ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

感想『シン・ウルトラマン』 繊細な愛と露悪。そして、祈り。

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『ウルトラマン』はどんな作品か。日本の特撮文化、ならびにエンターテイメント史に如何なる影響を与えたのか。

 

それは、今更私なぞが語る必要もないだろう。偉大なる銀色の巨人の物語を、それらを幼少期に脊髄にまで叩き込んだであろうスタッフの面々が、この2000年代に描き直す。それも一本の映画として。これがどれほどにハードルが高く、難しい注文なのか。一介の特撮オタクとして、そんなことを夢想しながらここ数ヶ月を過ごしていた。

 

『シン・ウルトラマン』公開前日、タブレットでせっせとツブラヤイマジネーションを開き、『ウルトラマン』を復習鑑賞していた。手元には副読本、洋泉社刊の『別冊映画秘宝ウルトラマン研究読本』。これがまた驚くほどの熱量と資料性でマストバイの一冊なのだがそれはさておき、同じくリビングでスマホ片手に韓ドラを観ていた嫁さんが声をかけてきた。「それなら私も知ってる」。彼女が指したのは、本のページに載るバルタン星人。そうだろう、そうだろう。バルタン星人はなんたって円谷のスター怪獣だからな。「じゃあこれは?」。気を良くした私はページを捲りレッドキングを見せると、「それは知らない」と。なるほど、ではこれはどうか。ダダ、知らない。ゴモラ、知らない。ゼットン、知らない。なんと、彼女が知っているのはバルタン星人ただ一個体のみであった。

 

 

まあ、正直「そういうもの」なのだ。この現代日本において、ウルトラマンを知らない人はほとんどいない。全く知らない人と出会うのは至難の業だろう。しかし、一度怪獣となればどうだろう。どれほどの人間が、何体の怪獣の名を挙げることができるだろう。

 

国民的コンテンツでありながら、割とこういう側面を持っているのがウルトラマンである。なんとなく銀色の巨人が出てきて、カラータイマーが鳴って、怪獣をスペシウム光線で爆散させる。ウルトラマンが実は普通に日本語を喋ることも、手から水が出ることも、硬いものを殴ったら手首を振って痛がる人間味を持つことも、異星人として地球人と融合したからこそのドラマがあることも、実は全く知らない人が多い。特撮好きとTwitterでわいわいやっているとつい忘れがちだが、まあ、割と、「世間」とはそういうものである。しかし、これは別にそれを腐したい訳でも、嘆きたい訳でもない。他方で、私はナンバープレートの色なくしては軽自動車と普通自動車を見分けられないのだ。往々にして、そういうものである。

 

例によって前置きが長くなるが、では『ゴジラ』はどうか。これも割と近い側面があると感じていて、皆が知っているけど知らないという環境がある。2016年の『シン・ゴジラ』は結果として「世間」を巻き込んだ大ヒット作となったが、これには庵野秀明総監督をはじめとした送り手の巧妙な公算があった。

 

 

ネタバレ厳禁としてひた隠しにされていた、ゴジラの進化前形態。あれが ど〜ん とスクリーンに映った瞬間、ゴジラを識る多くのオタクの脳は一瞬にしてフリーズしたことだろう。「見たこともない巨大不明生物が日本に上陸する」。それは、1954年当時に初代『ゴジラ』を観た観客と同じ心理であった。あの進化前形態というワンアイデアで、ゴジラという3文字が宿していたありとあらゆる前提条件や予備知識を吹っ飛ばしてしまったのである。

 

こうしてゴジラを見事アンノウンに仕立て上げた物語は、日本人ならではの根回しと段取りが交錯する泥臭い政治劇を経て、まるで池井戸潤作品のようなチーム型逆転エンターテイメント活劇として決着する。原子力との共存を余儀なくされる現代への強烈な風刺も含めて、『ゴジラ』と「世間」の間にあった溝を徹底して埋めていったのだ。庵野総監督ならではの洗練されたカメラワークやカット割りは、「世間」の目にはむしろ斬新に映ったのかもしれない。そういった意味で、『シン・ゴジラ』には「世間への忖度」(あえてこう表現する)を正面から貫くだけのエンターテイメントとしての強度があったのだ。

 

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さて、その座組を継承した『シン・ウルトラマン』である。

 

事前にツブラヤイマジネーションを活用し改めて『ウルトラマン』を復習鑑賞し、関連楽曲を車で流しながら公開日朝イチの劇場に駆け付ける。今は全てに恐れるな、有休を知る、ただ一人であれ。

 

駐車場で待機していると、続々と現れる初日初回組の面々。開場と同時に取り急ぎパンフレットとデザインワークスを確保し、トイレを済ませた後、ゆっくり精神統一をしながら席に着く。一介のオタクとして、ありとあらゆる予想や不安や期待がある。が、しかし。そんなものはもはやどうでもいい。「面白い映画」であってくれ。そして願わくば『シン・ゴジラ』のように良い意味で「世間へ忖度」した、それこそをエンターテイメント性でゴリ押ししてくれるような、そんな作品であってくれ。

 

・・・そう願いながら、『シン・仮面ライダー』の新予告に胸を躍らせつつ、銀幕は開けるのだった。

 

※以下、『シン・ウルトラマン』へのネタバレを記します。

 

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鑑賞後すぐの熱でこれを書いているため、ここには、その率直な想いを綴ることとする。観終わってすぐに感じたのは、「理解」と「不安」であった。

 

まず、「理解」。『ウルトラマン』の現代的再解釈について。事前の諸々のインタビューでも、樋口監督は庵野氏が手がけた脚本の「TVシリーズ再構築の妙」を讃え、それがあるからこそ本作に取り掛かったと述べていた。確かに、『ウルトラマン』のあの物語を限界までリスペクトしつつ一本の映画にすると、これになるだろう。つまり、多種多彩な怪獣が現れてプロレスするバラエティさを抑えつつ、人間と融合した異星人という作中最大のトピックにフォーカスし、ザラブやメフィラスといった同じ異星人の視点や行動を踏まえながら、「人間とウルトラマンの関係性」を描き切る。テーマを総括する役割、あるいは一種のデウス・エクス・マキナとしてゾーフィを登場させ、ゼットンを惑星破壊兵器に位置させる。当然、ウルトラマンはゼットンに敗北する。しかし、人間の叡智の結晶が逆転の道を切り拓く。そうして、地球を愛した異星人は青い星を去っていく。

 

・・・なるほど非常に理に適っている。私の頭の中にいる「特撮オタクの自分」は、このストーリーテリングに太鼓判を押している。それはもう、満面の笑みで。

 

加えて映像。さすがにミニチュアや着ぐるみといった手段は取られていないが、かなり当時のSFXを意識した作りであった。CGか着ぐるみか、なんてのは単なる手段の違いでしかない。重要なのは、SFとしてのワンダーを含んだ映像、つまるところの空想特撮映画に成り得ているかである。その点、本作は邦画のバジェットとしては一定の水準に達していたといえるだろう。さすがに海の向こうの一流のアレやソレには劣るものの、怪獣の肌の質感、ウルトラマンの銀色のスーツを解釈したシワの表現、スペシウム光線やウルトラ光輪といった技の数々など、徹底したこだわりが感じられる仕上がりであった。役者がiPhoneで撮った映像は色んな意味でイマドキだが、それなりの臨場感はある。やや「樋口監督による庵野総監督オマージュ」がキツいきらいもあったが、ここまでタッグを組んできた両者をオマージュでくくることが失礼なのだろう。影響値、と見るべきだ。

 

冒頭に現れたウルトラマンがグレーで、マスクも口周りにシワが寄るAタイプ。しかし、人間と一体化した後はお馴染みの赤が差し、力が弱まるとそれがグリーンになる。まるで『仮面ライダークウガ』のようにステータスによって体色が変化する設定が盛り込まれているが、これは(レッド族やブルー族といった設定を汲みつつの)原典『ウルトラマン』作中のスーツタイプの異なりへのオマージュだろうか。そんな異星人(作中では「外星人」と呼称される)が、子を守って命を危機に晒した男と一体化する。本来禁止されているその融合を経て、ウルトラマンは地球の文化に触れていくこととなる。

 

遡れば、『ウルトラマン』において主人公・ハヤタとウルトラマンの「人格どっち問題」について、実は同TVシリーズ内には明確な答えが無い(と私は解釈している)。ウルトラマンがハヤタの身体を借りてあの言動を取っていたのか、あくまで心中にウルトラマンを宿したハヤタが認知のイニシアチブを持っていたのか、あるいは融合個体としての第三の存在だったのか。ゼットンが散った最終回でハヤタは記憶喪失者として描かれるが、その詳細までは明かされない。とても柔軟な解釈を孕んだバランスである。

 

だからこそ、そこにクリエイターの想いが乗っかってくる。様々な解釈が赦されるからこそ、想いを込める余地があるのだ。『シン・ウルトラマン』では、これを「神永(演:斎藤工)の身体を借りたウルトラマン」に設定。広辞苑をぱらぱらと捲りながら驚異的なスピードで地球の知識を識っていくウルトラマンは、やがて禍特対との触れ合いを通して人間という群れならではのコミュニケーションを、そしてホモ・サピエンスの愚かさとそれを上回る可能性を実感していく。ザラブとメフィラスの暗躍により「地球人があらゆるマルチバース(本作ではこれを単に「宇宙」や「銀河」と解釈して良さそうなワードチョイス)から生物兵器として利用されそうな可能性」が露呈し、それに危機を覚えた光の星のゾーフィは、兵器ゼットンを用いて地球人を星ごと焼き尽くそうとする。しかし、ウルトラマンはそれに反逆。あろうことか光の星の裏切り者となり、ゾーフィが発動させたゼットンに単身立ち向かうのだ。

 

この、ウルトラマンを母星の裏切り者とするプロットからは、ウルトラ文化に育てられたクリエイター諸氏の切な願いが感じ取れる。「ウルトラマンには地球を愛してほしい」「ウルトラマンに人類を好きでいてほしい」。そういった、樋口監督の、庵野氏の、無数のクリエイターの祈りのようなものが『ウルトラマン』が持つ原典のプロットと融合し、物語を推進させる。母星の決定に反してでも、自らが愛した地球を守るウルトラマン。あの銀色の巨人には、そういった行動原理が宿っていてほしい。ここに、ウルトラマンを愛した者達の溢れんばかりの愛をひしひしと感じるばかりであった。

 

そう、愛なのだ。本作は非常に愛に溢れている。むしろ溢れすぎている。暴力的なまでに。同時にひどく繊細に。

 

冒頭、例の ドッ!タンっ! の音楽が鳴ったかと思えばぐるぐると渦巻きが現れ、それがシン・ゴジラの文字になる。ドギャーーン!のSEと共に、それはシン・ウルトラマンに。言うまでもなく『ウルトラマン』の冒頭でウルトラQの文字が出るオマージュなのだが、これでニヤリと出来る人が「世間」にどれだけいるだろうか。直後に出てくる『ウルトラQ』の怪獣たち。ゴメスがゴジラの着ぐるみを流用したものを受けてか、シン・ゴメスともいうべき個体が開幕いきなり登場する。『ウルトラマン』当時の外連味溢れる劇伴は作中で幾度となく流れ、外星人が喋ると例のピロピロが聞こえ、電話の音も例のキュルルルだ。ウルトラマンは吊り人形がぐるぐると回る往年の演出をそのままやってのけるし、ぐんぐんカットも照れなくやる。『ウルトラマン』最終回と同様に、ぐんぐんカット逆再生で人間と分離するウルトラマンも、本当にそのままやる。あの、今の感覚で一見すれば馬鹿馬鹿しいかもしれない数々を、当時の文芸ならではの牧歌的な空気でこそ成立したあれらを、びっしりとやってのける。

 

ここに、前述の「不安」がある。果たしてこの繊細で暴力的な「愛の形」は、世間に届くのだろうか。『シン・ゴジラ』がやり遂げたような、直球エンターテイメントで「世間への忖度」を実現のものとするような、そんなパワーを秘めているのだろうか。

 

しかしなんと、パンフレットの樋口監督のインタビューには以下の証言がある。

 

オリジナルが好きな人に向けてサービスしましょうということは、実はほとんどやっていないんです。あからさまに過去の作品に目配せしたものにすると、それはどこか閉じたものになってしまう。私としてはもっと間口の広いものにしたいので、確かにオリジナルを踏襲した表現をしている部分もありますが、それは知っている人が気付けばいいのであって、そういうことばかりやっているから面白いでしょうという作品にはしたくなかった。軸足をオリジナルに近づける方向ではなく、オリジナルが大好きであるがゆえに、そこから離れたいという意識が強くありました。別にオリジナルを否定するのではなく、それをなぞるのは良くないと感じるんです。

・東宝『シン・ウルトラマン』パンフレットより

 

この一文を、どう受け止めるべきだろう。ごく個人の受け取りでいえば、『シン・ウルトラマン』は相当に「閉じた」作品である。クリエイター諸氏の、良く言えば愛の結晶、悪く言えば露悪的な悪ノリがそこかしこにあり、それは『ウルトラマン』をある程度識っていることで中和される。これをもって「意識してやっていない」とするならば、むしろ、無意識レベルで脊髄の奥の奥にまで染み込んでいたということだろうか。意識して距離を取って「これ」なのだとしたら、もう、それはオタク的な褒め言葉での「末期」と言わざるを得ない。

 

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「世間」にウケるような、邦画としてのバディムービーの味があるかと思えばそうでもない。禍特対の面々は個性豊かで観ていてとても面白いが、ウルトラマンが彼らを愛したが故に・・・ というプロットと釣り合うだけの人物造形には届いていない。にせウルトラマンもいい。巨大長澤まさみもいい。やりたいのは分かるし、それが「あの手この手で地球に攻めてくる異星人」のバリエーション描写であることも、この手の荒唐無稽さがむしろ円谷作品の味であることも分かる。

 

が、このストーリーに最も必要なのは「ウルトラマンが地球人に感化される」それ自体ではないか。骨子にあるべきその過程がどうにも食い足りないため、ウルトラマンがゼットンと対峙してその身を賭すカタルシスが弱い。地球人の叡智の結晶も、それをビジュアルではなく言葉で説明されるため実感として得にくい。いわゆるヤシマ作戦パターンなのだから、もっと絵的な説得力が欲しい。そして、結局はそれも「ウルトラマンが単身でゼットンを倒す方法を導き出す」というものだ。ウルトラマンがヒントを与え、人類が立案し、ウルトラマンがそれを実行する。うむむ、「ウルトラマンがいなくても我々人類がやっていくのだ!」という原典が持つテーマのリプライズとしては、これもいささか弱い。ウルトラマンが満身創痍でゼットンに隙を作り人間にトドメを刺させた漫画『ウルトラマンTHE FIRST』の方が個人的には好みである。

 

 

果たして、これはウケるのか。もちろん、究極は私個人が面白いと感じられるか否かだ。しかし、こういう属性の映画がしっかりヒットしてくれることが、コンテンツの永続と発展に繋がっていく。これぞまさに、ひとつの捻くれた、しかし真っ直ぐな「祈り」だ。さあ、どうなる。「世間」はこの愛の形をどう観るのだ。私の頭に住む「オタクの自分」は、まるで難解な計算式を解いた後のように、理知的にこの映画に納得を覚えている。が、「そうでない自分」はシラフだ。ぶっちゃけ酔えていない。度数が足りない。もっともっと、泥酔したかったのが本音かもしれない。

 

M八七

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遥か空の星が ひどく輝いて見えたから 僕は震えながら その光を追いかけた

 

米津玄師の主題歌『M八七』冒頭の一節だが、これまたとても示唆に富んだフレーズではないか。劇中でウルトラマンを見上げる地球人のようであり、ブラウン管テレビにかじりついたあの頃の子供達のようであり、そして、青い星の生き物をどうしようもなく愛してしまった外星人の独白でもあるようだ。そんな繊細な愛が、暴力的なこだわりが、懇切丁寧な露悪が、どう映るのか。「ウルトラマンに地球を好きになってほしい」「我々は彼に愛されるだけの人類でいなくてはならない」、そんな願いや祈り、あるいは誓いは、どう届くのか。

 

これからネットに無数に溢れ出るだろう感想を読むのを、特撮文化が大好きな一人として、楽しみにしたい。

 

成田亨作品集

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