ジゴワットレポート

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『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』という非妥協的な詰将棋、あるいは「続編を制作する意義」について

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続編、それも本編終了から時が経った続編ほど、「それを制作する意義」に真摯に向き合って欲しいと、そう願うばかりである。

 

どうして世の続編は制作されるのか。商業作品である以上、「売れる見込みがあるから」という予実管理があるのは当然として、私の願いはその一歩先にある。つまり、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」という一点において、めちゃくちゃ深く掘り下げた末の答えを用意して欲しいのだ。その答えでもって、「売れる見込みがあるから」という “大人の事情” に迷彩を施して欲しい。

 

「売れるから作りました」なんて台詞は、例え両者(作り手と受け手)が重々に分かっていたとしても、腹の底に抱いたまま墓場まで持って行ってはくれないか。たとえ嘘でも、「この『答え』を打ち出したいから作りました」と、そう言い切ってはくれないか。

 

だからこそ、用意された「答え」が薄く、腹の底の台詞が透けて見えてしまう続編が、私は大嫌いなのである。寝た子を起こしてまで縮小再生産に着地させた某スペースオペラなど、その典型と言えよう。作品のメッセージは自分と相容れないが、玩具が自立行動する某ストーリー4作目の方が、よっぽど好感が持てる。これにはこれの、濃い「答え」があったのだから。

 

 

という前提を踏まえて、『仮面ライダーオーズ』の続編である。

 

率直に言うと、私は「色々あってアンクが復活して映司と比奈と手を取り合ってクスクシエで仲良く暮らしましたとさ」という「答え」だったとしたら、怒り心頭で劇場を後にしていたことだろう。それこそ、典型的な「腹の底の台詞が透けて見えてしまう続編」だ。そんなものを絶対に観せてくれるなよ、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」にしっかり向き合ってくれよと、祈る気持ちで公開日朝イチの劇場に向かった。

 

以上が「前提その1」。続いて、「前提その2」である。

 

『仮面ライダーオーズ』とは、一言では形容しがたい作品だ。それは、異なるテイストがひとつのパッケージに詰め込まれているから。今風の表現でいうなら、それは「ハード」と「エモ」だろう。

 

もちろん、作品個々の性格が細かく異なるのは承知の上で、平成仮面ライダーというブランドは前期十年が「ハード」寄り、後期十年が「エモ」寄りのような、ざっくりとそういったグラデーションを有すると感じている(とはいえこれは仮面ライダーに限った話ではなく創作全般の変遷かとも考える)。『オーズ』はその折り返し地点に位置するからか、「ハード」かと思いきや予想しないタイミングで「エモ」が顔を出し、あるいはびっくりする角度や手触りでその両者が交わったり離れたりする。そんなハラハラ・ドキドキ感が唯一無二の魅力であり、実は平成ライダーでは最も「模倣し難い」温度であったと思う。

 

 

今でも覚えている、2011年8月28日。TVシリーズ本編最終回「明日のメダルとパンツと掴む腕」。

 

エンドロールに入る直前まで、「この作品は綺麗に終われるのだろうか」とハラハラしながら鑑賞していた。あまりにも最終回に課された「TO DO」が多く、それは作劇のギミックも、作品のテーマも、キャラクターの着地も、素人目に見ても難解なパズルだった。が、蓋を開けてみると、それらは狂気を感じさせるほどに綺麗にまとまっていたのだ。最終回にここまで舌を巻いた経験もそうない。返す返す、素晴らしい幕引きであった。

 

この最終回は、同作がずっと(あえて)アンバランスに動かしてきた「ハード」と「エモ」の両要素が、まさかのドッキングを果たしたのが大きい。映司とアンクというあくまで利害関係のコンビが(ハード)、あの瞬間のタジャドル変身を実現させる(エモ)。有機的に絡み合った両要素がテーマ性を高らかに謳う。どちらかに寄り過ぎない、偏らない、どちらもあるから素晴らしい。強欲な両取り。ここに強い感銘を受けたのだ。

 

 

だからこそ、その後の10年間の展開に、私は心からはノれていなかった。

 

特に、『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL』。そこにあったのは、濃縮「エモ」で固められた『オーズ』。いや、分かる。確かにそれは『オーズ』の味だ。でも、それだけで形作ってしまうのは、少し違うのではないだろうか。『仮面ライダージオウ』EP09~10。赤い羽根を胸につけた映司。うん、確かに「エモ」い。それはそう、間違いなく『オーズ』だ。だがしかし、それだけではなかったはずだ。

 

 

その他諸々、端まで含めればあらゆるグッズ展開に至るまで、『オーズ』というコンテンツはそう書いて「エモ」と読むにまで膨れ上がっていった。そうして、私が感動した『オーズ』のバランス、感銘を受けたあの狂気の両取りは、ゆるやかに崩れていった。このまま自分は『オーズ』に対し、薄い蓋を被せた感情のまま付き合っていくのだと、ぼんやりそう感じていた。

 

以上、いつものように長い長い前置きである。以下、『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』のネタバレを記しつつ感想を残す。

 

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訪れたのは、主人公・火野映司の死。

 

間違いなくショッキングな展開だが、確かにこれは、なるべくしてなったのだろう。それは、「映司ならあの時こうしただろう」といったキャラクターの動静より、『オーズ』という作品の構造、それを受けての「続編を制作する意義」に思いを馳せれば、ストンと腹に落ちるものであった。ここまで「納得」の二文字が脳裏によぎる劇場体験も、かなり久々である。

 

例えるなら、詰将棋。すぐに感じたのはそれであった。将棋のルールを用いたパズルで、用意された出題に対し、どう駒を動かせば王将を詰めることができるか頭を悩ませる。『復活のコアメダル』は、非妥協的な詰将棋の末に弾き出された物語なのだろう。鑑賞後にパンフレットを熟読すると、その有り様がひしひしと伝わってくる。いちから盤面を彩る作り方ではなく、出題に挑み王将を詰める作り方。

 

そしてその出題こそが、あの『仮面ライダーオーズ』最終回、「明日のメダルとパンツと掴む腕」なのだ。完全無欠に思えるこの最終回を問いとして、どう答えを出すか。ここをクリアしなければ、「続編を制作する意義」には辿り着けない。制作スタッフの皆さんは、きっとそのような構えで臨まれたのだろう。

 

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▲ 来る日も来る日も読み返したパンフレット。ここまでシビアな証言集もそうあるまい。

 

まずもって。「色々あってアンクが復活して映司と比奈と手を取り合ってクスクシエで仲良く暮らしましたとさ」は、あり得ない。その可能性はそもそも出題に無いのだ。本編最終回、映司はアンクを失い、その後旅に出る。この大きな喪失をもって物語が閉じている以上、続編でその喪失を無かったことにはできない。それをしてしまっては、偉大なる本編最終回に泥を塗ることになるからだ。決して、皆が仲良く大団円はあってはならない。未来永劫、「結局この10年後にアンクは戻ってきて皆と再会するんだって」などと、誰にも容易く言わせてはいけない。本編最終回の絶妙な尊さは、そのままそこに在ってもらわなくては。

 

しかし。「仮面ライダーオーズの続編」という枠組みにおいて、アンクが登場しないことはあり得ない。『オーズ』には様々なトピックがあるが、やはり映司とアンクのあの独特のコンビが大きな魅力だ。彼らが交わって、コミュニケーションを取る必要がある。でも、アンクの喪失は本編が掲げた重要なエッセンスだ。それを蔑ろにせずに、しかしアンクを出す。この矛盾した出題に答えを用意しなくてはならない。さて、アンクが戻ってくるに見合う代償(=物語の位置エネルギー)とは何か。

 

最後に。「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」を見つめ直した際に、大きく立ちふさがるのは「あまりに高い完成度を誇る本編最終回」だ。これに何を付け足せるだろうか。下手なことをしては蛇足である。しかし、制作するのだ。あの完全無欠にも思える最終回に、「その後」を用意するのだ。最終回を伏して拝み、祈りながら、それでも「その後」を描く。であるならば、残された手(あるいは許される選択肢)は、ひとつしかない。そう、「最終回のリプライズ」である。最終回をもう一度、違う方向から再演する。それが敬意を込めた返球、そして10年越しの円環になり得るのではないか。こうすれば、付け足す意義のある中身になるのではないか。

 

察するに、このような理屈で駒が動き、そして弾き出された「詰め」が、『復活のコアメダル』なのだろう。本編最終回のリプライズをベースに、映司とアンクのふたりを描き、喪失で幕を引く。となるとこれはもう、主人公・火野映司の死を描く他にない。それ以外の選択肢をやろうと思ったら、それは、出題への反抗になってしまう。それはいけない。『オーズ』は素晴らしい。あの本編最終回は尊い。だからこそ、この「詰め」に収斂する。

 

ここまで生真面目に、硬派に、馬鹿正直に、真摯に、本編それ自体と向き合った続編を、私はあまり知らない。

 

描かれた内容以前に、このコンテンツにこの構成の物語がお出しされたことに、強く圧倒されてしまったのだ。なんてことだ、と。『仮面ライダーオーズ』の続編として、これ以上の「答え」は無いではないか。あまりに濃いそれは、「売れるから作りました」なんていう台詞をまるで無かったことにするほど、強靭な精神性に満ちていた。良かった。本当に良かった。この作品に関わった方々は、『仮面ライダーオーズ』という作品を、心の底から愛し、崇め、尊重したのだと。何よりもその姿勢を銀幕から感じ取れたことが、嬉しかった。

 

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余談として。私の半身を作った作品に『鋼の錬金術師』があるが、この物語のラスト、構成が非常に美しいのである。

 

「兄が自身を犠牲に弟を蘇生させた」ことから始まった物語、その果てのギリギリの局面で、「弟は自身を犠牲に兄に勝利を贈る」。かと思えば今度は、「兄が自身を犠牲に弟をまたもや蘇生させる」。その犠牲の対象は、腕か、魂か、錬金術か。その変遷を含め、「互いに犠牲を持ち合う魂のラリー」的な構成が、今思い返しても実に感慨深い。(2003年版、水島精二監督のアニメ『鋼の錬金術師』は、原作最終回の原案を早期に教えてもらい、それを基にオリジナルの最終回を組み立てたという。「魂のラリー」構造がまさにそれだったと後にして気づいた時は、えらく感動したものだ)

 

 

『復活のコアメダル』を鑑賞して一番に頭に浮かんだのは、この『鋼の錬金術師』であった。アンクが10年前に、そして今回は映司が、犠牲をもって魂のラリーを行う。これだけが唯一、あの見事な本編最終回へ「付け足すことが許される」お話。そのような思惑があったのではなかろうか。

 

とはいえ。あの本編最終回は、TVシリーズ1年分の結末として組み上がったものである。グリードが復活し、メダル争奪戦が行われ、バースも参戦し、完全復活や紫のコアメダルという要素を経て、やっとこさ辿りついたクライマックス。舞台装置と危機的状況が積みに積みに積み上がった最後に、あの展開がある。

 

『復活のコアメダル』は、どうしても本編最終回をリプライズしたい。しかし、1年分のTVシリーズは、当然ように描けない。これはVシネマ枠、与えられた条件は正味60分。だからこそ、すでに本編に撒かれていた設定を叩き起こし、疑似的に「TVシリーズ1年分」を蓄積する他ない。

 

そうして、特に深く描かれることなく古代オーズが復活する。鴻上会長は性懲りもなく人災として人造コアメダルを用意する。グリードらも復活して対人間との総力戦が始まる。世界は逃れようもなく破滅に向かっていく。本編最終回がそうであったように、ギリギリの決断をしなければならない舞台装置を用意する。「TVシリーズ1年分」の蓄積を、設定とあらすじでまかない、そうした上で本編最終回を再演する。

 

映司という人間の欲望を描いた末に、あの本編最終回があった。であれば、ゴーダという新しいグリードを登場させ、「全てを救いたい」映司の欲望を「全てを我が手にしたい」野望に読み替え、敵に位置付ける。少女を救えなかった映司のトラウマも重要なトピックなので、先の「喪失」に絡めて描き直す必要があるだろう。1年分の蓄積を背負う形で、しかし当然のように尺や扱いに無理が出でもそれでも、古代オーズやグリードを処理していく。舞台を追い込み、選択肢を殺し、外堀を埋め、「本編最終回と同じ決断」しか残されていない局面まで、力業で持っていく。

 

確かに、性急であった。どう見ても綺麗ではない。そういうやり方しかなかったのであればやるべきではないと、そう感じた人もいるだろう。しかし私は、そうまでして「本編最終回を尊ぶ」ことを妥協しなかったその強引さに、拍手を贈りたいのだ。あまりにも、真面目が過ぎる。しかしそんな真面目さを抜きに、『オーズ』の続編なんて手掛けて欲しくはない。

 

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向かうは、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」。そして、「続編を制作する意義」。

 

私の解釈においては、この作品をもって『オーズ』がやっと2011年8月28日のあの地点に戻った、10年分の「エモ」とバランスを取るようにそれ相応の「ハード」を提供したのだと、そう理解している。これでやっと、『オーズ』は「戻った」。「ハード」と「エモ」を両取りする、あの美しい最終回に、「戻った」のだ。10年分の「ハード」を経過措置なしで一気にやるのだから、それはもう、強烈である。こんなことをしては悲鳴が上がると、制作陣の誰もが確実に承知していたはずである。それでも、やった。そこに強い賞賛を贈りたいのだ。

 

私は嬉しい。これでやっと、『仮面ライダーオーズ』という作品と正面から向き合える。10年分の「エモ」と、60分の「ハード」。これらが同じ重さで存在して、ようやく『仮面ライダーオーズ』として成立するのだと。そういった、構造上の出題&解答において、この上なく解釈一致であったのだ。

 

本当にありがとう。劇場公開から約一ヶ月、頭の中で素人なりに何度も何度も何度もこの詰将棋を解いてみたが、私も、この「詰み」が唯一無二の「答え」だと思う。

 

締めとして。少し違う話を・・・。

 

仮面ライダーに限らず、特撮作品に出演した俳優や女優がその後も幾度となくレジェンド出演することに関して、実は私は、心の底から熱くなれたことの方が少ない。願わくば、特撮出演の経験を糧に役者として一般ドラマや映画にどんどん出て欲しい。振り返るのは本当にごくたまに、スケジュールと事務所の意向が奇跡的に合致した時で構わない。どうしてもそういった心境があるのだ。なんなら、普段はライダーや戦隊なんて話題にしてくれなくて良い、とまで思う時がある。とはいえ、出てくれたらそれはそれで嬉しい。間違いなく嬉しい。ひどく我儘で、面倒臭くて、アンビバレントな心理である。そんな自分がクソほど嫌なオタクだと、分かっていてこれを書いている。

 

だからこそだろうか。『復活のコアメダル』のパンフレットで、つい、うるっときてしまったのは、主演・渡部秀氏のインタビュー、その締めの言葉だ。

 

僕自身は変わらず仮面ライダーのことが好きですが、ここが僕ら『オーズ』のキャストにとっては、ひとつの分岐点になると思っています。これから先、僕らが立つ新しいステージにも注目していただければ、うれしいです。

・東映ビデオ発行『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』パンフレット P13

 

求められればいつだって帰ってきます。僕はずっとヒーローです。そういった分かりやすい言葉ではない、ある種の決意表明。さらっと書かれているが、形容しがたい力強さを感じてしまうのだ。同作を「葬式」だと評する声は多いが、私の感覚では、これは「壮行式」だ。座長・渡部秀氏をはじめとする、『オーズ』に関わられたキャストやスタッフの「壮行式」。

 

覚悟を持って、『仮面ライダーオーズ』にケリをつける。火野映司という人間を、もう他の誰にも下手に触らせない。その姿勢こそが、この上なく「意義」まみれであった。

 

大団円じゃなくて、ありがとう。