やっと、読むことができた。
ミステリ界隈ではすでに大きく話題となっていた『屍人荘の殺人』。「売れてるなァ、読みたいなァ、読まないとなァ」と思いつつ後回しにしていた本作を、実写映画版の公開直前となるこのタイミングで読了。なるほど、いやぁ~~、なるほど。すこぶる「なるほど」感が強い。ネットに溢れる感想の多くが極端に気を遣っていたが、こういう事情だったのか。
というのも、本作にはある驚きの「仕掛け」が施されている。その詳細を把握してからあらすじを読むとニヤリとできるし、やたらコミカルに彩られた映画予告を観てもニヤリ。このテイストで宣伝しちゃうの、すごく良いと思う。予告のテンポ感がすごく好き。キャスティングも素晴らしい。
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本作がよく出来ているのは、その大ネタである「仕掛け」が、単なるびっくり箱に終わっていないところだ。ワンアイデアを放り込み、そのインパクトだけに頼って走り抜けるタイプではない。そのアイデアをいかに有機的に活かすか。馴染ませるためにどのようなテイストでまとめ上げるか。その辺りが実に誠実な作品であった。
内容(「BOOK」データベースより)
神紅大学ミステリ愛好会の葉村譲と明智恭介は、曰くつきの映研の夏合宿に参加するため、同じ大学の探偵少女、剣崎比留子とペンション紫湛荘を訪れる。しかし想像だにしなかった事態に見舞われ、一同は籠城を余儀なくされた。緊張と混乱の夜が明け、部員の一人が密室で惨殺死体となって発見される。それは連続殺人の幕開けだった!奇想と謎解きの驚異の融合。衝撃のデビュー作!
作中における中盤、葉村譲と剣崎比留子がミステリについて話すくだりがある。ミステリを愛好する葉村と、探偵ながらそれには疎い剣崎。葉村は、「ミステリ分野における密室殺人のトリック」について、以下のように語る。
「今朝の密室談義の続きです。いくつかの密室パターンについて話しましたが、実はずいぶん昔から、ミステリでは密室トリックの鉱脈は掘り尽くされたといわれているんです」
「それは大変じゃない。本が売れなくなっちゃう」
「ええ。ですが実際にはまだミステリは書かれ続けているし、密室を売りにした作品も存在し続けている。最近の作品の特徴の一つが、複数のパターンを組み合わせることで問題を複雑化することなんですよね」
トリックが仮に五つしかなくとも、そのうち二つを組み合わせれば十通りのネタができる。個別のトリック自体は簡単でも、複数の要素が絡み合えば非常に難解な謎に見せかけることは可能だ。
・文庫『屍人荘の殺人』(今村昌弘、東京創元社)P212
『屍人荘の殺人』は、作品そのものが、この葉村の説明に当てはまるだろう。
いわゆる「本格」なミステリ、つまりは、多くの登場人物・何やら漂う不穏な空気・いかにもなシチュエーション・外界から閉ざされた環境・連続殺人事件・読者に与えられた見取り図・叙述トリックへの警戒、そういったものを、ある「仕掛け」と大胆に組み合わせているのだ。ミステリのトリックそのものも、「仕掛け」も、それ自体が極端にフレッシュな訳ではない。しかしそれらを巧妙に抱き合わせることで、問題を複雑化することができる。
そして、大ネタである「仕掛け」をどのように扱うか。特殊な状況そのものをいかに(ミステリ小説として)活用するか。非現実的な事象は自動的に作品内のリアリティを損なうのか。そういった、実験的なアプローチの部分をひとつひとつ見ていくと、それらが驚くほどに丁寧に処理されていることが分かる。有栖川有栖によるあとがきを読むと、作者である今村昌弘は『時計館の殺人』等のミステリを構造分析のために熱心にノートまとめたらしく、そのタフネスさの結果と言えるだろう。題材に対して実に真摯だ。
・・・といったあたりで、そろそろネタバレを避けて語るのが非常に厳しいので、以下は「仕掛け」の詳細から結末に至るまで、物語の核心に触れながらの感想を残したい。未読の方はご注意ください。
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もはやタイトル通りなのだが、本作はゾンビパニックものである。主人公らが泊まるペンションの近くで開催されていたロックフェス。その会場でバイオテロが発生し、感染者は次々とゾンビへ変貌。しかも、噛まれた者も即座に感染し、後にゾンビ化してしまう。ゾンビの群れに追われ、命からがらにペンションに立てこもった主人公たち。昼夜を問わずにゾンビの群れがペンションを取り囲むため、そこに事実上の「密室」が出来上がる。
ミステリ用語における、クローズド・サークルである。嵐の孤島、橋が落とされた山中の洋館、吹雪の中のペンション。何らかの不可抗力により、状況としての「密室」が生まれてしまう。実際は「登場人物内に犯人がいる」という前提を成立させるための方法論(ふらっと現れた第三者が犯人という状況の否定)なのだけど、それが「本格」ミステリのお約束として挙げられることが多い。
『屍人荘の殺人』の「仕掛け」は、そのクローズド・サークルをゾンビパニックで作り上げている点を指す。
通常多くの「本格」ミステリは、現実的なロジックを突き詰めた先にトリックや推理を配置してく。例えば、「実は超能力で人を殺していました!」なんて非現実的な状況が突然出てきたら、多くの読者は憤慨してしまうだろう。だからこそ、現実的なもののみで状況を構成し、消去法で真実を炙り出す。それが王道のセオリーと言える。
本作はあろうことか、そんなミステリの土壌に極端に非現実的なゾンビという存在を放り込んでいる。こうなると、「非現実的なゾンビ」をいかに「現実的」に描くか、というハードルが生まれるのだ。重要なのは、我々読み手の定規における「現実的か否か」ではない。作中における「現実的か否か」、いわゆる「リアリティライン」の引き方、そこに焦点がある。非現実的なゾンビの群れは、『屍人荘の殺人』においては立派な現実である ・・・と、読み手を納得させなければならない。そうでなくては、「現実的なもののみで構成するミステリ」が成立しなくなるのだ。
その点、本作は実に丁寧である。重元という登場人物がゾンビ映画オタクとして登場し、ゾンビの生態について数々の考察を重ねていく。参考文献に洋泉社の『映画秘宝EX 映画の必修科目15 爆食!ゾンビ映画100』がクレジットされているのも面白い。彼の解説を入口に掘り下げられるゾンビという存在は、やがて、トリックの根幹部分にまでしっかりと関わっていく。
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つまりは、「人間でないと破れない密室」と「ゾンビでしか行えない殺害」の合わせ技である。置手紙があったことから人為的な殺害であることを匂わせつつ、ゾンビにしか噛み砕けない死体が目の前に無残にも広がる。知性を持ったゾンビというチートな存在はあり得ないので、誰かがゾンビを利用したのだろうか。そういった謎を、「解けそうで解けない」ギリギリのバランスで提示していく。
「普通に殺してから紐で死体を窓の外に吊り下げて、群れゾンビに喰わせてから引き上げて部屋に戻したのでは」などと予想するも、私の陳腐な予想は早々に覆されていく。ミステリを愛好する葉村によって、ミステリ好きが辿るであろう思考回路、その一手先が常に潰されていく。「こう考えますよね? 違います」「こうも予想しますよね? 残念、ハズレです。」。まるで、作者にそう突き付けられているかのように。意固地になって読み進めるも、中々真相が見えてこない。お話も終盤に向かっているのに、第一の殺人の真相も見えない。ハラハラである。
結論として、第一の殺人は「密かに匿っていた恋人がゾンビ化し、それに殺された」という「事故を殺人に見せかける」パターン。続く第二の殺人は、銅像とエレベーターの重量制限を利用した「自分の身の安全を確保しつつ対象をゾンビに襲わせる」手口。そして第三の殺人は、「採集したゾンビの体液を使用しての毒殺」ときたものだ。素晴らしい、全てにしっかりとゾンビが関わっているではないか。クローズド・サークルを単に状況設定だけに終わらせない作りである。
加えて、ややラノベ寄りの砕けた文体から漂うニュアンスや、あまりにド直球すぎる「明智」という名のキャラクターなど、読み手は何となく作品全体のフィクション性を体感していく。「ああ、これはあまりガッチリとかしこまったタイプの作品ではないな」。そうやって巧妙に下げられたリアリティラインに合わせるように、非現実的なゾンビが登場。更には、そのゾンビはミステリにおける「現実」と幾度となく関わっていく。するとどうだろう、ゾンビはいつの間にか、作中における立派な「リアル」に仕上がっていくのだ。前もって下げたリアリティラインを一度分解させ、後から加点で押し上げていく。
この塩梅、バランスの取り方が実に見事である。創作における「ワンアイデアをいかに活かすか」のお手本とも言えるのではないか。作者がゾンビという「仕掛け」をしっかりとミステリに絡めたこと、更には、「見取り図に伏線が仕込まれている」という王道の技が炸裂する辺りも含め、ミステリ愛が伝わってくるのも楽しい。重ね重ね、誠実である。
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「王道の技」と言えば、語り手を利用した叙述の見せ方も良かった。例えば第四章の冒頭、以下のような独白が綴られている。進藤が死を迎える、第一の殺人の夜のことである。
これは天啓だ。
屍人たちの登場といい、突如として電撃のように脳を駆け巡ったアイデアといい、運命を操る何者かーー神か悪魔かーーが味方をしているとしか思えなかった。
しばらくは警察もここには近づけまい。まさに千載一遇の好機。
やれ、と言っているのだ。そのためにすべてを調えたと。
場がある。手段がある。憎き相手がいる。そして、覚悟はとっくにできている。
なにを躊躇うことがあるだろう。
この日のために牙を研いできた。
行こう。奴は部屋にいる。
暗く燃え上がる喜びを胸に、後戻りのできない一歩を踏み出した
・文庫『屍人荘の殺人』(今村昌弘、東京創元社)P144
この独白は、結末を知ってから読むと、犯人である静原のものであることが分かる。しかし、この時点では語り手が誰かは分からない。男か女かも不明。読者は相当に警戒しながらこのテキストを読まされる。
そして、第五章。第二の殺人の被害者である立浪の死体が発見される前に、またもや以下のような独白が登場する。
世の中にはどうしようもないクズがいる。
己の欲望のためならば人の道を易々と踏み外す、外道が。
奴もその一人。あの憎き男どもの同類だ。
だから、やった。今しかなかった。
なんとかーー目的は達した。
ただーー彼女には申し訳ないと思う。
彼女が必死に事件解決に奔走していると知りながら、俺は平気で嘘をつこうとしているのだから。
・文庫『屍人荘の殺人』(今村昌弘、東京創元社)P233
ここが実に上手い。章の始まりに出てくる独白だからといって、どちらも同じ語り手のものとは限らないのだ。後者はもちろん、主人公・葉村の独白。火事場泥棒と揉めた過去を指して、出目の部屋に盗られた腕時計を回収しに行った、その「目的」について述べている。しかも、「どうやらOBたちの女癖の悪さが諸悪の根源である」と分かってきている段階において、「あの憎き男ども」がOBたちでなく過去の火事場泥棒たちを指すというのは、中々に巧妙である。もちろん、きな臭さは感じるものの、その真相までは見抜けない。
だからこそ、直後の「目が覚めた後、ベッドの脇の鞄をまさぐっていた俺は」という葉村の語りが強烈だ。そう、確かに、“それが誰の部屋で誰の鞄かは書かれていない”。地の文に嘘はない、王道かつ正道な叙述トリック。まさか葉村が真犯人のパターンまであり得るのかと、最後までこちらをハラハラさせてくれる。(もちろんそれはフェイクなのだけど、静原との「嘘の供述」に繋がるから無駄がない)
大層楽しめたからこその難点を挙げるならば、ひとつは、静原というキャラクターの弱さ、あるいは愛着の薄さである。真犯人が判明した時点で、「こいつが犯人だなんて!信じられない!嘘だと言ってくれ!」という感情があまり湧いてこなかったのが本音だ。まあ、寡黙な女性という設定だったので、キャラクターを推し辛かったのかもしれない。
もうひとつは、葉村が「嘘の供述」をしたことの背景。震災後の火事場泥棒の過去についてが、若干後出し気味に感じたこと。もちろん、序盤に重元が手帳を拾うくだりで葉村がそれに過剰反応しているのだが、ここが完全に先出しであればもっとフェアに感じられただろう。
その点、ジャンプ+で連載中の漫画版は、前述の難点をいくらかカバーしにきている。
主な改変ポイントとしては、「葉村が火事場泥棒と揉めた過去について、事件が起こる前のタイミングで明智が剣崎に教える形で先出し」「ゾンビに襲われる静原を救う明智、その一連のシーンを大幅に追加」といったところだ。葉村の最後の「嘘の供述」への伏線を早々に提示しつつ、静原の「明智に救われた女性」という印象を強める算段だろう。「葉村はコーヒーが苦手」という伏線も、登場タイミングが早い。
また、「冒頭で明智が大学で起きた珍事件を解決」「明智と葉村が出会うきっかけ」を新規に追加することで、読者の明智への愛着が色濃くなるように誘導している。これはもちろん、ラストにゾンビとなって現れる明智、そのショックへの前振りである。本作は、葉村が明智に別れを告げる、ある種の「継承もの」としての側面も持ち合わせているため、明智を原作より出番多く描く判断は正しい。
その点、今や無数の女性ファンを獲得している中村倫也を明智役に据えた実写映画版は、相当に意地が悪い。もちろん、誉め言葉である。中村倫也がホームズ役で立ち回る軽快なコメディタッチのミステリ ・・・かと思いきや、中村倫也は早々にゾンビに食い殺されて退場し、最後にゾンビとして現れるも、再度絶命するのである。(もちろん、シナリオが改変されている可能性もあるが・・・)
原作における「大学生(若者)の青春群像劇」という側面は、一部人物らの女癖の悪さやそれが引き起こした殺人、そして葉村と剣崎の仄かな恋愛描写にも通底していく。しかし実写映画版は、一部のキャストを大学生ではない普通の大人に改変しており、この辺りのニュアンスをどう持っていくのかも、大変楽しみである。
実写映画版『屍人荘の殺人』は、12月13日公開。観てから読むか、読んでから観るか。散々ネタバレを書き散らした最後に書く文章ではないが、一応、お決まりとして。