ジゴワットレポート

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感想『蜜蜂と遠雷』 四者四様の世界は映画館にこそ響く

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音楽映画を観る度に、「音楽に携わる経験があって良かったなあ」と強く実感する。

 

といっても、何もプロを目指したとかそういうレベルではない。吹奏楽やオーケストラでそこそこ演奏していた程度である。最近ではその繋がりでコンサートのステージマネージャーを頼まれることも多いため、音楽映画特有の「舞台裏」描写には、ついつい身を乗り出してしまう。

 

だからこそ、『蜜蜂と遠雷』は非常に面白い作品であった。

 

架空の国際的ピアノコンクールを舞台に繰り広げられる、若者たちの群像劇。トラウマを抱える元天才少女、完璧な音楽を目指す青年、家庭を持ちながら音楽の前線で戦う父親、その全てとは違う次元に生きる無垢な天才少年。彼らが音楽を通して世界や人生と向き合う様が、コンクールの合否というイベントに絡めて描かれていく。

 

映画「蜜蜂と遠雷」 ~ 河村尚子 plays 栄伝亜夜

映画「蜜蜂と遠雷」 ~ 河村尚子 plays 栄伝亜夜

映画「蜜蜂と遠雷」 ~ 河村尚子 plays 栄伝亜夜

 

 

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原作未読のためそちらと比較する視点は持ち合わせていないが、フレッシュで勢いのあるキャストが揃った、見応えのある作品だったのでないだろうか。

 

まず主演の松岡茉優だが、私はドラマ『鈴木先生』の印象が強い。同作は学園モノであり、若手キャストが大勢投入されたが、その時点で松岡茉優はかなりのオーラを放っていたと記憶している。近年だと、『ちはやふる』の若宮詩暢も良かった。そして、森崎ウィン。みんな大好き『レディ・プレイヤー1』にも出演した、今最も勢いのある若手俳優のひとりである。松坂桃李は言わずもがな、特撮オタクとしてはいつまでも『侍戦隊シンケンジャー』の殿だ。

 

本作の松岡茉優の演技は、ツンとした雰囲気もありつつ笑顔がふっと優しかったりと、絶妙なバランスであった。しかし最も感動したのは、やはり松坂桃李だ。ピアノコンクールに出場できる年齢制限ぎりぎりで、仕事・家族・音楽を同時にこなす苦労人という役柄なのだけど、驚くほどに、そこにオーラが無い。これは褒めているのだけど、間違いのないイケメン、松坂桃李なのだ。端正な顔立ち、低めの味のある声、スラッとしたプロポ―ション。なのに、どこからどう見てもめちゃくちゃ一般人!「絶」を発動してオーラを消しているのか? 素晴らしい・・・。「オーラ皆無の松坂桃李」、必見である。

 

そして最後のひとり、本作のためにオーディションで選ばれた新人・鈴鹿央士。天才少年である風間塵という役どころだが、確かに雰囲気は抜群であった。まあ、「無垢な天才」の類型という印象もあり、どこかで見たことのあるキャラクターのような気もしてしまったけれど・・・。過去のトラウマや目の前の難題に振り回される他メンバーとは絶対的に見ている景色が違う存在で、彼がいることで他者も引き立つ、そういう相対的な立ち位置も必要なのだろう。

 

一介の音楽経験者としては、やはり「ならでは」の空気感に頷く場面が多かった。音楽映画には定番だが、あの演奏が終わった後の余韻。これがたまらない。ジャン!と曲が終わり、残響を感じて、ワンテンポ遅れて拍手が雪崩のように始まる。観ているこちらも息が詰まる一瞬。この残響を味わいたいからこそ、音楽映画は映画館で観たいのだ。家で観るのとは音の響きが全然違う。シアターが疑似ホールになる、あの環境こそに価値がある。

 

そして、舞台裏の空気感。ホールの舞台裏って、寒いんですよね。空気がひんやりとしていて、静かに張り詰めている感じ。次の出番を待ってそこにいる時の、あの独特の静寂。あるいは、ホールスタッフが音を殺しながら仕事をする風景。そういう「あるある」がちゃんと描写されていて、とても楽しかった。出演者のトラブルを受けて進行をリアルタイムで変更するとか、あの胃の痛い感じ、「あるある」です。(逆に、知っているからこそ気になるポイントもあったけれど、その多くは撮影の都合という印象であった)

 

あと、忘れてはならないのが、鹿賀丈史が扮した指揮者。「若造の好きにはさせねぇ!」という圧がキツかった。複数人でやる音楽における「合わせる」って本当に難しい行為で、ただ楽譜に正確にやれば合致するかというと、決してそういうことではない。互いの目、身振り手振り、姿勢など、そういった言語以外のコミュニケーションが瞬間的に膨大な情報量で交わされることで、やっとこさ音と音とが重なっていく。そのため、たった十数分の演奏でも、ドッと疲れがきたり。これは、要は特殊なコミュニケーションにかける労力なんですよね。

 

だからこそ、それが噛み合わない時の焦燥感は、えげつない。森崎ウィンの事前練習のシーン、観ていて胃に穴が空くかと思った。例えるなら、初対面の人と仲良くなろうと何度も話しかけるのに、ことごとく無視されているようだ。まあ、あそこまで極端な例はそうそう無いだろうが、「音楽における言語外コミュニケーション」の描写としては、すごく良かったと感じた。

 

といった「コミュニケーション」の意味でも、至高の音楽漫画は『SOULCATCHER(S)』である、と書き添えておきたい。

 

SOUL CATCHER(S) 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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閑話休題。主要4人のキャストは、かなりピアノの練習を積んだことだろう。もちろん、カット割りで実際のプロが演じているシーンも少なくないが、結構な頻度で引きの絵が出てくる。肩の揺らし方、視線の送り方、体重移動の所作。相当な練習量だっただろう。まずは、そこに全力で拍手を送りたい。

 

これが原作でもあった描写なのかは分からないが、楽譜を使ったキャラクター描写、これがとても印象的であった。主に中盤のカデンツァ(即興演奏)において、「楽譜をしっかり仕上げてくる者」「漠然としたイメージだけが書き殴ってある者」「正真正銘の即興をやるために白紙の楽譜で挑む者」と、かなりの差別化が図られていた。

 

特に、森崎ウィン演じるマサルが楽譜をデジタルで管理していたが、あれはキャラクターの肉付けとして非常に効果的であった。確かな実力があり、人気もあり、夢も大きいのだけど、どこか若干鼻につくというか、上滑りしているようなバランス。そのビジュアルやファッションの方向性も併せて、チューンナップが良い。

 

また、松坂桃李が演じた高島という男も、「生活者の音楽」という概念にやや固執している様がリアルであった。音楽に全てを捧げている若者と、生活と共にそれをやる自分は決定的に違うんだ、という自負。「戦い方を変える」と言えばえば聞こえは良いが、仄かに、音楽「だけ」に没頭する天才をどこか見下すような、そんな後味があった(もちろん、それに対するアンサーも盛り込まれている)。でも、そう思わずにはやってられない、そういう姿勢こそがまさに庶民代表というポジションと合致しているのだ。松坂桃李がそれをやるからこそ、嫌みも無い。

 

そういった「天才と凡人」という軸を設けつつ、蜜蜂が飛ぶ音から遠くで響く雷鳴まで、その全てを「世界」として鳴らしたくなる音楽家の性を描いた物語であった。主人公がトラウマを克服するというベタな構成でありながら、個々の人生を背負った音楽性の戦い、コンクールの合否といった要素と絡めることで、不思議と飽きがこない作りだったな、と。

 

いくつか演出が垢抜けないと感じた場面もあったが(邦画によくある、めちゃくちゃよく聞こえる周囲の噂話で主役のバックボーンを説明するくだりとか)、いざ演奏が始まった瞬間の空気感や、合否発表を直接的に描かない手法など、ハッとしたシーンは少なくなかった。ピアノの映り込み合成で深層心理を描いたり、水滴の接写で緩急を設けたり。音楽とは、理論と神秘を残酷なほどに併せ持った存在なので、その両者をふらつく演出の数々は、的確だったと言えるだろう。

 

総じて、音楽映画に期待される数々の演出をしっかり配置しつつ、フレッシュなキャストの推進力で押し切るという、計算された構成の作品であった。四者四様なキャラクターの描き方、各種調整、差別化。この辺りも大きな見所である。芸術は、人を生かすことも、殺すこともできる。憑りつかれた人間を翻弄する、そんな魔性の性質が、よく表れていたのではないだろうか。

 

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

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蜜蜂と遠雷 (1)

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