公開日から約2週間遅れで鑑賞。何かと賛否が割れるアニゴジでしたが、終わってみて率直に、自分は結構好きでしたね。
3部作を並べて俯瞰すると、このシリーズの「やりたいこと」がくっきり浮かび上がる感じもあって。それが顕著に示された完結編『星を喰う者』は、まさに「やりたいこと」をひたすらにやり抜く作品だったな、と。
アニメーション映画『GODZILLA 星を喰う者』オリジナルサウンドトラック
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私の1,2作目の感想は下記の記事の通り。総じて「SF的な面白さはあるんだけど、特撮映像的に食い足りない」という感覚で、それはぶっちゃけ『星を喰う者』も同じである。
しかし、2作目『決戦機動増殖都市』の後半あたりから示された始めた「怪獣とはなにか?」「人が怪獣を倒すには人を超える必要があるのか?」という論議、私はこれを「怪獣再解釈論」と勝手に呼んでいるのだけど、そこがグッときたんですよね。だから、今作はもう最初から特撮映像的な旨味(ゴジラの巨大感演出や怪獣同士のインファイトのスケール感あふれる映像表現)には期待を寄せず、前述の「怪獣再解釈論」を楽しもうと。そういう心意気で鑑賞に挑んだ訳です。
そしたらそれが大当たり、という感じ。あえて意地悪に言えば、『星を喰う者』、全部セリフで展開が進んでいくんですよ。ギドラが宇宙に出現して、地球に降臨して、ゴジラと絡む。大きなイベントはそれくらいで、後はほとんどセリフの応酬。
メトフィエスが提唱する終末論と、それを体現する高次元科学な神・ギドラ。対抗する主人公・ハルオと、連なって描かれる地球という星の命運。セリフの応酬というより、もはや何かの問答のように哲学的なやり取りが交わされていく。だから、いわゆる世間一般的な「怪獣映画」を期待すると、おそらくかなりの肩透かしを覚える作品となっている。
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じゃあ、アニゴジは、「怪獣映画」では無かったのかと問われると、そんなことは全くなく、至極「怪獣映画」だったと思うのだ。(以下、映画本編のネタバレがあります)
遡って1954年。日本で『ゴジラ』という作品が公開され、後に怪獣王と呼ばれる存在が銀幕デビューを飾ったその時。初代『ゴジラ』における魅力や内包するテーマは沢山あるが、私は大きく2つあると感じていて。
ひとつは、「特撮の映像的な面白さ」。言うまでもなく、着ぐるみの中に人間が入り、それがミニチュアの街を破壊する、その映像表現がセンセーショナルだったのだろう。そしてふたつめは、「科学・文化面での盛者必衰、人類への大いなるしっぺ返し」という強烈なテーマ性。水爆怪獣とも言われる背景からそれは明白であり、戦後間もない時期に公開されたことから、人知を超えた何か大きなものが日常を脅かす恐怖、その原因は我々人類にあるのだという世代を超えた後悔の念、そういった様々な感情が渦巻くテーマ性が魅力だと解釈している。
先の『シン・ゴジラ』は、「戦後まもなく都市を破壊するゴジラ」を「震災後まもなく都市を破壊するゴジラ」として描き直すことで、我々の記憶に新しい恐怖感を引っ張り出した。加えて、ゴジラの進化前を登場させることで、それまでのゴジラのキャラクター性をリセット。すなわち、「何かよく分からない巨大な存在」が襲い来るという不気味さを見事に演出していた。
54年当時に『ゴジラ』を鑑賞した人も、似たような恐怖感を覚えたのではないか。そう思いを馳せられるからこそ、本歌取りとして満足度が高かったのだ。
そんな『シン・ゴジラ』に続くアニゴジは、前述の「特撮の映像的な面白さ」「科学・文化面での盛者必衰、人類への大いなるしっぺ返し」のうち、ほぼ後者のみをピックアップしている。
『シン・ゴジラ』が初代『ゴジラ』が持っていた劇場効果を現代的にリバイバルさせたのに対し、アニゴジは、初代『ゴジラ』のテーマ性を抽出し、それをSF・哲学的アプローチで煮詰めた作風となっている。反面、「特撮の映像的な面白さ」はほぼ捨て置かれ、「怪獣とは」「ゴジラとは」といった観念的な問答が繰り広げられることとなった。
だから、ゴジラらしいといえばゴジラらしいし、らしくないといえばらしくない。しかし確かに、初代『ゴジラ』が持つテーマ性を汲んだ復古的なアプローチは存在しているものと思われる。
怪獣とは、ゴジラとは何か。『星を喰う者』では、ゴジラが核実験の末に誕生したという経緯も改めて語られ、遂には「人類はゴジラという存在を生み出すための過程の存在だったのでは?」という説まで提示される。そして、それを更に高次元から収穫しに来るギドラという存在。メトフィエスは、ハルオを人類の希望として祭り上げ、その憎悪を膨らませることでゴジラを更にゴジラたらしめ、ギドラに差し出すように暗躍する。
ギドラが地球の物理法則を超えた高次元からゴジラを摘みにやって来るというプロットは非常に興味深く、同じく虚淵玄氏が脚本をつとめた『仮面ライダー鎧武』のヘルヘイムの森を思い出すところ。人類とは全く異なった観点から、宇宙を渡り歩いて星々を喰い尽くす。その達観した概念と行動原理は人類には理解ができないし、理解させるつもりもない。ただそういう「システム」「決まりごと」として人類に襲い掛かる。
「データ上では生存者がいない」「記録ではギドラの存在が確認できない」といった演出が相次ぎ、ギドラの特異性が際立つ。そんなギドラを呼び寄せたメトフィエスは、ハルオをゴジラと対をなす人類の象徴としてこれでもかと祭り上げる。
そのプロットを堪能してから改めてメインビジュアルを確認すると、中央のハルオを抱くメトフィエスはミケランジェロの彫刻・ピエタを模していることに気付く。死んで十字架から降ろされたイエス・キリストを抱く聖母マリアのごとく、メトフィエスはハルオを利用しながらも、彼のゴジラへの憎悪と彼自身をこれでもかと愛し、同時に慈悲を覚えていたのかもしれない。
live and die(アニメ盤)/アニメーション映画『GODZILLA 星を喰う者』主題歌
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・・・といったモチーフも盛り込みながら、『星を喰う者』はいよいよ何かの哲学書を披露するかのように問答然と進行していく。私は前作『決戦機動増殖都市』の感想で、アニゴジのテーマについて以下のように書いた。
「怪獣論とその再解釈」という線で紐解いていくと、地球人にゴジラ、ビルサルドはメカゴジラ、エクシフがギドラ(キングギドラ)、フツアのモスラと、人種ごとに有名怪獣が割り当てられている構造が見えてくる。
そして順番に、「ゴジラ=憎悪」「メカゴジラ=矜持」「ギドラ=畏怖」「モスラ=信仰」の対象として機能しており、怪獣という人智を超えた存在をどう再定義するかにおいて、様々なケースが提示されいるのだ。
「アニゴジ」こと『GODZILLA』は、新しいアプローチで既存の怪獣映画の枠組みに反旗を翻しながら、その実、怪獣というシリーズの根底にあるアイコンを再解釈していく三部作と言えるのかもしれない。
ゴジラとは何なのか、メカゴジラとは何なのか、「怪獣」とは何なのか。それは合わせ鏡のように、各人種の価値観を反映した存在なのだろうか。
今後、本作における怪獣は多人種による争いのメタファーとして機能し、概念的な「代理怪獣戦争」の様相を呈していく、と予想するのは、さすがに飛躍しているだろうか。
・感想『GODZILLA 決戦機動増殖都市』 ゴジラ対メカゴジラの斬新なアプローチは、「怪獣」の再解釈に至るか - ジゴワットレポート
だからこそ、その完結編で最も魅力に感じたのは、ゴジラという存在が人類の憎悪をもって成立する、というアプローチだ。ハルオはゴジラを憎み、両親の、人類の仇として何としてでも倒そうとする。その感情があってこそ、初めてゴジラは単なる巨体ではなく「ゴジラ」という個を与えられる。そういった相対する感情があってはじめて、「怪獣」という概念が成立するのだと。ゴジラは、ハルオの憎悪があってこそ「ゴジラ」なのだ。
対抗するギドラは、畏怖の対象として、『鎧武』のヘルヘイムのように宇宙を渡り歩く高次元システムとして描かれる。エクシフの民は他ならぬギドラに星を滅ぼされたが、だからこそ終末論を唱え、ギドラに供物を差し出すべく暗躍する。人類の誕生から地球に干渉し、遂に最上の供物であるゴジラを誕生させ、それをギドラに差し出す。エクシフは、ギドラの祭壇を整えるための存在であった。
ギドラという高次元の神がいるからこそ、全てが無に帰すことを信奉し、それをハルオに強制していくメトフィエス。ハルオもその教えにほだされそうになるが、結果としてゴジラへの憎悪を保ち、エクシフの企みに反撃する。結果として、ギドラを地球の物理法則が適用される状況にまで引き込み、ゴジラに撃退させる。結果的に、ゴジラという不条理の象徴が同じ「地球サイドの者」としてハルオと共闘したのも熱い。
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物語のクライマックス、ハルオはたった一機残ったヴァルチャーを使って、ゴジラに特攻を仕掛ける。なぜハルオは、自ら命を絶ったのか。それは、「やがて巡り巡ってまた人類は反映し、結果としてギドラに収穫される」という宇宙のシステムへのささやかな反抗でもあり、彼の中で観念的にゴジラを倒すためである。
つまりは、ゴジラがハルオの憎悪をもってこそ「ゴジラ」なのだとしたら(「怪獣」なのだとしたら)、ハルオの憎悪が消えた時、それは「ゴジラ」でなくなること(「怪獣」でなくなること)を意味する。
彼は、フツアの民に自身のゴジラへの憎悪が伝播する前に、唯一の「ゴジラをゴジラたらしめる者」として散っていった。自死を持って、憎悪を終わらせる。そうすることで、観念的に、ゴジラを「ゴジラ」や「怪獣」というステージから引きずり下ろすことに成功したのだ。つまりは、「ゴジラを倒す」という、彼の悲願が達成された瞬間である。(言うまでもなく、オキシジェン・デストロイヤーと共に命を散らせた芹沢大助博士を踏襲した展開でもある)
といった、観念的な怪獣論、怪獣という存在をいかに再解釈し、それをSF的に表現するかというアプローチについては、非常に秀逸な作品だったと感じている。
反面、捨て置かれた「特撮の映像的な面白さ」を悔いる感情も確かにあり、もっと従来の怪獣ファン向けの要素、意地悪に表現すれば接待的な怪獣インファイトや特撮映像表現があっても良かったのかな、と思わなくもない。そこのバランス調整のメーターが振り切られているので、良くも悪くも賛否両論になったのだろう。
また、「ゴジラとは人類の感情によって怪獣として成立する存在である」という観念的な解釈は、怪獣を動物寄りの「獣」として捉えるファンとも相性がよくない。アニゴジのゴジラはキャラクター性が薄く、いわゆる「習性」的な感覚とは距離が取られているからだ(むしろ観念的な解釈の対象とするための意図的な距離の置き方に感じる)。よって、そのファン各々がゴジラをどのように捉えているか、「地球に棲む獣」か、「災害の擬獣化」か、「大自然の使者」か、「怪獣プロレスのキング」なのか、その認識が結果として個々の感想に繋がっていく、そういう作品だったように感じる。
奇しくも、『決戦機動増殖都市』公開時には『ランペイジ 巨獣大乱闘』という怪獣が殴り合う映画が公開され、『星を喰う者』と同時期には「アニメで特撮をやる」という指針がこれでもかと炸裂した『SSSS.GRIDMAN』が放映されるなど、アニゴジは諸々のタイミングが悪いと言えば悪かったのかもしれない。しかし、「怪獣をどう再解釈するか」、加えて、「初代『ゴジラ』が持っていたテーマ性をSF的に膨らませるとどうなるか」という面において、非常にゴジラしていたと私は思うのだ。
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仮にも「特撮」というジャンルは映像表現やそこにある技法がメインコンテンツであるが、そこから生まれた『ゴジラ』という作品から、あろうことか映像的な特撮表現の旨味を差し引いてしまう。それを、土台が消失した片手落ちと批難するか、攻めたアプローチとして賛美するか、そういった議論の面白さが魅力なのだろう。ここ一点において、私はどちらかというと後者寄りなのだ。
「VSシリーズ」「ミレニアムシリーズ」ときて、私は『シン・ゴジラ』やアニゴジ3部作を(これまた勝手に)「クリエイターシリーズ」と呼んでいる。庵野秀明、樋口真嗣、虚淵玄といった、名だたるクリエイターたちが、そのキャリアの中で培った技術と各々の「ゴジラ観」でもって、国産ゴジラという長寿シリーズに自由に再解釈を仕掛けていく。「こんなゴジラもあるのか」「ゴジラらしからぬけど確かにゴジラだ」。そういった議論がこれからも交わされていく、そんな流れが生まれたら面白いな、と。
アニゴジ3部作は、そんな私の身勝手な期待を満たしてくれた、「ゴジラ」の、「怪獣」の、映画であった。スタッフの皆様、ありがとうございました。さて、次の国産ゴジラは、いつどんな作品になるだろうか。楽しみに待ちたい。
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