ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

感想『ドクター・ストレンジ / マルチバース・オブ・マッドネス』、あるいは映画の独立性を置き去りにするMCUについて

正直に告白すると、焦って『ワンダヴィジョン』を観た。

 

タイミングに恵まれずディズニー+のドラマシリーズはこれだけが未見で、その他の『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』『ロキ』『ホワット・イフ…?』『ホークアイ』は視聴済み。続く『ムーンナイト』が現在進行形である。今年のGWは『シン・ウルトラマン』に備えた『ウルトラマン』の復習と『ワンダヴィジョン』で幸せな多忙を極めていた。

 

さて、まずは『ワンダヴィジョン』の感想を簡単に。私は常々、そのメディアでしか出来ない表現を突き詰めた作品が好きだとこのブログでも書いているが、同作はまさにその典型であった。シットコムと思われたその世界は実は・・・ という段取りだが、これと同じプロットを仮に小説でやってもほとんど面白くないだろう。映像作品だからこそ、映像パロディが活きる。とてもシンプルなギミックとはいえ、やはりこの点を突き詰めた作品にはそれだけで一定のパワーが宿るものだ。元々原典アメコミのワンダがまあまあトラブルメーカーであり、俗な表現で言うところのヤンデレ気質なのは聞いていたので、こういうプロットにも抵抗はなかった。

 

むしろ、中盤からアガサという別の魔女を出して「全てアガサの仕業!」などと歌わせていたが、全然アガサの仕業ではなかった。やっぱり主因はワンダで、アガサはそれに乗っかって自身のパワー増幅を目論んだだけ。あとはソードの横槍も幾ばくか。一応構図としてはヒーロー側(善玉ポジション)に位置するワンダが主因になってしまう、その取り返しがつかないリスキーなプロットが魅力的だったので、中途半端にアガサを黒幕っぽくしたのは正直「日和ったか?」という感じもなくはなかった。(ヒーローサイドがトラブルメーカーとなる構図はトニー・スターク等でもやってきたが、それらはあくまで結果的なものであり、今回のワンダのように自覚あり+自己中心的+非人道行為はかなり珍しい、という理解)

 

 

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といったドラマシリーズを経ての『ドクター・ストレンジ / マルチバース・オブ・マッドネス』。『ワンダヴィジョン』で大きな喪失を経験したワンダ改めスカーレットウィッチがどっしりとメインキャラクターで登場する。

 

フェーズ4に突入したMCUは、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』にドクター・ストレンジ、今回の『マルチバース・オブ・マッドネス』にワンダ、今夏の『ソー:ラブ&サンダー』にはガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々と、それ単体で主役が張れるキャラクターを贅沢にも脇に登場させている。全てを追っている私を含む全世界の物好きには何の問題もないが、それ単体シリーズを観ていた人はやや面食らうだろう。実際、スパイダーマンだけが大好きな嫁さんは『ノー・ウェイ・ホーム』に出てきた髭面マントおじさんが意味不明な様子であった。

 

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス (オリジナル・サウンドトラック)

 

そんな髭面マントおじさんが大活躍する『マルチバース・オブ・マッドネス』だが、観終わってまず思ったのは「よくあの予告編を作ったな」であった。通常の(通常の?)映画ならクライマックスに位置しそうな場面が早くも序盤20分あたりで訪れ、そこから延々と起承転結の転を繰り返していく。映像は元より、その予測不可能な話運び、着地点を見失いそうな急展開の数々が、実に奇妙(ストレンジ)なのだ。サム・ライミ監督の作家性がこれでもかと強く出ていたのも印象的で、ここまで作家性押しなのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのジェームズ・ガン監督以来かも、などと思ったり。

 

重要なポジションで登場するスカーレットウィッチの行動理念、もとい動機の説明が『ワンダヴィジョン』で済んでいる・・・ ということになっているため、その辺の尺は潔くカット。一人でメスを握りたがる髭面マントおじさんが、時には他人にメスを握らせることを覚える。というか、まさか『インフィニティ・ウォー』における犠牲を伴うストレンジの決断(1,400万605通りからの選択)を糾弾するプロットが出てくるとは思わなかったが、それも踏まえたメス握りのプロットはなんとも王道で、ここまでワンダが出張ったりサプライズもあったりするのに、しっかりストレンジ主役の物語として着地している。こういった辺りのMCUのバランス感覚はお見事。

 

めちゃくちゃ複雑なマルチバースについても、多用なテロップやイメージ図を用いることなく、気の利いたセリフ回しと絵、演出それ自体でしっかりと観客に理解させる。あれだけひっちゃかめっちゃかにバースを横断しておまけに精神世界まで行き来するのに、「今どこでなにやってるんだっけ」とは1ミリもならない。離れた場所、あるいは異なるバースで起きている出来事が、どう連携してどう作用するのか。その観客の理解が、劇中のストレンジの理解と同じテンポで積み重なる。

 

これはピクサー映画にも言えることだが、MCUって、やはりこういったシナリオ構築における基礎値が高いんですよね。作品個々に不満がない訳ではないが、それは物語に没入した先に生まれるもの。「物語に没入できないという不満」は、ピクサーやMCUにはほとんど生まれない。昨今の映画産業はスタジオの権力がより肥大化している感触があるが、超天才クリエイターの集合知でここまでのアベレージが保てるのであれば、やはり歓迎だと言わざるを得ない。いわゆる「ノイズが少ない」である。

 

さて、この記事のタイトルの話をするが、本作は明らかに映画作品の独立性を置き去りにしている。これまでもそのきらいはあったが、今回はいよいよそれが大きい。

 

明確に、『ワンダヴィジョン』を観ていないとメインキャラクターの行動原理がよく分からないというバランスになっている。もちろん会話の端々から幾ばくか察することはできるが、それだけで理解しろというには不十分だろう。ストレンジの一作目を観た人が「へぇ~ 続編があるんだ。アベンジャーズはよく分からないけどこの髭面マントおじさんがかっこよかったから続編を観てみよっかな~」と思い至ると、普通に事故になるバランスである。

 

しかしこれはMCUが試験的にずっとやってきたことで、特に『インフィニティ・ウォー』以降はサノスの指パッチンで世界人口の半分が消失した歴史が当然の前提になっており、それを知らなければ入口で躓きそうな気配があった。しかしそれはあくまで事象であって、「まぁそういうことがあったんだろうな」とか、そういう程度で緩やかにスルーすることは出来ただろう。とはいえ今回のワンダは、私の肌感覚で言えば明確に「やったな」と。ドラマシリーズをすっかり前提に置いたな、確信犯(誤用)だな、と。そう感じた次第である。

 

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・・・なんてことをもっともらしく言っているが、結論から言うと、私はそれで良いと思っている。

 

さかのぼれば2008年の『アイアンマン』。それぞれ単独主役のアメコミヒーロー映画を作ってそれをクロスオーバーさせます! ・・・なんて前代未聞の企画を、やっぱりどこか、鼻で笑ったものである。いやいや、そんなの、無理でしょ。観客の予習が前提となるような、シリーズの続編展開とは全く異なるユニバース的なアプローチ。そんな映画の作り方が通用する訳がない。もし、もし、もしだよ。万に一つそんなことが出来てしまったら、それは映画産業の革命だ。まあ、いいよ。もしかしたら成功するかもしれない。もしかしたら私は伝説の目撃者になれるかもしれない。な~んてね。

 

MCUの大掛かりな構想を私はGIGAZINEで初めて目にしたと記憶しているが、その際こんなことを思ったものである。『アイアンマン』を劇場で観た際も、面白ぇぇ!と感激しながらそれでもやっぱりユニバース展開はめちゃくちゃ途方もないなと、そう感じていた。

 

それが、どうだろう。実際に映画産業に革命が起きてしまった。私は伝説を10年スパンで見届けたひとりになったのだ。「観客の予習を前提とする」は確かにハードルとしてあったが、同時に、基礎値の高いエンタメと魅力的なキャラクターを繰り出すことで「仮に予習していなくてもなんとかなる」まで『アベンジャーズ』を引き上げていた。そりゃあ、素人だって分かる。この試みが上手くいけば、個々のヒーローについた観客は雪だるま式に増え集合映画がメガヒットすることを。その理屈は分かる。が、実際に『エンドゲーム』が世界興行収入27.9億ドルを記録し『アバター』を抜いてしまうと、もうひれ伏すしかない。マーベルは、夢物語をマジにしてしまったのだ。

 

 

それから、猫も杓子もユニバース展開を試みるようになった。同資本のスター・ウォーズもしっかり追随。お隣さんのDCもなんとか。怪獣は上手くいっているようだが、ダークは駄目だった。MCUの成功は、映画産業それ自体の在り方をすっかり変えてしまったのだ。

 

だから、良い。『マルチバース・オブ・マッドネス』が『ワンダヴィジョン』を前提とするのは、MCUが押し進めるユニバース展開のネクストステージなのだ。今度こそ正真正銘「観客の予習を前提とする」、そのターンに入ったということだ。

 

「ドラマシリーズを観ていない観客に優しくない」「ディズニー+へ加入していないと続編を楽しめない」、そんな声はもう背中で弾くことにしたのだ。あの頃、「アイアンマンは観ているけどソーは観ていない。アベンジャーズを楽しむためにはソーも観ないといけないのか」なんて声に耳をふさぎ、正面からエンターテインメントで殴ったからこそ、今のMCUがある。だから、良い。これで振り落ちる人は落ちればいい。私は、『マルチバース・オブ・マッドネス』からそんな表明を聞いたような気がした。

 

「映画産業の在り方を変える」。マーベルは、ユニバース展開で映画を縦だけでなく横にも接続する試みを成功させたが、今度は、原則として別の畑にあるドラマシリーズともどんどん複雑に接続していく。映画産業という枠組みそれ自体を緩やかに崩していく。映画の新作があったかと思えば、息つく暇なくドラマの新作。それを観ているうちに映画の新作が公開される。そんな、「イベントとしてスポット的に楽しむもの」から「常時楽しむもの」への転換。例えば日本であれば、仮面ライダーやスーパー戦隊が毎週放送され、四季折々に映画やVシネマが展開されるような・・・。そんな「常に何かしらが供給される」ステータスを、莫大な資本・ノウハウ・クオリティで繰り出す。それに付いて来られる観客、並走してくれるファン、生き残ったそいつらからだけでも採算が取れる。そう判断したのだろう。

 

だから、これは煽りでもなんでもなく、リタイアする人はリタイアすれば良いと、私はそう思う。そういった人は、『アベンジャーズ』の2012年にも、『シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ』の2016年にも、『アベンジャーズ / インフィニティ・ウォー』の2018年にも、それなりにいたのだろうから。私だって、いつ音を上げるか分からない。事実、冒頭で書いたようにこのタイミングであたふたと『ワンダヴィジョン』を観たほどだ。エンターテインメントが飽和する供給過多なこの時代、その覇権を獲ろうとするならば、これくらい強気の波状攻撃でいかねばならないのだろう。

 

だからこそ、いわゆるABCシリーズ(『エージェント・オブ・シールド』など)がMCUの本筋にほとんど絡まなかったのは、当時なりの波状攻撃展開がまだ時期尚早だった結果ではないかと邪推してしまう。Netflixシリーズ(『デアデビル』など)をここにきてふんわり絡めてきているのも、その時期尚早な歴史をなんとかリカバーしたいという想いから打ち上がった、観測気球のようなものではないだろうか。

 

しかしまあ、「予習が必要」「順番通りに観たい」「全部観ないといけない強迫観念」というのも、極めてギークでナードでオタクな発想なのだろう。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を観た嫁さんは髭面マントおじさんのことがすっかり気に入ってしまい、MCUの構造なんて丸っきり無視してそのまま一作目である『ドクター・ストレンジ』を観た。必要な知識や、ユニバースを前提としたあれこれは、配偶者である私が折に触れて解説をした。なんというか、まあ、それでいいのかもしれない。

 

音を上げ振り落とされる人がいる一方で、縦横無尽に作品が接続し独立性が置き去りにされているからこそ、その網に興味のアンテナが引っ掛かる人もいる。単純に、フックが多いのだ。配偶者が、兄弟が、親が、友人が、フォロワーが。生活圏のどこかに訓練されたMCUオタクが存在すれば、補完とエスコートはそいつが勝手にやってくれる。だから、作品内でわざわざやる必要はない。そういった配慮を置き去りにして、新しい試みに注力すれば良い。

 

これが、エンターテインメントにおける新たな帝王学なのかもしれない。

 

 

感想『シン・ウルトラマン』 繊細な愛と露悪。そして、祈り。

『ウルトラマン』はどんな作品か。日本の特撮文化、ならびにエンターテイメント史に如何なる影響を与えたのか。

 

それは、今更私なぞが語る必要もないだろう。偉大なる銀色の巨人の物語を、それらを幼少期に脊髄にまで叩き込んだであろうスタッフの面々が、この2000年代に描き直す。それも一本の映画として。これがどれほどにハードルが高く、難しい注文なのか。一介の特撮オタクとして、そんなことを夢想しながらここ数ヶ月を過ごしていた。

 

『シン・ウルトラマン』公開前日、タブレットでせっせとツブラヤイマジネーションを開き、『ウルトラマン』を復習鑑賞していた。手元には副読本、洋泉社刊の『別冊映画秘宝ウルトラマン研究読本』。これがまた驚くほどの熱量と資料性でマストバイの一冊なのだがそれはさておき、同じくリビングでスマホ片手に韓ドラを観ていた嫁さんが声をかけてきた。「それなら私も知ってる」。彼女が指したのは、本のページに載るバルタン星人。そうだろう、そうだろう。バルタン星人はなんたって円谷のスター怪獣だからな。「じゃあこれは?」。気を良くした私はページを捲りレッドキングを見せると、「それは知らない」と。なるほど、ではこれはどうか。ダダ、知らない。ゴモラ、知らない。ゼットン、知らない。なんと、彼女が知っているのはバルタン星人ただ一個体のみであった。

 

 

まあ、正直「そういうもの」なのだ。この現代日本において、ウルトラマンを知らない人はほとんどいない。全く知らない人と出会うのは至難の業だろう。しかし、一度怪獣となればどうだろう。どれほどの人間が、何体の怪獣の名を挙げることができるだろう。

 

国民的コンテンツでありながら、割とこういう側面を持っているのがウルトラマンである。なんとなく銀色の巨人が出てきて、カラータイマーが鳴って、怪獣をスペシウム光線で爆散させる。ウルトラマンが実は普通に日本語を喋ることも、手から水が出ることも、硬いものを殴ったら手首を振って痛がる人間味を持つことも、異星人として地球人と融合したからこそのドラマがあることも、実は全く知らない人が多い。特撮好きとTwitterでわいわいやっているとつい忘れがちだが、まあ、割と、「世間」とはそういうものである。しかし、これは別にそれを腐したい訳でも、嘆きたい訳でもない。他方で、私はナンバープレートの色なくしては軽自動車と普通自動車を見分けられないのだ。往々にして、そういうものである。

 

例によって前置きが長くなるが、では『ゴジラ』はどうか。これも割と近い側面があると感じていて、皆が知っているけど知らないという環境がある。2016年の『シン・ゴジラ』は結果として「世間」を巻き込んだ大ヒット作となったが、これには庵野秀明総監督をはじめとした送り手の巧妙な公算があった。

 

 

ネタバレ厳禁としてひた隠しにされていた、ゴジラの進化前形態。あれが ど〜ん とスクリーンに映った瞬間、ゴジラを識る多くのオタクの脳は一瞬にしてフリーズしたことだろう。「見たこともない巨大不明生物が日本に上陸する」。それは、1954年当時に初代『ゴジラ』を観た観客と同じ心理であった。あの進化前形態というワンアイデアで、ゴジラという3文字が宿していたありとあらゆる前提条件や予備知識を吹っ飛ばしてしまったのである。

 

こうしてゴジラを見事アンノウンに仕立て上げた物語は、日本人ならではの根回しと段取りが交錯する泥臭い政治劇を経て、まるで池井戸潤作品のようなチーム型逆転エンターテイメント活劇として決着する。原子力との共存を余儀なくされる現代への強烈な風刺も含めて、『ゴジラ』と「世間」の間にあった溝を徹底して埋めていったのだ。庵野総監督ならではの洗練されたカメラワークやカット割りは、「世間」の目にはむしろ斬新に映ったのかもしれない。そういった意味で、『シン・ゴジラ』には「世間への忖度」(あえてこう表現する)を正面から貫くだけのエンターテイメントとしての強度があったのだ。

 

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M八七 (通常盤) (特典なし)

 

さて、その座組を継承した『シン・ウルトラマン』である。

 

事前にツブラヤイマジネーションを活用し改めて『ウルトラマン』を復習鑑賞し、関連楽曲を車で流しながら公開日朝イチの劇場に駆け付ける。今は全てに恐れるな、有休を知る、ただ一人であれ。

 

駐車場で待機していると、続々と現れる初日初回組の面々。開場と同時に取り急ぎパンフレットとデザインワークスを確保し、トイレを済ませた後、ゆっくり精神統一をしながら席に着く。一介のオタクとして、ありとあらゆる予想や不安や期待がある。が、しかし。そんなものはもはやどうでもいい。「面白い映画」であってくれ。そして願わくば『シン・ゴジラ』のように良い意味で「世間へ忖度」した、それこそをエンターテイメント性でゴリ押ししてくれるような、そんな作品であってくれ。

 

・・・そう願いながら、『シン・仮面ライダー』の新予告に胸を躍らせつつ、銀幕は開けるのだった。

 

※以下、『シン・ウルトラマン』へのネタバレを記します。

 

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鑑賞後すぐの熱でこれを書いているため、ここには、その率直な想いを綴ることとする。観終わってすぐに感じたのは、「理解」と「不安」であった。

 

まず、「理解」。『ウルトラマン』の現代的再解釈について。事前の諸々のインタビューでも、樋口監督は庵野氏が手がけた脚本の「TVシリーズ再構築の妙」を讃え、それがあるからこそ本作に取り掛かったと述べていた。確かに、『ウルトラマン』のあの物語を限界までリスペクトしつつ一本の映画にすると、これになるだろう。つまり、多種多彩な怪獣が現れてプロレスするバラエティさを抑えつつ、人間と融合した異星人という作中最大のトピックにフォーカスし、ザラブやメフィラスといった同じ異星人の視点や行動を踏まえながら、「人間とウルトラマンの関係性」を描き切る。テーマを総括する役割、あるいは一種のデウス・エクス・マキナとしてゾーフィを登場させ、ゼットンを惑星破壊兵器に位置させる。当然、ウルトラマンはゼットンに敗北する。しかし、人間の叡智の結晶が逆転の道を切り拓く。そうして、地球を愛した異星人は青い星を去っていく。

 

・・・なるほど非常に理に適っている。私の頭の中にいる「特撮オタクの自分」は、このストーリーテリングに太鼓判を押している。それはもう、満面の笑みで。

 

加えて映像。さすがにミニチュアや着ぐるみといった手段は取られていないが、かなり当時のSFXを意識した作りであった。CGか着ぐるみか、なんてのは単なる手段の違いでしかない。重要なのは、SFとしてのワンダーを含んだ映像、つまるところの空想特撮映画に成り得ているかである。その点、本作は邦画のバジェットとしては一定の水準に達していたといえるだろう。さすがに海の向こうの一流のアレやソレには劣るものの、怪獣の肌の質感、ウルトラマンの銀色のスーツを解釈したシワの表現、スペシウム光線やウルトラ光輪といった技の数々など、徹底したこだわりが感じられる仕上がりであった。役者がiPhoneで撮った映像は色んな意味でイマドキだが、それなりの臨場感はある。やや「樋口監督による庵野総監督オマージュ」がキツいきらいもあったが、ここまでタッグを組んできた両者をオマージュでくくることが失礼なのだろう。影響値、と見るべきだ。

 

冒頭に現れたウルトラマンがグレーで、マスクも口周りにシワが寄るAタイプ。しかし、人間と一体化した後はお馴染みの赤が差し、力が弱まるとそれがグリーンになる。まるで『仮面ライダークウガ』のようにステータスによって体色が変化する設定が盛り込まれているが、これは(レッド族やブルー族といった設定を汲みつつの)原典『ウルトラマン』作中のスーツタイプの異なりへのオマージュだろうか。そんな異星人(作中では「外星人」と呼称される)が、子を守って命を危機に晒した男と一体化する。本来禁止されているその融合を経て、ウルトラマンは地球の文化に触れていくこととなる。

 

遡れば、『ウルトラマン』において主人公・ハヤタとウルトラマンの「人格どっち問題」について、実は同TVシリーズ内には明確な答えが無い(と私は解釈している)。ウルトラマンがハヤタの身体を借りてあの言動を取っていたのか、あくまで心中にウルトラマンを宿したハヤタが認知のイニシアチブを持っていたのか、あるいは融合個体としての第三の存在だったのか。ゼットンが散った最終回でハヤタは記憶喪失者として描かれるが、その詳細までは明かされない。とても柔軟な解釈を孕んだバランスである。

 

だからこそ、そこにクリエイターの想いが乗っかってくる。様々な解釈が赦されるからこそ、想いを込める余地があるのだ。『シン・ウルトラマン』では、これを「神永(演:斎藤工)の身体を借りたウルトラマン」に設定。広辞苑をぱらぱらと捲りながら驚異的なスピードで地球の知識を識っていくウルトラマンは、やがて禍特対との触れ合いを通して人間という群れならではのコミュニケーションを、そしてホモ・サピエンスの愚かさとそれを上回る可能性を実感していく。ザラブとメフィラスの暗躍により「地球人があらゆるマルチバース(本作ではこれを単に「宇宙」や「銀河」と解釈して良さそうなワードチョイス)から生物兵器として利用されそうな可能性」が露呈し、それに危機を覚えた光の星のゾーフィは、兵器ゼットンを用いて地球人を星ごと焼き尽くそうとする。しかし、ウルトラマンはそれに反逆。あろうことか光の星の裏切り者となり、ゾーフィが発動させたゼットンに単身立ち向かうのだ。

 

この、ウルトラマンを母星の裏切り者とするプロットからは、ウルトラ文化に育てられたクリエイター諸氏の切な願いが感じ取れる。「ウルトラマンには地球を愛してほしい」「ウルトラマンに人類を好きでいてほしい」。そういった、樋口監督の、庵野氏の、無数のクリエイターの祈りのようなものが『ウルトラマン』が持つ原典のプロットと融合し、物語を推進させる。母星の決定に反してでも、自らが愛した地球を守るウルトラマン。あの銀色の巨人には、そういった行動原理が宿っていてほしい。ここに、ウルトラマンを愛した者達の溢れんばかりの愛をひしひしと感じるばかりであった。

 

そう、愛なのだ。本作は非常に愛に溢れている。むしろ溢れすぎている。暴力的なまでに。同時にひどく繊細に。

 

冒頭、例の ドッ!タンっ! の音楽が鳴ったかと思えばぐるぐると渦巻きが現れ、それがシン・ゴジラの文字になる。ドギャーーン!のSEと共に、それはシン・ウルトラマンに。言うまでもなく『ウルトラマン』の冒頭でウルトラQの文字が出るオマージュなのだが、これでニヤリと出来る人が「世間」にどれだけいるだろうか。直後に出てくる『ウルトラQ』の怪獣たち。ゴメスがゴジラの着ぐるみを流用したものを受けてか、シン・ゴメスともいうべき個体が開幕いきなり登場する。『ウルトラマン』当時の外連味溢れる劇伴は作中で幾度となく流れ、外星人が喋ると例のピロピロが聞こえ、電話の音も例のキュルルルだ。ウルトラマンは吊り人形がぐるぐると回る往年の演出をそのままやってのけるし、ぐんぐんカットも照れなくやる。『ウルトラマン』最終回と同様に、ぐんぐんカット逆再生で人間と分離するウルトラマンも、本当にそのままやる。あの、今の感覚で一見すれば馬鹿馬鹿しいかもしれない数々を、当時の文芸ならではの牧歌的な空気でこそ成立したあれらを、びっしりとやってのける。

 

ここに、前述の「不安」がある。果たしてこの繊細で暴力的な「愛の形」は、世間に届くのだろうか。『シン・ゴジラ』がやり遂げたような、直球エンターテイメントで「世間への忖度」を実現のものとするような、そんなパワーを秘めているのだろうか。

 

しかしなんと、パンフレットの樋口監督のインタビューには以下の証言がある。

 

オリジナルが好きな人に向けてサービスしましょうということは、実はほとんどやっていないんです。あからさまに過去の作品に目配せしたものにすると、それはどこか閉じたものになってしまう。私としてはもっと間口の広いものにしたいので、確かにオリジナルを踏襲した表現をしている部分もありますが、それは知っている人が気付けばいいのであって、そういうことばかりやっているから面白いでしょうという作品にはしたくなかった。軸足をオリジナルに近づける方向ではなく、オリジナルが大好きであるがゆえに、そこから離れたいという意識が強くありました。別にオリジナルを否定するのではなく、それをなぞるのは良くないと感じるんです。

・東宝『シン・ウルトラマン』パンフレットより

 

この一文を、どう受け止めるべきだろう。ごく個人の受け取りでいえば、『シン・ウルトラマン』は相当に「閉じた」作品である。クリエイター諸氏の、良く言えば愛の結晶、悪く言えば露悪的な悪ノリがそこかしこにあり、それは『ウルトラマン』をある程度識っていることで中和される。これをもって「意識してやっていない」とするならば、むしろ、無意識レベルで脊髄の奥の奥にまで染み込んでいたということだろうか。意識して距離を取って「これ」なのだとしたら、もう、それはオタク的な褒め言葉での「末期」と言わざるを得ない。

 

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「世間」にウケるような、邦画としてのバディムービーの味があるかと思えばそうでもない。禍特対の面々は個性豊かで観ていてとても面白いが、ウルトラマンが彼らを愛したが故に・・・ というプロットと釣り合うだけの人物造形には届いていない。にせウルトラマンもいい。巨大長澤まさみもいい。やりたいのは分かるし、それが「あの手この手で地球に攻めてくる異星人」のバリエーション描写であることも、この手の荒唐無稽さがむしろ円谷作品の味であることも分かる。

 

が、このストーリーに最も必要なのは「ウルトラマンが地球人に感化される」それ自体ではないか。骨子にあるべきその過程がどうにも食い足りないため、ウルトラマンがゼットンと対峙してその身を賭すカタルシスが弱い。地球人の叡智の結晶も、それをビジュアルではなく言葉で説明されるため実感として得にくい。いわゆるヤシマ作戦パターンなのだから、もっと絵的な説得力が欲しい。そして、結局はそれも「ウルトラマンが単身でゼットンを倒す方法を導き出す」というものだ。ウルトラマンがヒントを与え、人類が立案し、ウルトラマンがそれを実行する。うむむ、「ウルトラマンがいなくても我々人類がやっていくのだ!」という原典が持つテーマのリプライズとしては、これもいささか弱い。ウルトラマンが満身創痍でゼットンに隙を作り人間にトドメを刺させた漫画『ウルトラマンTHE FIRST』の方が個人的には好みである。

 

 

果たして、これはウケるのか。もちろん、究極は私個人が面白いと感じられるか否かだ。しかし、こういう属性の映画がしっかりヒットしてくれることが、コンテンツの永続と発展に繋がっていく。これぞまさに、ひとつの捻くれた、しかし真っ直ぐな「祈り」だ。さあ、どうなる。「世間」はこの愛の形をどう観るのだ。私の頭に住む「オタクの自分」は、まるで難解な計算式を解いた後のように、理知的にこの映画に納得を覚えている。が、「そうでない自分」はシラフだ。ぶっちゃけ酔えていない。度数が足りない。もっともっと、泥酔したかったのが本音かもしれない。

 

M八七

M八七

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

遥か空の星が ひどく輝いて見えたから 僕は震えながら その光を追いかけた

 

米津玄師の主題歌『M八七』冒頭の一節だが、これまたとても示唆に富んだフレーズではないか。劇中でウルトラマンを見上げる地球人のようであり、ブラウン管テレビにかじりついたあの頃の子供達のようであり、そして、青い星の生き物をどうしようもなく愛してしまった外星人の独白でもあるようだ。そんな繊細な愛が、暴力的なこだわりが、懇切丁寧な露悪が、どう映るのか。「ウルトラマンに地球を好きになってほしい」「我々は彼に愛されるだけの人類でいなくてはならない」、そんな願いや祈り、あるいは誓いは、どう届くのか。

 

これからネットに無数に溢れ出るだろう感想を読むのを、特撮文化が大好きな一人として、楽しみにしたい。

 

成田亨作品集

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『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』という非妥協的な詰将棋、あるいは「続編を制作する意義」について

続編、それも本編終了から時が経った続編ほど、「それを制作する意義」に真摯に向き合って欲しいと、そう願うばかりである。

 

どうして世の続編は制作されるのか。商業作品である以上、「売れる見込みがあるから」という予実管理があるのは当然として、私の願いはその一歩先にある。つまり、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」という一点において、めちゃくちゃ深く掘り下げた末の答えを用意して欲しいのだ。その答えでもって、「売れる見込みがあるから」という “大人の事情” に迷彩を施して欲しい。

 

「売れるから作りました」なんて台詞は、例え両者(作り手と受け手)が重々に分かっていたとしても、腹の底に抱いたまま墓場まで持って行ってはくれないか。たとえ嘘でも、「この『答え』を打ち出したいから作りました」と、そう言い切ってはくれないか。

 

だからこそ、用意された「答え」が薄く、腹の底の台詞が透けて見えてしまう続編が、私は大嫌いなのである。寝た子を起こしてまで縮小再生産に着地させた某スペースオペラなど、その典型と言えよう。作品のメッセージは自分と相容れないが、玩具が自立行動する某ストーリー4作目の方が、よっぽど好感が持てる。これにはこれの、濃い「答え」があったのだから。

 

 

という前提を踏まえて、『仮面ライダーオーズ』の続編である。

 

率直に言うと、私は「色々あってアンクが復活して映司と比奈と手を取り合ってクスクシエで仲良く暮らしましたとさ」という「答え」だったとしたら、怒り心頭で劇場を後にしていたことだろう。それこそ、典型的な「腹の底の台詞が透けて見えてしまう続編」だ。そんなものを絶対に観せてくれるなよ、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」にしっかり向き合ってくれよと、祈る気持ちで公開日朝イチの劇場に向かった。

 

以上が「前提その1」。続いて、「前提その2」である。

 

『仮面ライダーオーズ』とは、一言では形容しがたい作品だ。それは、異なるテイストがひとつのパッケージに詰め込まれているから。今風の表現でいうなら、それは「ハード」と「エモ」だろう。

 

もちろん、作品個々の性格が細かく異なるのは承知の上で、平成仮面ライダーというブランドは前期十年が「ハード」寄り、後期十年が「エモ」寄りのような、ざっくりとそういったグラデーションを有すると感じている(とはいえこれは仮面ライダーに限った話ではなく創作全般の変遷かとも考える)。『オーズ』はその折り返し地点に位置するからか、「ハード」かと思いきや予想しないタイミングで「エモ」が顔を出し、あるいはびっくりする角度や手触りでその両者が交わったり離れたりする。そんなハラハラ・ドキドキ感が唯一無二の魅力であり、実は平成ライダーでは最も「模倣し難い」温度であったと思う。

 

 

今でも覚えている、2011年8月28日。TVシリーズ本編最終回「明日のメダルとパンツと掴む腕」。

 

エンドロールに入る直前まで、「この作品は綺麗に終われるのだろうか」とハラハラしながら鑑賞していた。あまりにも最終回に課された「TO DO」が多く、それは作劇のギミックも、作品のテーマも、キャラクターの着地も、素人目に見ても難解なパズルだった。が、蓋を開けてみると、それらは狂気を感じさせるほどに綺麗にまとまっていたのだ。最終回にここまで舌を巻いた経験もそうない。返す返す、素晴らしい幕引きであった。

 

この最終回は、同作がずっと(あえて)アンバランスに動かしてきた「ハード」と「エモ」の両要素が、まさかのドッキングを果たしたのが大きい。映司とアンクというあくまで利害関係のコンビが(ハード)、あの瞬間のタジャドル変身を実現させる(エモ)。有機的に絡み合った両要素がテーマ性を高らかに謳う。どちらかに寄り過ぎない、偏らない、どちらもあるから素晴らしい。強欲な両取り。ここに強い感銘を受けたのだ。

 

 

だからこそ、その後の10年間の展開に、私は心からはノれていなかった。

 

特に、『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL』。そこにあったのは、濃縮「エモ」で固められた『オーズ』。いや、分かる。確かにそれは『オーズ』の味だ。でも、それだけで形作ってしまうのは、少し違うのではないだろうか。『仮面ライダージオウ』EP09~10。赤い羽根を胸につけた映司。うん、確かに「エモ」い。それはそう、間違いなく『オーズ』だ。だがしかし、それだけではなかったはずだ。

 

 

その他諸々、端まで含めればあらゆるグッズ展開に至るまで、『オーズ』というコンテンツはそう書いて「エモ」と読むにまで膨れ上がっていった。そうして、私が感動した『オーズ』のバランス、感銘を受けたあの狂気の両取りは、ゆるやかに崩れていった。このまま自分は『オーズ』に対し、薄い蓋を被せた感情のまま付き合っていくのだと、ぼんやりそう感じていた。

 

以上、いつものように長い長い前置きである。以下、『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』のネタバレを記しつつ感想を残す。

 

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訪れたのは、主人公・火野映司の死。

 

間違いなくショッキングな展開だが、確かにこれは、なるべくしてなったのだろう。それは、「映司ならあの時こうしただろう」といったキャラクターの動静より、『オーズ』という作品の構造、それを受けての「続編を制作する意義」に思いを馳せれば、ストンと腹に落ちるものであった。ここまで「納得」の二文字が脳裏によぎる劇場体験も、かなり久々である。

 

例えるなら、詰将棋。すぐに感じたのはそれであった。将棋のルールを用いたパズルで、用意された出題に対し、どう駒を動かせば王将を詰めることができるか頭を悩ませる。『復活のコアメダル』は、非妥協的な詰将棋の末に弾き出された物語なのだろう。鑑賞後にパンフレットを熟読すると、その有り様がひしひしと伝わってくる。いちから盤面を彩る作り方ではなく、出題に挑み王将を詰める作り方。

 

そしてその出題こそが、あの『仮面ライダーオーズ』最終回、「明日のメダルとパンツと掴む腕」なのだ。完全無欠に思えるこの最終回を問いとして、どう答えを出すか。ここをクリアしなければ、「続編を制作する意義」には辿り着けない。制作スタッフの皆さんは、きっとそのような構えで臨まれたのだろう。

 

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▲ 来る日も来る日も読み返したパンフレット。ここまでシビアな証言集もそうあるまい。

 

まずもって。「色々あってアンクが復活して映司と比奈と手を取り合ってクスクシエで仲良く暮らしましたとさ」は、あり得ない。その可能性はそもそも出題に無いのだ。本編最終回、映司はアンクを失い、その後旅に出る。この大きな喪失をもって物語が閉じている以上、続編でその喪失を無かったことにはできない。それをしてしまっては、偉大なる本編最終回に泥を塗ることになるからだ。決して、皆が仲良く大団円はあってはならない。未来永劫、「結局この10年後にアンクは戻ってきて皆と再会するんだって」などと、誰にも容易く言わせてはいけない。本編最終回の絶妙な尊さは、そのままそこに在ってもらわなくては。

 

しかし。「仮面ライダーオーズの続編」という枠組みにおいて、アンクが登場しないことはあり得ない。『オーズ』には様々なトピックがあるが、やはり映司とアンクのあの独特のコンビが大きな魅力だ。彼らが交わって、コミュニケーションを取る必要がある。でも、アンクの喪失は本編が掲げた重要なエッセンスだ。それを蔑ろにせずに、しかしアンクを出す。この矛盾した出題に答えを用意しなくてはならない。さて、アンクが戻ってくるに見合う代償(=物語の位置エネルギー)とは何か。

 

最後に。「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」を見つめ直した際に、大きく立ちふさがるのは「あまりに高い完成度を誇る本編最終回」だ。これに何を付け足せるだろうか。下手なことをしては蛇足である。しかし、制作するのだ。あの完全無欠にも思える最終回に、「その後」を用意するのだ。最終回を伏して拝み、祈りながら、それでも「その後」を描く。であるならば、残された手(あるいは許される選択肢)は、ひとつしかない。そう、「最終回のリプライズ」である。最終回をもう一度、違う方向から再演する。それが敬意を込めた返球、そして10年越しの円環になり得るのではないか。こうすれば、付け足す意義のある中身になるのではないか。

 

察するに、このような理屈で駒が動き、そして弾き出された「詰め」が、『復活のコアメダル』なのだろう。本編最終回のリプライズをベースに、映司とアンクのふたりを描き、喪失で幕を引く。となるとこれはもう、主人公・火野映司の死を描く他にない。それ以外の選択肢をやろうと思ったら、それは、出題への反抗になってしまう。それはいけない。『オーズ』は素晴らしい。あの本編最終回は尊い。だからこそ、この「詰め」に収斂する。

 

ここまで生真面目に、硬派に、馬鹿正直に、真摯に、本編それ自体と向き合った続編を、私はあまり知らない。

 

描かれた内容以前に、このコンテンツにこの構成の物語がお出しされたことに、強く圧倒されてしまったのだ。なんてことだ、と。『仮面ライダーオーズ』の続編として、これ以上の「答え」は無いではないか。あまりに濃いそれは、「売れるから作りました」なんていう台詞をまるで無かったことにするほど、強靭な精神性に満ちていた。良かった。本当に良かった。この作品に関わった方々は、『仮面ライダーオーズ』という作品を、心の底から愛し、崇め、尊重したのだと。何よりもその姿勢を銀幕から感じ取れたことが、嬉しかった。

 

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余談として。私の半身を作った作品に『鋼の錬金術師』があるが、この物語のラスト、構成が非常に美しいのである。

 

「兄が自身を犠牲に弟を蘇生させた」ことから始まった物語、その果てのギリギリの局面で、「弟は自身を犠牲に兄に勝利を贈る」。かと思えば今度は、「兄が自身を犠牲に弟をまたもや蘇生させる」。その犠牲の対象は、腕か、魂か、錬金術か。その変遷を含め、「互いに犠牲を持ち合う魂のラリー」的な構成が、今思い返しても実に感慨深い。(2003年版、水島精二監督のアニメ『鋼の錬金術師』は、原作最終回の原案を早期に教えてもらい、それを基にオリジナルの最終回を組み立てたという。「魂のラリー」構造がまさにそれだったと後にして気づいた時は、えらく感動したものだ)

 

 

『復活のコアメダル』を鑑賞して一番に頭に浮かんだのは、この『鋼の錬金術師』であった。アンクが10年前に、そして今回は映司が、犠牲をもって魂のラリーを行う。これだけが唯一、あの見事な本編最終回へ「付け足すことが許される」お話。そのような思惑があったのではなかろうか。

 

とはいえ。あの本編最終回は、TVシリーズ1年分の結末として組み上がったものである。グリードが復活し、メダル争奪戦が行われ、バースも参戦し、完全復活や紫のコアメダルという要素を経て、やっとこさ辿りついたクライマックス。舞台装置と危機的状況が積みに積みに積み上がった最後に、あの展開がある。

 

『復活のコアメダル』は、どうしても本編最終回をリプライズしたい。しかし、1年分のTVシリーズは、当然ように描けない。これはVシネマ枠、与えられた条件は正味60分。だからこそ、すでに本編に撒かれていた設定を叩き起こし、疑似的に「TVシリーズ1年分」を蓄積する他ない。

 

そうして、特に深く描かれることなく古代オーズが復活する。鴻上会長は性懲りもなく人災として人造コアメダルを用意する。グリードらも復活して対人間との総力戦が始まる。世界は逃れようもなく破滅に向かっていく。本編最終回がそうであったように、ギリギリの決断をしなければならない舞台装置を用意する。「TVシリーズ1年分」の蓄積を、設定とあらすじでまかない、そうした上で本編最終回を再演する。

 

映司という人間の欲望を描いた末に、あの本編最終回があった。であれば、ゴーダという新しいグリードを登場させ、「全てを救いたい」映司の欲望を「全てを我が手にしたい」野望に読み替え、敵に位置付ける。少女を救えなかった映司のトラウマも重要なトピックなので、先の「喪失」に絡めて描き直す必要があるだろう。1年分の蓄積を背負う形で、しかし当然のように尺や扱いに無理が出でもそれでも、古代オーズやグリードを処理していく。舞台を追い込み、選択肢を殺し、外堀を埋め、「本編最終回と同じ決断」しか残されていない局面まで、力業で持っていく。

 

確かに、性急であった。どう見ても綺麗ではない。そういうやり方しかなかったのであればやるべきではないと、そう感じた人もいるだろう。しかし私は、そうまでして「本編最終回を尊ぶ」ことを妥協しなかったその強引さに、拍手を贈りたいのだ。あまりにも、真面目が過ぎる。しかしそんな真面目さを抜きに、『オーズ』の続編なんて手掛けて欲しくはない。

 

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向かうは、「どうしてこの物語に『続き』が必要なのか」。そして、「続編を制作する意義」。

 

私の解釈においては、この作品をもって『オーズ』がやっと2011年8月28日のあの地点に戻った、10年分の「エモ」とバランスを取るようにそれ相応の「ハード」を提供したのだと、そう理解している。これでやっと、『オーズ』は「戻った」。「ハード」と「エモ」を両取りする、あの美しい最終回に、「戻った」のだ。10年分の「ハード」を経過措置なしで一気にやるのだから、それはもう、強烈である。こんなことをしては悲鳴が上がると、制作陣の誰もが確実に承知していたはずである。それでも、やった。そこに強い賞賛を贈りたいのだ。

 

私は嬉しい。これでやっと、『仮面ライダーオーズ』という作品と正面から向き合える。10年分の「エモ」と、60分の「ハード」。これらが同じ重さで存在して、ようやく『仮面ライダーオーズ』として成立するのだと。そういった、構造上の出題&解答において、この上なく解釈一致であったのだ。

 

本当にありがとう。劇場公開から約一ヶ月、頭の中で素人なりに何度も何度も何度もこの詰将棋を解いてみたが、私も、この「詰み」が唯一無二の「答え」だと思う。

 

締めとして。少し違う話を・・・。

 

仮面ライダーに限らず、特撮作品に出演した俳優や女優がその後も幾度となくレジェンド出演することに関して、実は私は、心の底から熱くなれたことの方が少ない。願わくば、特撮出演の経験を糧に役者として一般ドラマや映画にどんどん出て欲しい。振り返るのは本当にごくたまに、スケジュールと事務所の意向が奇跡的に合致した時で構わない。どうしてもそういった心境があるのだ。なんなら、普段はライダーや戦隊なんて話題にしてくれなくて良い、とまで思う時がある。とはいえ、出てくれたらそれはそれで嬉しい。間違いなく嬉しい。ひどく我儘で、面倒臭くて、アンビバレントな心理である。そんな自分がクソほど嫌なオタクだと、分かっていてこれを書いている。

 

だからこそだろうか。『復活のコアメダル』のパンフレットで、つい、うるっときてしまったのは、主演・渡部秀氏のインタビュー、その締めの言葉だ。

 

僕自身は変わらず仮面ライダーのことが好きですが、ここが僕ら『オーズ』のキャストにとっては、ひとつの分岐点になると思っています。これから先、僕らが立つ新しいステージにも注目していただければ、うれしいです。

・東映ビデオ発行『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』パンフレット P13

 

求められればいつだって帰ってきます。僕はずっとヒーローです。そういった分かりやすい言葉ではない、ある種の決意表明。さらっと書かれているが、形容しがたい力強さを感じてしまうのだ。同作を「葬式」だと評する声は多いが、私の感覚では、これは「壮行式」だ。座長・渡部秀氏をはじめとする、『オーズ』に関わられたキャストやスタッフの「壮行式」。

 

覚悟を持って、『仮面ライダーオーズ』にケリをつける。火野映司という人間を、もう他の誰にも下手に触らせない。その姿勢こそが、この上なく「意義」まみれであった。

 

大団円じゃなくて、ありがとう。

 

 

感想『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』 大いなるオリジンと通過儀礼は「お祭り」と同じ舞台上でよかったのか

 

サム・ライミ監督による『スパイダーマン4』が制作されなかったことも、マーク・ウェブ監督の『アメイジング・スパイダーマン』シリーズが2作で途絶えたことも、未だ幻のまま噂だけが独り歩きする『シニスター・シックス』という企画があることも、『シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ』に3代目となるスパイダーマンが登場したことも(この場合は東映版を数えないとかそういうややこしい話は一旦脇に置いておいて・・・)、全てが、間違いなく、とてもパワフルな、「大人の事情」である。ここまで世界的に有名なエンタメ大作の「事情」に観客が付き合わされてきた歴史も、そうそう無いだろう。

 

それでもなぜ、幾度となくスパイダーマンは銀幕を飾るのか。それはシンプルに、「売れる」からである。サム・ライミ監督『スパイダーマン』(1作目)の興行成績は8億2,000万ドル超、日本でも75億を記録している。商業的に不発だった印象が残る『アメイジング・スパイダーマン2』ですら、日本での成績は30億を超えているのだ。ちなみに直近の2021年の記録だと、『ゴジラvsコング』の国内興収は19億、『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』でも27億となっている。スパイダーマンというコンテンツは、強力なドル箱なのだ。

 

だからこそ、何度だって・・・。たとえお話がリセットされようと、それでも制作される。ピーター・パーカーという青年が主人公であることも、ベンおじさんが死ぬことも、大いなる力には大いなる責任が伴うことも、誰もがとっくに知っている。それでも、知っている観客に向けてそれをわざわざ語り直すことが許されるほどに、無慈悲なるドル箱なのだ。「え? またスター・ウォーズをいちから作るの?」や「え? またジュラシック・パークをいちから作るの?」なんて、常識的にはあり得ない。続編やスピンオフといったアプローチが順当である。しかし、「え? またスパイダーマンをいちから作るの?」は「あり」とされてきた。こんな短いスパンで、それも複数回の「あり」が許されてきた、なんとも我儘で贅沢なヒーローなのである。

 

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、そんな「大人の事情」こそを作品内に取り込んでみせた。それはもう、意欲的に。こんなにも厚かましくメタメタしくハイコンテクストな映画を観たのは久しぶりである。

 

Spider-Man: No Way Home (Original Motion Picture Soundtrack)

 

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思えば、MCUスパイダーマンの初ソロ作品『ホームカミング』からして、この3代目のスパイダーマンは相当にメタかった。

 

「観客がすでに複数回の実写スパイダーマンを認知している」という前提条件を、マーベルスタジオは分かった上でお話に組み込んでいく。仮にライミ版とウェブ版が無かったら、メイおばさんはあの若々しいビジュアルにはならなかっただろう。ベンおじさんもちゃんと出てきて、ちゃんと死んだのだろう。蜘蛛に噛まれるシークエンスだってもっと詳細に語られたのだろう。言うなれば、マーベルスタジオは観客を信じたのである。「あなた達はスパイダーマンの基礎知識をすでに持っていますよね」と、まるで学校の先生が生徒の理解力を信じて前回の授業のおさらいを省略するかのように、「説明しない」という説明手法を取ったのだ。そしてそれは、非常にスマートに、無駄なく成功したと言えるだろう。

 

 

『ファー・フロム・ホーム』でも同じように「『エンドゲーム』を観ていること」を当たり前の前提条件に組み込み、本作『ノー・ウェイ・ホーム』においても「もちろんご存知ですよね」という顔で別ユニバースから歴代ヴィランを呼び寄せる。ドル箱のスパイダーマンを入り口に、あるいは「昔のやつなら知ってるけど今のはよく分からない」という中途半端な位置にいる客への呼び水として、とても戦略的にスパイダーマンというコンテンツを活用していく。「客を呼べるスパイダーマン」という属性に、これでもかと頼る。トム・ホランド演じるMCUのスパイダーマンは、蜘蛛男の物語というコア(心臓部)に、スタジオの都合、大人の事情、企画のための制作という多種多彩なステッカーが、べたべたと貼られているのだ。

 

もちろん、マーベルスタジオの実力が「生ける伝説」級なのは、その「企画ありき」それ自体を「面白さ」に置換する技術に長けている点にある。観客をここまで理屈臭い企画に付き合わせ、それで拍手喝采を獲得している映画スタジオも、そうそうあるまい。

 

前置きが長くなった、というお馴染みの前置きを経て。以下、映画のネタバレを含んだ感想を記す。

 

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私は、『ノー・ウェイ・ホーム』自体に非常に複雑な感情を抱いている。ただこれは、とても高望みでありつつ、おそらくそうなるように制作側から仕組まれた感情であることも、そこそこ自覚している。少なくとも、諸手を挙げて「お祭りサイコー!」のテンションにはなれていない。良くも良くも良くも、ちょっとだけ悪くも。

 

結論を先に書くと、「世紀のお祭り」と「オリジン」を一緒に語ってしまって本当に良かったのだろうか、という部分だ。

 

まず、「世紀のお祭り」について。もはやファンが過剰にネタバレをセーブする雰囲気から逆に予想していた人も多いと思われるが、トビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドがまさかの復活出演を果たしている。「そうなるだろう」と99.9%予想していても、やはりスクリーンでまた彼らを拝めた瞬間は、感極まるものである。劇場では、他の観客の息を飲む声が聞こえた。私も、手元で小さくガッツポーズをしたものだ。復活した彼らが、後輩スパイダーマンであるトム・ホランドを導く一種の師のポジションに収まる。中でも、「大いなる力には・・・」の台詞をトビーが引き継いだ瞬間は、もう、本当に、たまらないものがあった。「ぼくのかんがえるさいきょうのすぱいだーまんのせいぞろい」を、世界最高峰のスタジオが映像化した瞬間である。

 

更には、トビーとアンドリューにも救済を用意していく。トビーは、あの日救えなかったグリーンゴブリンの命を守る。それも、「グライダーでの絶命」から彼を守るのだ。これが契機となって親友・ハリーの絶命にまで話が及んだことを思うと、トビーピーターとしては積年の瞬間だっただろう。アンドリューピーターには、「落下して絶命寸前のヒロインを救う」という究極の救済が用意される。なんともメタい。MJを抱きかかえるアンドリューの表情カットは、メタ文法に頼りすぎてはいるものの、どうしようもなくグッときてしまう。『アメイジング・スパイダーマン2』のラスト、グウェンの死から復活までのシークエンスは何十回観ても号泣してしまうが、あの殿堂入りにこうしてフォローが行われた。なんとも、歴史的だ。

 

前置きで長ったらしく書いたように、本作は「大人の事情」を逆説的に利用し、理屈を付けてそれらをエンタメという渦に巻き込んでみせた。「ドクター・ストレンジが魔法を使ったから先輩スパイディが現れた」のではない。「先輩スパイディを登場させるためにドクター・ストレンジが魔法を使った」のである。通常なら、あまりに企画色が強すぎてたじろいでしまうところを、「トビーとアンドリューの出演」という世紀のワイルドカードを切ることで正面から押し込んだのだ。ここまでされてしまえば、そりゃあ、天晴である。感服するしかない。

 

私個人も、実写映画スパイダーマンの歴史をずっと観てきたのだ。これで感動するなという方が無理な話である。

 

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他方で。本作がトム・ホランド演じる3代目ピーターの「オリジン」として機能した点について、とても複雑な感情を持ってしまった。

 

そう、スパイダーマンとは、もっと言うと「我々の知るスパイダーマン」とは、本作のラストでニューヨークを飛び回る「彼」なのだ。覆面で正体を隠し、孤独で、影があり、人の死を背景として持っており、軽妙な口調はその過去を隠し誤魔化すような悲哀さを伺わせる、そんなスーパーヒーローこそが、「我々の知るスパイダーマン」だ。

 

思えば、トムピーターは恵まれすぎていた。「ベンおじさんの死」というイベントも経験せず、トニー・スタークに世話を焼かれ、メイおばさんもハッピーも深い理解があり、恋人や親友とも楽しくやっていた。およそ、「我々の知るスパイダーマン」らしくは無い。そしてそれは、マーベルスタジオが過去作との差別化としてそうチューニングしてきた経緯がある。

 

本作『ノー・ウェイ・ホーム』では、それをリセットしている。ベンおじさんがもういないのだから、メイおばさんが死ぬしかない。トムピーターにとっては、メイおばさんが概念上の「ベンおじさん」として機能する。それも、「①自身の軽率な判断と未熟さゆえに」「②大切な人を失い」「③復讐心に駆られてしまう」のだ。このスパイダーマンとしての通過儀礼を経験することで、お馴染みの「大いなる力には大いなる責任が伴う」を会得し、「我々の知るスパイダーマン」に到達していく。トビーも、アンドリューも、①②③をしっかりやったのである。それも相当にじっくりと。彼らだって、我を忘れ強盗犯をスーパーパワーに任せて追いかけたのだ。

 

「ヴィラン勢ぞろい!」「先輩スパイディ復活!」という華やかな話題に引っ張られがちだが、本作のシナリオは前述の①②③の流れで組まれている。やっていることはお祭り映画で伝説的だが、プロットは至極スタンダードなスパイダーマンである。

 

「①世界中の人の記憶を消して欲しい、あるいはヴィランたちを救いたい、という軽率で未熟な行動がきっかけとなり」「②メイおばさんが死んでしまい」「③復讐心のままグリーンゴブリンを殺しかける」。そして、これまで恵まれすぎていたトムピーターは、ここにきてやっとこさ「スパイダーマンとしてのオリジン」を経験する。加えて、「世界中がスパイダーマンの正体を知る」「スパイダーマンに関する設定がリセットされる」といったプロットは、原典アメコミに存在するストーリーラインだ。マーベルスタジオはその辺りを巧妙に組み込みつつ、2021年最新版のオリジンをプレゼンテーションしてみせた。

 

 

そうすると、「世紀のお祭り」と「オリジン」、この相反するふたつの要素は果たしてしっかり同居できていたのか、そこが気がかりになってくる。

 

もっと言うと、「オリジン」というそのヒーローの背骨を形成する部分に、余所のユニバース(正確には、原則として「お話」の外に存在する「大人の事情」という名の『文脈』)が干渉して良かったのか、という点だ。もちろん、言うまでもなく、このふたつは物語としてしっかり接続されている。先輩スパイディが例の屋上で語りかけ、今まさに失意のどん底にいる後輩を導く。トビーピーターがグリーンゴブリンを守ることで、誇り高い精神性が継承されていく。一方でドンチャンのお祭りをやりながら、そのすぐ横で深刻なオリジンをやる。この食い合わせについては、相当意図的にフォローが敷かれているのが見て取れる。

 

それでも。『エンドゲーム』を経て世界を救い、トニーの死を経験し、自身ソロも遂に3部作となったトムピーターが、あの局面に至っても復讐心を制御できなかったのは正直に言って寂しい。結局、彼自身の成長や精神が何か物語を「前に」動かす機会は訪れなかった。「お祭りしながらオリジンをやる」という企画の余波で、トムピーターの成長がとても低く見積もられてはいないだろうか。彼は確かに子供だが、まだ、ここに至ってもまだ、その精神レベルなのだろうか。・・・そういった点が、どうしても頭をかすめていく。これは「スパイダーマン大集合映画」ではなく、「トムピーター3部作の完結編」じゃなかったのか。前者の都合で後者が影響を受けてしまっていないだろうか。「国民の孫」のような肌触りにあるトムピーターのファンとして、そこがどうしても解消し切れない。

 

しかし、そもそも映画とは、フィクションとは、制作という神によるボードゲームである。トムピーターもメイおばさんも、単に盤上の駒に過ぎない。神がもし、今回のボードゲームをいっちょ派手にやりたいとして、いくつかの駒がその影響を受けたとしても、致し方ないのだ。「新旧スパイダーマンが集合する」という世紀のお祭り、その脚本上のプラス要素を成立させるために、「メイおばさんの死」と「ピーターの認知リセット」というマイナスが配置される。そうやってお話の緩急、バランスを構築する。その「バランス取り」それ自体が「相反するふたつの要素の接続」なのだろう。それは大いに分かっているし、ストーリーテリングのスキルは異次元の領域で上手くいっている。しかし、「バランス取り」の結果か、トムピーターの大切な大切な一度きりの「オリジン」が少し割を食ってしまったのではないかと、そう感じるのも本音である。

 

「グリーンゴブリン殺害をトビーピーターが食い止めた」、スパイダーマンとしての精神性の継承と先導に拍手喝采の自分。「グリーンゴブリン殺害をトビーピーターが食い止めた」、つまり別ユニバースという大人の事情メッタメタのお祭りなくしてはトムピーターは大いなる責任を全うし切れなかった、という事実に一抹の寂しさを覚える自分。どちらも、しっかりと存在している。だからややこしい。

 

「これまではスパイダー『ボーイ』だった。この映画を経てスパイダー『マン』になる」。これは、本作についてインタビューを受けたトム・ホランドの言葉である。確かに、彼は間違いなく「マン(男)」になった。強力な喪失を経験した。世界を救い、親友と恋人を救い、世界中から愛され、単独ソロ3部作を経て、ここまで沢山の物を積み上げたこのタイミングで、「スパイダーマンの通過儀礼」を経験した。最も恵まれていたスパイダーマンだったはずなのに、過去最高級に「大人の事情」を内包した本作をもって、一転、最も不幸なスパイダーマンになってしまった。

 

その一部始終が、本当に「世紀のお祭り」と同じ舞台の上で良かったのか。「世紀のお祭り」に心の底から興奮しただけに、ふと気づくと、「自分は素直に興奮して良かったのか?」と、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。この感情への決着は、「大人の事情」をメタメタに詰め込んだ企画色満載の本作ではなく、また次に “隣人” と会う機会に持ち越しておきたい。

 

 

『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』観たくない!いや観たい!観なくてもいいのでは!観るでしょ!観る? 観るの? 観ちゃうの!? 観たくないのでは? クゥァアアア!!

俺A「うわぁぁァァァァーーーー!!!!」

 

俺B「うわぁぁァァァァーーーー!!!!」

 

俺C「うわぁぁァァァァーーーー!!!!」

 

 

仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル [Blu-ray]

 


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俺A「ちょっと待って一旦落ち着こう。落ち着いて、落ち着いて、状況を整理しよう。仮面ライダーオーズの続編にして完結編、それが2022年にVシネ枠で劇場公開される、つまりそういうことなんだな。そういうことなんだな!?」

 

俺B「そういうことのようだな。まったく、ゴーカイジャーも10年ぶりに復活したばかりだというのに、とんでもない爆弾がふってきたな」

 

俺C「続編めちゃくちゃ楽しみ!予告のファーストカットのオーズの横顔だけで『観たことのない新撮だ!』って歓喜しちゃったよね。あとあと、予告のテロップが本編サブタイトルと同じ「◯◯と◯◯と◯◯」のパターンになってるのも最高。っていうか、メインの2人が全然ビジュアル変わってなくてすごいんだが!? 仙人か!?」

 

俺A「いやちょっと待って!待てって!お前たち、観るのか、これを!? オーズの完結編を、観るのか!?」

 

俺B「いや、まぁ、観ない訳には・・・ いかない、と、いうか・・・」

 

俺C「絶対観る!!!オリジナルキャスト勢揃いだよ!???? 正統続編だよ!??? 観るしかないでしょ!!!」

 

俺A「いや、ちょっと待って、違うだろ。いやいやいや違くないけど違うだろ!オーズだぞ!? あの仮面ライダーオーズだぞ!? いつかの明日に映司とアンクが再会するかも、という希望を持たせたエンディングで綺麗に終わったオーズだぞ!? その完結編を本当にやってしまうのは、いかがなものかとは思わないのか!? いつかの明日は『いつかの明日のまま』だから美しいんじゃあないのか!?」

 

俺B「まぁ~ でも、言うて? TVシリーズだけじゃ終わってないんですよね。細かい客演は除くとして、本筋に近いものを挙げると『MOVIE大戦MEGAMAX』と『平成ジェネレーションズ FINAL』だけど」

 

俺C「平ジェネFINAL、すごく良かったよね~。映司が崖に落ちそうになった万丈を助けるシーンでもう込み上げるものがあるというか!手を伸ばす!届く限りは全力で助ける!それを諦めないことが映司なんだよな〜!!」

 

俺A「そうだけど!!!!そうだけど!!!そうなのか!!??? いや、まぁ、分かるんだよ、平ジェネFINAL。やりたいことは分かるし、感動もした。したさ!しない筈ないだろ! ・・・でもな、あえて言葉を選ばずに言うと、ちょっと二次創作って感じも拭えなかったんだよな、ぶっちゃけ。湿っぽすぎるというか、ファンサービスが熱すぎて若干焦げ気味というか。いきなり無からエモのためだけのエモ崖とエモ塔が出てくるじゃん。いや、分かるよ、分かるんだが。その点はどうなんだよお前ら」

 

俺B「まぁ言わんとすることは分かる。わか~るわかるよ君の気持ち。でもさ、ある程度放送から時が過ぎた作品って、そうやって神格化されたりファンサービスされたりしてナンボなところあるじゃん。それに平ジェネFINALに関してはオーズ主演の渡部秀くんが闇プロデューサーとしてガッツリ関わった訳じゃない。脚本も演出もかなり意見を出したというか、ほぼ監修に近いバランスだったみたいだし。主演俳優がそれくらい作品に思い入れてくれてるってのは、ファンにとって喜ばしいことではあるよ」

 

俺C「でもみんな、映司がカメラを引っ張って引っ張って『変身っ!』てするやつ、燃えたでしょ?」

 

俺A「燃えた」

 

俺B「燃えた」

 

俺C「そういうことだと思うんだよな~!どれとは言わないけど、せっかくオリジナルキャストを起用したのに名言botみたいな使われ方しかされなかった例も知ってるじゃん。それに比べたら、めちゃくちゃ扱い良かったじゃん。小難しいこと考えずに、素直にそこは喜ぼうよ」

 

俺A「それを言っちゃァおしまいよ・・・。小難しいこと考えずに観たいのは山々なんだよ~。あのね、誤解を招きたくないから言っておくけど、そうしようと思って小難しいこと考えてる訳じゃないのね。『小難しいことを考えない』というのは!いいかい!『小難しいことを考えない』というのは!『小難しいことに該当するノイズが取り除かれた作品』と出会えて初めて達成されるものなんだ!そこを違えてもらっちゃあ困るね!」

 

俺B「とはいえ全部が全部、作品の中身って訳でもないじゃん? 受け手は全世界の人間の数だけいるんだから。ま、言葉を借りるなら、『ノイズ除去の許容程度』が人によって違うってことかね~」

 

俺C「そういうオタクみたいな会話やめなよ」

 

俺A「お前もオタクだろ」

 

俺B「2人とも話が脱線しすぎなんだよなぁ~。今回の完結編がどうかって話だろ? まあ確かに、加熱ファンサービスで描かれるのと、あえて描かないことの美学を賛美するのと、その両者で揺れる想いってのは分かるよ。揺れる~想い~体じゅう感じて~」

 

俺C「でもさ~、あの物語の結末が見たいか見たくないかって言ったら、見たいじゃん。それが全てじゃん。強欲にいこうよ。欲望に素直になろうよ。ドクター真木みたいな終末思想なんて語ってないで、お祭りを祝おうよ。Happy Birthday!!」

 

俺A「全部そういうノリで押し切るのも違和感あるんだよなぁ。作品が持つ精神と実際の出来不出来は全く別物なんですよ。・・・いやね、俺も楽しみだよ。楽しみか楽しみでないか、といったら、楽しみなんですよ。でもさ、仮に、もし仮に!!『復活のコアメダル』が自分にとって う~ん な仕上がりだったら? どうする? どうする? TVシリーズ最終回のあの別れも、MEGAMAXのあの余韻も、さかのぼってケチがついてしまうような、そんな恐れはないの? お前達にはないのかよ!!」

 

俺B「つまり君はそれが怖いと」

 

俺C「続いていること、続編が実現すること、それ自体がハッピーなんじゃないの?」

 

俺A「うわああああああああ!!!!!くっそ!!くっそ!!!はいはい正しいのはお前達!!お前達が正しい!!!正論サンキュー!正論ハッピー!くっそ!!!くっそ!!」

 

俺B「つまり君は、例えば『賭博堕天録カイジ』みたいな話をしてるの? 確かに17歩は俺もどうかと思うよ。あのワンゲームに単行本13冊を費やして、オチのトリックはともかく、絵もハンコの顔芸ばっかりで話も起伏が薄い行ったり来たり。それまでの同作シリーズに比べて明らかに失速と言わざるを得ない、残念さは滲み出ているよ」

 

俺C「でもでも、17歩がアレな出来だったからといって、限定ジャンケンやEカードや地下チンチロの面白さが失われる訳じゃないよ?」

 

俺A「失われる訳じゃあない!!断じてない!!が!!どうしようもなく!!『仮にそこで終わっていればもっと傑作あるいは名作として名高かったのでは』と!!そう、思って!!しまうのは!!!それはいけないことなのかよ!!!!!!!」

 

俺B「和也編の話する?」

 

俺C「闇麻のマミヤもすごく展開遅いよね」

 

俺A「やめろやめろやめろォォォーー!!!!オーズの話をしろォォ!!!!Count the medalsッ!!!」

 

俺B「あのさ~、俺だって『超MOVIE大戦ジェネシス』の竹中直人×片岡鶴太郎のシーンは確かに気が狂うかと思ったけど、それでドライブやゴーストの思い出にケチがついた訳じゃないだろ?」

 

俺C「同シリーズの具体例はやめようよ」

 

俺A「こう、さ、なんというかさ。最近のオーズ関連って、やっぱりちょっと湿っぽすぎると思うんだよ。湿度が高い・・・。いやね、映司とアンクの関係性がエモいのは分かるよ。あの当時はエモなんて言葉、全然市民権を得てなかったけど。でもさ~~、MEGAMAXの時の『一緒に戦うのって、もしかしてこれが最後?』『そうしたくなかったらァ、きっちり生き残れッ!』の、あれ!!ああいう!!!ああいうテイスト!!あのカラッとした、ピリっとした関係性が、映司とアンクの真髄だと思うんだよな~~。暗い倉庫でゆっくり見つめあいながらアイスを味わうのは、なんか、なんか、なんか違うんだよ~~」

 

俺B「君が気にしてるのは、つまり予告のあの、映司とアンクが見つめあいながら背後で爆炎ドーーンのカットが、もう湿度が高い ・・・ってコト?」

 

俺C「10周年記念作品なんだからエモくて湿っぽくなるのは当たり前じゃん。ファンだって泣くよ!? 涙は湿ってるよ!?」

 

俺A「はいはいはいはい正論~~~!!!俺C君が正論~~~!!!!くっそ!!くっそ!!!!!!!ど~~~せ俺は小難しいマンですよ~~!!はいはいはい!!!」

 

俺B「確かに俺たちは、色んな『戦争』を経験してきたよね。時が経ってから改めて作られる続編の、『戦争』っぷりといったら。祈りの気持ちで映画館に行くよね。その気持ちはよく分かるよ」

 

俺C「『デスノート Light up the NEW world』の話する?」

 

俺A「やめろ」

 

俺B「やめろ」

 

俺C「でもね、『復活のコアメダル』はなんと田崎監督なんだよ。田崎竜太監督。オーズのTVシリーズメイン監督だよ。だから心配ないよ!!!もっと信じよう? 10年前の自分たちの思い出を信じよう!?」

 

俺A「いや~~~~、でも、バースがコアメダルでパワーアップしちゃうの、まあまあ解釈違いでは?」

 

俺B「まだ言ってるよ・・・」

 

俺C「10周年だから!!お祭りだから!!細かいこと言わないの!!まだ観てもいないのに!!」

 

俺A「ァァァァアァァーーー!!!ダメだぁぁ!!!頭おかしくなる!!オーズが完結する!? オーズの『続き』が確定する!? もう何度も読んで本棚に閉まったはずの聖書に新たにページが増える!? ァァァァアッァ!!!!」

 

俺B「例え。そう、例え。仮に、だ。増えたページが君の納得のいく内容じゃなかったとしても・・・」

 

俺C「記されたものは確かに聖書の1ページ」

 

俺A「受け入れるしか、ない・・・・・・・・・・」

 

俺B「分かってるんだ、全て」

 

俺C「覚悟を決めたいだけなんだよね?」

 

俺A「あちこち観たけど、楽して助かる続編がないのはどこも一緒だな・・・」

 

俺B「『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』は、2022年春に期間限定上映」

 

俺C「同年8月24日にBlu-ray・DVDが発売」

 

俺A「嗚呼・・・ はるかな時を超えて今、二度と悔やまぬために・・・」

 

俺B「奇跡の力、降臨するといいね」

 

俺C「ハァァァァァアーーーークゥァッッッ!!!!!」