ジゴワットレポート

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感想『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』 大いなるオリジンと通過儀礼は「お祭り」と同じ舞台上でよかったのか

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サム・ライミ監督による『スパイダーマン4』が制作されなかったことも、マーク・ウェブ監督の『アメイジング・スパイダーマン』シリーズが2作で途絶えたことも、未だ幻のまま噂だけが独り歩きする『シニスター・シックス』という企画があることも、『シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ』に3代目となるスパイダーマンが登場したことも(この場合は東映版を数えないとかそういうややこしい話は一旦脇に置いておいて・・・)、全てが、間違いなく、とてもパワフルな、「大人の事情」である。ここまで世界的に有名なエンタメ大作の「事情」に観客が付き合わされてきた歴史も、そうそう無いだろう。

 

それでもなぜ、幾度となくスパイダーマンは銀幕を飾るのか。それはシンプルに、「売れる」からである。サム・ライミ監督『スパイダーマン』(1作目)の興行成績は8億2,000万ドル超、日本でも75億を記録している。商業的に不発だった印象が残る『アメイジング・スパイダーマン2』ですら、日本での成績は30億を超えているのだ。ちなみに直近の2021年の記録だと、『ゴジラvsコング』の国内興収は19億、『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』でも27億となっている。スパイダーマンというコンテンツは、強力なドル箱なのだ。

 

だからこそ、何度だって・・・。たとえお話がリセットされようと、それでも制作される。ピーター・パーカーという青年が主人公であることも、ベンおじさんが死ぬことも、大いなる力には大いなる責任が伴うことも、誰もがとっくに知っている。それでも、知っている観客に向けてそれをわざわざ語り直すことが許されるほどに、無慈悲なるドル箱なのだ。「え? またスター・ウォーズをいちから作るの?」や「え? またジュラシック・パークをいちから作るの?」なんて、常識的にはあり得ない。続編やスピンオフといったアプローチが順当である。しかし、「え? またスパイダーマンをいちから作るの?」は「あり」とされてきた。こんな短いスパンで、それも複数回の「あり」が許されてきた、なんとも我儘で贅沢なヒーローなのである。

 

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、そんな「大人の事情」こそを作品内に取り込んでみせた。それはもう、意欲的に。こんなにも厚かましくメタメタしくハイコンテクストな映画を観たのは久しぶりである。

 

Spider-Man: No Way Home (Original Motion Picture Soundtrack)

 

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思えば、MCUスパイダーマンの初ソロ作品『ホームカミング』からして、この3代目のスパイダーマンは相当にメタかった。

 

「観客がすでに複数回の実写スパイダーマンを認知している」という前提条件を、マーベルスタジオは分かった上でお話に組み込んでいく。仮にライミ版とウェブ版が無かったら、メイおばさんはあの若々しいビジュアルにはならなかっただろう。ベンおじさんもちゃんと出てきて、ちゃんと死んだのだろう。蜘蛛に噛まれるシークエンスだってもっと詳細に語られたのだろう。言うなれば、マーベルスタジオは観客を信じたのである。「あなた達はスパイダーマンの基礎知識をすでに持っていますよね」と、まるで学校の先生が生徒の理解力を信じて前回の授業のおさらいを省略するかのように、「説明しない」という説明手法を取ったのだ。そしてそれは、非常にスマートに、無駄なく成功したと言えるだろう。

 

 

『ファー・フロム・ホーム』でも同じように「『エンドゲーム』を観ていること」を当たり前の前提条件に組み込み、本作『ノー・ウェイ・ホーム』においても「もちろんご存知ですよね」という顔で別ユニバースから歴代ヴィランを呼び寄せる。ドル箱のスパイダーマンを入り口に、あるいは「昔のやつなら知ってるけど今のはよく分からない」という中途半端な位置にいる客への呼び水として、とても戦略的にスパイダーマンというコンテンツを活用していく。「客を呼べるスパイダーマン」という属性に、これでもかと頼る。トム・ホランド演じるMCUのスパイダーマンは、蜘蛛男の物語というコア(心臓部)に、スタジオの都合、大人の事情、企画のための制作という多種多彩なステッカーが、べたべたと貼られているのだ。

 

もちろん、マーベルスタジオの実力が「生ける伝説」級なのは、その「企画ありき」それ自体を「面白さ」に置換する技術に長けている点にある。観客をここまで理屈臭い企画に付き合わせ、それで拍手喝采を獲得している映画スタジオも、そうそうあるまい。

 

前置きが長くなった、というお馴染みの前置きを経て。以下、映画のネタバレを含んだ感想を記す。

 

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私は、『ノー・ウェイ・ホーム』自体に非常に複雑な感情を抱いている。ただこれは、とても高望みでありつつ、おそらくそうなるように制作側から仕組まれた感情であることも、そこそこ自覚している。少なくとも、諸手を挙げて「お祭りサイコー!」のテンションにはなれていない。良くも良くも良くも、ちょっとだけ悪くも。

 

結論を先に書くと、「世紀のお祭り」と「オリジン」を一緒に語ってしまって本当に良かったのだろうか、という部分だ。

 

まず、「世紀のお祭り」について。もはやファンが過剰にネタバレをセーブする雰囲気から逆に予想していた人も多いと思われるが、トビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドがまさかの復活出演を果たしている。「そうなるだろう」と99.9%予想していても、やはりスクリーンでまた彼らを拝めた瞬間は、感極まるものである。劇場では、他の観客の息を飲む声が聞こえた。私も、手元で小さくガッツポーズをしたものだ。復活した彼らが、後輩スパイダーマンであるトム・ホランドを導く一種の師のポジションに収まる。中でも、「大いなる力には・・・」の台詞をトビーが引き継いだ瞬間は、もう、本当に、たまらないものがあった。「ぼくのかんがえるさいきょうのすぱいだーまんのせいぞろい」を、世界最高峰のスタジオが映像化した瞬間である。

 

更には、トビーとアンドリューにも救済を用意していく。トビーは、あの日救えなかったグリーンゴブリンの命を守る。それも、「グライダーでの絶命」から彼を守るのだ。これが契機となって親友・ハリーの絶命にまで話が及んだことを思うと、トビーピーターとしては積年の瞬間だっただろう。アンドリューピーターには、「落下して絶命寸前のヒロインを救う」という究極の救済が用意される。なんともメタい。MJを抱きかかえるアンドリューの表情カットは、メタ文法に頼りすぎてはいるものの、どうしようもなくグッときてしまう。『アメイジング・スパイダーマン2』のラスト、グウェンの死から復活までのシークエンスは何十回観ても号泣してしまうが、あの殿堂入りにこうしてフォローが行われた。なんとも、歴史的だ。

 

前置きで長ったらしく書いたように、本作は「大人の事情」を逆説的に利用し、理屈を付けてそれらをエンタメという渦に巻き込んでみせた。「ドクター・ストレンジが魔法を使ったから先輩スパイディが現れた」のではない。「先輩スパイディを登場させるためにドクター・ストレンジが魔法を使った」のである。通常なら、あまりに企画色が強すぎてたじろいでしまうところを、「トビーとアンドリューの出演」という世紀のワイルドカードを切ることで正面から押し込んだのだ。ここまでされてしまえば、そりゃあ、天晴である。感服するしかない。

 

私個人も、実写映画スパイダーマンの歴史をずっと観てきたのだ。これで感動するなという方が無理な話である。

 

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他方で。本作がトム・ホランド演じる3代目ピーターの「オリジン」として機能した点について、とても複雑な感情を持ってしまった。

 

そう、スパイダーマンとは、もっと言うと「我々の知るスパイダーマン」とは、本作のラストでニューヨークを飛び回る「彼」なのだ。覆面で正体を隠し、孤独で、影があり、人の死を背景として持っており、軽妙な口調はその過去を隠し誤魔化すような悲哀さを伺わせる、そんなスーパーヒーローこそが、「我々の知るスパイダーマン」だ。

 

思えば、トムピーターは恵まれすぎていた。「ベンおじさんの死」というイベントも経験せず、トニー・スタークに世話を焼かれ、メイおばさんもハッピーも深い理解があり、恋人や親友とも楽しくやっていた。およそ、「我々の知るスパイダーマン」らしくは無い。そしてそれは、マーベルスタジオが過去作との差別化としてそうチューニングしてきた経緯がある。

 

本作『ノー・ウェイ・ホーム』では、それをリセットしている。ベンおじさんがもういないのだから、メイおばさんが死ぬしかない。トムピーターにとっては、メイおばさんが概念上の「ベンおじさん」として機能する。それも、「①自身の軽率な判断と未熟さゆえに」「②大切な人を失い」「③復讐心に駆られてしまう」のだ。このスパイダーマンとしての通過儀礼を経験することで、お馴染みの「大いなる力には大いなる責任が伴う」を会得し、「我々の知るスパイダーマン」に到達していく。トビーも、アンドリューも、①②③をしっかりやったのである。それも相当にじっくりと。彼らだって、我を忘れ強盗犯をスーパーパワーに任せて追いかけたのだ。

 

「ヴィラン勢ぞろい!」「先輩スパイディ復活!」という華やかな話題に引っ張られがちだが、本作のシナリオは前述の①②③の流れで組まれている。やっていることはお祭り映画で伝説的だが、プロットは至極スタンダードなスパイダーマンである。

 

「①世界中の人の記憶を消して欲しい、あるいはヴィランたちを救いたい、という軽率で未熟な行動がきっかけとなり」「②メイおばさんが死んでしまい」「③復讐心のままグリーンゴブリンを殺しかける」。そして、これまで恵まれすぎていたトムピーターは、ここにきてやっとこさ「スパイダーマンとしてのオリジン」を経験する。加えて、「世界中がスパイダーマンの正体を知る」「スパイダーマンに関する設定がリセットされる」といったプロットは、原典アメコミに存在するストーリーラインだ。マーベルスタジオはその辺りを巧妙に組み込みつつ、2021年最新版のオリジンをプレゼンテーションしてみせた。

 

 

そうすると、「世紀のお祭り」と「オリジン」、この相反するふたつの要素は果たしてしっかり同居できていたのか、そこが気がかりになってくる。

 

もっと言うと、「オリジン」というそのヒーローの背骨を形成する部分に、余所のユニバース(正確には、原則として「お話」の外に存在する「大人の事情」という名の『文脈』)が干渉して良かったのか、という点だ。もちろん、言うまでもなく、このふたつは物語としてしっかり接続されている。先輩スパイディが例の屋上で語りかけ、今まさに失意のどん底にいる後輩を導く。トビーピーターがグリーンゴブリンを守ることで、誇り高い精神性が継承されていく。一方でドンチャンのお祭りをやりながら、そのすぐ横で深刻なオリジンをやる。この食い合わせについては、相当意図的にフォローが敷かれているのが見て取れる。

 

それでも。『エンドゲーム』を経て世界を救い、トニーの死を経験し、自身ソロも遂に3部作となったトムピーターが、あの局面に至っても復讐心を制御できなかったのは正直に言って寂しい。結局、彼自身の成長や精神が何か物語を「前に」動かす機会は訪れなかった。「お祭りしながらオリジンをやる」という企画の余波で、トムピーターの成長がとても低く見積もられてはいないだろうか。彼は確かに子供だが、まだ、ここに至ってもまだ、その精神レベルなのだろうか。・・・そういった点が、どうしても頭をかすめていく。これは「スパイダーマン大集合映画」ではなく、「トムピーター3部作の完結編」じゃなかったのか。前者の都合で後者が影響を受けてしまっていないだろうか。「国民の孫」のような肌触りにあるトムピーターのファンとして、そこがどうしても解消し切れない。

 

しかし、そもそも映画とは、フィクションとは、制作という神によるボードゲームである。トムピーターもメイおばさんも、単に盤上の駒に過ぎない。神がもし、今回のボードゲームをいっちょ派手にやりたいとして、いくつかの駒がその影響を受けたとしても、致し方ないのだ。「新旧スパイダーマンが集合する」という世紀のお祭り、その脚本上のプラス要素を成立させるために、「メイおばさんの死」と「ピーターの認知リセット」というマイナスが配置される。そうやってお話の緩急、バランスを構築する。その「バランス取り」それ自体が「相反するふたつの要素の接続」なのだろう。それは大いに分かっているし、ストーリーテリングのスキルは異次元の領域で上手くいっている。しかし、「バランス取り」の結果か、トムピーターの大切な大切な一度きりの「オリジン」が少し割を食ってしまったのではないかと、そう感じるのも本音である。

 

「グリーンゴブリン殺害をトビーピーターが食い止めた」、スパイダーマンとしての精神性の継承と先導に拍手喝采の自分。「グリーンゴブリン殺害をトビーピーターが食い止めた」、つまり別ユニバースという大人の事情メッタメタのお祭りなくしてはトムピーターは大いなる責任を全うし切れなかった、という事実に一抹の寂しさを覚える自分。どちらも、しっかりと存在している。だからややこしい。

 

「これまではスパイダー『ボーイ』だった。この映画を経てスパイダー『マン』になる」。これは、本作についてインタビューを受けたトム・ホランドの言葉である。確かに、彼は間違いなく「マン(男)」になった。強力な喪失を経験した。世界を救い、親友と恋人を救い、世界中から愛され、単独ソロ3部作を経て、ここまで沢山の物を積み上げたこのタイミングで、「スパイダーマンの通過儀礼」を経験した。最も恵まれていたスパイダーマンだったはずなのに、過去最高級に「大人の事情」を内包した本作をもって、一転、最も不幸なスパイダーマンになってしまった。

 

その一部始終が、本当に「世紀のお祭り」と同じ舞台の上で良かったのか。「世紀のお祭り」に心の底から興奮しただけに、ふと気づくと、「自分は素直に興奮して良かったのか?」と、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。この感情への決着は、「大人の事情」をメタメタに詰め込んだ企画色満載の本作ではなく、また次に “隣人” と会う機会に持ち越しておきたい。