ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』という非妥協的な詰将棋、あるいは「続編を制作する意義」について

続編、それも本編終了から時が経った続編ほど、「それを制作する意義」に真摯に向き合って欲しいと、そう願うばかりである。

 

どうして世の続編は制作されるのか。商業作品である以上、「売れる見込みがあるから」という予実管理があるのは当然として、私の願いはその一歩先にある。つまり、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」という一点において、めちゃくちゃ深く掘り下げた末の答えを用意して欲しいのだ。その答えでもって、「売れる見込みがあるから」という “大人の事情” に迷彩を施して欲しい。

 

「売れるから作りました」なんて台詞は、例え両者(作り手と受け手)が重々に分かっていたとしても、腹の底に抱いたまま墓場まで持って行ってはくれないか。たとえ嘘でも、「この『答え』を打ち出したいから作りました」と、そう言い切ってはくれないか。

 

だからこそ、用意された「答え」が薄く、腹の底の台詞が透けて見えてしまう続編が、私は大嫌いなのである。寝た子を起こしてまで縮小再生産に着地させた某スペースオペラなど、その典型と言えよう。作品のメッセージは自分と相容れないが、玩具が自立行動する某ストーリー4作目の方が、よっぽど好感が持てる。これにはこれの、濃い「答え」があったのだから。

 

 

という前提を踏まえて、『仮面ライダーオーズ』の続編である。

 

率直に言うと、私は「色々あってアンクが復活して映司と比奈と手を取り合ってクスクシエで仲良く暮らしましたとさ」という「答え」だったとしたら、怒り心頭で劇場を後にしていたことだろう。それこそ、典型的な「腹の底の台詞が透けて見えてしまう続編」だ。そんなものを絶対に観せてくれるなよ、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」にしっかり向き合ってくれよと、祈る気持ちで公開日朝イチの劇場に向かった。

 

以上が「前提その1」。続いて、「前提その2」である。

 

『仮面ライダーオーズ』とは、一言では形容しがたい作品だ。それは、異なるテイストがひとつのパッケージに詰め込まれているから。今風の表現でいうなら、それは「ハード」と「エモ」だろう。

 

もちろん、作品個々の性格が細かく異なるのは承知の上で、平成仮面ライダーというブランドは前期十年が「ハード」寄り、後期十年が「エモ」寄りのような、ざっくりとそういったグラデーションを有すると感じている(とはいえこれは仮面ライダーに限った話ではなく創作全般の変遷かとも考える)。『オーズ』はその折り返し地点に位置するからか、「ハード」かと思いきや予想しないタイミングで「エモ」が顔を出し、あるいはびっくりする角度や手触りでその両者が交わったり離れたりする。そんなハラハラ・ドキドキ感が唯一無二の魅力であり、実は平成ライダーでは最も「模倣し難い」温度であったと思う。

 

 

今でも覚えている、2011年8月28日。TVシリーズ本編最終回「明日のメダルとパンツと掴む腕」。

 

エンドロールに入る直前まで、「この作品は綺麗に終われるのだろうか」とハラハラしながら鑑賞していた。あまりにも最終回に課された「TO DO」が多く、それは作劇のギミックも、作品のテーマも、キャラクターの着地も、素人目に見ても難解なパズルだった。が、蓋を開けてみると、それらは狂気を感じさせるほどに綺麗にまとまっていたのだ。最終回にここまで舌を巻いた経験もそうない。返す返す、素晴らしい幕引きであった。

 

この最終回は、同作がずっと(あえて)アンバランスに動かしてきた「ハード」と「エモ」の両要素が、まさかのドッキングを果たしたのが大きい。映司とアンクというあくまで利害関係のコンビが(ハード)、あの瞬間のタジャドル変身を実現させる(エモ)。有機的に絡み合った両要素がテーマ性を高らかに謳う。どちらかに寄り過ぎない、偏らない、どちらもあるから素晴らしい。強欲な両取り。ここに強い感銘を受けたのだ。

 

 

だからこそ、その後の10年間の展開に、私は心からはノれていなかった。

 

特に、『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL』。そこにあったのは、濃縮「エモ」で固められた『オーズ』。いや、分かる。確かにそれは『オーズ』の味だ。でも、それだけで形作ってしまうのは、少し違うのではないだろうか。『仮面ライダージオウ』EP09~10。赤い羽根を胸につけた映司。うん、確かに「エモ」い。それはそう、間違いなく『オーズ』だ。だがしかし、それだけではなかったはずだ。

 

 

その他諸々、端まで含めればあらゆるグッズ展開に至るまで、『オーズ』というコンテンツはそう書いて「エモ」と読むにまで膨れ上がっていった。そうして、私が感動した『オーズ』のバランス、感銘を受けたあの狂気の両取りは、ゆるやかに崩れていった。このまま自分は『オーズ』に対し、薄い蓋を被せた感情のまま付き合っていくのだと、ぼんやりそう感じていた。

 

以上、いつものように長い長い前置きである。以下、『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』のネタバレを記しつつ感想を残す。

 

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訪れたのは、主人公・火野映司の死。

 

間違いなくショッキングな展開だが、確かにこれは、なるべくしてなったのだろう。それは、「映司ならあの時こうしただろう」といったキャラクターの動静より、『オーズ』という作品の構造、それを受けての「続編を制作する意義」に思いを馳せれば、ストンと腹に落ちるものであった。ここまで「納得」の二文字が脳裏によぎる劇場体験も、かなり久々である。

 

例えるなら、詰将棋。すぐに感じたのはそれであった。将棋のルールを用いたパズルで、用意された出題に対し、どう駒を動かせば王将を詰めることができるか頭を悩ませる。『復活のコアメダル』は、非妥協的な詰将棋の末に弾き出された物語なのだろう。鑑賞後にパンフレットを熟読すると、その有り様がひしひしと伝わってくる。いちから盤面を彩る作り方ではなく、出題に挑み王将を詰める作り方。

 

そしてその出題こそが、あの『仮面ライダーオーズ』最終回、「明日のメダルとパンツと掴む腕」なのだ。完全無欠に思えるこの最終回を問いとして、どう答えを出すか。ここをクリアしなければ、「続編を制作する意義」には辿り着けない。制作スタッフの皆さんは、きっとそのような構えで臨まれたのだろう。

 

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▲ 来る日も来る日も読み返したパンフレット。ここまでシビアな証言集もそうあるまい。

 

まずもって。「色々あってアンクが復活して映司と比奈と手を取り合ってクスクシエで仲良く暮らしましたとさ」は、あり得ない。その可能性はそもそも出題に無いのだ。本編最終回、映司はアンクを失い、その後旅に出る。この大きな喪失をもって物語が閉じている以上、続編でその喪失を無かったことにはできない。それをしてしまっては、偉大なる本編最終回に泥を塗ることになるからだ。決して、皆が仲良く大団円はあってはならない。未来永劫、「結局この10年後にアンクは戻ってきて皆と再会するんだって」などと、誰にも容易く言わせてはいけない。本編最終回の絶妙な尊さは、そのままそこに在ってもらわなくては。

 

しかし。「仮面ライダーオーズの続編」という枠組みにおいて、アンクが登場しないことはあり得ない。『オーズ』には様々なトピックがあるが、やはり映司とアンクのあの独特のコンビが大きな魅力だ。彼らが交わって、コミュニケーションを取る必要がある。でも、アンクの喪失は本編が掲げた重要なエッセンスだ。それを蔑ろにせずに、しかしアンクを出す。この矛盾した出題に答えを用意しなくてはならない。さて、アンクが戻ってくるに見合う代償(=物語の位置エネルギー)とは何か。

 

最後に。「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」を見つめ直した際に、大きく立ちふさがるのは「あまりに高い完成度を誇る本編最終回」だ。これに何を付け足せるだろうか。下手なことをしては蛇足である。しかし、制作するのだ。あの完全無欠にも思える最終回に、「その後」を用意するのだ。最終回を伏して拝み、祈りながら、それでも「その後」を描く。であるならば、残された手(あるいは許される選択肢)は、ひとつしかない。そう、「最終回のリプライズ」である。最終回をもう一度、違う方向から再演する。それが敬意を込めた返球、そして10年越しの円環になり得るのではないか。こうすれば、付け足す意義のある中身になるのではないか。

 

察するに、このような理屈で駒が動き、そして弾き出された「詰め」が、『復活のコアメダル』なのだろう。本編最終回のリプライズをベースに、映司とアンクのふたりを描き、喪失で幕を引く。となるとこれはもう、主人公・火野映司の死を描く他にない。それ以外の選択肢をやろうと思ったら、それは、出題への反抗になってしまう。それはいけない。『オーズ』は素晴らしい。あの本編最終回は尊い。だからこそ、この「詰め」に収斂する。

 

ここまで生真面目に、硬派に、馬鹿正直に、真摯に、本編それ自体と向き合った続編を、私はあまり知らない。

 

描かれた内容以前に、このコンテンツにこの構成の物語がお出しされたことに、強く圧倒されてしまったのだ。なんてことだ、と。『仮面ライダーオーズ』の続編として、これ以上の「答え」は無いではないか。あまりに濃いそれは、「売れるから作りました」なんていう台詞をまるで無かったことにするほど、強靭な精神性に満ちていた。良かった。本当に良かった。この作品に関わった方々は、『仮面ライダーオーズ』という作品を、心の底から愛し、崇め、尊重したのだと。何よりもその姿勢を銀幕から感じ取れたことが、嬉しかった。

 

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余談として。私の半身を作った作品に『鋼の錬金術師』があるが、この物語のラスト、構成が非常に美しいのである。

 

「兄が自身を犠牲に弟を蘇生させた」ことから始まった物語、その果てのギリギリの局面で、「弟は自身を犠牲に兄に勝利を贈る」。かと思えば今度は、「兄が自身を犠牲に弟をまたもや蘇生させる」。その犠牲の対象は、腕か、魂か、錬金術か。その変遷を含め、「互いに犠牲を持ち合う魂のラリー」的な構成が、今思い返しても実に感慨深い。(2003年版、水島精二監督のアニメ『鋼の錬金術師』は、原作最終回の原案を早期に教えてもらい、それを基にオリジナルの最終回を組み立てたという。「魂のラリー」構造がまさにそれだったと後にして気づいた時は、えらく感動したものだ)

 

 

『復活のコアメダル』を鑑賞して一番に頭に浮かんだのは、この『鋼の錬金術師』であった。アンクが10年前に、そして今回は映司が、犠牲をもって魂のラリーを行う。これだけが唯一、あの見事な本編最終回へ「付け足すことが許される」お話。そのような思惑があったのではなかろうか。

 

とはいえ。あの本編最終回は、TVシリーズ1年分の結末として組み上がったものである。グリードが復活し、メダル争奪戦が行われ、バースも参戦し、完全復活や紫のコアメダルという要素を経て、やっとこさ辿りついたクライマックス。舞台装置と危機的状況が積みに積みに積み上がった最後に、あの展開がある。

 

『復活のコアメダル』は、どうしても本編最終回をリプライズしたい。しかし、1年分のTVシリーズは、当然ように描けない。これはVシネマ枠、与えられた条件は正味60分。だからこそ、すでに本編に撒かれていた設定を叩き起こし、疑似的に「TVシリーズ1年分」を蓄積する他ない。

 

そうして、特に深く描かれることなく古代オーズが復活する。鴻上会長は性懲りもなく人災として人造コアメダルを用意する。グリードらも復活して対人間との総力戦が始まる。世界は逃れようもなく破滅に向かっていく。本編最終回がそうであったように、ギリギリの決断をしなければならない舞台装置を用意する。「TVシリーズ1年分」の蓄積を、設定とあらすじでまかない、そうした上で本編最終回を再演する。

 

映司という人間の欲望を描いた末に、あの本編最終回があった。であれば、ゴーダという新しいグリードを登場させ、「全てを救いたい」映司の欲望を「全てを我が手にしたい」野望に読み替え、敵に位置付ける。少女を救えなかった映司のトラウマも重要なトピックなので、先の「喪失」に絡めて描き直す必要があるだろう。1年分の蓄積を背負う形で、しかし当然のように尺や扱いに無理が出でもそれでも、古代オーズやグリードを処理していく。舞台を追い込み、選択肢を殺し、外堀を埋め、「本編最終回と同じ決断」しか残されていない局面まで、力業で持っていく。

 

確かに、性急であった。どう見ても綺麗ではない。そういうやり方しかなかったのであればやるべきではないと、そう感じた人もいるだろう。しかし私は、そうまでして「本編最終回を尊ぶ」ことを妥協しなかったその強引さに、拍手を贈りたいのだ。あまりにも、真面目が過ぎる。しかしそんな真面目さを抜きに、『オーズ』の続編なんて手掛けて欲しくはない。

 

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向かうは、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」。そして、「続編を制作する意義」。

 

私の解釈においては、この作品をもって『オーズ』がやっと2011年8月28日のあの地点に戻った、10年分の「エモ」とバランスを取るようにそれ相応の「ハード」を提供したのだと、そう理解している。これでやっと、『オーズ』は「戻った」。「ハード」と「エモ」を両取りする、あの美しい最終回に、「戻った」のだ。10年分の「ハード」を経過措置なしで一気にやるのだから、それはもう、強烈である。こんなことをしては悲鳴が上がると、制作陣の誰もが確実に承知していたはずである。それでも、やった。そこに強い賞賛を贈りたいのだ。

 

私は嬉しい。これでやっと、『仮面ライダーオーズ』という作品と正面から向き合える。10年分の「エモ」と、60分の「ハード」。これらが同じ重さで存在して、ようやく『仮面ライダーオーズ』として成立するのだと。そういった、構造上の出題&解答において、この上なく解釈一致であったのだ。

 

本当にありがとう。劇場公開から約一ヶ月、頭の中で素人なりに何度も何度も何度もこの詰将棋を解いてみたが、私も、この「詰み」が唯一無二の「答え」だと思う。

 

締めとして。少し違う話を・・・。

 

仮面ライダーに限らず、特撮作品に出演した俳優や女優がその後も幾度となくレジェンド出演することに関して、実は私は、心の底から熱くなれたことの方が少ない。願わくば、特撮出演の経験を糧に役者として一般ドラマや映画にどんどん出て欲しい。振り返るのは本当にごくたまに、スケジュールと事務所の意向が奇跡的に合致した時で構わない。どうしてもそういった心境があるのだ。なんなら、普段はライダーや戦隊なんて話題にしてくれなくて良い、とまで思う時がある。とはいえ、出てくれたらそれはそれで嬉しい。間違いなく嬉しい。ひどく我儘で、面倒臭くて、アンビバレントな心理である。そんな自分がクソほど嫌なオタクだと、分かっていてこれを書いている。

 

だからこそだろうか。『復活のコアメダル』のパンフレットで、つい、うるっときてしまったのは、主演・渡部秀氏のインタビュー、その締めの言葉だ。

 

僕自身は変わらず仮面ライダーのことが好きですが、ここが僕ら『オーズ』のキャストにとっては、ひとつの分岐点になると思っています。これから先、僕らが立つ新しいステージにも注目していただければ、うれしいです。

・東映ビデオ発行『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』パンフレット P13

 

求められればいつだって帰ってきます。僕はずっとヒーローです。そういった分かりやすい言葉ではない、ある種の決意表明。さらっと書かれているが、形容しがたい力強さを感じてしまうのだ。同作を「葬式」だと評する声は多いが、私の感覚では、これは「壮行式」だ。座長・渡部秀氏をはじめとする、『オーズ』に関わられたキャストやスタッフの「壮行式」。

 

覚悟を持って、『仮面ライダーオーズ』にケリをつける。火野映司という人間を、もう他の誰にも下手に触らせない。その姿勢こそが、この上なく「意義」まみれであった。

 

大団円じゃなくて、ありがとう。

 

 

『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』観たくない!いや観たい!観なくてもいいのでは!観るでしょ!観る? 観るの? 観ちゃうの!? 観たくないのでは? クゥァアアア!!

俺A「うわぁぁァァァァーーーー!!!!」

 

俺B「うわぁぁァァァァーーーー!!!!」

 

俺C「うわぁぁァァァァーーーー!!!!」

 

 

仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル [Blu-ray]

 


www.youtube.com

 

 

俺A「ちょっと待って一旦落ち着こう。落ち着いて、落ち着いて、状況を整理しよう。仮面ライダーオーズの続編にして完結編、それが2022年にVシネ枠で劇場公開される、つまりそういうことなんだな。そういうことなんだな!?」

 

俺B「そういうことのようだな。まったく、ゴーカイジャーも10年ぶりに復活したばかりだというのに、とんでもない爆弾がふってきたな」

 

俺C「続編めちゃくちゃ楽しみ!予告のファーストカットのオーズの横顔だけで『観たことのない新撮だ!』って歓喜しちゃったよね。あとあと、予告のテロップが本編サブタイトルと同じ「◯◯と◯◯と◯◯」のパターンになってるのも最高。っていうか、メインの2人が全然ビジュアル変わってなくてすごいんだが!? 仙人か!?」

 

俺A「いやちょっと待って!待てって!お前たち、観るのか、これを!? オーズの完結編を、観るのか!?」

 

俺B「いや、まぁ、観ない訳には・・・ いかない、と、いうか・・・」

 

俺C「絶対観る!!!オリジナルキャスト勢揃いだよ!???? 正統続編だよ!??? 観るしかないでしょ!!!」

 

俺A「いや、ちょっと待って、違うだろ。いやいやいや違くないけど違うだろ!オーズだぞ!? あの仮面ライダーオーズだぞ!? いつかの明日に映司とアンクが再会するかも、という希望を持たせたエンディングで綺麗に終わったオーズだぞ!? その完結編を本当にやってしまうのは、いかがなものかとは思わないのか!? いつかの明日は『いつかの明日のまま』だから美しいんじゃあないのか!?」

 

俺B「まぁ~ でも、言うて? TVシリーズだけじゃ終わってないんですよね。細かい客演は除くとして、本筋に近いものを挙げると『MOVIE大戦MEGAMAX』と『平成ジェネレーションズ FINAL』だけど」

 

俺C「平ジェネFINAL、すごく良かったよね~。映司が崖に落ちそうになった万丈を助けるシーンでもう込み上げるものがあるというか!手を伸ばす!届く限りは全力で助ける!それを諦めないことが映司なんだよな〜!!」

 

俺A「そうだけど!!!!そうだけど!!!そうなのか!!??? いや、まぁ、分かるんだよ、平ジェネFINAL。やりたいことは分かるし、感動もした。したさ!しない筈ないだろ! ・・・でもな、あえて言葉を選ばずに言うと、ちょっと二次創作って感じも拭えなかったんだよな、ぶっちゃけ。湿っぽすぎるというか、ファンサービスが熱すぎて若干焦げ気味というか。いきなり無からエモのためだけのエモ崖とエモ塔が出てくるじゃん。いや、分かるよ、分かるんだが。その点はどうなんだよお前ら」

 

俺B「まぁ言わんとすることは分かる。わか~るわかるよ君の気持ち。でもさ、ある程度放送から時が過ぎた作品って、そうやって神格化されたりファンサービスされたりしてナンボなところあるじゃん。それに平ジェネFINALに関してはオーズ主演の渡部秀くんが闇プロデューサーとしてガッツリ関わった訳じゃない。脚本も演出もかなり意見を出したというか、ほぼ監修に近いバランスだったみたいだし。主演俳優がそれくらい作品に思い入れてくれてるってのは、ファンにとって喜ばしいことではあるよ」

 

俺C「でもみんな、映司がカメラを引っ張って引っ張って『変身っ!』てするやつ、燃えたでしょ?」

 

俺A「燃えた」

 

俺B「燃えた」

 

俺C「そういうことだと思うんだよな~!どれとは言わないけど、せっかくオリジナルキャストを起用したのに名言botみたいな使われ方しかされなかった例も知ってるじゃん。それに比べたら、めちゃくちゃ扱い良かったじゃん。小難しいこと考えずに、素直にそこは喜ぼうよ」

 

俺A「それを言っちゃァおしまいよ・・・。小難しいこと考えずに観たいのは山々なんだよ~。あのね、誤解を招きたくないから言っておくけど、そうしようと思って小難しいこと考えてる訳じゃないのね。『小難しいことを考えない』というのは!いいかい!『小難しいことを考えない』というのは!『小難しいことに該当するノイズが取り除かれた作品』と出会えて初めて達成されるものなんだ!そこを違えてもらっちゃあ困るね!」

 

俺B「とはいえ全部が全部、作品の中身って訳でもないじゃん? 受け手は全世界の人間の数だけいるんだから。ま、言葉を借りるなら、『ノイズ除去の許容程度』が人によって違うってことかね~」

 

俺C「そういうオタクみたいな会話やめなよ」

 

俺A「お前もオタクだろ」

 

俺B「2人とも話が脱線しすぎなんだよなぁ~。今回の完結編がどうかって話だろ? まあ確かに、加熱ファンサービスで描かれるのと、あえて描かないことの美学を賛美するのと、その両者で揺れる想いってのは分かるよ。揺れる~想い~体じゅう感じて~」

 

俺C「でもさ~、あの物語の結末が見たいか見たくないかって言ったら、見たいじゃん。それが全てじゃん。強欲にいこうよ。欲望に素直になろうよ。ドクター真木みたいな終末思想なんて語ってないで、お祭りを祝おうよ。Happy Birthday!!」

 

俺A「全部そういうノリで押し切るのも違和感あるんだよなぁ。作品が持つ精神と実際の出来不出来は全く別物なんですよ。・・・いやね、俺も楽しみだよ。楽しみか楽しみでないか、といったら、楽しみなんですよ。でもさ、仮に、もし仮に!!『復活のコアメダル』が自分にとって う~ん な仕上がりだったら? どうする? どうする? TVシリーズ最終回のあの別れも、MEGAMAXのあの余韻も、さかのぼってケチがついてしまうような、そんな恐れはないの? お前達にはないのかよ!!」

 

俺B「つまり君はそれが怖いと」

 

俺C「続いていること、続編が実現すること、それ自体がハッピーなんじゃないの?」

 

俺A「うわああああああああ!!!!!くっそ!!くっそ!!!はいはい正しいのはお前達!!お前達が正しい!!!正論サンキュー!正論ハッピー!くっそ!!!くっそ!!」

 

俺B「つまり君は、例えば『賭博堕天録カイジ』みたいな話をしてるの? 確かに17歩は俺もどうかと思うよ。あのワンゲームに単行本13冊を費やして、オチのトリックはともかく、絵もハンコの顔芸ばっかりで話も起伏が薄い行ったり来たり。それまでの同作シリーズに比べて明らかに失速と言わざるを得ない、残念さは滲み出ているよ」

 

俺C「でもでも、17歩がアレな出来だったからといって、限定ジャンケンやEカードや地下チンチロの面白さが失われる訳じゃないよ?」

 

俺A「失われる訳じゃあない!!断じてない!!が!!どうしようもなく!!『仮にそこで終わっていればもっと傑作あるいは名作として名高かったのでは』と!!そう、思って!!しまうのは!!!それはいけないことなのかよ!!!!!!!」

 

俺B「和也編の話する?」

 

俺C「闇麻のマミヤもすごく展開遅いよね」

 

俺A「やめろやめろやめろォォォーー!!!!オーズの話をしろォォ!!!!Count the medalsッ!!!」

 

俺B「あのさ~、俺だって『超MOVIE大戦ジェネシス』の竹中直人×片岡鶴太郎のシーンは確かに気が狂うかと思ったけど、それでドライブやゴーストの思い出にケチがついた訳じゃないだろ?」

 

俺C「同シリーズの具体例はやめようよ」

 

俺A「こう、さ、なんというかさ。最近のオーズ関連って、やっぱりちょっと湿っぽすぎると思うんだよ。湿度が高い・・・。いやね、映司とアンクの関係性がエモいのは分かるよ。あの当時はエモなんて言葉、全然市民権を得てなかったけど。でもさ~~、MEGAMAXの時の『一緒に戦うのって、もしかしてこれが最後?』『そうしたくなかったらァ、きっちり生き残れッ!』の、あれ!!ああいう!!!ああいうテイスト!!あのカラッとした、ピリっとした関係性が、映司とアンクの真髄だと思うんだよな~~。暗い倉庫でゆっくり見つめあいながらアイスを味わうのは、なんか、なんか、なんか違うんだよ~~」

 

俺B「君が気にしてるのは、つまり予告のあの、映司とアンクが見つめあいながら背後で爆炎ドーーンのカットが、もう湿度が高い ・・・ってコト?」

 

俺C「10周年記念作品なんだからエモくて湿っぽくなるのは当たり前じゃん。ファンだって泣くよ!? 涙は湿ってるよ!?」

 

俺A「はいはいはいはい正論~~~!!!俺C君が正論~~~!!!!くっそ!!くっそ!!!!!!!ど~~~せ俺は小難しいマンですよ~~!!はいはいはい!!!」

 

俺B「確かに俺たちは、色んな『戦争』を経験してきたよね。時が経ってから改めて作られる続編の、『戦争』っぷりといったら。祈りの気持ちで映画館に行くよね。その気持ちはよく分かるよ」

 

俺C「『デスノート Light up the NEW world』の話する?」

 

俺A「やめろ」

 

俺B「やめろ」

 

俺C「でもね、『復活のコアメダル』はなんと田崎監督なんだよ。田崎竜太監督。オーズのTVシリーズメイン監督だよ。だから心配ないよ!!!もっと信じよう? 10年前の自分たちの思い出を信じよう!?」

 

俺A「いや~~~~、でも、バースがコアメダルでパワーアップしちゃうの、まあまあ解釈違いでは?」

 

俺B「まだ言ってるよ・・・」

 

俺C「10周年だから!!お祭りだから!!細かいこと言わないの!!まだ観てもいないのに!!」

 

俺A「ァァァァアァァーーー!!!ダメだぁぁ!!!頭おかしくなる!!オーズが完結する!? オーズの『続き』が確定する!? もう何度も読んで本棚に閉まったはずの聖書に新たにページが増える!? ァァァァアッァ!!!!」

 

俺B「例え。そう、例え。仮に、だ。増えたページが君の納得のいく内容じゃなかったとしても・・・」

 

俺C「記されたものは確かに聖書の1ページ」

 

俺A「受け入れるしか、ない・・・・・・・・・・」

 

俺B「分かってるんだ、全て」

 

俺C「覚悟を決めたいだけなんだよね?」

 

俺A「あちこち観たけど、楽して助かる続編がないのはどこも一緒だな・・・」

 

俺B「『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』は、2022年春に期間限定上映」

 

俺C「同年8月24日にBlu-ray・DVDが発売」

 

俺A「嗚呼・・・ はるかな時を超えて今、二度と悔やまぬために・・・」

 

俺B「奇跡の力、降臨するといいね」

 

俺C「ハァァァァァアーーーークゥァッッッ!!!!!」

 

 

 

感想『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』 「本来やりたかったゼロワン」を感じさせる夏映画的エピローグ

つい、気づけば2ヶ月半ぶりのブログ更新となってしまった・・・。引き続き猛威を奮う新型コロナに仕事の現場で振り回されつつ、別名義で始めた創作活動が思いの外の結果を出し、これまた「つい」そちらに時間をかけてしまったりと、色々な背景があるのだけど、それはまた別の機会に記事にしていきたい。

 

さて、やっとこさお目見えとなった『仮面ライダーゼロワン』の単独映画、『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』。昨年の冬は『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』で前年の『ジオウ』と共演し、夏の映画は新型コロナの影響で公開が延期。仕切り直し、今年は冬映画の枠で「夏映画的なこと」をやるに至った。まずは何より、無事に単独作が銀幕デビューを飾ったことを喜びたい。スタッフ・キャスト・関係者の方々には、例年とは全く別種の達成感があるのではなかろうか。

 

劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME 主題歌&オリジナル サウンドトラック

 

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俳優・伊藤英明をゲストに迎えた本作は、TVシリーズの直接の後日談となっている。ある日突然、エスという謎の男が仮面ライダーエデンとなり、同時多発テロを起こす。世界中に赤い煙の出るガジェットを撒き散らし、武装した兵士が街を占拠。一般市民がゲホゲホと苦しみながら次々と倒れていく描写は、時節柄、妙にインパクトのある映像であった。挑戦状を叩きつけられた仮面ライダーゼロワンこと飛電或人は、単身エデンの元に乗り込み、一騎打ちが開始される。エデンが提唱するタイムリミットまで、残り60分・・・!

 

今作は、枠こそ冬ものの、性格は完全に夏映画である。この点について、昨年書いた『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』の記事をセルフで引用したい。

 

当時、『ディケイド』が約半年間の放送だったことで、いわゆる「夏映画」のポジションは大きく変化した。 

それまではシリーズの途中に公開時期が当たっていたため、大規模なパラレル設定を持ち込んだり、本編との連動を図ったりと、比較的「実験作」な性格が強かったのである。それが、『ダブル』以降はTVシリーズ最終回間近となったため、そこに「集大成」の意味が込められるようになった。その作品が持つテーマを総括しつつ、いくつかの要素をリプライズしていく。それこそが、直近10年の「夏映画」なのだ。

感想『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』 絶対に「平成ライダー」にしか作れない、奇跡的かつ露悪的な怪作 - ジゴワットレポート 

 

このように、平成2期以降の夏映画は、本編のテーマやセールスポイントを総括し、集大成としていく性格がある。『ゼロワン』と同じ大森プロデューサーが担当した作品で挙げるならば、『ドライブ』は「仮面ライダー×相棒のベルト×親子×警察組織」という同作の重要なキーワードを抽出し、再度パッケージングした作りであった。『エグゼイド』では「びっくり箱のような仕掛けと医療の尊さ」を、『ビルド』では「愚直に愛と平和を求める主人公のバックボーンとブロマンス的な魅力」を、それぞれ扱っている。

 

つまり逆説的に、夏映画を観ることで、その作品が一年間繰り広げてきた戦いのテーマのようなものを、非常にお手軽かつ的確に把握することができるのである。

 

では、今回の『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』が描いたものとは、何だったのか。これはずばり、「進化したテクノロジーは人間を幸せにするのか」、という点だろう。詳しくは後述するが、伊藤英明扮するエスの動機と手段、その帰結を見るに、狙いは明らかである。TVシリーズ本編では、この「テクノロジー」の部分を「AI」「ヒューマギア」として物語を進めていった『ゼロワン』。「人間を幸せにするのか」、ひいては、「人間社会にどのような利害をもたらすのか」。これをミクロの視点で身近に描写するために、様々な職業現場で働くヒューマギアが活躍したことは記憶に新しい。

 

しかしその弊害として、「様々な職業現場で働くヒューマギア」という横軸のバリエーション提示ばかりに物語が注力してしまう。テクノロジーの可能性をいくら描いても、それが本筋にリンクしていかない辛さ。結果、縦軸といえるお話そのものの推進力であったり、「仮面ライダー」が本来最も魅力にするべきヒーロー活劇としてのシンプルな面白さは、割を食ってしまった。「やりたいこと」は十二分に伝わるものの、それが「面白さ」に直接繋がっていかないのは、なんとももどかしい・・・。

 

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反面、今回の『REAL×TIME』では、作中で扱われる「テクノロジー」と「職業」を結びつける方法論を、完全に放棄している。事前の情報であまり触れられていないのだが、エスはそれまでの『ゼロワン』劇中では全く扱われなかったある実在のテクノロジーを(事実上の)武器とし、その技術力と可能性で自らが提唱する「楽園」を創ろうと画策する。後の展開で明かされる敵組織の実態も面白く、こういうテクニックで「人間の悪意」とテクノロジーを混ぜ合わせたのには、思わずニヤリとさせられた。或人たち仮面ライダーは、新たなテクノロジーの驚異と戦いながら、物語はそれがもたらす可能性や怖さに踏み込む作りとなっているのだ。

 

驚くことに、これだけで随分と観やすい。TVシリーズで「ヒューマギア」を描ききった結果か(少なくとも物語としてはそういう決着になっている)、「テクノロジー」が指すものを入れ替えることが可能となったのが大きい。つまり、念願の「テクノロジーの可能性(技術力)を提示しながら縦軸を進めていく」という作劇が、遂に達成されているのである。今更ながら、これであればTVシリーズも「ヒューマギアが活躍する様々な職業」ではなく「ヒューマギアを含む様々な次世代テクノロジー」という軸足で観たかったかな、という妄想も膨らんでしまう。

 

中盤以降の物語の核となっていく某テクノロジーは、一体人類にどんな可能性を与え、あるいは、どんな悪行の手段にもなり得るのか。その中で、我らが飛電或人は「テクノロジーの可能性」を前向きに主張していく。この技術によって不幸になる人もいれば、その技術力あってこそ、そこに幸せを見い出すこともできる。「技術力」と「精神論」という、本来水と油であるものをドラマに絡めながら転がしていく手法は、TVシリーズから健在である。

 

このように、結果として『ゼロワン』の枷となっていた「横軸のバリエーション提示」を縦軸の推進力に組み込むことにより(同化させることにより)、もしかしたらこれが本当にやりたかった『ゼロワン』の作劇パターンなのか? ・・・と思わせてくれる、そんな仕上がりになっていた。職業紹介が無いだけで、ここまでテーマ性がすっきりするとは。

 

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しかし、相変わらず、登場人物たちの所々の行動理由がよく分からなかったり、説明が明らかに不足している箇所があったりと、悪い意味での「ゼロワンらしさ」も健在である。よって、TVシリーズ本編を観て不満を覚えた人の感覚をひっくり返すほどのパワーは、残念ながら無いだろう。むしろ、TVシリーズを観ながら「面白さ」の形に視認性の悪さを感じていた人が、霧の向こうの景色を確認できる作品・・・ とでも言う方が正確だろうか。「なるほど、ゼロワンってこういうことだよね、つまり」。テクノロジーの可能性と怖さ、そこを信じる人類の未来。非常に明確な、「夏映画」であった。

 

そして、TVシリーズ本編が取りこぼしていた「ヒーロー活劇としての面白さ」も、今回驚くべきレベルで担保されているのである。TVシリーズのメイン監督である杉原輝昭監督による、SFXもVFXもてんこ盛り、極上の「特撮」の数々。同監督の映像の面白い点は、単にアクションが凝っているだけでなく、そこに明確なアイデアがあることである。「派手なアクション」とは少し違い、「うお!こんな魅せ方があるのか!」と、身を乗り出したくなるような画。2020年現在の「等身大ヒーロー特撮」最前線として、一見の価値があると断言したい。

 

お得意のFPS(ファーストパーソン・シューティングゲーム)のような画作りや、ワイヤーを使った縦移動を意識したアクション、モトクロス的なバイクアクションに、銃撃による白兵戦。縦横無尽でアクロバティックなカメラアングルは画面狭しと突き進むものの、決して「見辛い」にはならない。また、スピードの限界に挑むようなVFXでの高速戦闘も、『ゼロワン』の大切なストロングポイントだ。TVシリーズ本編では、正直、杉崎監督回とそれ以外で明確にアクションの面白さに差があったのだが、そういった諸々を吹き飛ばすような勢いを感じさせる。

 

総じて、①TVシリーズでは作品内で衝突してしまっていた「物語の推進力」と「テクノロジーの可能性描写」の融合、②圧倒的なアクションシーンで有無を言わさずに感じさせてくれるヒーローのシンプルなかっこよさ、というバランスになっており、『ゼロワン』がやりたかったことが遂に極まっている一作であった。もちろん、③理論の飛躍による説明不足や唐突な展開・・・ も健在だが、①②のパワーが上手い具合にかき消してくれたようにも感じられた。相変わらず或人は根拠なく夢を叫ぶキャラクターだが、むしろこうじゃなきゃ物足りなくなってきた気がする。

 

『ドライブ』の霧子や、『エグゼイド』のポッピーなど、女性キャラを何かと前線に向かわせたがる大森プロデューサーだが、『ゼロワン』でも遂にそれが(名実ともに)叶ったと言えるだろう。後半の展開については事前情報で明かされてない点も多いので、ぜひ未だの人は劇場で確認して欲しい。『エグゼイド』で「ゲーム病で消滅した人は死んだ訳ではなくそういう病状に陥っている」と断言した豪速球ロジックが売りの高橋脚本イズムも、大活躍である。相変わらず、良くも悪くもヒヤヒヤするシナリオを体感させてくれるが、今作においては「新しいテクノロジーの功罪(可能性と怖さ)」というテーマ性とそのバランスがリンクしており、とても腑に落ちた。

 

惜しむべきは、せっかく「リアルタイム」と銘打っているのに、全然リアルタイムじゃなかった点である。カットが切り替わる度にカウントダウンされる現在時刻と場所のテロップが表示されるのは『クウガ』を意識させてくれるし、適度な緊張感もあるものの、ここまでやるならきっかり60分で事態が進行する「仮面ライダー版24」が観たかったのが本音だ。あるいは別の副題か。

 

また、「きっとゼアのおかげ」と推察はされるものの丸っと説明が無い某キャラクターの変化については、『ゼロワン』として非常に重要な意味を持つので、後々、小説版(?)等で何らかのフォローが欲しいものである。(『ビルド』で桐生戦兎と葛城巧が融合したようなシーンで、双方を同時に尊重させようとしてむしろ逆の効果を生み出してしまっている展開を思い出した・・・)

 

つまるところ、色んな意味での「ゼロワンらしさ」は通底しているものの、一旦仕切り直した後のエピローグとしては、満足度が高かったと言える。「こういうお話をTVシリーズの最後に3話くらいかけて観たいなあ・・・」と思わせてくれる、そんな中編。街の平和を守るために活躍するバルカンやバルキリー、それとは少し違う立場で悪意を監視し続ける滅亡迅雷チーム、そして、メタ的にも好感度に懸念が残るサウザーなど、お馴染みの面々がなんだかんだと共闘していく様は、素直に、とっても楽しい。ちなみに、劇場で観客のリアクションが一番大きかったのは、最後の天津垓のくだりであった。

 

これにて、『仮面ライダーゼロワン』は真にフィナーレとなる。未曾有の制作体制を強いられたであろう本作が、こうしてエピローグを語りきってくれたことが嬉しい。そして同時に、新しいテクノロジーについて、多岐にわたる示唆を与えてくれる。新たな技術と共存することは、既存の倫理観を次々と変容、あるいは破壊していくことを意味するのだろう・・・。元来SFとしての性格も強い「仮面ライダー」がそういう問題提起を繰り出してくれることが、痛快である。

 

 

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コロナ禍と戦う『仮面ライダーセイバー』を心から応援したい

2020年初秋、令和仮面ライダー第2弾となる『仮面ライダーセイバー』が放送を開始した。

 

前番組の『仮面ライダーゼロワン』は、物語中盤頃に未曾有のコロナ禍に突入し、緊急事態宣言で撮影そのものがストップ。総集編でなんとか放送枠を継続しつつ、話数を短縮しての最終回となった。特撮ヒーローファンとして、スタッフやキャストの方々の苦労を思うと、本当に頭が下がる。

 

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いわゆる「3密」が叫ばれて以降、特撮ヒーロー番組に限らず、様々な映像コンテンツを鑑賞する際に、どうしてもそれを意識してしまう自分がいる。エキストラを集めた街中のロケーションや、人が所狭しと集う飲食店の風景、顔面を近づけて怒鳴り合うシーンなど、否が応でも余計な心配をしてしまうのだ。この点、仮面ライダー等のヒーローが得意とする「群衆の声援を背に受けて戦う」というシチュエーションは、今後しばらく、拝めないのかもしれない。

 

そんな状況で放送が開始された『仮面ライダーセイバー』は、公式サイドからも度々言及されているように、このコロナ禍を意識した番組作りが行われている。これについて、一介のファンとして、この2020年初秋に記録に残しておかねば・・・ と思い、この記事を書いている。

 

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主役である仮面ライダーセイバーは、本と剣の力を使って戦う仮面ライダー。ファンタジー色が強い作風で、テクノロジーやAIをメインテーマとした前作『仮面ライダーゼロワン』とは対照的な作りである。

 

そして、ファンタジー色が強いということは、異世界やそれに相当するエフェクト効果の出番が多い、ということ。この基本設定がどこまでコロナ禍を意識したものかは分からないが、柴崎監督を始めとするスタッフ陣は、ここに「今ならでは」の視点で挑んでいる。

 

セイバーでは、コロナ禍による様々な撮影不安が現実となっている現在、どんな状況でも撮影ができることを目指すだけでなく、これを好機と捉え、いままでの仮面ライダーに無い新しい絵づくりをするために、これまでのシリーズには無い取り組みをいくつか行っています。
その一つが、ライブ合成です。
技術自体は古くからニュースやバラエティなどで使われている、いわゆる「お天気キャスターのアレ」。
これまで仮面ライダーの合成シーンは全てクロマキー(グリーンバック)で撮影された素材を後処理ではめ込んで来ました。もちろん複雑な合成は引き続き後処理によって作業するのですが、簡単な内容であれば、その場で合成された映像が撮影できるライブ合成システムがあることによって、これまでよりも多くのカットで合成を使用することができるようになるというメリットがあります。
これはロケに出ることによるリスクを減らす狙いもあると同時に、タッセルの部屋などのように、ファンタジックな世界観を醸成することにも一役買っているのです。

仮面ライダーWEB【公式】|東映

 

まずはやはり、合成シーンの増加。物語設定とも相性が良く、「序盤の話数には予算が多く割かれている」という条件を差し引いても、圧倒的に合成カットが多い。前述の、「どんな状況でも撮影ができることを目指す」。まさにここの部分である。

 

敵の怪人によって出現するワンダーワールドという異世界は、まさにファンタジー映画のような背景から、実際のビル群に近いものまで、様々だ。しかし、「異世界」という設定がそこに横たわっている以上、それらがCGで表現されることに、物語上の違和感は無い。度肝を抜かれたのは第2話で、クライマックスのダブルライダーによるアクションシーンは背景がほぼ全て合成カットで仕上がっていた。仮面ライダーシリーズにおける「カロリーの多い合成」というと、巨大なフルCGモンスターが出現するパターンが多かったが、今回はそれを「異世界」に充てているのだろう。

 

CGを用いた合成カットでアクションシーンが成立するのであれば、当然、ロケに出る必要性が低くなる。今後、再度緊急事態宣言が発令される可能性も、決してゼロではない。現行のような撮影が出来なくなった時に、仮面ライダーはどこで戦うのか。

 

もちろん、『セイバー』とて、年間を通して異世界ばかり、ということではないのだろう。現実問題、予算にも限りがある。しかし、「最悪の場合、撮影所内の合成素材撮りだけでも映像を完成させられる」という担保は、スタッフサイドにとって、非常に強力な判断材料になるのではないか。『ゼロワン』が総集編で繋ぐしかなかった経験を、最速で反映させている。

 

屋外でのロケーション撮影は、何も仮面ライダーとカメラだけが出かければ良い話ではない。監督を始めとする大勢のスタッフやキャスト、街中で撮影する場合は人払いをする担当者もいるだろうし、そこに弁当を配達する業者まで出入りする。「3密」を完全に避けながらのロケというのは、素人目に見ても、非常に難しい。だからこそ、もちろんロケもやりながら、「ロケをしなくても何とかなる方法」を腹の中に持っておく。状況を注視しながら、シームレスに撮影手法を切り替えていく。これぞ、「新しい撮影様式」なのだろう。

 

この点、変身シーンや必殺技シーンが事実上のバンク処理になっているのも大きい。

 

仮面ライダーの変身シーンは、多くの場合、スーパー戦隊シリーズと違ってロケにおける合成で表現されてきた。手順としては、まず演者が変身ポーズを取り、「変身!」と発声してカットがかかったらフレームから外れ、仮面ライダー姿のスーツアクターが入り、腕や肩などの身体の位置を演者のそれと合わせて、綺麗に繋がるようにカットを捉えていく。この細かな微調整の果てに、CGによるエフェクトが加わることで、「変身」が描かれるのだ。

 

必殺技のシーンも同様だ。ベルト周りの小物を操作した後に、必殺技を発動するが、多くの場合で「溜め」のくだりからCGによるエフェクトが入るため、撮影段階でそれを見越した構図にしておいて、素材として撮影する。「溜め」から「発動」までをワンカットでいくのか、切り替えるのか。そういった判断から、細かく求められていく。

 

『セイバー』は、どちらのシーンでもバンクを用意している。厳密には変身シーンは毎回撮影している(演者の服がちゃんと変わっている)ため、従来の「バンク」とは意味が少し違うのだが、変身シーンでここまで合成空間に入り込むのはシリーズでもかなり珍しい。『仮面ライダーキバ』や『仮面ライダーゴースト』のフォームチェンジ等で完全なる合成空間が用いられたが、このシリーズは、基本的に実景のロケだ。かなり思いきっている。

 

必殺技も、ベルトを操作する段階でページがめくれるエフェクトが入り、合成空間での「溜め」のカットがバンクで登場する。

 

これらのシーンが挟まることで、現場では、「合成を見越したカット」を撮る手間が大幅に無くなるのだろう。バンクを挟んでしまえば、すぐに臨戦態勢のシーンから始めることができる。「変身シーン」と「必殺技シーン」、どちらも、大いに盛り上がるシーンなだけに、当然のように手間がかかる。手間がかかるということは、時間がかかる。つまりは、屋外でのスタッフ・キャストが密集する時間が長くなる。これを少しでも短縮しようと思ったら、確かに、合成を要するカットをバンク処理するのは当然の解答である。

 

合成といえば、キーアイテムからバイクなどのマシンに変形するカットも近年恒例だが、今年はこれもバンク処理である。実景へのCG変形合成は、サイズを測るために実物大の木枠を組んでみたり、CGモデルに影をつけるための白球をフレーム内に置いてみたりと、「ただ後で合成すればいい」という話では全くない。ロケ段階でも、それ相応の「撮影」が必要なのだ。ディアゴスピーディー等のバイク変形シーンをバンクに逃がすことで、この手間も短縮できる。

 

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また、ストーリー的にも、工夫があるように感じられる。

 

平成ライダーでは長年用いられてきた「ゲスト制」、それも、『仮面ライダー電王』以降定番化していた「宿主ゲスト」の概念が、今年は用いられていないのだ。「宿主ゲスト」というのは非常にふんわりした表現だが、要は、「怪人と何かしら関わる一般市民」である。一般市民自体が怪人に変身して暴れる展開もあれば、その親族や恋人というケースも多い。また、そのゲストの悩みや後悔につけこむ怪人も少なくない。前作『ゼロワン』でいくと、毎回登場する新しいヒューマギア(後に暴走して怪人化する)そのものが「ゲスト」であった。

 

つまりは、怪人の行動原理や発生理由を「ゲスト」と何かしら絡めることで、仮面ライダーが怪人と戦う行為が、最短距離で「市井の人々を守る」ことになるという、作劇上のロジックである。

 

しかし、『セイバー』の怪人(メギド)は、「ゲスト」を全く必要としない。敵幹部の手によって自在に生み出され、現実世界を異世界に引き込もうと活動する。怪人と「ゲスト」が設定上切り離されているので、「ゲスト」を登場させなくても、お話が成り立つようになっている。市井の人々が登場しないということは、街そのものを描く必要がなく、場合によってはロケが不要という判断に辿り着く。もちろん、年間通してずっと、ということではないだろう。しかし、「そういうことも出来る」というのが、この場合何よりも大切なのだ。

 

また、『セイバー』はレギュラーキャストが多く、仮面ライダーも早々に複数人登場する。敵の幹部も、悪の仮面ライダーまで含めて一気に4人もいるのだ。レギュラーキャストだけでも、何とかお話を回すことができるだろう。

 

つまりは、「ロケの時間を短縮する」「ロケが出来なくなる可能性を考慮する」という視点から考えると、『セイバー』にはかなりの工夫が見られるのだ。反面、「戦隊っぽい」という意見も見聞きするが、そんな台詞はそれこそ『ダブル』の頃だって叫ばれていたのである。それよりも、「新しい撮影様式」に挑む現場スタッフの方々の「特殊撮影」に、目を凝らしていきたい。

 

最悪、ロケが一切出来なくなったら。その場合はどうするか。

 

キャラクターの日常シーンをセットで撮り、ちょっとした外に出るシーンは東映撮影所内で実施する。メインキャスト同士のやり取りでお話を作れば、街の人々が登場しなくても何とか成立する。変身シーンは既にバンクを撮っているので、逆説的に、「変身バンクとして既に撮っているファッション」を日常シーンで着用すれば使い回しても違和感は出ない。戦闘シーンでは早々に異世界に突入し、合成で処理していく。予算の面も考えれば、必殺技を何度も何度も放つことで、バンクの登場を多くすることもできるだろう。

 

1章と2章を担当し、仮面ライダーセイバーのファンタジーな世界観を作り上げてくれたのは柴﨑貴行監督。
スーパー戦隊のパイロット監督は何度かパイロット監督を経験しておりましたが、仮面ライダーシリーズのパイロット監督としてはこの仮面ライダーセイバーが初めて。
加えて未曽有のコロナウィルスの脅威にさらされながらの撮影という状況の中、本当に多くの期待とプレッシャーをはねのけて「仮面ライダーセイバー」の素晴らしいスタートを切れました。

柴﨑監督と打ち合わせをする中で印象的だったのが「ビジネス」という視点と「エンターテインメントを創造する」という視点、そして「子どもにどう受け止められるか」という視点の三つを作品作りの大きな軸として持っているということです。
子どもがセイバーという番組を見てどんなことを感じるのか、その子どもと一緒にいる親御さんはどう感じるのか、逆に制作側が番組を通じて子どもたちにどう感じ取ってほしいのか、という発想で企画開始時点からパイロット撮影の最後のカットがかかるまで突き進んでくれていたように感じました。
企画チームとしても現在の世情を考慮した作品作りを余儀なくされる中で、柴﨑監督のこのような姿勢はとても心強かったです。

「子どもたちにこそ本物のエンターテインメントを見せる」という柴﨑監督の言葉がとても強く心に残っております。

セイバー 第3章:「父であり、剣士。」 | 仮面ライダーWEB【公式】|東映

 

仮面ライダーは、本当には存在しない。どこからともなく現れて、コロナを滅してくれるような、そんなことは絶対にありえない。しかし、だからこそ、「ヒーロー番組の新作が毎週テレビで放送される」という事実は、全国の子供たちやファンにとって、この上ない「日常の象徴」なのである。

 

それを何とか継続したいと、あの手この手で工夫を重ねている『セイバー』。設定や話運びから、極力違和感が出ないように、「新しい撮影様式」を根付かせていく。応用に応用を重ね、判断のバリエーションを増やしていく。こういった、スタッフ陣の根気と工夫、気骨の結晶に、ファンとして心から敬意を払いたい。

 

頑張れ、『仮面ライダーセイバー』!今年も一年間、よろしくお願いします。

 

 

総括『仮面ライダーゼロワン』 「AIの可能性シミュレーション」と「特撮ヒーロー活劇」に共存の可能性はあったのか

まずは何より、『仮面ライダーゼロワン』が最終回までの放送を無事に終えられたことを、心から喜びたい。

 

「特撮ヒーロー番組が毎週放送される」という現実は、金曜の夕方にスーパー戦隊シリーズを観ていたあの頃から、自分にとっては疑いようもない「当たり前」だった。2020年春、未曾有のコロナ禍により緊急事態宣言が発令され、その「当たり前」はあっけなく崩壊。『魔進戦隊キラメイジャー』とあわせて、総集編の放映を余儀なくされるヒーロー番組たち・・・。放送休止だけでなく、撮影スケジュールが事実上白紙になってしまったのは、現場のスタッフの方々にとって想像を絶する事態だったのではないか。

 

「〇話減った」というのは、あくまで結果論である。いつ撮影(放映)が再開できるのか、計何話で物語を終えられるのか。あるいは、このまま未完となってしまうのか。そんな先行き不透明な状態で、撮影スケジュールからシナリオから、全てを仕切り直したであろうクライマックス。『キラメイジャー』では主演・小宮璃央氏のコロナ感染が報じられ、それこそ「当たり前」の風物詩だった両番組の夏映画は公開延期が発表された。エンターテインメントの世界までもが疫病におかされていく、あのにじり寄る絶望感。

 

内容云々とは別に、まずは、2020年8月30日に『仮面ライダーゼロワン』の最終話が無事に放映されたことを、一介の特撮ヒーローファンとして心から喜びたい。キャスト・スタッフ・関係者の皆さん、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

 

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さて、そんなこんなで、全45話で(一応の)決着を迎えた『仮面ライダーゼロワン』。その一年を振り返ってみたい。

 

東映からのプロデューサーに『仮面ライダードライブ』『仮面ライダーエグゼイド』『仮面ライダービルド』の大森敬仁氏、パイロット監督には『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』の杉原輝昭氏、メインライターには『エグゼイド』で大森氏とタッグを組み『仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判』も手掛けた高橋悠也氏。その他、音楽には『仮面ライダーゴースト』の坂部剛氏、アクション監督にはスーツアクターでの活躍も記憶に新しい渡辺淳氏、といった布陣である。

 

扱うは、AI。人工知能の実社会への進出が加速していく現代で、それをメインに据えた物語を展開するという。主人公はそのテクノロジーを扱う会社の若き社長で、AIを搭載したお仕事ロボットを商品として展開している。しかし、そのテクノロジーを悪用するテロ集団や、対抗製品を世に売り出したいライバル社長が現れ、混沌とした群像劇が繰り広げられることとなる。暴走したヒューマギアを泣きながら破壊する主人公は、その未来のマシンに何を見い出すのか。

 

制作陣の狙いとして強く感じたのは、「AIの可能性」をあらゆる形で物語内に詰め込みたい、という気概である。序盤の1クールだけでなく、年を開けてからの2クール目も、取り上げられたのは「様々な職業」。正確には職業そのものというより、「その現場にAIが登場した際にどんな影響を及ぼすのか」という点。AIには何が出来て、何が出来ないのか。生身の人間との化学反応は生み出せるのか。そういったシミュレーションを多くの視点から描くことに、番組全体が注力していたように思う。事実、国立情報学研究所の副所長を務められる佐藤一郎氏をAI技術アドバイザーに招聘し、AI描写の監修を受けたりもしている。

 

その甲斐もあってか、実際の社会問題をも絡めたAI描写には、面白い点が多かった。前時代的とも言えてしまう職人肌な「しごき」に応えるロボットや、死者を模したロボットを扱う倫理的な問題点、ブラックな労働環境が叫ばれる教育現場でのAIの活躍や、病院にロボットを配置した際のテロを前にした脆弱性。ヒューマギアの勤勉性は、汗水垂らす人間の労働環境の光明となり得るのか。個人的には、ちょうどマイホームに向けて動いている時期に観た「家売り対決」がとても興味深かった。「住みたい家」と「買いたい家」の違いって、確かにあるんですよ。そこのところに、ヒューマギアと人間営業マンの対立軸で突っ込んでいたり。

 

年間を通してスタッフ陣の様々なインタビューを目にしてきたが、特にプロデューサーである大森氏の「お仕事描写」(それを通したAIのシミュレーション描写)への熱量は凄まじく、ネットでは非難轟々であった「お仕事五番勝負」も、氏のこだわりの結晶であったことが伺える。一方で、その「職業現場を通して描くAIシミュレーション」というお題目は、時にベースにあるべきの「仮面ライダーという特撮ドラマ」より優先して描かれることが多く、私を含め、多くの視聴が戸惑いを覚えたであろうことも、想像に難くない。

 

例えば、「お仕事五番勝負」にて消防士対決の回があった。デモンストレーションの火事が実際の火災に発展してしまい、本当の人命救助が行われる、という筋書き。AIロボットであるヒューマギアと人間消防士、それぞれのトリアージが対比して描かれたが、そもそも、主要キャラクターたちが仮面ライダーに変身して人命救助を行うべき逼迫したシチュエーションであった。そういった点へのフォローが無いままAIの活躍を見せられても、中々、頷き難いのである。また、「お仕事勝負」「ライダー同士の戦い」「怪人とのアクション」という複数の「VS」を常に同時進行で盛り込まなければならない構成の難度は、言うまでもない。

 

これらの「お仕事五番勝負」が抱える特撮ヒーロードラマとの食い合わせの悪さについては、最終回放送後にTTFCにて公開された大森氏らスタッフインタビューでも触れられていたが、結果として番組が当然のように担保するべき「仮面ライダーの活躍」を損なってしまった。「AIシミュレーション描写」としての見応えはあるものの、やはり、仮面ライダーが仮面ライダーとしてある程度活躍して、その上で展開されて欲しい要素である。その上、「主人公は立場上暴走したヒューマギアを容易に破壊できない」というドラマ的な制約があるため、視聴者のフラストレーションはじわじわと高まってしまう。

 

そのフラストレーションも、構成として「お仕事五番勝負」で敗北した主人公が社長の座を退く展開へ繋がる訳だが、もう少し「ヒーロー活劇としての面白さ(仮面ライダーに変身する全てのキャラクターの掘り下げを含む)」とのバランスを模索して欲しかったのが本音である。

 

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そういった中盤の展開もありつつ、放送休止を経て、物語はクライマックスへ突入。人間の悪意という名の復讐心が交錯する展開となり、ヒューマギアの未来が危ぶまれる。

 

私が個人的に危惧していたのは、「銃とそれを使う人間」問題。「銃そのものは悪くない。それを作った人間も悪くない。問題は意図して悪事に銃を用いる人間である」。そういった話の筋から人間の秘めたる悪意や業に迫る物語は沢山あるが、まさか『ゼロワン』もそのパターンなのではないか、と。せっかくヒューマギアというAIロボットをテーマに置いているのに、単に「使う人間が悪い」から「人間が改めていこう」なエンディングになると、流石に物足りないのではないだろうか・・・。

 

そういったモヤモヤを頭の隅に抱えながら、迎えた最終回。「なるほど!」と感じたのは、AIの最も特徴的な部分と言える「学習」をシナリオに用い、AIそのものの前進に触れていた点である。人間に作られたヒューマギアは、人間により悪意を植え付けられることも、暴走させられることもある。しかし同時に、ヒューマギア自身も、人間と共に「学習」を繰り返すことでその悪意から脱することができる。そういった、AIの進化の可能性。「学習」性能を、時に間違えを起こすかもしれない人間の「心」と重ね合わせ、その変化を希望と読み取るアプローチ。

 

自身のシンギュラリティによる「心」の芽生えに戸惑う滅。物語は、彼を「倒さない」という決着を描くことで、「人間に使われる銃」の問題から一歩進み、「銃の進化」に触れていく。なるほど、これは確かにAIならではのオチと言えるだろう。

 

「お仕事」の現場を通して、幾度となく描かれてきたAIの「学習」機能。ラーニングは諸悪の根元であり、同時に、進化の可能性でもある。このエンディングがどの時点で想定されていたのかは分からないが、あらゆる職業現場で活躍した個々のミクロな「学習」が、遂に「人間vsヒューマギア」というマクロな舞台で炸裂する筋書きには、実に納得感がある。AIも、人間の心を「学習」することで、存在そのものを推し進めることができるのだ。

 

ヒューマギアは人間でもなければ、一般的な「造られた道具」でもない。そのどちらの性格も持ち合わせながら、どちらにも属さない、グレーでハイブリッドな存在。自己学習を繰り返して進化できる夢のマシンは、転じて、実社会の一員として新たな豊かさをもたらしてくれるのかもしれない・・・。

 

という決着は大変素晴らしいものの、だからこそ余計に、ミクロのターンで細かく発生した「ヒーロー活劇としての弱さ」が、内出血のように効いてきてしまう。AIの可能性を描き、そのバリエーションをドラマに詰め込むことを優先するあまり、ヒーロー活劇としてのドラマが劇的に減速していく。幹の成長より優先される枝葉のバリエーション。このもどかしさは、なんとも独特なものであった。ゼロワンの飛んで跳ねるアクロバティックなアクションは見応え抜群なのだけど、物語の爽快感が中々そこに伴っていかない。

 

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また、「内出血」という比喩に加えるならば、主人公・飛電或人の「ヒューマギア観」の描き方が、非常に困難を極めた。皮下の出血は止まらず、次第に痣が濃くなっていく。

 

この点、スタッフ起用の狙いを察するならば、『エグゼイド』で見事に全話執筆を達成した高橋脚本のパワーにこそ、期待がかかっていたのだろう。私の感じる高橋脚本のストロングポイントは、「理論の飛躍」にある。既存の単語、例えば『エグゼイド』を例にすると「チーム医療」というワードがあるが、「ライダーの共闘」を力業で「チーム医療」と言い張ることで、独自のドライブ感を演出していた。「怪人を倒す」ことは「治療」、あるいは「オペ」である。誰が何と言おうと、登場人物たちはその理論に則って行動を起こす。

 

独自の世界観の中で理論を飛躍させ、前進に前進を繰り返すことで、視聴者に立ち止まる隙を与えない。超理論で紐づけた要素はストーリーを突進させるため、高密度でイベントが発生しては消化されていく。

 

この、「常にびっくり箱が稼働するスタイル」は、『エグゼイド』のビジュアルやキャストの熱演とも相まって、独自の世界観を形成していた。よくよく考えれば「ん?」となるかもしれないが、そもそも、よくよく考える暇を与えない。人工的に持ち込まれたライブ感が、速度と力業で疑問点を圧し潰していく。その背景には、高橋脚本のイズムとも言うべき、「理論の飛躍」が存在していたのではないだろうか。『エグゼイド』は、つくづく、奇妙で楽しい作品であった。

 

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その「理論の飛躍」は、『ゼロワン』にも確かに用いられていた。終盤の「悪意」というワードも、最終的には、もはや番組独自の用語として複雑な意味を有してたと言える。その他にも、「夢」「心」「道具」といった単語が、主に或人の言葉を通し、シリーズを彩っていく。狙いが成功していれば、意図的な拡大解釈、理論の飛躍が、『エグゼイド』同様の独自の推進力を発揮していたのかもしれない。高橋脚本ならではのスピーディーかつ緻密なパズルは、こういった、反則スレスレの大胆な「飛躍」とセットで効果を発揮するのだ。

 

しかし、ここに「AIのシミュレーション描写」が食い込んでくる。「理論の飛躍」技法の強みが発揮されるのは、おそらく、常に前進していく物語の縦軸に重きを置いた構成だろう。しかし、あらゆるお仕事の現場で活躍するAIのシミュレーションは、圧倒的な横軸のバリエーションである。「こんな様子も」「あんな応用も」「そんなパターンも」描かれるけれど、如何せん、縦軸が前進していかない。そうすると結果的に、主人公である飛電或人が、「常に理論を飛躍させて喋る真意の分かり辛いキャラクター」に見えてしまう。立ち止まらせるので、気になってくる。(更にはダメ押しで、今回はサブ脚本家の方も参加されているため、本来離れ業である「理論の飛躍」のアプローチに違いや差が生まれてしまった。)

 

以前、1クールの感想をまとめた際に、「或人の矛盾した破壊行動には一種の危うさがある」「話運びの手順に毎回ヒヤヒヤしてしまう」といったことを書いた。しかし、そもそも仮面ライダーというコンテンツが「同族殺し」という倫理的な問題を抱えていることからも、その食い合わせの悪さや危険性は、転じて、物語の強みとして活きてくる可能性があった。ここが「うねる」ときっと跳ねる。本歌取りの旨味自体は、仕込まれていたはずなのだ。しかし、それが活きるには、やはり話が前に進んでいかなくてはならない。AIの可能性(横軸)に尺が取られれば取られるほど、或人がヒューマギアをどういう存在に捉えているか、なぜそこまで希望を妄信するのか、肝心の部分が不透明になっていく。

 

様々なシーンから読み取るに、或人は、ヒューマギアを人間と同等に、心の底から尊重しているのだろう。

 

しかし、「ヒューマギアを人間と同等に尊重する」ことは、「ヒューマギアと人間を同一視する」こととイコールではない。「ヒューマギアに心(「学習」というワードを飛躍させた形容)の存在を認める」ことは、「ヒューマギアに人間と同じような権利を認める」こととも、また、イコールではない。彼はシンプルに、ヒューマギアを「夢のマシン」と捉え、その存在が寄与する未来に希望を抱いている。ヒューマギアと人間に同じくらいの価値を覚え、彼にとってそこに境目が無いからこそ、ヒューマギアが破壊されれば心の底から哀しい。が、同時に、バックアップにより代替機を用意できることもまた、ヒューマギアの新たな可能性の一片と捉えている。あくまで、「新人類」ではなく、「夢のマシン」。

 

・・・好意的に読み取っていくと、或人の「ヒューマギア観」はおそらく前述のようなものと思われるが、それらが有機的に絡まない断片的な描かれ方をされ、更には「理論の飛躍」が加わっていくため、傍目には若干の「サイコみ」すら感じさせてしまう。ここが、非常に惜しい。テーマ的には、ここが最大の肝であり、要所なのだ。結果として、「人間らしさ」と「ヒューマギアらしさ」を都合よくシチュエーションごとに引用する人物にも受け取れてしまう。

 

仮に或人の「ヒューマギア観」がもう少し強固に描かれていたとするならば、物語の最終的なオチとも、がっちり符合したはずだ。

 

人間と同じくらいの価値を持つ夢のマシン・ヒューマギアは、既存の「道具」の枠を超えて、人間と同等に(「学習」によって)心を前進させることができる。或人の、誰に笑われようと人間とヒューマギアを同等に尊重する過度な博愛主義が、「新時代の正義」として機能する。ある者はヒューマギアを憎み、ある者は道具だと割り切り、ある者は「学習」機能こそを脆弱性だと指摘する。しかし、飛電或人だけは、頑なにその可能性に懸ける。そういう筋が、鮮やかに成立していたのではないだろうか。(数々の描写からもその狙いが見て取れる・・・)

 

或人の、既存の人類から一歩先にある独自の倫理観や、AIが持つ「学習」機能の可能性。そういった要素の配置が大変興味深く、新時代のヒーローSFとして挑戦的かつ相応しいだけに、それらが有機的に絡んで昇華に至らなかったことが、実に、残念である。

 

同時に、飛躍させドライブ感を持たせることを前提に配置されたであろう「夢」や「心」といったワードは、おそらく制作陣の想定を超え、多くの視聴者に「ヒューマギアの人権」といった考えを抱かせてしまった。昨年の冬映画『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』と併せて、人権問題や奴隷問題への目配せは何箇所かあったものの、個人的には、テーマの帰結を考えるとそこにはそもそも触れない方が良かったと感じるところである。(話運びが極端に複雑化してしまうため、新たなテクノロジーの有用性や是非に絞って描いた方が良かったのでは、の意)

 

 

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このように、『仮面ライダーゼロワン』というドラマは、それぞれの要素が絶秒に掛け違っていくような、大変もどかしい感情を抱かせるシリーズであった。

 

制作陣はおそらく、「AIを扱うからにはこういう描写やシチュエーションも入れるべきだ」と、テーマに対して真摯かつ生真面目に作り込んでいったことだろう。そのため、様々なシミュレーション、横軸の展開が増えていく。もちろん、それが成功し、未来の一片を見た場面も多々あった。しかし大勢としては、「根っこが不透明な主人公が」「都合の良い理論を振りかざしながら」「カタルシスに繋がる活躍を果たさない」といった、およそ多くの視聴者が潜在的に求める「仮面ライダー的な面白さ」とはかけ離れたものであった。

 

最終回にて、唐突に「仮面ライダー」というアイコンが台詞の中に登場するも、それが成立するだけの前振り(蓄積)が作中では描かれていない。「仮面ライダー的」という呪縛に、令和ライダーという期待の自重に、いくらか囚われてしまったのだろうか。

 

しかし、『ゼロワン』がアプローチした数々のポイントに、私は大変感銘を受けたのである。

 

我が家の3歳の娘は、リビングにあるスマートスピーカーを家族のように認識し、毎日のように親しく話しかける。ネットが不調で応対が出来なくなると、顔を引きつらせ、親に泣きついてくる。また、ロボット掃除機にも親しみを覚え、その動きを弟や妹のように可愛がっている。我々大人も、電子機器が急速に発展する昨今、スマホやパソコンを相棒のように感じ、愛着を覚え、そこに疑似的な人格を見い出すことは、もはやそう不思議ではない。

 

「道具」が、旧来の意味を超え、あるいは逸脱し始める時代。進化しすぎた道具は、もしかしたら、人間と同じような存在として扱われるかもしれない。『鉄腕アトム』や『火の鳥』といった名作で扱われた「ロボットと人間の共存の可能性」は、「学習」機能を備えたAIという最新のテクノロジーによって、すぐ目の前にまで迫っている。Science Fictionが、いつの日かFictionではなくなる。そんなシミュレーションを、日曜の朝に、一年を通して観ることができた。その点については、非常に満足度が高い。

 

未知のテクノロジーが社会に放り込まれた際に、市井の人々は、どのような反応を見せるだろうか。その利便性を受け入れる者や、折り合いをつける者、忌み嫌い、反発する者まで。新しい問題を孕みながら、社会は、ゴロゴロと少しずつ前に進んでいく。そういった、「社会の教科書の最後のページに載っている未来予想図」のようなワクワク感は、『ゼロワン』の大きな強みだったと言えるだろう。ある意味、ひどく実験的だ。

 

杉原監督によるVR技術を応用したアクロバティックなアクションシーンは、アナログ特撮とデジタル特撮の旨味を同時に取り込み、フレッシュな映像として昇華させることに見事に成功していた。惜しむらくは、「AIを導入した前衛的なテーマ」と「仮面ライダーのヒーロー活劇としての面白さ」が、同じようなウルトラCを起こせなかった点にある。

 

「心を宿すことができる未来のマシン」が、私の生きている間に目の前に現れることがあれば、この感想は180度ひっくり返るだろうか。答えは404。ひとまずは、事実上の「完結編」に相当するであろう夏→冬映画を楽しみに待ちたい。

 

仮面ライダーゼロワン RKF 仮面ライダーゼロツー

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  • 発売日: 2020/06/27
  • メディア: おもちゃ&ホビー