間もなく平成が終わるこのタイミングで、『仮面ライダージオウ』の響鬼編が放送されるという。『仮面ライダー響鬼』という作品には、リアルタイムで観ていた人の多くが様々な感情を抱いていることだろう。
よもや「仮面ライダー」には見えないデザイン、職業として鬼を全うする大人たちの姿、筆字のカットが挿入されるヒーロー番組らしからぬ演出。そして、30話からのスタッフ交代劇。当時の私はまだ学生だったが、ネットが阿鼻叫喚に包まれていたのをよく覚えている。今では「太鼓を叩いて戦う鬼のライダー」として、平成ライダーでも随一の異端児なポジションに収まっているが、当時の騒然とした様子は、中々忘れがたい。
⌚⌚キャスト発表だジオ!Part19⌚⌚
— 仮面ライダージオウ (@toei_rider_ZIO) 2019年4月21日
「仮面ライダー響鬼」より桐矢京介役の中村優一さん、仮面ライダー轟鬼/トドロキ役の川口真五さんの出演が決定ジオ〜。
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そんな『響鬼』本編から、桐矢京介とトドロキが登場するという。『響鬼』の放送開始から今年で14年。もうそんなに時が経ってしまったのか・・・。
本編でヒビキを演じた細川茂樹さんは、当時33歳。劇中のヒビキは、設定では31歳であった。その弟子を演じた中村優一さんは、87年生まれの31歳。奇しくも、演者の年齢があの頃のヒビキさんに追いついたタイミングである。
当時「おっさんライダー」として話題になった細川さんの抜擢だが、かくいう私も、気付けばアラサーになってしまった。あんなに頼りがいのあったヒビキさんと今の自分が同世代という事実は、結構なボディーブローである。辛い。ヒビキさんに比べれば、中身がガキで青臭いまま歳を取ってしまった私・・・。ナンテコッタイ。きっと映画や漫画の見過ぎ。甘いコトバ聴き過ぎ。ガキの好きそうなことばっか病みつき。
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「『響鬼』と桐矢京介」という話題は、平成ライダーファンにとっては一種の劇薬であり、これ以上ない語り草とも言える。もはや腫れ物としても扱えないくらい、避けては通れないほどの目に見えたスタッフ交代劇。29話までの「人間ドラマ重視」「明日夢成長譚」は縮小し、30話からは「鬼と魔化魍の戦い」「師弟関係の突き詰め」に比重が置かれることとなった。
当時の私は、批判的な感想よりも、率直に「戸惑い」が大きかった。すでに十代も後半に差し掛かった頃で、メインターゲットである子どもたちの視点は失っていたこともあり、ドラマ重視で語る前半の空気感をオタクとして楽しんでいたのは事実である。余談だが、私自身がずっと音楽(それも打楽器)をやっていたこともあり、「太鼓で巨大な妖怪を清めて倒す」という異色の設定に、一瞬で心を奪われていた。それが後半になり、ビジュアルや武器がより直接的なものに変わり、少年が緩やかに大人から学びを得ていく物語は急速に息が詰まるものになっていった。
例えるならば、前半における明日夢は、綺麗に舗装された道路をゆっくりと歩いていた。まるで、エンディング『少年よ』におけるヒビキさんのように、見守ってくれる大人たちに囲まれながら、ゆっくり、ゆっくりと、思春期の一歩を重ねていく。ヒビキさんという大人は、時にはヘッポコな面もあったけれど、だからこその愛らしさと、時には厳しく叱ってくれる頼もしさがあった。自身がアラサーになった今、あんな聖人のようなアラサーはそうそういないことに気づくのだけど、それはそれとして、「理想の大人」を体現するキャラクターとして非常に精度が高かった。
それが一転、後半になると、明日夢はゆっくり歩くことができなくなった。道路も、荒れたオフロードのように、前途多難となった。もちろん、前半までの明日夢にも様々な課題が降りかかったが、それは彼自身の問題であることが多かった。それを、その問題とは直接関係しない大人たちが、見守る立場から導いてくれていた。しかし後半は、大人たちとの関係「そのもの」が課題として提示されるため、前半にあった「和やかさ」が一転して「息苦しさ」に変わっていった。ゆっくりと遠足をしていた明日夢は、いきなりオフロードでのマラソン大会に放り込まれてしまったのである。
そのマラソン大会において、明日夢を追い立てるように登場したのが、桐矢京介というキャラクターだ。彼は、それまで曖昧だったヒビキと明日夢の関係性に、土足で踏み込んでくる。もちろん、前半の空気感においては、その「曖昧さ」こそが良さに繋がっていた。ヒビキは、明日夢を将来の弟子にしたい気持ちを匂わせながら、直接的には勧誘しない。明日夢は、自身の進路に悩みながら、ヒビキさんの背中に漠然と憧れを抱く。そして、その「なんとなく」の空気感を、両者が薄っすらと共有している。その絶妙なバランスこそが、前半の旨味であった。
そこに、「おいおい、結局どうなんだよ!弟子になるの?ならないの?」とメガホンを構えながら土足で乗り込んできたのが、桐矢京介なのだ。彼は、「曖昧さ」の隙を付くように、ヒビキの弟子になることを表明する。そしてそれにつられるように、明日夢もヒビキの弟子になっていく。前半であれだけ温めた「弟子になるのか否か」が、誰かに引っ張られる形でなし崩しに実現しまう。そこへの寂しさ。喪失感。それは、当時観ていた人の多くが味わったものではないだろうか。
それ以前に、物語の語り口そのものが変容した。等身大でのアクションシーンの比重が大きくなり、前半の空気感では考えられないコメディシーンや、間を取らない急いた作劇など、同じ番組とは思えないほどであった。前述のように、前半の良さだった「曖昧さ」が、後半では一気にウィークポイントとして機能するため、前半を好きだった人ほど戸惑い、『響鬼』が好きだった人ほど言い知れぬ喪失感を抱く結果となったのだ。
ただ、これもまた何度も過去記事で触れてきたが、『響鬼』の後半は、前半を可能な限り尊重したものだったのだと、今でもそう思う。
大人の事情的に、もっと番組そのものが破壊されても仕方がなかったであろう状況において、アプローチが異なるとはいえ、前半のテーマを極力汲み上げる形で物語が継続された。前半の要素を並べた上で、状況的に全部をそのまま活かすことはできないので、「ヒビキと明日夢のまだ見ぬ師弟関係」をピックアップし、そこに推進力を持たせる。その「推進力」としての桐矢京介は、「もし明日夢が早い段階でヒビキの弟子になろうとしたら」という「IF明日夢」として登場し、その強烈な言動でもって、「曖昧さ」にガシガシと線を引いていった。
そう、桐矢京介というキャラクターは、明日夢が前半29話までで積み上げた「曖昧さ」の化身なのである。その「曖昧さ」の反証として登場することで、後半のドラマを転がす役割を担っていた。物語にスピード感を持たせ、「思春期の課題」から「メインキャラクターの群像劇」へ移行する。それは、『アギト』も『龍騎』も『ファイズ』もやってきた、平成ライダーの(その時点での)黄金パターンのひとつだ。入り乱れたメンズが、互いの思惑を交差させながら、物語を転がしていく。そのパターンに『響鬼』を寄せるために、桐矢京介というキャラクターが必要だったのだ。
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だからこそ、桐矢京介は、まるで「後半に対する呪詛の象徴」として扱われてしまった。彼が物語を転がせば転がすほどに、ネットでは桐矢京介に対するヘイトが叫ばれた。「後半の推進力としての桐矢京介」と、「呪詛の象徴としての桐矢京介」。今でこそこうして俯瞰して語ることができるが、当時はやはり、殺伐とした空気が漂っていたと記憶している。
とはいえ、桐矢京介がいたからこそ、明日夢は「ヒビキの弟子を経験した上で」「自身は鬼にならない」という結末を迎えることができた。ヒビキと明日夢の関係は、鬼を介さない、人生における師弟。あくまで、人と人との関係。だからこその良さ。その着地は、私からすれば、この上なく前半ライクなそれであった。同時に、ヒビキさんは、自身の鬼の力を継承する存在と出会うこともできた。明日夢に対して「曖昧さ」を抱いていたヒビキさんも、桐矢京介にある種救われたのである。彼がいたからこそ、明日夢とのあの関係に行き着くことができた。桐矢京介という劇薬があってこそ、ヒビキと明日夢の関係が完成したと言える。
もちろん、スタッフ交代劇がなかったらどうなっていたか、なんてものは、語り始めたらきりがない。前半のテイストのまま明日夢が弟子になる展開があったのか、もしくは、最後まで「曖昧さ」を美徳として貫いたのか、それはいくら語ろうとも妄想の域を出ない。『響鬼』が迎えた現実は、あれひとつなのである。
ただ、あの頃の喪失感と、でもコアな部分に実は存在していた納得感、妙な居心地の悪さと、息が詰まる感じと、『響鬼』に対する愛着の数々は、安易に「前半こそが最高!」「いや、後半こそが良い!」などといったフレーズでは語れないほどに、入り組んでいるのだ。そんな、そんな容易い二元論ではない。
前述のように、「後半に対する呪詛の象徴」として扱われてしまうことが多かった桐矢京介。その後味は濃く、後年の『電王』に中村優一さんが出演すると報じられた時も、界隈は騒然とした。モモタロスらがデンライナーでファミリーを形成していたそのタイミングだったこともあり、「また壊してしまうのか」と、辛辣な言葉が界隈では飛び交った。しかし、それが杞憂に終わったことは、『電王』を観た人ならご存知のことだろう。桜井侑斗というキャラクターは、桐矢京介が図らずも背負わされてしまった呪いをある程度浄化したかのような、そんな印象すら抱いてしまうほどだ。
あれから、14年。
桜井侑斗は、何度も平成ライダーの舞台にカムバックしてくれた。ゼロノスの頼もしさは、もはや、私なぞがわざわざ語るまでもない。しかし、桐矢京介が戻ってくることはなかった。『響鬼』という作品が、いつしか俯瞰して冷静に語られるようになり、平成ライダーというシリーズのライブラリのひとつとして数えられるようになり、そうして、長い年月が経った。
「『響鬼』の後半」を象徴する桐矢京介は、奇しくも、平成ライダーというシリーズを総括する記念作『ジオウ』で、再登場することとなった。「仮面ライダー」の冠と戦い、「平成ライダー」のコンテンツとしての重みを背負わされた『響鬼』。その後半を象徴する彼が、平成も終わるこの2019年の4月の末に、あの頃のヒビキさんと同世代として登場する。この嘘のような現実を前に、当時『響鬼』を観ていた頃の様々な想いが噴出してしまい、居ても立ってもいられず、こんな文章を書いてしまっている。
つまりは、『響鬼』という作品が、大好きということである。
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