ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

「なにも分かっちゃいない上司」になりたくなくて

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「上は何も分かっちゃいない!」という、嘆き。とっても身に覚えがある。この場合の「上」は、社長やら役員やら経営陣やら色んな意味があるけれど、本記事では最もダイレクトに相対するであろう「上司」に読み替えるものとする。

 

特に20代の頃、私も「上は何も分かっちゃいない!」が割と口癖だった。年の近い同僚と飲みに行くとほぼ確実にこれを言っていたと思う。「今すぐにこれに取り組まないとヤバいって!」「こんな方法じゃ利益を回収できるはずがない」「どうしてみすみす商機を逃すような真似をするのか」「そんなことをしたら下(一般従業員)のモチベーションは下がる一方なのに……」。などと、具体例は枚挙にいとまがない。

 

しかし、期せずして、及び年齢もあってか、今や自分がその「上司」になってしまった。複数人の部下がいる日常を過ごし、他部署の「上司」と肩を並べ、会社全体の指針に意見できる立場になってしまった。そうなると、今度は言われる側だ。「上は何も分かっちゃいない!」。きっと、定期的に言われているだろう。私のあずかり知らぬところで。

 

「言っていた者」出身としては、そりゃあ、まあ、言われないようにしたい訳である。どうやったら「分かってくれている上司」になれるか。下からの理解を得られるのか。アーデモナイ、コーデモナイ、失敗を繰り返し、上司を務めること数年。なんとなく肌感覚で分かってきたことがある。それは、「分かってくれている上司」なんてものは一義に幻想である、ということだ。

 

「なんであんぱんを作って売らないんですか!毎日やってくるお客さんは口をそろえてあんぱんを売ってくれと言っていますよ!」

「いや、あんぱんは作れないんだ。小豆が高騰していて、費用対効果が悪いから」

「あんぱん単体を見て赤字だったとしても、それが呼び水になって他のパンも売れますって!需要があるのは明らかじゃないですか!」

「いや、そうは言うけどね……」

「くっそ~!アンタは何も分かっちゃいない!」

 

これ、どちらも正しいのである。

 

部下は常日頃お客さんとダイレクトに接していて、客のニーズを生の声で聴いている。あんぱんが欲しいという客がそれなりに居るのも本当だし、それが商機に繋がるのも本当だろう。一方の上司は、おそらく部下に見えていないものが見えている。上司の更に上司、例えば社長は、数字に極端に細かくて些細な博打にも首を縦に振らないタイプだと識っているのかもしれない。小豆が今後数年にわたって高騰し続けると食品卸の営業に教えてもらっているのかもしれない。または、今の従業員数やリソースでは単純に品数を増やせないと認識しているのかもしれないし、あんぱんを作って大損した同業他社のケースを踏まえているのかもしれない。

 

もちろん、全ては今考えて書いたテキトーな例えである。これを読んでいる貴方がパン職人だったら鼻で笑って見逃してください。要は、部下と上司では見えているモノも視野も異なる、ということを言いたかった。

 

実際に「上司」という生き物になって生活をしてみると、思っていた以上に他部署とのしがらみを感じ取れるし、限られたリソースが見渡せるようになったし、会社の中長期的なロードマップを理屈&肌感で知れるようになった。そうなると、「同じ視座の同僚&客のみと関わる」生き物である「部下」とは、やっぱり考え方が変わってくる。物の見え方が変わってくる。なんでこんな簡単なことがクリアできないのか、と感じていたことが、実は奥底に複雑な機構を抱えていたりする。なるほど、こうなっていたのか。だからそういう判断ができなかったのか。それを、理屈で、肌感で、身をもって体感していく日々。

 

そうなると、部下の要望に応えられない局面が訪れる。当然である。「君はそうは言うけれど、会社は今そっちを向いていない」「君やその周りだけの利益を優先することはできない」「君には見えていないリスクがそこには存在するのだよ」。そういった文言が頭の中を駆け巡る。

 

ああ、自分が「部下」だった頃は、なんて狭い範囲で物事を見ていたのだろう。アレも知らないのに、コレも見ちゃいないのに、なんで全部を分かったような偉そうな口を叩いていたのだろう。過去を反省しながら、部下の要望を折る。それを時に断行しなければならないのが「上司」という生き物であった。

 

これは、「部下」が無知で一面的ということ、「上司」がしがらみに囚われているということ、そのどちらでもあってどちらでもない。決して、良し悪しではない。繰り返し、何度でも書くが、良い・悪いの話だとは思っていない。「部下」が自分のデスク周りのことしか目に入らないのは当然だし、「上司」がフロア全体を捉えて個々のデスクに構っている場合じゃないのも当然である。それぞれ、そういう視座を求められているポジションであるからして、当たり前の差異なのだ。だから、「分かってくれている上司」なんて幻想である。「上司」は、君のデスクだけを隅から隅まで注視して気を遣ってくれる、そんな生き物ではないのだ。

 

しかし。それでも。「分かってくれている上司」になりたい。「分かってくれている上司」で在りたい。私が出した結論は、とにかく対話を欠かさないこと、コミュニケーションを取ることだった。とってもシンプルで、ありきたりで、つまらない答えだとは思う。しかし、それ以外にやりようは無い。

 

「納得は全てに優先する」。過去にも何度かブログに書いているが、このジャイロ・ツェペリの言葉は私の人生の格言だ。自分自身においてもそうだが、この場合、「部下」に納得をもたらせる「上司」で在りたい、という意味でもある。結論が白でも、黒でも、究極それはどちらでも良い。叶っても、諦めても、どちらでも良い。そこに納得が伴っていれば、人は前に進むことができる。あんぱんを売るとか売らないとか、それは実は重要ではない。本質は、「上司」がその視座でもって「あんぱんを作らない」という判断を下したのであれば、「部下」がそこに納得を感じられるか。ここである。これは難しい。自分の要望とは異なる判断に納得だなんて、簡単ではない。

 

その為にはどうすれば良いのか。もし、「上司」が「あんぱんを作らない」という判断に至った思考回路を「部下」が自然とトレースできたら、そこに納得が生まれるのではないか。「そうですよね」と、共感が納得を生むのではないか。そこに至るためには、「上司」は常に自身が持っている情報を折を見て「部下」に公開し、そこへの私見を折を見て語り、「部下」のリアクションを次の私見に取り込み続ける。これを、ずっとやる。やり続ける。それによって、トレースがちょっとでも発生するのではなかろうか。

 

コミュニケーションである。対話である。このパンの品数が適当なのか、仕入れと利益の兼ね合いはどの程度なのか、このパン屋は中長期的にどこに向かっているのか、そしてその全ての事実に「上司」である私はどう感じているのか。それを常に公開し、曝け出し、その上で「部下」の声を聴く。なるほど、その感じ方は分かる。その思いも分かる。しかし自分はこう考えるし、ああ言う人もいるんだよ。全体はこっちを向いているんだよ。難しいね。でもやれることはある。一緒にやろう。……そういった対話を、なんでもない合間にやる。しょうもない雑談でも良いし、しっかりした会議の場でも良いし、飲みの席でウザくない程度でも良い。

 

信頼される上司、というより。頼りがいのある上司、というより。「何を考えて仕事をしているのか分かる上司」で、ありたい。

 

そして、「部下」に全てを公開し続けるということは、その「上司」自身が清廉潔白でなければならないということだ。仕事に意欲的で、熱心で、想いがあって、時にハードに、時にソフトに、後ろめたさの無い働き方をしなくてはならない。指示は的確で、結果を出し、期限や時間を守り、社会人としての節度を持っている。そうでなくては全てを曝け出すことなんて出来やしない。そう思い至ってからは、部下と濃淡様々なコミュニケーションを取りながら、襟を正し続ける日々を送っている。率先垂範。

 

終わりに。「経営者視点を持て」というフレーズがある。

 

インターネットではよく「経営者視点は経営者が持つものだろ。下にまでそれを強要するな」という声が上がり、賛同を集める。まあ、分かる。その通りだとも思う。一方で、私が目指している「上司」像は、部下に上司視点を持たせられる上司、と言えるのかもしれない。そう考えると、なるほど「経営者視点を持て」が言うことも分からないでもない。大切なのは納得だ。一に納得、二に納得、三四に納得、五に納得。「部下」に上司視点を持たせた上で自身の仕事を降ろしたいとか、そういうことじゃない。「上司」の判断に納得できる、その思考の準備、素材、材料をひとつでも多く持っていて欲しい。もちろんこれは、なんでもオレに賛同しろという意味ではないし、オレ色に染めあげろ!ルーブ!って意味でもない。必要な喧嘩は必要な喧嘩だ。視座が違うからこそ多様な意見が生まれるし、建設的な喧嘩はむしろ望ましい。

 

要は、「部下」が納得の確度を少しでも高められるような材料を、常日頃から提供し続けることが、「上司」である自分の役割なのではないか。そう考えているのである。

 

はてさて。。この思考の答え合わせは、私が更なる「上司」になれることが出来たその時に訪れるのであろう。精進あるのみである。