ジゴワットレポート

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感想『ホワット・イフ…?』 「もしも」の解釈戦争と、MCUが挑まざるを得ない課題への自己言及

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MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)初のアニメーション作品として、2021年8月よりDisney+にて配信された『ホワット・イフ…?』。全9話で構成された本作は、タイトル通り「もしもあのシーンで○○が××だったら」というIF(もしも)の展開を軸に、MCUがMCUに深い自己言及を繰り返していくという、ある種「公式二次創作」なシリーズである。

 

何より、アニメーション自体が非常に完成度が高かった。実在の俳優を再現しながらしっかりと二次元として造形されたヒーローたちが、時に実写アクションのように縦横無尽に、時にアニメだからこそケレン味たっぷりに、様々な動きで魅せてくれる。とにかくストーリーが肝かつ目玉のシリーズではあるが、それはそれとして、シンプルに「映像が良い」というのは特筆すべき点だろう。個人的にはライティングの設計が何より好きでした。

 

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アメコミがひとつの特殊な文化であることは、今更語るまでもない。

 

ひとりのヒーローの連作はもちろんのこと、様々な「バース」や「設定」により、横に横に枝分かれしていく作品群。多面的であること、多様性であること、日本のカルチャーで言えば「パラレルであること」を大きく許容する土壌。だからこそ、『スパイダーバース』のような作品が「成立」してしまえる、その解釈の幅広さが強みなのだ。

 

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『ホワット・イフ…?』も、まさにその土壌の上に成立する作品である。様々なパラレルや解釈を許容できる文化だからこそ、こういったフルパワーの「お遊び」がしっかり地に足を着ける。そこに、ウォッチャーという語り部を設定し、マルチバースという概念を持ち込むことで、「お遊び」を「本筋の端にあるもの」として置いてみせる。シンプルに、お見事である。コンセプトと、それを成立させるための手順や配慮に隙が無い。

 

(超~ッ厳密には、「我々の知るMCUとも言うべきひとつの正史=タイムライン」と『ホワット・イフ…?』内の物語が、同一マルチバースの出来事であるという明言はされていないが、むしろこれまでMCUは「同じ世界観である」ことを原理原則として前提に置いてきたので、逆に「違う」という明言が無い限りは「同一」とみなすべきだろう、というのが私の理解である。)(こういうことを一々言い出すからオタクは面倒臭い。)

 

MCUに限らず、ひとつの作品にのめり込み、俗にいう「ファン」になっていくにつれ、「解釈」との付き合いは避けられない。

 

「あそこで○○が××するのがいい。なぜなら……」「○○だったキャラが~~~を経て▲▲になるから感動する」。受け手のそれぞれが、作品・物語・キャラクター・設定・演出、その他諸々に無数の「解釈」を加えていく。作品の感想は決してひとつでは無く、受け取った人の数だけ存在する。つまり、観た・読んだ・体感した人の数だけ、そこには「解釈」が生まれるのである。

 

『ホワット・イフ…?』は、全世界のMCUファンが持つ個々の「解釈」と、絶対神・マーベルとの、仁義なき戦いであった。「解釈」が無数に存在するからこそ、ファンフィクション、つまり二次創作が生まれ出る訳で、マーベルスタジオはその無限ともいえる「解釈」に真っ向から挑む格好になる。展開が違っても、出会いが違っても、イベントが違っても、「あのキャラクターならこんなふうに行動するのではないだろうか」。そういった「解釈」戦争において、『ホワット・イフ…?』は、非常に秀逸な立ち回りを見せたのではないだろうか。

 

超人にならなくても祖国のために高潔さと勇気で活躍するスティーブ・ロジャース。一歩違えばその発明でもって凶行に及んでいたハンク・ピム。シチュエーションが変わっても復讐心と実行力が全くブレないキルモンガー。マーベル公式による様々な「解釈」の披露は、全世界にいる多くのファンが頷くものばかりだったと言えるだろう。

 

もちろん、「そうじゃない!○○はそんなこと言わない!」という人もいただろうが、そういった人には「マルチバースの別世界のことなのであまり気にしないで」と設定面でガス抜きを用意する。二重にも、三重にも、公式が「解釈」の一例を示すことに自覚的な作りであった。

 

綿密に組み上げられた物語というのは、さながら、ジェンガのようなものである。全てが見事に、綺麗に、隙間なく組み上がっているからこそ、「そこ」がズレれば、当然のように「あっち」もズレる。押し出されり、崩れ落ちたり。反対に、「そっち」に新しく積み上げたとすれば、続けて「こっち」にも伸びていくだろう。

 

MCUの作品は平均的なクオリティが非常に高く、それは主に脚本面での練り込み=ブラッシュアップの成果だと思われるが、そのパズルとしての精度の高さが、『ホワット・イフ…?』のアプローチを何倍も面白くしている。多くのファンは、「解釈」の末に辿り着き、すでに「MCUのジェンガ」をよ~~く知っているのである。形を他人に説明できるほどに。だから、そのジェンガのどこがズレたらどんな影響が出るのか、条件反射のように脳内で二次創作が走り出す。それ程までに、マーベルスタジオに魅了され、調教された人が、全世界にどれだけいるのだろうか。

 

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ソーが一作目と同じイベントを経なければ、当然、お調子者のボンクラ王子のままなのだろう。そして地球に遊びに来る。あり得る。ロキとも仲違いしていない。あり得る。地球が事実上ピンチになるので、キャプテン・マーベルが飛来して阻止しに来る。う~~ん、"あり得る" !

 

知っているはずのジェンガが形を変えた時、それは、我々ファンとマーベルスタジオとの、「解釈」知恵比べ合戦の火ぶたが切って落とされることを意味するのだ。そしてその勝負は、あろうことか、毎度鮮やかに公式が白星を飾る。「あり得そう」の総量とその深さに感服し、こちらは笑顔で負ける。そう、『ホワット・イフ…?』は、笑顔で負けるのが楽しいのである。「公式~~~~~!!!!お前ってやつは!!!!!」と、嘆き、匙を投げ、胸が躍る。「公式が最大手」という言い回しがあるが、これがドンピシャ当てはまる作品だったと言えるだろう。

 

これの何がすごいかと言うと、ここまで巨大に膨れ上がったユニバースにおいて、MCUの公式自身が自分たちの作品にしっかりとした理解を深めていることである。「作りっ放しになっていない」ことが、『ホワット・イフ…?』を通してよくよく実感できる。その作品で何をテーマとし、キャラクターに役割を与え、展開を紡いだのか。そういった自覚の果てに、『ホワット・イフ…?』が成立する。それそれの結末をいじくり回し、ネームドキャラが死屍累々にも関わらず、公式から作品への深い愛を感じることができるのだ。そういった意味で、「究極の二次創作」であり、「公式が最大手」であり、「至高のファンサービス」でもあった。本当に、ありがとうございました。

 

また、物語の展開上においても、『ホワット・イフ…?』はMCU自身に非常に自覚的であった。つまり、「MCUは何が面白いのか」という、根幹の部分である。

 

MCUはこれまで、それぞれのヒーローに既存のジャンルを掛け合わせる形で、そのジャンルの持つ強さと自社ヒーローの特性をマッチアップさせてきた歴史がある。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は言うまでもないスペースオペラのど真ん中を往き、『アントマン』はファミリームービーの面白さをしっかりと汲んでみせた。『スパイダーマン:ホームカミング』ではハイスクールものを、『シャン・チー / テン・リングスの伝説』ではカンフー映画を。自社ヒーローと何かのジャンルにタッグを組ませ、そのジャンルが旧来より持っている強さや特性をしっかりとキャラクターに馴染ませ、反映し、物語を展開させる。だから、味が違ってもどれも面白い。

 

そんなMCUは、一体「何が面白いのか」。それは、「異なる世界観で生きたヒーローたちが」「有事の際に作品の垣根を超えて出会い」「まさかのドリームチームを組む」、だから面白いのである。

 

つまるところ『ホワット・イフ…?』は、「スター・ロード × スペースオペラ」や「アントマン × ファミリームービー」の図式で言うならば、「MCU × MCU」なのである。MCUのキャラクターにジャンル名「MCU」をマッチアップさせる。「異なる世界観で生きたヒーローたちが」「有事の際に作品の垣根を超えて出会い」「まさかのドリームチームを組む」、といったMCUが創ったジャンルを、MCU自身でやる。「もしも」で生まれたヒーローたちが、マルチバース全体の危機に集い、急造チームでウルトロンに立ち向かう。なんと面白く、燃えて、そして「見知った」展開だろうか。

 

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しかしこれは、むしろ、今後のMCUの避けられない課題とも言えてしまえる。

 

MCUは巨大になりすぎたからこそ、MCU自身を決して無視することが出来なくなってきた。公開を控える『エターナルズ』では、わざわざ、「彼らの敵はあくまでディヴィアンツなのでサノス関連には関りを持たなかった」という「言い訳」(あえてこう表現する)を用い、ニューヒーローをMCUに参戦させている。『シャン・チー』にも、そういった構造上の「言い訳」が若干感じられたところである。

 

今後のMCUには、こういった「MCUに自己言及しながら一応の整合性や理屈を担保しつつMCUを拡大させる」という、ある種ヘンテコな課題をエンタメパワーでぶち破っていく姿勢が求められるのだろう。

 

すでに、相当綺麗な形でジェンガが組み上げられている。そこに新しいピースを加えるのだから、当然、「加えた瞬間」は歪になる。それを、時に先回りしながら、時に後付けしながら、また別の形での「綺麗」に持って行かなければならない。これまでもその傾向はあったが、サノスという全世界に未曾有の影響が出たイベントを経て、いよいよそれは絶対的な命題にのし上がってしまった。

 

下手を打てば、こだわりすぎたが故の窮屈さにも繋がってしまうこの課題。そこに本格的に踏み出していく第一歩として、「公式が最大手として『解釈』を披露する」という精神的な「仕切り直し」として、『ホワット・イフ…?』はとても有意義なシリーズだったのではないだろうか。MCUの「MCU自己言及っぷり」は、このシリーズが過去最高に振り切っていただろうから。