映画を観て、その感想を自分の中で咀嚼する際に、「どこまで自分に寄せて考えるか」を悩む時がある。
仮に物語の主人公と自分がある点について似ていたとして、「これは『自分』の映画だ!」と頭を殴られたような衝撃を感じ、涙を流したりもするだろう。あるいは、訪れた経験のある街並みが劇中に登場することで、そこにある空気をより身近に感じられたりもする。また、物語内の事象に現実に起きた事件や事故を重ね合わせ、必要以上に心を痛めることもあるかもしれない。「どこまで自分に寄せるのか」は、映画に限らず、フィクションを楽しむ際に常に存在している視点だ。
・・・などといった思考が頭を過ぎったのが、『ジョーカー』であった。私はこの作品を、どの程度自分に寄せ、どのくらい現実と絡め、どのように飲み込めば良いのだろう。スカッとするピカレスクロマンか、痛烈な社会風刺か、ルサンチマンを煮詰めてしまった成人男性の代弁か。あるいは、その全てを内包しているのかもしれない。
Joker (Original Motion Picture Soundtrack)
- アーティスト: ヒルドゥール・グドナドッティル
- 出版社/メーカー: Watertower Music
- 発売日: 2019/10/02
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第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門にて最高賞の金獅子賞を受賞した本作。「アメコミ映画が遂にここまで!」という声も多い。今年で言えば『アベンジャーズ / エンドゲーム』が名実ともに世界一の映画になったので、そういった意味でも、2019年は記念すべき年なのだろう。
以下、ネタバレに言及しつつ本作の感想を記す。
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まず何より、ホアキン・フェニックスの怪演に触れねばならない。トッド・フィリップス監督の「不健康で栄養失調なアーサーが撮りたい」というアイデアを受け、20㎏以上の減量に臨んだという(日にリンゴひとつで過ごしたりもしたとか)。その成果もあってか、アーサーはとにかく不気味であった。母の介護をしながら、自身の病気に悩まされ、生き辛さを味わっていくアーサー。しかしそれ以上に、シンプルにビジュアルが「辛そう」なのだ。小さい肩と薄い胸板、お腹のラインと浮かぶ骨。
そんな「辛そう」なアーサーは、本当に辛い出来事ばかりに直面していく。コメディアンを目指してネタ帳をこしらえる日々が描かれるも、「でもこのアーサーが成功する可能性は低いだろう」と多くの観客が察してしまうバランス(コメディアン観劇シーンで、周囲との笑いのツボが決定的にズレていたのが哀しい・・・)。可哀想で、滑稽。突然笑い出してしまうという奇病を持ちながら、不安定な精神が招いたトラブルで仕事をクビになり、同じ時期に社会保障制度による面談も打ち切られる。諸々の状況がどん底に向かっていく中、彼の喜劇性だけが輝きを増していくのであった。
中盤、同じアパートの女性との関係がアーサーの妄想に過ぎなかったことが判明するシーン。そこから、本作の濃度が一気に増していく。アーサーが「信頼できない語り手」だと明かされた時点で、どこまでが真実でどこからが妄想なのか、それを断定できる手段を観客は失ってしまうのだ。不穏がスクリーンを超えて客席まで伝わってくる、良いバランスであった。
しかし思うに、本作における「ジョーカーの誕生」は、「アーサーの顛末」とイコールなのだろうか。むしろ、そうじゃないことこそが肝のようにも感じるのだ。
メタ的なことを言ってしまえば、本作に登場したブルース・ウェインは年齢的にもまだ幼く、彼が後にバットマンとして活躍するとしたら、アーサーはとっくにおじいちゃんになってしまっている。また、ジョーカーならではのカリスマ性や知略に長けた振る舞いが今回のアーサーにあったかというと、そこもやや疑問である。そうであるならば、将来的にバットマンと対峙するジョーカーはアーサーその人ではなく、彼に影響を受けたフォロワーという考え方ができないだろうか。
つまりは、本作にて誕生したのは「アーサーが覚醒し辿り着いた狂気のピエロ」ではなく、言うなれば「概念としてのジョーカー」、という解釈である。
クライマックス、暴徒により混沌とするゴッサムシティにて、アーサーは崇められるようにパトカーの上で踊る。彼は、自身の凶行が社会への反抗として支持を得たこと、喜劇の主人公にでもなったその状況に、酔いしれていたのだろう。しかし、ジョーカーに熱狂する群衆が、その化粧の下にあるアーサー個人を見ていたと言えるだろうか。
伝播する熱や狂気は、それぞれがかねてから持っていた不満を爆発させ、暴徒として膨れ上がらせる。日本でも、ハロウィンの夜に暴れる無法者たちが「ハロウィンというイベント」を楽しんでいたかというと、ひどく疑問である。そういった人々は、イベントやそこにある主題には関心が無いのだろう。心に持っていた何らかの鬱憤が、一緒にあるはずの社会的常識を破壊してしまったのだ。
ストライキによるゴミが溢れ返るゴッサムシティで、ピエロの仮面を被って暴徒化していた彼らは、本当に「殺人ピエロ」を崇めていたのだろうか。単に、自分たちが内包していた政治や経済、ひいては世界への鬱憤を、分かりやすい存在に重ねて叫んでいたのではないか。ましてや、彼らが「ジョーカー」という概念を「正しく」理解し、それを模倣していたとは考え辛い。
だからこそ、喜劇であり、悲劇だ。アーサーにとっては、自身がコメディアンのように世間の注目の的となり、万雷の拍手を浴びた、そんな喜劇として記憶されたことだろう。しかし、その群衆の多くは都合よく暴れているに過ぎないのかもしれない。
両者は、同じ方向に盛り上がっているように見えて、決定的にズレがある。アーサーの願いのようなものは、ほとんど通じていないのだろう。そして他でもないアーサー自身も、ジョーカーという架空の存在を頼ることで、屈折した自己弁護に陥っていたのだ。どう見ても悲劇と言えるが、それは主観で決まるものだと、他でもないアーサーがそう述べていた。本人が喜劇と思えば、何と言われようとそれは喜劇だ。
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あの後、事態は沈静し、逮捕者が出ながらも、ゴッサムシティはそれなりの平穏を取り戻していくのだろう。ピエロの仮面を被って暴れていた人たちも、「そんなこともあった」と素知らぬ顔をしながら、日常生活に戻っていくのだ。
しかし、あの時あの場で、「概念としてのジョーカー」が誕生していたとしたら。例えばたったひとりだけ、アーサーの孤独とルサンチマンを「正しく」理解した人がいたのかもしれない。彼にとっては一過性の伝播ではなく、狂気そのものが新たに心中に芽生えたのだ。そんな存在が後年、顔を白く塗り、髪を緑に染め、バットマンの前に姿を表わすのかもしれない。彼にとっての狂気の代名詞、「ジョーカー」を名乗りながら・・・。
この、「アーサーは真の意味でジョーカーではない」という解釈は、どうしようもなく本作のアーサーの造形に似合ってしまう気がする。むしろ、「ジョーカーにすらなれなかった」と形容した方が適切だろうか。とはいえ、彼自身の狂気が凄まじかったことに異論はなく、そこに「承認欲求をこじらせた成人男性」として寄り添うのか、あるいは「弱さ」と断じてしまうのかは、「どこまで自分に寄せるのか」によって違ってくるのだろう。
「生き辛さ」を感じない人生を送っている人は、果たして世の中にいるのだろうか。今やネットも発達し、大小様々な「生き辛さ」が可視化される時代になった。本作のアーサーのように、社会と経済に押し潰されてしまった人の声も日常的に目に入る。そこで見事に狂ってしまえるのは、ある意味本人にとっては、幸せなのかもしれない。
この映画を、どの程度自分に引き寄せるか。ジョーカーをキャラクターとして捉えるか、概念として飲み込むか。あるいは思想や信仰として受け止めるのか。間違いがないのは、そういった視点や線引きに触れてくるほどの強度を持った作品であった、という点だろう。