ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

感想『トイ・ストーリー4』 アンディ世代のアラサー、怒りながらむせび泣く

まさかこの歳になって、新しい感情を知ることになるとは思わなかった。

 

小学校低学年の頃に公開された『トイ・ストーリー』。続く『トイ・ストーリー2』。そして、ウッディたちの持ち主であるアンディが大学進学を機に実家を去る、そんな『トイ・ストーリー3』を、親元を離れた大学生の頃に観た。アンディとほぼ同じ年齢で、同じ時間経過を生き、『3』を観た際には実家に置いてきたおもちゃを思い出して涙を流す。

 

そんな自分にとって、『4』が制作されることそれ自体が、一種の「戦争」であった。

 

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「あの完璧とも言える結末に続編があって良いのか」という不安にも似た感情は、多くの人が抱いていたのではないだろうか。もちろん、ピクサー側もそれを分かっていないはずはなく、制作決定が報じられてからの各種インタビュー等では、いかに『3』の後として意味を持たせるのか、という意見が飛び交った。

 

そして、公開される予告。次第に明らかになるストーリーの詳細。『シュガー・ラッシュ:オンライン』の結末がどうしても飲み込めなかった自分にとって、今回の『トイ・ストーリー4』は、正直、期待より不安が大きかった。去る3月には、つい以下のようなことを書き殴ってしまうほどに。

 

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ウッディが、「子どもに寄り添うおもちゃ」という役割を放棄してしまうのではないか。そしてそれは、シリーズを通して描いてきたテーマと決定的に食い違ってしまうのではないか。唐沢寿明と所ジョージのコメントが流れる予告を観ては、より一層、その不安を募らせる日々が続いた。

 

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公開初日、私のTwitterのタイムラインは荒れていた。評価は完全に割れていた。とはいえ、重要なのは自分がどう感じるかだ。究極、誰かの答えは関係ない。アンディと同じ時間を生き、そして今は娘が生まれ、劇中の(ウッディの新しい持ち主である)ボニーと同じくらいの歳になった、そんなタイミング。私は、公開から一日遅れで『4』を鑑賞した。

 

まず、全編を通して目を見張ったのは、映像表現の進歩だ。冒頭の雨のシーン、降りしきる雨とそれを受けるウッディたちおもちゃの表面。雨がつたい、濡れたボディが街灯を反射する。見事な映像美に見とれてばかりであった。

 

また、『トイ・ストーリー』一作目において非常にキュートなのは、レックスという恐竜のおもちゃである。臆病なキャラクター設定も面白いが、何より、首がくるくると回転すると腹の部分の色合いがズレる、そこが実に可愛らしいのである。「おもちゃが自由に動く世界」とはいえ、玩具としての設計がそこに絶対的に生きている。この不自由さこそが、トイ・ストーリー世界観における肝の描写だと感じている。

 

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その点、今回初登場となったフォーキーというキャラクターは、不自由さを全身で体現したような存在だ。

 

彼が物語の進行につれてコミュニケーションを獲得していくほど、その身の不自由さが際立つ。ひょこひょことした歩き方や、すぐに壊れてしまうボディなど、不憫だからこその可愛さがシリーズでもトップクラスである。またこれは、同じく初登場となったデューク・カブーンにも言えることだ。「不自由さ」と「イキイキさ」の共存は、本シリーズにおける代名詞なのだと、再確認することができた。

 

シリーズお馴染みの冒険活劇や、ホラーテイスト、過去作を知るファンへの目配せに、小ネタを立て続けに挟んでいく語り口など、流石のピクサーといったところである。ランディー・ニューマンの音楽も安定の素晴らしさだ。また、今回メインで活躍するのは新しく登場したおもちゃたち。このバランスも、『4』で初めてシリーズに触れるかもしれない今の子どもたちへのメッセージが見て取れる。

 

また、これは個人的なことなのだが、前述のように劇中のボニーと娘がほぼ同じ年齢なので、「幼稚園に行きたくないとぐずる」「自分なりに頑張って工作したおもちゃを愛でる」という一挙手一投足が、驚くほど胸に刺さってしまった。最序盤、ボニーがフォーキーを作る一連のシーンで、もうすでに嗚咽をこらえるほどに泣いてしまったのである。「アンディ世代」であることにこんな属性まで付与されていたとは。思わぬ発見であった。

 

といったところで、以下、ネタバレに触れる形で本作のクライマックスに言及したい。

 

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大方の予想通り、ウッディはボニーの元を離れ、ボーと一緒に新しい人生を歩むことになる。とはいえそれは、安易な「役割よりやりたいことを優先しよう!」といったメッセージの押し付けではなく、作り手もかなり自覚的に、慎重に、フォローにフォローを重ねながら、恐る恐る、その結末に持っていった印象があった。

 

まず先にマイナスのニュアンスから吐き出してしまうと、怒りの感情が、今まさに頭の中をぐるぐるしている。時代と共に価値観は移り変わる。それは分かる。ボーが強い女性をこれでもかと体現し、ウッディを引っ張っていく構成。それも分かる。「子どもの側に寄り添うことがおもちゃの役割」という(穿った見方をすれば一種の自己犠牲とも言える)価値観が、最新の基準だとやや埃をかぶってしまう、そのセンシティブな感覚も、分かる。

 

その末に、ウッディが「ボニーのため」ではなく、「自分のため」に、彼女の元を離れる。「迷子のおもちゃ」になる。アンディを送り出し、ボニーの新しい友達であるフォーキーを献身的にフォローし続けた、そんなウッディの肩の荷を、そろそろ降ろしてあげても良いんじゃないか。フォーキーやギャビー・ギャビーという次の世代のおもちゃたちに、彼の尊い精神性は無事に受け継がれたのだから。そう感じたくなるバランスに持っていたことも、分かる。

 

しかし、果たしてこれは『トイ・ストーリー』でやる必要があったのか。ここが、どうしても飲み込みきれない。

 

テーマは分かる。メッセージも分かる。これがもし全く新規の映画で紡がれたものなら、「おお!現代的だ!さすが!」と、拍手したかもしれない。しかし、「与えられた役割を全うすることの尊さ」をずっと描いてきた『トイ・ストーリー』シリーズでこれをやるのは、本当に、正しい選択だったのか。これについては、流れるエンドロールを見つめながら、頭の中で怒りと悲しみがぐるぐると渦巻いていた。

 

「それをあえて『トイ・ストーリー』でやるからこそ、価値観の変遷、新しいメッセージの提示として、重要な意味がある」。分かる。分かるのだ。ピクサースタジオの狙いは理解できるのである。しかし、博物館行きを蹴り、アンディの元を離れても、それでもひたむきに「子どもの側にいる」ことを追い求めてきたウッディにこの物語を与えるのは、あまりに、あまりに挑戦的すぎやしないだろうか。なぜこのシリーズにこのテーマを持ち込んだのか。そのモヤモヤと消化不良は、おそらく、長い間私の中にくすぶり続けてしまうのだろう。

 

こういうことを書くと、よく「じゃあ貴方の中では『3』までで終わったことにすれば良い」などと言ってくる人がいるが、そういう人と私は、絶対的に趣味嗜好のレイヤーが異なるのだろう。そもそも、そういう話ではないのだ。

 

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しかし、しかし、である。

 

一方で、この怒りの感情を抱くこと自体に、罪の意識を覚えている自分がいるのだ。それは、物語冒頭からしきりに描かれる「ウッディはボニーに選ばれなかったおもちゃである」という点。ウッディは、ボニーにとっての「レギュラーのおもちゃ」にはなれなかった。更には、保安官バッチを外され立場まで奪われてしまう始末。まさかこのアプローチを重ねてくるとは思ってもみなかった。

 

というのも、「選ばれなかったおもちゃ」というのは、誰のどの家庭にも大なり小なり存在していたのだろう。私も小さい頃、一時期ハマったけども後で埃をかぶらせてしまったおもちゃはいっぱいあった。おもちゃ箱の底や押し入れの奥で、何年も出番がなく眠ってしまう。そんなおもちゃを確かに持っていた。

 

仮にあの頃の私にとっての、その「選ばれなかったおもちゃ」が、自由に動き、いつの間にか押し入れの中から消えて、自らの人生を歩んだとしたら。「選ばなかった」張本人である私は、それを咎めることができるだろうか。おそらく、自らの人生を歩み出したその足跡にすら気づけないのだろう。

 

おもちゃと遊ぶということは、このように、ひどく残酷なことでもある。出張先で娘のために選んで買ってきたおもちゃに娘が見向きもせず、次の日からいきなりおもちゃ箱の底の住人になってしまう。この時、娘に悪意は全くない。そこに何かしらの意図もない。ただ結果的に、「選ばれなかったおもちゃ」を生み出してしまった、その事実がそこにあるだけなのだ。

 

言うなれば、「原罪」である。おもちゃで遊んだ経験のある全ての大人が抱える、知らず知らずのうちの罪。他ならぬ私もそれを大きく背負っていたことに、否が応でも気付かされてしまった。

 

そうなると、じゃあ、今回のウッディの選択を、私は批難することができるだろうか。「ウッディよ、お前の役割は、子どもの側にいることじゃなかったのか」。そう、喉のぎりぎりまで出かかるも、でもそれは、自らの「原罪」を見て見ぬふりをする厚かましい言葉に過ぎないのではないか。私にウッディのそれを咎める資格はあるのか。

 

ウッディは一作目の頃から、ボーのことを特別に想っていた。彼女との些細な会話に鼻の下を伸ばす、そんな愛すべき保安官の姿を、VHSで、DVDで、Blu-rayで、何度も何度も目にしてきた。「選ばれなかった」彼がボーと寄り添い、そして今度は「誰かのためのウッディ」を作るために、「迷子のおもちゃ」を持ち主と引き合わせる活動に精を出す。これを、ウッディを何十年も観てきた私は否定し切れないのだ。なんとも、なんともずるい。

 

また、バランスとして、「役割からの脱却」だけを推し進めるのではなく、「その生き方」をひとつの選択肢として尊重する構成になっていた。ボニーの元に残ったバズたちは、引き続き、幸せで楽しそうに暮らしていくのだ。決して従来の価値観をないがしろにした結末にはなっていない。バズはウッディを信頼して送り出すし、ウッディは誰かを一緒に行こうと誘うこともしない。各々の価値観を互いに認めあった末の、違う道。そういうバランスに着地していた。

 

果たして、こうして文章に起こしたからといって、私の心はいくらか休まるのだろうか。エンドロールを観ながら、怒りが湧いたかと思えば、悲しみが襲ってきて、そして、ウッディの新しい人生に拍手を贈りたい自分もいる。むせび泣きながら、頭の中を駆け巡る様々な想いと向き合い続ける。こんな感情を味わったことは、この三十年ほどの人生において、初めてのことかもしれない。

 

知らず知らずのうちに背負っていた罪と、シリーズへのひどく屈折した思い入れ。人生の虚を突き、影を踏んでくる、そんなピクサーの妙技にまたもや感情をぐちゃぐちゃにさせられてしまった。映画を観てこんなことになるなんて、思いもしなかった。

 

「ウッディに幸せになって欲しい」と願う自分に、他ならぬ自分が怒っている。

 

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感想『X-MEN:ダーク・フェニックス』 禊、三度目の正直なるか。闇の不死鳥に別れを告げるシリーズ完結編

未見の人にシリーズの構造を説明する場面において、この実写X-MENシリーズは実に難易度が高い。

 

①まず普通に三部作があって(ここまでは普通)、②若い姿ということで新しいキャストで撮る前日譚がスタートして(スター・ウォーズの新三部作と同じなのでここもまだ良い)、③その前日譚と最初の三部作のその後がクロスした後に新たな未来が発生して(←????)、④つまり前日譚は最初の三部作に繋がらなくなり(←????「前日譚」とは????)、⑤前日譚の方の新キャストが最初の三部作とは全く違ったストーリーでシリーズに幕を下ろした。(←???!!???)

 

うーん、自分でも書いていてこんがらがってきた。と、まあ、こういった経緯を作り手も自覚的に応用していく中で、『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』で登場したデッドプールを先の③の結果を用いて「なかったこと」にしたり、設定上は「若かりし頃の姿」であったはずのジェームズ・マカヴォイとマイケル・ファスベンダーがそれぞれどの時代においてもプロフェッサーXとマグニートーであることが「問題なく」なったりと、アクロバティックな解釈を重ねてきたのである。

 

と、これだけ書くと作り込まれたシリーズ構成のようにも思えるが、実態は、様々な路線変更や仕切り直し、諸々の事情をその時々で落とし込んでいった結果に過ぎない。よって、全体像として捉えると、やけに散漫かつ不定形にも感じられてしまう。しかし、だからこそそこに生まれる愛着。たまに訪れる、見事な瞬間最大風速。言うまでもない、味のあるキャスト陣の熱演。

 

そのアクロバティックで凸凹なシリーズは、どうしようもなく、観る者を虜にするのである。今や「アメコミ映画=MCU」な気運すらあるが、そのMCUよりも早い2000年に一作目が公開され、今に至るまで足掛け19年、走り続けてきたのだ。その最新作『ダーク・フェニックス』が完結編と銘打たれたのであれば、そりゃあ、劇場で観ない訳にはいかないのである。

 

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とはいえ、とはいえ、だ。またもや前置きが長くなってしまうパターンなのだが、そもそもの、「またジーンの話をやるのか!?」感はやっぱり拭えない。

 

話は2006年公開の『X-MEN:ファイナルディシジョン』にまでさかのぼる。初期三部作の完結編である本作は、監督がブライアン・シンガーからブレット・ラトナーに交代した影響か、端的に言ってしまうと、随所に「残念」な空気が漂う出来となった。

 

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ミュータントの特殊能力を治してしまうキュアの登場を軸に、穏健派と強硬派が再び争う。その大筋は分かるのだが、プロフェッサーXがまさかの死を遂げたり、「ジーンの暗黒覚醒」「キュアの扱い」という大まかなふたつのプロットが上手く噛み合っていなかったり・・・。何より、「前二作からの着地がそれで良いのか」な展開が随所で発生するため、完結編としての自重に作品そのものが耐えきれていない印象が残る。アクションやVFXは物凄く楽しいのだけど。

 

その『ファイナルディシジョン』のにおいて、不名誉な負の象徴として君臨してしまったのが、ジーン・グレイというキャラクターだろう。実は生きていた彼女の暗黒面が覚醒し、その力が暴走していく。作品自体の「残念」な印象は、彼女の暴走により周りを巻き込んでいく様子とリンクし、余計に悪い意味で印象に残ってしまった。

 

制作サイドもそれにも自覚的なのか、ブライアン・シンガーが監督に復帰した『X-MEN:フューチャー&パスト』では、過去を改変して新しい未来まで作り上げてしまった。ウルヴァリンにとっての、ジーンが生きているタイムライン。新旧オールスター総出演による、まさかのアクロバティックな着地。

 

まるでブライアン・シンガー監督が、自らがメガホンを取らなかった『ファイナルディシジョン』の現実にフタをしてしまうような、そんな意地や執念すら感じさせる結末。これで、ジーン・グレイへの、つまりは『ファイナルディシジョン』への禊は、見事に済んだのだろう。安らかに、安らかに・・・。

 

と思いきや、ブライアン・シンガーの執念はまだ根強く生きていた。次作『X-MEN:アポカリプス』のクライマックスでは、ジーン・グレイが未知の強大なパワーを発揮し、強敵・アポカリプスを打倒するきっかけを作る。自らの力に怯えるジーンだったが、プロフェッサーXの呼びかけを受け、遂にその力を解放するのである。「強大な力」を暴走させてしまった『ファイナルディシジョン』から数えること10年。彼女はその力を仲間のために爆発させた。

 

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これで今度こそ、今度こそ、禊は済んだはずだ。X-MENシリーズ自身による、X-MENシリーズの救済。期せずして負のイメージを背負ってしまったジーン・グレイというキャラクターの魂も、さぞ、浄化されたことだろう。もう『ファイナルディシジョン』のことはいいじゃないか。そんな時もあったのだ。もう昔の話だ。色々あって、『デッドプール』や『ローガン』といったスピンオフも秀作だし、若いキャストで新たなX-MEN、いいじゃないか。うん、それでいいよね。うん。

 

からの、『ダーク・フェニックス』である。

 

宇宙にて太陽フレアをその身に浴びてしまったジーンは、自らに眠る暗黒の力を解放させてしまう。暴走し、周囲を巻き込んで増大していくそのパワーに、プロフェッサーXたちはどう立ち回るのか。・・・って、おーーい!!おーーい!!また!!またジーンの話なのかーーーーーい!!!!さすがに監督はサイモン・キンバーグに変わったけれど、それでも!!それでも!!まだジーンの話をやるのかーーーい!!!!!ジーンの強力なパワーを周囲がヒヤヒヤと扱うパターンを何度観ればいいんかーーーーい!!!!!!!!! 

 

と、まあ、公開前から、「X-MEN、またX-MENみたいなことやってる・・・」という妙な感覚に支配されていた、最新作『X-MEN:ダーク・フェニックス』。観終わった感想としては、「X-MENだった」という一言に尽きる。実に、X-MENであった。

 

そんなこんな前置きに約3,000字。なんてこったい。以下、『ダーク・フェニックス』のネタバレに触れる形で感想を記す。

 

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この『ダーク・フェニックス』には元となるアメコミ原作が存在している、というのを分かった上であえて言うのだけど、やはり、宇宙からの未知のパワーを話の中心に置くのは、シリーズ過去作との喰い合わせが悪かったのではないだろうか。

 

そもそもミュータントという存在は、作中におけるマイノリティとして、マジョリティ(人間)から差別の目を向けられてきた。人間対ミュータントという大きな構造の中で、ミュータント側の穏健派と強硬派が意見をぶつけ合わせる。それこそが、X-MENというシリーズの肝である。『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』においても、強制収容所まで扱いながら差別と偏見を色濃く描いてきた。

 

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しかし、ここに宇宙からの超絶パワーが加わってしまうと、途端に、「マイノリティとマジョリティ」の構造がぼやけてしまう感覚があるのだ。プロフェッサーがミュータントの地位向上を目指して懸命に働きかけるのだけど、ジーンの暴走がそれを無に帰してしまう。その虚しさと悔しさは、根幹に「ミュータントの抗えない性」のようなものがあって初めて成立するのではないだろうか。

 

確かにジーンは、プロフェッサーによって封印された側面を心の内に秘めていたけれど、きっかけは宇宙からの謎パワーである。「ミュータント側の事情を考慮せずに一緒くたに差別してしまう人類の愚かさ」というアプローチもあったのかもしれないが、やはり、これまで何年も描いてきた「マイノリティとマジョリティ」の構造がぶれてしまったのが、実に惜しい。宇宙謎パワーを投じてしまったら、それは構造として整理されすぎてしまうのである(「差別意識」ではなく、分かりやすい「原因」がそこに存在してしまう)。どうしようもない、煮え切らない、そんな両陣営の関係が底にあるから意味があったのではないのか。

 

なので、「またジーンの暗黒パワーの覚醒に周囲が振り回されるパターンか」という目線と、「X-MENシリーズがこれまでやってきたことが構造的にぼやけてしまっているのではないか」という感情が、鑑賞時の私の脳内の大部分を占めていた。

 

ミュータントたちの個性豊かな戦いぶりは観ていて実に楽しいし、愛着のあるキャラクターばかりなので、心が躍るのは確かなのだ。特に、マイケル・ファスベンダー演じるマグニートーは今回も本当に素晴らしい。前作で家族を失い、逃亡者としての属性を持ちながらも、結局は非情になりきれない男。鉄を操る能力を解釈の中で応用していくのが素晴らしく、複数の銃を一斉に敵に向けたかと思えば、容赦なくその命を奪ったりもする。ダーティーなかっこよさが際限なく発揮される。眼福である。

 

他にも、ワイヤーを使った実に「X-MENらしい」動きを見せるビーストや、ジェニファー・ローレンス扮する勝気なミスティーク。ジェームズ・マカヴォイの、清濁をその一身に抱え込むようなプロフェッサーの造形など、『ファースト・ジェネレーション』からの蓄積が魅せる魅せる。

 

しかし、やはりどうしても、「これで最後」を感じさせる万感の思いには届かない。前述のそもそもの引っ掛かりが終始付きまとってしまうし、演出のテンポや起伏についても、ハッタリやケレン味が弱い。終盤、敵からジーンへの「お前の力は周囲を巻き込んでしまう」という問いかけがあり、まさに作品テーマを象徴する問題提起なのでどう切り返すか期待したところ、「宇宙まで浮かび上がって自滅すれば巻き込まない!」ときたものだ。いや、それでいいのか、本当にそれでいいのか・・・。

 

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とかなんだかんだいいつつも、プロフェッサーとマグニートーがカフェのテラス席でチェスをするシーンなんかを観せられてしまっては、条件反射のようにグッときてしまうのである。このシーン、「まさかチェス盤が出てくる? こ、これはまさか、チェ、チェ、チェ、チェス~~~~~!!!!!やっぱりきたーーーー!!!!」という脳内実況がとても五月蠅かったのだけど。

 

結局のところ、要所で好きなポイントは無数にあるのだけど、そもそもの基礎工事があまり上手ではなかったのではないか。アクロバティックで、凸凹で。まあ、色んな意味で、実に「X-MENらしいX-MEN」であったとも言える。私は『ファースト・ジェネレーション』がとにかく大好きなので、そのキャラクターたちが結末を迎えるそれ自体に気持ちが高まりはするものの、やはりもう少し、「サーガ完結編」としてのスケール感が欲しかったのが本音である。(『フューチャー&パスト』なんて規格外の離れ業をすでにやってしまったのも大きい・・・)

 

さて、権利も移行し、MCUにX-MENが合流する土台は整ったが、果たして本当に現実のものになるのだろうか。MCUの世界観において、これまでミュータントは全く描かれてこなかったが、どのようにそれを取り込んでいくか。期待と不安を抱きつつも、今はまず、完走したX-MENをじっくりと噛みしめたい。アメコミ実写映画の土台は、むしろ彼らこそが築いたといっても過言ではないからだ。

 

ありがとう、X-MEN。そしてさようなら。

 

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感想『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』 お祭りの余韻に浸る観客を背中から撃つ奇作

何より、『エンドゲーム』からまだ2ヶ月しか経っていないのが本当に信じられない。

 

ネタバレ厳禁な内容を受け、Twitterでは伏せ字ツイートが横行。次第に公式サイドが情報をどんどん公開し始め、それに連なってか、全世界の興行成績も破竹の勢いで伸び続ける。もはや数年前の伝説の祭り的な風格すらあるのに、まだたったの2ヶ月である。そんな馬鹿な。ピム粒子は使っていないはずだが・・・。

 

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MCU、ひいてはそれを製作するマーベルスタジオの胆力には、最新作を観る度に感服させられてきた。それは単に、作品の平均クオリティが高いとか、キャラクターの造形が綿密だとか、美術の精度が高いとか、そういう通り一遍なことではない。10年以上をかけてシリーズを継続・発展させる、その計画性と構成力。何よりこれに尽きるだろう。

 

『アイアンマン』に当時まだ汚れたイメージが拭えなかったロバート・ダウニー・Jrを起用し、そのイメージさえも作品の表現に引用してしまう。ヒーローの個別作品を少しずつ繋げ、まずは『アベンジャーズ』で一発決める。フェイズ2からは世界観を宇宙に広げ、これが後のサノス襲来への下地となり、新たなヒーローの参戦とアベンジャーズそのものの是非を問題提起として設定する。大きな戦いの後には『アントマン』のような小休止を配置し、皆がすでにオリジンを知っているスパイダーマンはそれをばっさりカットして参戦させる。ヒーロー同士の仲間割れを契機にファンの心を揺さぶっておいて、『インフィニティ・ウォー』では最悪の結末、『エンドゲーム』では思い入れを取り込んだ走馬灯を映像化する。

 

単に「面白い連作」を送り出すだけに飽き足らず、シリーズ全体のロードマップの上で、個々の作品にきっちりと役割を振り分ける。その「ただの続きもの」ではない病的なまでの作り込みに、全世界のファンが魅了されてきたのだ。

 

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その点、最新作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』も、マーベルスタジオの技巧が光る一作であった。

 

全世界のファンは、世界最大のお祭り『エンドゲーム』をすでに体感した。10年間を超える思い入れを背負ったヒーローが大集合し、壮絶な戦いが繰り広げられ、シリーズの看板であったトニー・スタークが死を迎える。スティーブはキャプテンを引退し、ソーはアスガルドの王を退く。不可逆性をこれでもかと突きつけた『エンドゲーム』を観た今、観客はどう感じ、何を求めているのか。このタイミングでスパイダーマンの最新作が公開されるにあたり、その作品に何を期待してしまうのか。MCUの計画性と構成力の高さは、今回、「観客の感情に先手を打つ」という形で発揮された。

 

以下、ネタバレに触れる形で感想を残す。

 

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トニーを失った世界。彼に見込まれてアベンジャーズに加入したピーターが主役を務めるとあらば、10人が10人期待するのは、「トニーの後を継いで戦うピーター」の背中だ。

 

実際、予告もストーリーもその展開を推しており、作中のピーターも、その重圧に押し潰されそうになる。そんなこんな色々あって、ピーターはトニーの意思を継ぎつつも、決して真似をするフォロワーではなく、自らの信念とスタイルで次世代のヒーローに育っていく、という物語を、誰もがなんとなく想像してしまう。

 

実際に、物語の大枠はそのように進行する。スパイダーマン特有の、焦れったい恋模様や賑やかな学生生活を描きながら、ピーターは、トニーが遺したあまりに大きなプレッシャーに悩まされる。

 

しかし、中盤から話の構造が一変。異世界から現れたとされる新ヒーロー・ミステリオが、実は超映像技術によって作られた偽りの存在であったことが明かされる。ドローンを使って映像を実景に映し出し、電磁パルスを発生させ、いるはずのない怪物を登場させる。「家族の仇だ!」と威勢よく戦うやけに人の良いオジサンは、最高に胡散臭いペテン師だったのである。

 

この展開によって、観客は、まるで背中から撃たれたような感覚を抱くのだ。10年以上もMCUを追いかけ、あんなヒーローも、こんなヒーローも、スクリーンで目撃してきた。その戦いに拳を握り、涙を流してきた。つい2ヶ月前の『エンドゲーム』はその集大成であり、スタジオから「シリーズを愛してくれてありがとう」「ヒーローを応援してくれてありがとう」という感謝が絶え間なく発信された。

 

その2ヶ月後、今まで笑っていた表情に急に影が落ち、「でもそのヒーローって全部作りものですから!」と冷たい口調で言い放たれる。そんなことはとうに理解した上でフィクションの大波に乗っていたのに、急に現実を突きつけてくるのである。ミステリオというキャラクターは、『エンドゲーム』の対極に位置するカウンターパンチな存在なのだ。

 

ミステリオは、我々がTwitterやInstagramで見慣れた、合成用の撮影スーツを着て劇中に現れる。トニー・スタークではなく、ロバート・ダウニー・Jrが着ていた、勇ましいヒーロースーツを重ねがけするための衣装。一気に舞台裏を見せられたような居心地の悪さは、そっくりそのまま、ピーターの戸惑いとシンクロしていく。『エンドゲーム』で熱が高まった観客に冷水をぶっかけるこの展開は、ピーターが指針を失って顔を強張らせるそれと非常に近い。

 

つまりは、劇中におけるトニー・スタークの死という喪失感を、メタフィクションぎりぎりのアプローチを通して、物語内だけでなく、現実の我々にまで擬似的に体験させるやり方である。トニー・スタークの死は、確かに哀しい。しかしそれは、言うなればフィルムの中のお話。でも、実はそのフィルムこそが嘘っぱちだとしたら。そんなものは誰かが作った紛い物だったとしたら。この足元がぐらつく感覚こそが、偉大なる鉄の男を失ったピーターのそれなのかもしれない。彼をアベンジャーズに誘い、導いてきた存在こそが、トニーだったからだ。

 

「ピーターがトニーの死を精神的に乗り越える」というプロットを、「ピーターが『観客に突きつけられた嘘という現実』を打倒する」に重ね合わせる。これにより、ピーターは物語内でヒーローとしてまたひとつ成長すると同時に、『エンドゲーム』で高ぶっって踊りだしていた観客の背中に定規を差し込むような、そんな役割を果たしている。「お祭りは終わりましたが、まだまだヒーローを信じていきましょうね」、と。

 

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「嘘は真実の影」とは東野圭吾原作の『新参者』シリーズのフレーズだが、今作『ファー・フロム・ホーム』は、真実を一層際立たせるために嘘を濃く描いた。

 

言うまでもなく、この場合の「真実」は、「ヒーローの実在性」である。ヒーローが活躍する世界観こそが、我々が映画館の入り口をくぐった後からは、間違いのない「真実」なのである。『エンドゲーム』の後を優しくフォローし、感傷に浸らせながら「よしよし」するような作品にも、いくらでもできただろう。しかしMCUは、そんな安易なアプローチは行わない。観客がそういった「よしよし」を求めていると分かっていながら、それを正面からはやらない。嘘を濃く描き、足元を不安定にさせ、それでもめげないピーターの決意を描く。「これからも、こうやって『真実』を牽引する存在がいますよ。安心してついてきてください」。その見事な感情の先回りには、空いた口が塞がらない。よくもまあ、やってくれる。

 

クライマックスの、縦横無尽に無数のドローンと渡り合うスパイダーマンは、実に見どころだらけだ。今作のスパイダーマンのアクションは、実写映画がもう二度もリブートされ、昨今ではPS4のゲームも話題になったが、その全てを超えてみせる!・・・といった気概を感じさせる。また、敵の魔術にも似た超映像技術を、スパイダーセンスの空間把握で打破する流れも天才的だ。オマヌケに見えてしまったニックこそも「嘘」だったというのが、これまた洒落が効いている。オチとして、痒いところに手が届きすぎだ。

 

もっといくらでも感動的に、感傷的に、彩ることができただろう。しかし、このタイミングでこそ、「ヒーロー映画」というジャンルのある種のタブーに踏み込む。こういったアプローチをきっちりやり抜けることこそが、MCUというシリーズの強さだろう。「面白かった」というよりは、「おみそれしました」が強い。そんな、見事な奇作であった。

 

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「ポケモンは動物虐待では?」という指摘に思うこと

いつも楽しく聴いているラジオ番組『アフター6ジャンクション』。5月31日(金)の放送回、お馴染みの映画評論コーナー「ムービーウォッチメン」で宇多丸さんが扱ったのが、実写ポケモンこと『名探偵ピカチュウ』。

 

これまであまりポケモンに触れてこなかったという宇多丸さん。今回を機にDSを買って原作ゲームの『名探偵ピカチュウ』をプレイしたり、『ミュウツーの逆襲』のディスクを仕入れたりと、流石のハードな予習ぶり。オープニングの山本アナとのポケモントークなど、聴いていて笑いを堪えるのに必死でした。

 

 

といった一連の流れの中で、宇多丸さんが言及していたポイント。「ポケモンって動物虐待では?」問題。これ、実は割と「語りがい」のあるポイントだと前々から思っていて。

 

宇多丸さんは、一週間で急にポケモンというコンテンツに触れたからこそ、「捕獲」からの「使役」という土台と、『ミュウツーの逆襲』における生命倫理なテーマとの組み合わせに戸惑いを覚えた、とのこと。(ちなみに、『名探偵ピカチュウ』はその「虐待では?」を上手くロンダリングしているから良い、という評だった)

 

「ポケモンと動物虐待」の問題は、過去にも色々と話題になった。もちろん、ポケモンを長年愛好しているからこそ、私自身も「いやいや!ちょっと待って!」的な感覚が無いといったら嘘になる。ネットでも、この手の指摘に対しては、「フィクションと現実の区別がついていない発言」「非実在性動物(笑)」と辛辣な反応が並ぶことが多い。

 

「ポケモン」は人間に虐待されている? 動物愛護団体が「ピカチュウ」解放運動 : J-CASTニュース

PETA、ポケモンを動物虐待と非難 | 財経新聞

 

ただ、私もポケモンが大好きだと前置いた上であえてこう書くが、「野生の生物に攻撃を加え」「弱らせて捕獲し」「特定の環境に軟禁し」「戦闘用に使役する」というポケモンの基礎たる設定は、そういう指摘を受けてもある程度仕方のない性格を有している。こうやってあげつらうことが、容易にできてしまうのだ。

 

しかし、私の心に棲む「ポケモン大好き少年」は、こういう指摘に顔を真っ赤にして怒ろうとする。「ポケモンは人間の仲間であり友達なんだ!」「トレーナーとの友情が育まれる世界観なんだ!」、と。決して、虐待などというカテゴリーに属する行為ではないと、強く主張したい衝動に駆られてしまう。

 

この辺り、ポケモンというコンテンツの「巧さ」があると感じている。というのも、前述の「虐待では?」という指摘に対し、論理的な(決定的な)反証を繰り出すのは、実は結構難しい(「そもそもがフィクションだろ」はこの場合あまりにも直線的すぎると感じる)。だって、確かに「捕獲」して「使役」しているのだ。そこは構造として揺るがない。それでも、先の指摘に腹の底で火花が散ってしまうのは、ポケモンというコンテンツが、多重的にその疑惑を中和し、我々ユーザーの感情にじんわりと訴え続けてきたからだ。

 

論理的な反証というより、感情面に訴える、非常にエモーショナルな「かわし方」。そして、ここにこそポケモンというコンテンツの肝があるのではないか。以下、私なりに思うその背景を三つほど挙げてみたい。

 

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第一に、ポケモン世界観におけるポケモンバトルは、スポーツのように位置づけられている。まずもって、これが非常に大きい。ポケモンリーグという設定があり、各地には公認のジムリーダー、四天王からのチャンピオンと、「競技」の側面が強い。実社会にも闘牛や闘犬という文化があるため、想像としては容易だ。

 

スポーツの色が濃くなると、日本人はそこに「スポーツマンシップ」や「フェアプレー」といった、どこか清廉な精神性を見い出す。あくまで「競技」であるため、それは「虐待」とはかけ離れた、気高さすら有する行為なのだと。そういう印象が付加される。また、本筋のゲームにはシリーズを重ねていく中で「コンテスト」の設定も登場し、「かっこよさ」「うつくしさ」等を競う概念も存在する。これもまた、実社会におけるトリマー等の職業を考えれば、イメージが湧きやすく、グッと身近に感じてくる。

 

ポケモンバトルにスポーツの性格やコンテスト等の幅を持たせることで、「捕獲」「使役」という状況の印象がガラッと変化する。ここは実に上手いなあ、と感じるのだ。

 

ポケモン とびだすえほん ちょうせん! ポケモンコンテスト (ポケモンとびだすえほん)

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第二に、作中に登場するロケット団などの組織が挙げられる。ポケモンを悪事に利用する集団だが、メディアによっては結構ひどいことをしていたり。

 

私が一番印象に残っているのは、『金・銀』におけるヤドンのしっぽのくだり。ヤドンの尾を切って売りさばくロケット団は、当時の私には結構なショックだった。まあこれに関しては、実際にも動物の毛皮を扱う是非が叫ばれたりもするので、一筋縄な問題とは言えないところ。掘っていくと、いつの間にか動物を食する是非やエシカル・ヴィーガンにまで波及してしまう話だ。誰だって殺してる、何かを殺してる、Bastard! Oh 眼には眼を。

 

話を元に戻すと、ロケット団ら「悪の組織」は、何かとポケモンにきつく当たることが多い。ゲームの主人公は基本的に喋らないが、プレイヤーが「ロケット団め!ポケモンにひどいことを!許さないぞ!」という義憤に駆られるようにシナリオが作られており、そうして相手側に「虐待」の属性を持たせることで、敵対するこちら側は自動的にそこから免罪される、という構造が生まれる。これも、正面から感情に訴えるやり方と言えるだろう。もちろん、私はこれを良い意味で捉えている。

 

捕まえたポケモンにはニックネームをつけることができ、これもまた、ロケット団的なポケモンの扱い方とは対極にある。ポケモンは決して「使役」するものではなく、そこに「愛着」を持って接するものだと、ユーザーがそう感じられるゲームシステムになっているのだ(「旅パ」の概念にも通じる)。「ポケモンにニックネーム」というと、漫画『ポケットモンスターSPECIAL』を想起する人も多いだろう。

 

ポケットモンスタースペシャル(1) (てんとう虫コミックススペシャル)

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第三に、アニメ『ポケットモンスター』での描かれ方だ。ゲームとは違い、サトシという主人公が自らの感情を言葉にするのだが、彼は、ポケモンは友達であり仲間であると何度でも主張する。

 

思い出深い第1話。ボールに入ることを嫌がるピカチュウは、サトシに電撃を浴びせてまでそれを拒否する。中々懐かず、不安たっぷりの旅の始まり。しかし、オニスズメの群れに襲われるピカチュウを、サトシはボロボロになってでも守ろうとする。それに感銘を受けたピカチュウは、電撃で群れを撃退。ふたりの間に、互いを認め合う友情が育まれた瞬間である。

 

これはリメイク映画『キミにきめた!』でも描かれたシークエンスで、私も世代のひとりとして、観る度に心の奥が熱くなる。こういったシーンを皮切りに、アニメ『ポケットモンスター』では、人間とポケモンの友情が何度も繰り返し描かれる。だからこそ、バタフリーとの別れに涙し、指示を聞いてくれないリザードンを前に絶望し、造られた存在・ミュウツーとの戦いにやるせなさを覚えるのだ。

 

「人間とポケモンの友情」が下敷きにあってこその展開。それが、原作ゲームに対するアニメ版最大の特徴と言えるだろう。

 

劇場版ポケットモンスター キミにきめた! [Blu-ray]

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先日のトークイベントでも少し触れたが、つい最近まで、『ポケモン・ストーリー』という本を読んでいた。

 

これは、ポケモンがどのような背景で生まれ、どのようにしてビッグコンテンツに成長してきたのか、その過程をインタビューの生の声を元に収録したものである。ポケモン世代としては、あの頃無邪気に遊んだゲームがビジネスの観点から語られてるので、読んでいて非常に面白い。(ポケモンショック当日の混乱模様やその後の政府絡みを経て放送再開に至るまでの流れは、読みながら思わず手に汗を握ってしまった)

 

同書には、ポケモンの根底には田尻智氏の昆虫採集の体験がある、という記述がある。そのノスタルジックな精神が基盤にあり、アニメ化の際には、スタッフ全員にゲームをプレイすることを義務付けたという。あの、野山を駆け巡る際の、万能感にも似た「わくわく」な感情。それこそが、ポケモン世界観の根にある。

 

ポケモン・ストーリー

ポケモン・ストーリー

 

 

だからこそ、スポーツ的にトレーナーが存在し、非道のロケット団が現れ、アニメでは他生物との絆を強く主張する。全ては「わくわく」が持つノスタルジックな原体験、その輪郭を維持するためのものだ。そこに、論理的な解説や、理屈は必要ない。心に訴える「原体験」の尊さ、仮に昆虫採集をやったことがなくてもそれを疑似的に体験できるような、真っすぐ感情に訴え、くすぐってくる性格。それこそが、ポケモンなのだろう。

 

つまりは、「ポケモンは動物虐待では?」の問いに対し、ポケモンで育った人間がつい反射的にムカッときてしまう、その感情の形成こそが、ポケモンというコンテンツの何よりの実績なのである。

 

ポケモンは、ゲームやアニメや漫画、その他様々なメディアで、多重的に、何年もかけて、ユーザーの中に「その感情」を形成してきた。ポケモンとの関係は、決して虐待なんかじゃない。何らかの根拠や理論を探すより先にそう叫びたくなるほど、我々は、ポケモンというブランドに丹念に育てられてきた。

 

そしてこの問題については、『ブラック・ホワイト』においてプラズマ団がポケモン解放を訴えるなど、作り手側もいくらか自覚的なのでは、と感じている。(ストーリー的には裏があるのだけど、あくまでひとつの思想として・・・)

 

ポケットモンスターブラック・ホワイト 公式完全ぼうけんクリアガイド (メディアファクトリーのポケモンガイドシリーズ)

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点だけをあげつらうと確かに「虐待」と言えてしまうかもしれない、ポケモン原作ゲームの根本的なメカニクス。そんな指摘を、ノスタルジックな原体験をスタートに、コンテンツの柔軟さと多彩さ、そして確かな年月をかけて、ゆっくり確実に、感情に訴えながら「かわして」いく。それこそが、ポケモンの面白さであり、盤石さなのだろう。

 

新作『ソード・シールド』も、今から非常に楽しみである。

 

ポケットモンスター Let's Go! ピカチュウ- Switch

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感想『ゴジラ / キング・オブ・モンスターズ』 多様性の悪魔合体と、ドハティ監督の「愛」ほとばしる豪腕ぶり

「私とゴジラの思い出」から語っていくと相当長くなってしまうので割愛するが、要は、平成VSシリーズで育った世代である。

 

ゴジラは人類の脅威ではあるが、明確な敵とも言い切れず、毎年ゲストで登場する怪獣とそれらに翻弄される人間たちが、あの手この手で多彩な戦況を描いていく。そういった構図で育ったひとりとして、今作『ゴジラ / キング・オブ・モンスターズ』(通称『KOM』)の語り口は、やけに馴染みが深く、分単位で監督への信頼度が増していくばかりであった。

 

The Key to Coexistence / Goodbye Old Friend (From Godzilla: King of the Monsters: Original Motion Picture Soundtrack) [Suite]

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「怪獣映画とは何か」。特撮ファンにとっては禅問答のようなこの問いに、我々はその半生を振り回されてきた。

 

同世代の方なら肌で理解してくれると思うが、オタクとしてある程度のお金と時間が自由になった年頃、国内の巨大特撮は冬の時代に突入していた。ゴジラは『FINAL WARS』で幕引きを迎え、ガメラも続きはなく、ウルトラマンもレギュラー放映が途絶えていた。「巨大特撮とは」、「怪獣映画とは」、なぜ作られないのか、なぜ流行らないのか、我々は何を愛すれば良いのか。オタクのこだわりと面倒臭さを不眠不休で煮詰めたような議論が、ネットでは盛んに行われていた。

 

「特撮」という単語の比重が、いつしか仮面ライダーやスーパー戦隊といった等身大ヒーローに傾きかけていた頃。国内でもちらほらと巨大特撮復興の兆しが見えていたが、同時期に、海を超えて巨大な黒船が押し寄せてきた。それは、今でもカルトな人気を博する『パシフィック・リム』や、他でもない、ギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA』であった。昭和の時代、先人たちが海外にまで届かせた「トクサツ」の文化が、濃すぎるほどの愛でコーティングされ、祖国・日本に投げ返される。何十年越しかの、文化のキャッチボールである。

 

GODZILLA[2014] 東宝Blu-ray名作セレクション

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気付けば、ウルトラマンは毎年新作が制作され、『シン・ゴジラ』も国民的な大ヒットを記録。更には、立て続けにアニメ新作三部作まで公開された。海外からも引き続き、『キングコング:髑髏島の巨神』『ランペイジ 巨獣大乱闘』など、「我々」の琴線を鷲掴みにするような作品が供給される。冬の時代などと嘆いていたほんの十数年前からすると、信じられないほど情勢は変化した。なんとも幸せなことである。

 

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そうして、今や「怪獣映画とは何か」という問いの答えが絶え間なく供給される時代になった。その最新作『ゴジラ / キング・オブ・モンスターズ』において、マイケル・ドハティ監督は、「ぐちぐち語る必要はねぇ」と言いたげに腕まくりをしたかと思えば、「愛」と一言だけ、簡潔に口にした。まさに、その一言に集約された逸品であった。

 

ゴジラというコンテンツの面白さは、その多様性にある。戦争や災害の擬獣化として恐怖をもたらす時もあれば、怪獣たちをプロレスで屈服させる暴れん坊なチャンピオンの顔も見せる。私が観て育ったVSシリーズのように呉越同舟でしか語り合えない危うい存在でもあり、または怨霊の集合体、もしくは環境破壊からのしっぺ返し、例えばガイアが遣わしたバランサー、更には・・・ といったように、その時々とクリエイターによって様々な解釈が与えられてきたのが、ゴジラの面白いポイントだ。

 

だからこそ、ファンの数だけゴジラ像がある。ゴジラには畏怖がないと駄目だと主張する人もいれば、怪獣と取っ組み合って勝利してこそのアイデンティティだと語る人もいる。『シン・ゴジラ』において東日本大震災を模したかのように猛威をふるったゴジラが、ほどなくして植物の王として地球に君臨する。その振れ幅の大きさ、多彩な解釈を受け入れられる懐の大きさこそが、ゴジラなのである。だからこそ、怪獣の王として、何十年も制作され続けてきた。

 

シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

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GODZILLA 怪獣惑星 Blu-ray スタンダード・エディション

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ドハティ監督は、ここのところをよく踏まえたのかもしれない。同時に、誰よりもゴジラを愛するゴジラオタクのひとりとして、その多様性や懐の大きさを「愛」という箱にぎゅうぎゅうに詰め込んだ。

 

ミレニアムシリーズの「ゴジラシリーズそのものを再解釈していくフォロワーな性格」を土台に、平成VSシリーズの「怪獣同士の決闘の図式」「人間とゴジラの奇妙なシンパシー」を展開。同時に、「怪獣のキャラクター性」「巨体同士が(気軽に)取っ組み合うテンポ感」という昭和シリーズのチャンピオン気質を持ち込み、ダメ押しのように「核とゴジラ」という初ゴジのテーマを底に敷く。

 

ゴジラオタクが一度は夢想する、歴代ゴジラが持つ多様性の悪魔合体。それこそが、『ゴジラ / キング・オブ・モンスターズ』そのものと言えよう。それでいてドハティ監督が巧いのは、それらがただ同人的なノリで列挙されるのではなく、一旦飲み込んで絶妙にミックスしてから出力することで、「愛という名の作家性」なフィールドに力技で引きずり込んでいるところだ。まさに豪腕。土俵際の戦い。ドハティ監督は、見事にそれに勝利したと言えるだろう。

 

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大筋を「ゴジラとキングギドラの戦い」に絞り、ラドンとモスラが活躍するバランスをしっかりと調整する。気を抜くと皆が等しく活躍してひっちゃかめっちゃかになりそうなところを、ちゃんと的を絞っている。「理性のあるタイプのオタク」である。唇を噛み締めながらのクレバーな判断だ。

 

同時に、キングギドラの吐く光線が見事に「あの軌道」だったり、ゴジラが最後に到達する姿だったり、モスラが羽化する際の神々しい演出、火山から出現するラドンなど、ゴジラシリーズを知っている者なら何度でもニヤけてしまうカットばかりを取り揃える。

 

光線を描き続けてきた男 飯塚定雄

光線を描き続けてきた男 飯塚定雄

 

 

何より、怪獣というフィクションに対する照れが微塵も感じられない。マイケル・ドハティという男が、誰よりも怪獣というアイコンを愛し、そのフィクションにいかに虚構なりの真実味を覚えてきたかの答えが、クリーンの端から端まで充満している。怪獣同士が腕・首・羽・尾を絡ませて取っ組み合う、そんな構図に対する真摯さ。虚構に対する嘘の無さ。それこそが、特撮ファンにとってはこの上なくラブレターなのである。

 

前作『GODZILLA』は、「溜めて溜めて焦らしてドーン」のパターンを採用していたため、ゴジラの登場シーンは実はかなり短い。意図してそういう作りになっている。対する今作『ゴジラ / キング・オブ・モンスターズ』は、出し惜しみなく怪獣たちがドンパチと暴れまわる。下から見上げるアオリの構図から、上空からの引きのカット、操縦席や家屋から捉えるガラス越しの怪獣の眼。同じ世界観であっても、こうもアプローチが異なる。これこそが、何度も書いているように、ゴジラの強みそのものなのだ。

 

加えて、音楽設計も非常に優れていた。ゴジラにはお馴染みのゴジラのテーマを、モスラにもお馴染みのモスラのテーマを。原曲を尊重したままアレンジを加え、それをただ流すのではなく、画面上の演出と合わせ、色味、照明、そしてここぞというタイミングでカタルシスに一点突破。完全に好き者の仕業である。私は長年、「最も好きなゴジラ登場シーンはエメゴジの海面が膨らんで迫ってくるやつ」と脳内に刻んでいたが、今作は音楽との合わせ技でそれを超えてきたかもしれない。神々しいまでの演出の数々であった。

 

先に「怪獣のキャラクター性」 と書いたが、これこそが、怪獣映画がモンスターパニックやディザスタームービーと一線を画するポイントだろう。登場する怪獣たちが、キャラクターとして個性を持つ。恐怖を体現しつつも、どこか愛らしく、人間味がある。ここに、怪獣映画というジャンルの旨味があるのだ。その点、今作はここについてもドハティ監督の愛がカンストしている。ゴジラは「ある展開」を背負って戦う不屈の覇者たるスタイルを見せ、キングギドラは3つの首が豊かに個々を主張する。過去作同様にひたすら健気に戦うモスラと、スタースクリームな枠に収まるラドン。愛すべき巨獣たちである。

 

「特撮」は、「ゴジラ」は、これからどうなっていくのか。初代ゴジラが着ぐるみで描かれ、そこから永らく、着ぐるみ+ミニチュアセットで描かれてきたゴジラ。『シン・ゴジラ』ではそれがフルCGになったが、動きは野村萬斎によるモーションキャプチャー。今作『ゴジラ / キング・オブ・モンスターズ』でも、ギドラの首にそれぞれパフォーマーが割り当てられ、モーションキャプチャーによる動きが与えられたとのこと。これらの手法も、広義の「着ぐるみ」である。

 

「巨大特撮」「怪獣映画」が永らく持っていた、嘘を本物とする映像表現に生じる、一種の欺瞞と、それこそを愛する受け手の姿勢。シニカルに言えば「共犯意識」とも捉えられるそれが、技術の進歩により、日進月歩で薄まってきた。ボストンを盛大に破壊するキングギドラとゴジラは、「共犯意識」抜きにしても、確実に「そこ」にいた。一昔前では考えられなかった、巨獣たちのハイクオリティなインファイト。こんな映像を観せられてしまったことが、実は結構、ショックな出来事なのである。

 

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ(オリジナル・サウンドトラック)

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ゴジラ:アフターショック (LEGENDARY COMICS)

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