ジゴワットレポート

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感想『ゴジラ-1.0』 山崎貴監督が語る「ゴジラとはなにか」。東宝の映画スター、その価値が最大化される銀幕にて

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『シン・ゴジラ』から7年である。

 

加齢に従い「もう7年?」と驚きつつ、ゴジラというコンテンツにおいては「まだ7年?」というリアクションが発生する。このたった7年間で、ゴジラに対するスタンスや気構えのようなものは、随分と変化した印象を受けるからだ。

 

2004年の『ゴジラ FINAL WARS』で一旦のシリーズ終了を宣言したゴジラシリーズは、2014年のギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA』で銀幕に復活する運びとなった。奇しくも国産巨大特撮は冬の時代に突入しており、ゴジラを始めとする怪獣映画や、円谷のウルトラマンもTVシリーズが制作されず、全体的な供給が薄かった時勢だ。ジャンルとしては2013年の『パシフィック・リム』が界隈を騒がせ、その翌年に『GODZILLA』が続いたこともあり、国内巨大特撮の未来を憂う風潮が加速していたことは否めない。そんな時勢に公開された2016年の『シン・ゴジラ』を、多くの特撮オタクや怪獣オタクは目をぎらつかせながら鑑賞したことだろう。「もしこれで『ダメ』だったら、ゴジラや国産怪獣映画の未来は更に厳しくなるのだろうか……」「桁違いの予算が投じられた海外製のVFXもりもりの怪獣映画がこれからの主軸になるのだろうか」。緊張、不安、覚悟。『シン・ゴジラ』は当時確かに、ゴジラシリーズの将来を占うかのような決戦作だった。

 

 

しかしながら、喜ばしいことに『シン・ゴジラ』は82億を超える大ヒットを記録する。庵野秀明総監督の作家性が色濃く反映された本作は、いわゆる「特撮映画に興味がない人」を観客として巻き込むことに成功した。

 

そこから7年。気付けばゴジラは完全にコンテンツとしての息を吹き返している。国内では『GODZILLA 怪獣惑星』に始まるアニメーションシリーズ、通称「アニゴジ」3部作が公開。同じくアニメーション分野では『ゴジラ S.P』がTV放映される。レジェンダリー版のゴジラは『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』『ゴジラvsコング』と順調にシリーズを重ね、2020年からはフェス・ゴジラシリーズと題して短編ながら従来のSFXを主体とした新作が供給され続けている。また、2019年から続く『怪獣人形劇 ゴジばん』シリーズも忘れてはいけないし、「シン・」シリーズの一員としてエヴァ・ウルトラマン・仮面ライダーと肩を並べて度々メディアにも露出した。

 

この7年間、作品や作風というより、もっと広くメディア単位で「ゴジラの多様化」が急速に進み、ファンも多くのゴジラを目にしてきた。在りし日より確実に、ゴジラが活気づいてきている。それが何より嬉しい。こうして迎えたゴジラ生誕70周年記念作品、『ゴジラ-1.0』(ゴジラ マイナスワン)。『シン・ゴジラ』当時のような殺伐とした決戦の様相とは異なり、「さぁ、今度はどんなゴジラが観られるのだろう」というある種リラックスした気構えで挑めたことが、隔世の感である。まだ、あれからたったの7年なのに。(以下、本作のネタバレを含んだ感想を記す)

 

引用:https://eiga.com/movie/98309/gallery/18/

 

実写映画のゴジラシリーズは、(タイムトラベル等の変則技はありつつ)、原則として常に「公開当時」を舞台にしている。1作目からして、1954年に公開された1954年の物語だ。であるからして、本作『ゴジラ-1.0』が2023年公開にして第二次世界大戦末期や終戦直後を描くのは、極めて異例なことである。将来的には、江戸時代やもっと古い時代の呉爾羅を実写映像で観てみたいなぁ、と思う訳だが、それはさておき。

 

終戦直後という、1作目の1954年より前の舞台を描く背景については、山崎貴監督の各種ウェブメディアやパンフレット等のインタビューを読むと理解が深まる。同監督による2007年の『ALWAYS 続・三丁目の夕日』にフルCGのゴジラを登場させた際、短い登場時間にも関わらず相当のリソースを要したとのことで、その経験から「ゴジラを撮る」という選択肢はしばらく採択が叶わなかった。東宝サイドからの度重なるオファーやその流れについてはパンプレットに詳しいが、その後『永遠の0』『海賊とよばれた男』『アルキメデスの大戦』といったフィルモグラフィーを経ることで、「昭和」「海洋」「戦艦」「戦闘機」等の絵作りの知見、VFXの練度が高まり、ようやっと「ゴジラを撮る」に結実した訳だ。

 

つまり、山崎監督は職業監督として非常にクレバーな判断を下したのか、「自身が得意とする昭和・海洋・戦艦・戦闘機のVFXを主軸とすればゴジラを撮れるのではないか」という思想設計が垣間見える。また、「ゴジラはとにかく恐いもの」「ゴジラは神であり獣」という解釈も度々インタビューで述べており、敗戦のどん底を更に落とす恐怖の荒神、という方向性にまとまっている。

 

『シン・ゴジラ』では、海洋シーンのVFXについてクオリティやリソースの関係から描写を絞ったと庵野総監督は語っており、その反面、自身が好むミニタリー描写や徹底した考証によるフェティシズム溢れるカットの数々で、災厄(戦争あるいは震災)を模したゴジラとして1954年のゴジラを見事に本歌取った。極めてオタク的な思想設計、ゴジラの概念や構造をリブートする姿勢こそが『シン・ゴジラ』のミソであり、それが庵野総監督なりの「戦い方」だったのだろう。「邦画職業監督」として挑んだ山崎監督とは全く毛色が異なる。

 

 

「海洋」というトピックでいくと、これほどまでに「ゴジラは海に生息している」に正面から挑んだゴジラはとても珍しい。『シン・ゴジラ』も前述のようにここを短く捉えた他、過去のシリーズにおいても「海から来て海に帰る」で済ませてしまっている作品は少なくない。2004年を最後に取り壊されてしまった東宝大プールでは、ゴジラが海中から上半身を露出し、のっしのっしと歩きながら自衛隊と渡り合うカットが幾度となく撮影された。しかしながら、「海中に生息するゴジラ」「海面を泳ぐゴジラ」となるとかなりケースが限定され、それもワンカット等の見せ場だったりする。

 

しかし『ゴジラ-1.0』は、後半に出てくる作戦名がワダツミ(海神)であることからも自明だが、VFXによる海洋カットにとても意欲的に取り組んでいる。サメ映画のように鋭利な背鰭が泳ぎ、海面から顔を出したまま船を追尾し、海中に沈んでもがき、また浮上して人類に立ちふさがる。波の動き、海面のうねり、水しぶきや重力表現、各種シミュレーションやエフェクトには膨大なリソースを要したとのことだが、その甲斐あって本当に素晴らしい出来だ。「ゴジラと海」という一点においては、シリーズ過去作の追随を一切許さないクオリティである。ありがとう『永遠の0』、ありがとう『海賊とよばれた男』、ありがとう『アルキメデスの大戦』。(海の神を水圧の変化で鎮めるという儀式じみたアプローチも実に小気味良い!)

 

このように、山崎監督は極めて商売人な感覚で、「自身がゴジラを撮った際に最大出力できる強みは何か」を検証し、戦略的に絵に繋げている。『ゴジラ-1.0』公開直前、X(旧Twitter)に掲載された山崎監督のあるコメントを聞いて、私は「あ、これは大丈夫だ」と勝利を確信した。以下のものである。

 

 

ゴジラとは、「とてつもないものに出会うという映画館でしか味わえない体験」。シンプルなフレーズだが、これに尽きる。

 

そう、ゴジラとは、戦争の申し子でも、怪獣王でも、核や震災の擬獣化でも、怪獣プロレスチャンピオンでも、そのどれでもあってどれでもないのだ。でけぇ生き物が、でけぇ音を鳴らしながら、でけぇ破壊をもたらす。それが映画館の巨大なスクリーンや音響によって紡がれ、目や耳から脳に叩き込まれ、気付けば恐怖や畏怖を抱く。「恐怖や畏怖」、その感情に様々なジャンルはあれど、まずはとにかく「でけぇ」バケモンがとてつもないんだ、と。

 

『ゴジラ-1.0』を観て痛感したのは、ゴジラはやっぱり希代の映画スターだという純然たる事実だ。「ゴジラという物語をどう構築するか」の深度を極めたのが『シン・ゴジラ』だとしたら、「ゴジラという映画スターの価値を最大化できる映画をいかに撮るか」が『ゴジラ-1.0』と言えるのかもしれない。そういう意味で、『ゴジラ-1.0』はとても「ゴジラ映画映画」というか、ゴジラ映画をひとつのビジネスとして俯瞰した視座から出力されている印象を受ける。

 

東宝が、フェティシズム&オタッキーな『シン・ゴジラ』の後続に「大衆向けを担える邦画職業監督」を起用するのは、実にクレバーというか、なるほど納得である。どちらが優れているとかそういうことではない。夜通し特撮の話で盛り上がれるオタクの友人と観たいのは『シン・ゴジラ』だし、特撮に興味がない妻と一緒に観たいのは『ゴジラ-1.0』だ。

 

山崎監督が、自身の持てるスキルや培った経験を活かし、「とてつもないものに出会うという映画館でしか味わえない体験」を追求するとしたら。その主演に、東宝が誇る映画スター・ゴジラを迎えるとしたら。「昭和」を舞台に、「海洋」に棲む巨大生物が、「戦艦」や「戦闘機」と雌雄を決する。なるほどこれしかあり得ないだろう。

 

引用:https://eiga.com/movie/98309/gallery/13/

 

加えて、中盤の銀座大破壊シーンだ。列車を咥えるカットは言うまでもなく1954年『ゴジラ』のオマージュなのだが(なおエメゴジにも似たようなシーンがあるのが面白い)、それが小さく感じられる程の相当な壊しっぷりである。ゴジラのモーションや建造物の破壊に、ザ・ジャパニーズ・トクサツ、着ぐるみやミニチュアの遺伝子が確かに生きていたことは言うまでもない。

 

特に、報道陣が建物の屋上からゴジラを捉えそのまま死に至る一連のシークエンスなんか垂涎モノだ。この手の「一般人がゴジラに襲撃されるシーン」は、従来であれば「こっちで起きていること」「一方こっちで起きていること」「引きの絵のミニチュアや合成を少し挟むのでその両者の位置関係はこうです」とアリバイ的にカットを割り続けることで成立させてきた訳だが、それがワンショットに収まったままシームレスに展開される、この驚くべき絵作りといったら! 先に『永遠の0』や『アルキメデスの大戦』を挙げたが、そもそも『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や『DESTINY 鎌倉ものがたり』等で「空想の世界」を自在のアングルで撮り続けてきた山崎監督である。VFXの練度を含め、過去のゴジラでは観たことのないショットが数多く登場する。

 

ブン、ブン、ブン、と音程を上げていくレジェンダリーゴジラの熱線描写も随分な発明だとえらく感動したものだが、本作の背鰭を用いたギミックも全く引けを取っていない。いやむしろ、オモチャ的な魅力を勘案するとこちらに軍配が上がるだろうか。直後のキノコ雲が上がるまでを含め、「とてつもないものに出会うという映画館でしか味わえない体験」でこれでもかと脳を殴られるのが、一連の銀座シーンであった。映画冒頭の人間を咥えて放り投げるゴジラが、相対的にまだ生易しかったなんてな、はは……。

 

ストーリーラインとしてはこれまた異例で、政府筋の人間や軍人が基本的に登場せず、民間人主導でゴジラを鎮めるというクライマックスが待っている。コロナ禍を反映したらしい「対応が後手の政府」「民間人や個人がなんとかしなくてはならない」という焦燥感、ひとりひとりが立ち上がって生きて抗うことの意義、そういったものを謳った作りになっている。戦争を扱った映画では自己犠牲や特攻がともすれば美しいものとして描かれることがあるが、本作ではこれをきっぱりと否定し、「犠牲者を出さずにゴジラを鎮める」と宣言してみせる。これは令和的なフィクションの時勢を加味した、また、民間人主導という本作の特徴的な構造を活かすものとして、とても筋が通ったものだ。土壇場で民間の船がこぞって駆けつける、スカイでウォーカーな夜明けっぽい展開についても、「敗戦のどん底から這い上がろうとする民間人の意志」を想えばついグッときてしまう。ラストの浜辺美波の首筋に浮かぶ黒いアザは被爆を模していると思われるが、そういった「市井の人々に残り続ける戦争の恐さ」においても“民間的”だ。

 

とはいえ。「民間人が立ち上がり、結束し、ゴジラを鎮める」という筋の出来が良いだけに、「俺たちの戦争はまだ終わっていない」「戦争で生き残ってしまった男たちが過去にケリを付ける物語」「倒したゴジラへ敬意をささげる敬礼」あたりの要素がちょっと食い違っているというか、結局それって「元軍人やそれに類する人の話(民間ではない人の話)」になっちゃってるんじゃないの、という感覚は否めない。この辺り、美味しいとこ取りにちょっとミスっている感覚がある。まあ、敗戦直後というこの辺りの属性が極めて曖昧なグラデーションを描く時代なので、中途半端なのがそうと言われればそうかもしれないが……。特に、私はやっぱり最後の敬礼は要らないと思うのだ。意図は分かるが、この話の筋で彼らがゴジラを敬う感情の動線が分からない。(Xでは敷島に向けた敬礼だと解釈する声もあるが、敷島の「受け」のカットや演技が無いこと、勝利の笑みではなく死者を見送る表情で敬礼をしていたことから、「ゴジラへの敬礼」とする読み取りは誤っていないと思われる)

 

いわゆる邦画的な説明台詞、叫びのニュアンス、コテコテの演技を指摘する声も多いが、まぁ、これはなんというか……。「山崎貴監督作品を観に行く」のであれば当然待ち受けているものであったり、『FINAL WARS』以前のゴジラシリーズの本編班に比べたらむしろ大衆向けに洗練されているとまで言えてしまうレベルであったり。というか、すっかりゴジラが「普通の邦画」と同じ評価軸で語られていますね!よしよし!、といった感覚が本音だ。やったぜ。……すまない、とっくにひん曲がった特撮オタクなので。

 

さて、ゴジラ以外の長寿シリーズに目を向けると、同業他社でいえば例えば円谷のウルトラマン、東映の仮面ライダーやスーパー戦隊も、その時々に「なんてことをやるんだ!」と物議を醸す問題作が無数に作られてきた。同じことをやり続けても発展はなく、変わるために変わり続けなければコンテンツは永続しない。『シン・ゴジラ』からこっちの7年間、前述のようにゴジラは急速に多様化し、変わり続けてきた。とても素晴らしい潮目である。

 

「昭和シリーズ」「平成VSシリーズ」「ミレニアムシリーズ」と続き、私は『シン・ゴジラ』以降の作品群を勝手に「クリエイターシリーズ」と呼称している。従来の様式美や撮影方式にとらわれず、ゴジラというコンテンツが一旦閉じたり海外で作られたりする土壌の末で、各クリエイターが自身の作家性をフルに発揮した多様な「俺ゴジラ」を世に送り出す。そんな潮目、そんな時勢。庵野秀明や樋口真嗣は極めてオタク的なこだわりを、虚淵玄は観念的な怪獣の再解釈を、円城塔は徹底したSF考証によるエンターテインメントを、マイケル・ドハティはその剛腕で巨獣プロレス愛の追及を。

 

そして、山崎貴は。希代の映画スター・ゴジラを映画館で映えさせる、その魅力を最大化させる技術を。海の向こうの作品群と戦えるだけの絵作り、自身が得意とするVFXで勝負できる戦場の選択を。その昔ゴジラに覚えた恐怖や畏怖の再演を。「一般の邦画」としての見てくれ、格、大衆娯楽性、そして世界に展開するためのジャパニーズ・トクサツ・ゴジラを。

 

本作は、設計や戦略が明確で、それぞれがある程度しっかり成功している、ゴジラ史に残るエバーグリーンになっていくのではないか。銀幕で暴れる巨体、海を泳ぎ迫りくる巨体、人々を恐怖のどん底に叩き落す巨体。そのフィジカル、ダイナミクス、スペクタクル、アトラクションの徹底した追及ぶりは、歴代でも最上級の代物だ。ゴジラとは何か、そのアンサーに迷いがない。映画観のスクリーンサイズと音響がそれを成立させる。

 

なお、『ゴジラ-1.0』は12月1日より北米1,000スクリーン以上で公開予定である。それを踏まえると、銀座の街並みや戦艦・戦闘機の活躍、エンドロールを含め都合三度も流れるゴジラのテーマは、「外国人ウケ」として申し分ないだろう。やはり、すこぶる職業監督である。