ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

リハビリ随想録(息子、育児、仕事、時間、人間)

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久しぶりにブログの編集画面を開きました。どうもお久しぶりです。昨年11月に『ゴジラ-1.0』の感想を書いて以来、ブログを更新できていませんでした。書かねばならぬ題材が山程あるのに……。すみません。

 

TwitterもといXでは引き続き駄文を撒き散らしているのでいわゆる「生存報告」はクリアしていると思われますが、というか、こういう事案を「生存報告」って形容するのもなんだかインターネット死語になりつつあります!? などと、日々衰えを感じ始める今日この頃。

 

リハビリを兼ねて、今日から3日間、とりとめのない随想録を書きます。

 

まずもって言い訳じみたテーマになるのですが、本当に人生が忙しくなってきました。「自分の裁量で自由に使える時間」という物差しでいくと、過去最高に過去最忙です。そういえばブログでは報告できていなかったかもしれませんが、昨年息子が生まれました。これにより、今は二児の父をやっています。娘は早くも小学生。育児の内容も随分と様変わりし、下の子は言うまでもなく0歳なので無限に手がかかり、上の子は小学校の宿題やら習い事やら盛り沢山。たった数年の間に「育児のスタンダード」がちょっと変わっていて、上の子の時の経験が言うほど頼りにならなかったり、かと思えば当時は無かった新たな育児アイテムに感銘を受けたり、そんな日々を送っています。

 

 

0歳児は「基本的に親の思い通りにいかない」ということさえ覚悟できていれば夫婦2人のマンパワーで当たれるのですが、小学生の娘との時間は「量より質」にシフト。宿題を一緒に問いて、マルつけをして、音読を聞いて……。習い事もいくつかやっているので、その練習や準備も見る必要がある。または、小学校の友達との些細な喧嘩や悩みもあったりするので、それをじっくり腰を据えて聴いたりも。下の子にどうしても手がかかってしまうのだけど、そっちだけに気を向けると上の子が寂しそうな顔を覗かせる。親としての試練を感じつつ、夫婦でひとつひとつ状況を転がしている。

 

少なくとも、育児経験が「n=1」から「n=2」になって感じるのは、インターネットの誰かが尤もらしく述べる育児論なんて半分くらい嘘っぱちだろうな、って事。生き物として個体差がありすぎる。あてにならない。手元のデジタル板より子供の目を凝視する方がよっぽどあてになる。

 

他方で、仕事も忙しくなってきた。こちらも「量より質」、と言いたいところだが、アラフォーを見据えて幸か不幸かそれなりの立場で仕事させてもらっているので、「量がまあまあ増えて質はめっちゃ増える」が絶賛進行中である。

 

前線や末端で働くのがいかに気が楽だったか痛感してばかり。上の判断を伺って下に判断を降ろす。そこには自分の裁量やテクニックが存在するし、自分が納得していないものを部下に降ろす訳にはいかない。そして、会社が良くなるために、それを通してもっと社会に貢献できるようにするためには、皆が見て見ぬ振りしてきたアレをやらなきゃいけないし、ソレにも踏み出す必要がある。そうやって、自ら半ば義憤に駆られるようにアレやソレに手を染めて仕事を増やしてしまっているきらいはあるが、与えられたことだけやってハイ終わりは私が最も嫌うところだ。自惚れと言われても構わない、私は今の給料分だけの仕事はしているし、何ならもっと貰ったっていい。そう断言し続けられるだけの仕事をしたい。

 

出社から退勤まで原則8時間。それだけの時間をほぼ毎日過ごすのだから、仕事が充実してなきゃ嘘だろって、ここ最近は特に強く感じている。責任が増えた分、裁量も増えた。自分が会社の舵取りや発展に寄与できるケースが多くなってきたので、実にやり甲斐がある。インターネットには「働く理由なんて金をもらうためだ」という声が多く、別にそういう人を否定する気はさらさら無いが、私はせっかく日に8時間も過ごすのだから仕事は楽しく充実してなきゃ嫌なのだ。仕事を楽しく面白くする、funnyではなくinterestingに仕事をすることにおいて、命をかけていると言ってもいい。

 

そんなこんな姿勢で仕事をしていたら、本当に忙しくなってきた。時間が圧迫されてきた。ただ、マイナスのニュアンスで逼迫している感じではなく、やった分だけの結果は出せているので、好循環で忙しくなっている感じ。まあ、ほどほどに。体を壊さず。家族に迷惑をかけない範囲で。これからもシャカリキに仕事をしていきたい。

 

といった感じで、育児がネクストステージに突入し、仕事も今が沸かしどころなターンなので、「自分の裁量で自由に使える時間」、いわゆる趣味の時間は圧倒的に萎んでいる。一介のオタクとして心苦しくはあるが、仕方がない。オタクである前に、家庭人で社会人なのだ。その順序が逆転する人間にはなりたくない。もう少し、この「盛り」な波を乗りこなせるようになれば、時間確保も上手くなるのかな、とぼんやり思っている。

 

閑話休題。つまりブログが書けていない背景の話である。なにか特段のアクシデントがあった訳でも何でもなく、家庭に仕事に邁進してしまっていました、というツマラナイ話。

 

それと引き換えか、最近は「人間」というものに興味が湧いてきた。そんな気がする。上手く言葉にできないが……。別に「俺はこれまで他人に興味がなかった(キリッ」みたいな面倒なことを言うつもりは無くて。

 

なんというか、家族が4人になり、仕事は今の会社に可能なら勤め上げたいし、家も好きに建てたし、車も欲しかったものを買ったし。そうやって人生の「可能性」が瞬く間に「確定」してきて、もう自分に「可能性」がほとんど残っていない状況になってきた。あるのは、今ある「確定」をひとつひとつ極力最善の形で維持・成長させること。少なくとも一義に、人生の汎用性はほとんど無くなってきた。だからこそなのか。最近は「人間」に興味が湧いてきた。それは自分自身のことでもあるし、家族でも、上司でも部下でも、よく行く飲み屋の店員さんでも、ジムで毎日すれ違う他人でもいい。自分の人生が「確定」し、相対的に狭まったことで、興味の矢印が横から縦に向いてきたのだ。正確には、深く掘る方向に。そっちに汎用性や伸びしろを求め始めているのかもしれない。月並みだけど、「人間」がどうして様々な判断に至るのか、個の思考に裏打ちされたその人の半生や生き方、それを回す社会システムである政治や経済、今ここにある土地の歴史など、以前より確実に、識りたいし理解したいと考えるようになった。ジムに通って筋トレをするのも、言うなればその一環である。自分とその化身である人体(とその可能性)を識りたい。

 

「人間」って、どんな映画や漫画や小説より、エンターテインメントとして奥深いではないか。そんな当たり前すぎることを、この年になって肌感で覚え始めている。遅いくらいか。

 

明日は、最近観たり聴いたりしているものについて書きたい。

 

(▼ 最後に、最近読んだ本)