錯覚。あるいは、一昔前は本当にそういうものだったのかもしれない(あくまで風潮として)。しかし今や、SNSを通して古今東西の様々な同好の士と気軽に触れ合えるようになった。濃度も、数も、解釈も、視点も。自分と近しいスタンスの人を見つけやすくなった今、「数」の呪いは影響力を失っていく。

 

以前オタク仲間で飲んだ際に、「知識で殴り合う時代は終わった」という話で盛り上がった。その正確さはさておき、Wikipediaにアクセスすればものの数秒で情報が手に入る時代。この作品の監督は誰で、脚本は誰で、この作者の出身は、前作は、好きなジャンルは、影響を受けたアニメは、エトセトラ。そういったものを知識として溜め込んで殴り合う、そういうコミュニケーションは、今のオタクには好まれないのかもしれない。

 

台頭してきたのは、「共感」である。「知識で殴り合う」から「共感でエモり合う」へ。そんなコミュニケーションが、令和のオタクのスタンダードなのだろうか。

 

スポンサーリンク

 

 

 

閑話休題。「数」の議論である。前述のように、数量それ自体を指標や武器にすることは、端的に、不毛である。しかし、その前提の上で、それでもある程度の「数」は必要なんじゃないかな、と。

 

この考え方を、自分の中で「1,800円の価値」と呼んでいる。1,800という数字は、映画の鑑賞料金である。多くのシネコンがとうに1,900円に値上げしたとか、そういうツッコミは忘れていただきたい。未だに、映画の鑑賞料金といえば体感で1,800円なのだ。

 

「1,800円の価値」は、それこそある種の呪いである。学生時代、飲食店のバイトで趣味生活を営んでいたあの頃。私にとっての1,800円はそこそこの大金であった。だからこそ、そう頻繁に映画館に行くこともできない。限られた資金を有効につかうために、作品を選り好みして劇場に足を運んでいた。

 

そうなると、じわじわと呪いが発動していく。「せっかく1,800円もかけたのだから」「1,800円も払ったのに」、この思考である。例えば、今の自分ならどう考えても好みじゃない映画に対して、あの頃の自分は声を大にして肯定していた。それは、過去の自分とよくよく対話してみると、好みの傾向が変わったとか、そういう話ではない。「せっかく1,800円も払ったのだからこの映画を好きでありたい」という、「勿体なさ」から来る自己弁護なのだ。

 

「1,800円も払って観たのだから、この映画を『面白く』思いたい。そうしないと、1,800円が勿体ないから」。なんという、しょうもないバイアスだろう。でも、こればっかりはしょうがない。お金は有限である。または、そこまで怒り散らかす必要のない作品に「1,800円も払ったのに!なんだこれは!駄作ッ!!」などとひどく悶々とする時もあった。とにかく、極端なのだ。「1,800円も払ったのだから」、絶賛か酷評か、どちらかに振り切って感情の対価を設定しようとする。

 

あんなにしてやったのに、『のに』がつくと愚痴がでる。みつを・・・ じゃないけれど、この『のに』思考は、趣味を楽しむ際の秘かな障壁なのだ。お金をかけて映画を観る、お金をかけて漫画を買う。あるいは、時間をかけてアニメを観る、時間をかけて小説を読む。その対価を「作品そのものに対する感想」を超えた部分に求めている時点で、実のところ、自分の琴線に触れきれていないのだ。

 

だからこそ、そこそこ、ある程度は、「数」である。「1,800円を払って映画を観る」という体験を、何日も、何ヶ月も、何年も積み重ねていくことで、「1,800円の価値」を下げる。相対的にその価値を下げて、薄めていく。理想は、「作品そのものに対する感想」に、そこに要したお金や時間を介在させない(完全に切り離す)ことだ。それでこそ、究極的にフラットに、フェアに、その作品と向き合えるのかもしれない。

 

私も、「1,800円の価値」を下げるために映画を観続けてきた。学生時代に比べれば、随分とそれは下がってきた。絶賛でも酷評でもない、自分にとって「可も不可もない」作品と劇場で出会っても、お金をかけたことに対する「勿体なさ」を意識することはほとんどなくなった。以前よりは、はるかにフラットに作品そのものに向き合えているつもりである。

 

この意味で、「数」は大切だ。自分の精度を安定させるために。

 

ただ、お金や時間をかける、その意識を作品から遠ざけたいと願うこの心持ちも、一種の呪いなのかもしれない。それ自体も「体験」としてどうしたって不可分だし、むしろ、それを一体として捉える楽しみ方すらあるだろう。そういう「体験」談こそが、共感を生み、エモり合うきっかけにもなるのだ。なので、あくまで「私は」、そこを切り離したい平成のオタク、という話である。

 

映画大好きポンポさん (MFC ジーンピクシブシリーズ)

映画大好きポンポさん (MFC ジーンピクシブシリーズ)

 
シネマこんぷれっくす!(1) (ドラゴンコミックスエイジ)

シネマこんぷれっくす!(1) (ドラゴンコミックスエイジ)

  • 作者:ビリー
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/12/09
  • メディア: Kindle版