ジゴワットレポート

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犠牲から責任へ。大人になるとは、バランスを取り続けること。感想『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』

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映画を観て感情を揺さぶられるケースのひとつに、「思わず自身の半生を重ねてしまう」がある。

 

物心ついてから、学生時代、趣味嗜好、就職、ライフステージの変化。その時々の選択や決断、日常の機微が、フィクションのフィルターを通してスクリーンに映し出される。そう感じた時、ぎゅっと心臓を握られるような感動を覚えるのだ。

 

この点でディズニー映画の攻撃力がいやというほど高いのはさておき、ヒーロー映画においてはスパイダーマンが強い。もちろん私は全身タイツは着ないし、蜘蛛のパワーも持っていないが、スパイダーマンは地に足のついた質感で「個」の話をする。「ピーター・パーカー」の話をする。だからこそ、重ねやすい。

 

最新作『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』。MCUにおける本作の立ち位置、監督の来歴やサブキャラクターの活躍、例のサプライズなど、語りたいポイントは沢山ある。ある、が、私は本作のテーマ性にひどく感銘を受けたため、そこに焦点を絞って感想を書き残したい。

 

以下、『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』の結末に触れるネタバレがあります。

 

 

引用:https://x.com/SpidermanMovieJ/status/2064980970475036833

 

「大人になるとはどういうことか」。本作はこの一点について、明確なアンサーを示してみせた。大人になるとはつまり、「バランスを取ること」。もっと言えば、「バランスを取ろうとすること」、「バランスを取り続けようとするマインドであること」。

 

自身を誇示する訳でもなく、かといって卑下もしないが……。まもなくアラフォーという半生を重ねてきたが、ライフステージの変化において様々な決断、マインドの移り変わりがあった。学生時代、オタクな少年だったので教室の中心には居場所がなく、嗜好と共に生きていた。趣味に明け暮れた大学生の頃、この領域で食べていこうと、業界にチャレンジしたこともあった。社会人になり、仕事に熱中し、プライベートを投げ打ってでも心身を注ぎ込んだ日々もあった。転職を経験し、人生のプランを練り直した。結婚し、配偶者や子供と生活するようになり、それさえあれば他に何も要らないと思う時もあった。そうやって、自身の「軸」や「方向性」は、その時々によってぶれてきた。

 

ただ、最近は思うのだ。必ずしも択一ではない、と。どうして、家族を大切にしようとすると趣味が犠牲になるのか。どうして、趣味に生きようとすると仕事が蔑ろになるのか。『仕事はする』『家族もやる』『趣味も楽しむ』、「全部」やらなくっちゃあならないってのが「大人」のつらいところだな。

 

肝要なのは。全部やること。そう自身に言い聞かせ、限られたリソースの中で最善を尽くすこと。そして、やれなかった部分、追いつかなかった部分にも、責任を負うこと。

 

若い頃は、視野が狭く、自暴自棄になることもあった。「ブロガーで食っていくんだ!サラリーマンなんてやめてやる!」と誓った夜もあった。「家族が何においても一番!仕事はどれだけ休んでも家族を優先する!」と傾いた瞬間もあった。なにかを大切にするならば、なにかを犠牲にしなければならないと、本能的に悟り、それこそが大人だと錯覚する場面があった。

 

でもやっぱり、多分、そうじゃないのだ。「なにかを大切にするにはなにかを犠牲に」と決めつけず、自身を制限せず、変化や柔軟さを受け入れる姿勢。そうだと決めつけず、隙あらば両取りしようとする強欲さや貪欲さ。全力でバランスに臨む、気概。

 

話を『スパイダーマン』に戻そう。

 

ジョン・ワッツ監督は、新しいピーター・パーカーをとても幼く造形した。それは過去の実写スパイダーマンシリーズとの差別化でもあったし、トニー・スタークの弟子のようなポジション、その時点でのMCU内でのアンサンブルを踏まえての判断だったのだろう。そして、それは見事な成功を収めた。

 

とはいえ私は、『ノー・ウェイ・ホーム』に残念さを感じてしまった。この幼いピーターは、3部作を経てもなお、自身の怒りや復讐心をコントロールできず、落下する恋人を助けることもできないのか。別次元のピーター達が共闘するのは熱いが、その代償に、肝心要の主人公の成長がスポイルされていないか。その点が、ずっと引っかかっていた。

 

 

幼く若いからこそのミス、しっぺ返し。周囲のピーターに関する記憶が失われた世界。そこでピーターは、ボロボロになりながらも使命を全うする。恋人や友人を犠牲にしたの「だから」、このヒーロー活動に殉じる「しかない」。嗚呼ピーター、なんと視野が狭いことか。

 

そんなピーターが、パニッシャーやジーンとの出会いを経て、メイおばさんから受け継いだ精神を胸に、成長していく。「なにかひとつ」じゃなくてもいい。助けてくれる仲間がいれば、全部自分がやらなくてもいい。誰かを頼って心身のバランスを取ってもいい。恋人も、親友も、自身のことを忘れている。けれど、もう一度それを願ってはいけないと、誰が決めたのか。出会い直したっていいじゃないか。

 

ピーター・パーカーか、スパイダーマンか、という問いに、しっかりと突きつけてみせる。「両方だ」、と。

 

世の中はドライで、フィクションのように都合よくはいかない。キスしたからといって恋人の記憶は戻らないし、手紙を読まれたからといってすぐに心は動かない。だって知らない人だ。そんな魔法のようなことは起こらない。ラストシーンだって、ネッドはその直前にMJからピーターの名を聞いている。あくまで彼の頭の中で情報が繋がってスパイディの中の人に気づいたのか、本当に奇跡が起きたのか、あえて描かない。なにもかも、そんなに上手くはいかないのだ。

 

しかし。視野が狭くとも、まだまだ若く幼くても、懸命にやったことは誰かがきっと見ているものだ。ニューヨーク市民は、入院し危篤状態に陥ったスパイダーマンを励まそうと、病院に大挙して押し寄せた。復活したその姿を、お祭り騒ぎで歓迎した。「バランスを取ろうとする」「それが成長」は、決して、過去を否定することでもない。振り返らず一心にやってきたこともまた、絶対に礎になる。

 

パニッシャーことフランクも、こう生きなきゃ「いけない」という自身に課した枷に、ピーターとのやり取りを通して気づいていく。ジーンも同じだ。姉を殺された復讐心、やり返さなきゃ「いけない」という視野を、ピーターとの精神の触れ合いを通して広げていく。

 

なにも、平凡であれ、という話ではない。違ってもいい。特別でもいい。尖っていてもいい。バランスは全てが平均点という意味ではなく、その人その人が目指すスコアやリソースの分配がある。ただし、その結果として生じる歪みや責任は、自分で引き受ける。それこそが成長であり、大人である、と。

 

新たに監督を担ったデスティン・ダニエル・クレットンは、ピーターをこのように造形した。順位はつけない、犠牲にはしない、全部やる。時に前向きに折り合いをつける。そして、責任を取れる人間になろうとする。これをもって完全に、この新しいピーターは幼さを脱し、ひとりの大人になったのだろう。華麗なる、そして泥臭い、脱皮だ。

 

敵をぶん殴り、吹き飛ばし、しかしながら糸を伸ばしてその相手を救う。中途半端だ!覚悟が決まっていない!と叫ぶのは、常に外野だ。人は常にグラデーションの中で、自分だけのバランスを探している。ピーターもまた、そうして生きるニューヨーク市民のひとりなのだ。この新しいフェーズに突入したピーターに、心から幸あれと祈りたい。

 

私も私で、また今日も全力で、人生のバランスを取っていきたい。