まずはお詫びから、すみません……。第10話の感想記事、実質2週間後のアップになってしまいました。以下全て言い訳なのですが、体調を崩してしまったことと、職場で起きた前例のないトラブルの火消し担当みたいなのが続きまして、上手く時間を捻出できませんでした。え? ちゃっかり『VIVANT』の感想記事とか書いてるじゃないかテメェ!、ですって? はい、そうです。すみません。なんか、その、タイミングとかモチベーションとか所要時間とか色々、あのですね、歯車の噛み合いというものがございまして……。などと、以上全て言い訳でした。
ちなみにこの第10話の感想記事、続く第11話のものとほぼ同時に更新します。何卒よろしくお願いします。
ブレーザー10話、ゲント隊長とブレーザーが今後コミュニケーションを重ねていくために避けては通れない回だった。「悪意のない怪獣を人間の都合で殺して良いのか問題」は「人里に降りた熊問題」と同じで万人が納得する答えなど無く、その議題に各々が向き合って精神的研鑽を積むことこそが本懐である。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2023年9月16日
そんなこんなで、記憶を掘り返していただきつつ、第10話の #俺が観る 、いってみましょう。いや、むしろこのデマーガの件からずっと地続きで第12話「いくぞブレーザー!」まで実質三部作の流れもあるので、まとめての更新は、必然 ……ってコト!?(だからそういうのをやめろ)
引用:https://twitter.com/ultraman_series/status/1702833453073588710
息子ジュンの希望で謎の卵を見に訪れたヒルマ一家は、ベビーデマーガ誕生の瞬間に遭遇する。防衛隊による捕獲活動のさなか、デマーガが現れる。子の元へ歩を進める親怪獣へ、防衛隊は攻撃を開始。避難の道中、身を挺して子を守るデマーガを複雑な心境で見つめるゲントの左腕に突如ブレーザーブレスが出現する。
2023/09/16 放送 監督:越知靖 脚本:植竹須美男
今回の件、ヒーロー特撮ではお馴染みといえばお馴染み、「怪獣(怪人)って殺していいの?」問題ですね。「討伐の是非」回とでも言いましょうか。
仮面ライダーもスーパー戦隊も、もちろんウルトラマンも、古くは「怪獣や怪人をヒーローが討伐する」という大筋から始まっていく訳です。そりゃあ個々の作品で色々と幅はありますが、主に平成以降のグラデーションとして、従来の様式美より相対的にドラマに比重を置くようになり、「倒すべき敵もまた命である」という観点が持ち込まれる例が増えた。三大特撮でいくと、どうしても戦隊はこの手の構造を取り込みにくい性格があり、ワンエピソードであればあるいは、といった感じだろうか。仮面ライダーでいくと、「そもそも倒すべき敵も仮面ライダー=人間である」の『仮面ライダー龍騎』、「怪人にヒーロー側と等しいドラマ性を持たせる」の『仮面ライダーファイズ』など、平成ライダー以降はこの手の言及が増えていく。ウルトラマンでいえば、言うまでもなく『ウルトラマンコスモス』。怪獣を討伐する以外の選択肢に根幹から取り組んだ人気作ですね。後年の『ウルトラマンネクサス』で、スペースビーストが見るからにコミュニケーションなど取れなさそうな異形の存在(外来種)に設定されたのは、コスモスで「怪獣を救う・鎮める」をやった揺り戻しらしいですね。絶対的に対話は無理そう、というニュアンスの強調。
ニュージェネレーションでいえば、『ウルトラマンX』は怪獣との共棲をひとつのテーマにしていたり、あとはやはり『ウルトラマンZ』でのレッドキング回やグルジオライデン回が印象深いですね。主人公・ハルキが戦えなくなるところまでドラマが踏み込んだのは記憶に新しい。
「怪獣もまたひとつの命である。それを人間の都合で殺して良いのか」は、もちろん真っ当な問題提起ではあるのですが、実際問題として「殺す側」の割り切りしか決着は無い。「人里に降りた熊を殺して良いのか」と構造はほとんど同じで、人間に危害を加えるかもしれない存在なら駆除止む無しだし、しかし熊もまた言うまでもなく尊重されるべき命なのだ。つまり問題の核は「殺して良いか」「その是非」ではなく、「殺す側がいかに自分の中で理論を持つか」「職務として割り切るか」、という点にある。
「あのデマーガ親子を殺して良いのか問題」に答えなんて無くて、この世界の生態系の頂点に人間様が君臨している以上は誰が何を言っても解答にはならない。ドラマとして重要なのは、おそらく、その「生態系の頂点に人間がいる」とは異なる背景からやってきたブレーザーとゲントの行末にある。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2023年9月16日
おそらく『Z』で何話かかけてハルキの内面を描いたこともあり、今回の『ブレーザー』はあまり踏み込んだことはしなかった。デマーガはデマーガで鎮まったので一応の解決、ゲントらがその悩みを引きずる様子も特に描かれず。というか、彼らは心身ともに特殊精鋭部隊として描かれているので、ここで「怪獣を倒すのって悪いことなんでしょうか?」などとはならない訳ですね。今回に関しては、そういうリアリティでやっていませんよ、と。むしろゲント隊長、ニジカガチの横峯教授を場合によっては強硬的に排除するなどと言っていたので、その辺の覚悟はとっくにキマっていると思われる。
今回の主題は、「ゲントとブレーザーのコミュニケーションの不和」。ずばり、ここにある。命の選択というデリケートなテーマだったが、誤解を恐れずに言うと、今回のそれは単に舞台装置に過ぎない。デマーガ討伐をめぐってゲントとブレーザーの意思疎通が上手くいかず、反発し、揉めてしまう。これ自体が重要になっていくのである。無論、「人間を守るために怪獣を倒す!」「害をなす怪獣は討伐止む無し!」で結束する筋もあると思われるが、それにしたって最も描きたいのは「ゲントとブレーザーの結束」そのものだろう。シリーズを通してのテーマがコミュニケーションだと謳われているので、やはりそこの変遷、変化それ自体が肝なのだ。
であれば、空気を読めない狩猟民族・ブレーザーくんがデマーガ親子を思いっきり斬殺するルートもあったかと思うのですが、まあ、さすがにそこまでやると不和も不和ってことなのでしょう。
では、ファンの間でも大いに議論になった、「どっちが殺そうとして」「どっちがそれを止めようとしたのか」問題。これ、私の結論は「どっちでもない」です。ちょっとズルいかもですが。
描写的なことをいうと、スパイラルバレードを止めた左腕は赤いラインが発光。それに対抗するように、「止める腕を止める」のが青いライン。そっくりそのまま受け取れば、青が殺す派で、赤が生かす派ってことになる。そして、ゲントの身体を一時的にブレーザーが乗っ取る際に目が青く光るんですね。なので、じゃあブレーザーが青だから殺す派、対する赤の生かす派が消去法でゲントですね、と、なりがち。なりがちです。ブレーザーくんは知能指数が低そうで野蛮な狩猟民族っぽいので、殺す派なのはイメージとしても自然。ゲントの根が優しいのは言うまでもないので怪獣親子に自身の家族を重ねて咄嗟に止めちゃうのも分かりやすい。しかし、しかしですね……。ゲントのポケットの中で光るブレーザーストーンは赤く発光しているんですね。また、ベビーデマーガを遠視しその小さな背中を見つめる時、ゲントの目は青く光る。あれあれ、そうするとさっきの判別がひっくり返るような気もする。どうなってんだ、と。前述のように、ゲントは場合によっては横峯教授だってアレするだろう人だし、ここにきて怪獣を守りたいだなんてあり得る?、とも。
あくまで私の感想ですが、ほら、深層心理ってあるじゃないですか。言動とは違う部分、その人の意識・無意識のグラデーションの中にあるもの。ゲントはああいった部隊の隊長で、当然、怪獣を討伐することが職務だと自負している。殺すことも止む無しだとしっかり頭で分かっているし、そういった行動を取る。しかし心の中では殺処分される怪獣への哀れみや同情も人並みにはあるだろう。悔みながら、謝りながら、作戦行動を取っているのかもしれない。そういうのを総じて、覚悟と呼ぶ訳である。対するブレーザーも、飛び跳ねて暴れ回る狩猟民族でありながら、ゲントとの一体化を経て人間の生態や文化を学び始めている。礼節の構えを行いつつ、「相手を殺す」ことが当たり前の民族だったかもしれない。しかし、野菜ジュースを飲んでみたり、赤ちゃんの映像を観てみたりして、次第に理解が進んでいることだろう。そんな最中であれば、怪獣の親子を殺すことに新たな戸惑いを覚えるかもしれない。が、同時に、それまで生きてきた習性として殺すことも当たり前だと思っている、かも、しれない。
ゲントも、ブレーザーも、生物なのだから。考えていることは何重にもあるし、行動がそれとイコールとは限らない。そんな彼らが摩訶不思議な一体化を成している訳で、意識・無意識のどのレイヤーがどのように絡み合い、作用しているのか、それは誰にも分からない。白黒はっきり付けられるものでもないだろう。だからこそ、実際の描写として、「あえて明言しない」「あえて迷彩にする」が選択されているような、そんな印象を受けるのだ。ポイントは、あくまで「混ざりあったふたつの生物の不和」なのだと。しかし同時に、それまで本能のように(無意識に?)戦いを進めていた彼らが、そこに感情を入れ込み始めた。それぞれの主義や主張を、意識・無意識に関わらず、介在させてきた。その変遷こそがポイントだと思うのです。
だから、「殺そうとした」「止めようとした」というより、彼らがひとつの肉体の中で何かしら作用し合う、(結果としてそれは揉め事のようになってしまったが)、コミュニケーションを発展させていく上でこれは避けては通れないステップである、と。喋ったことのない同僚と初めて会話して、ちょっと喧嘩になるような、そういう段階の話だと思うんですよね。だから、あえてちょっと曖昧にしているというか。「どっちがどっち」って、そりゃいくらでも明言できるはずなんですよ、描写として。それをしなかったことが、そも伝えたい意図なのかなぁ、って。
といったところで、記事の大部分を例のシーンに費やしてしまった訳ですが、その他の部分も……。
まず、ゲント隊長とその一家。いやぁ、微笑ましい。いや、その、あのですね。ちょっと毒のあること言いますが、序盤の方でロッカーで家族の写真を見たり指輪を外してるシーンがあったじゃないですか。あれを見て「不穏だ」「家族は既に死んでいるのでは?」という声が割と挙がってたのですが、そんなことはないだろ~~~ってずっと思ってて。だって番組制作発表の頃から多数のメディアで家族持ちって普通に明言されてましたからね。いや、もちろん、初期設定に伏線を仕込んでおく番組もあるっちゃありますが、これはそういう類のものじゃないでしょ。変に勘ぐりすぎだな、ってずっと思ってました。すみません、今だから言います。なんか後出しみたいになってアレなんですが。要はやっぱり家族描写面白かったですね。ゲントの「いいパパ」感がやばい。「パパ怪獣かな!?」「そうだねそうだね」「テキトーに言わないで!」「じゃママ怪獣だな」のくだりとか爆笑ですよ。いや、こういうのよくやっちゃうんですよね、親としては。
ベビーデマーガのキュートさのある造形は花マルですし、ちゃんと「悪い子じゃないのに!人間ってひどい!」感が出ていて実に良い!(なんて言い草だ……) あと今回の話、ベビー怪獣だったり怪獣型ロボがその親とバトる流れだったり、全体的に『ゴジラVSメカゴジラ』のオマージュを受け取れますよね。卵から孵化するシーンなんかも。そういう世代の人間として、実に馴染みのある作劇です。
アースガロンの黒目をなくしたのは防衛隊側を悪くみせたいからです。
— 越 知靖 (@juliet3comet) 2023年9月18日
瞳があると感情移入がアースガロン側にきてしまうおそれがあり、今回は怪獣側に感情移入してもらうために敢えてこのような形にしました。
瞳がないだけでかなり怖くなったので狙いどおりかと。#ウルトラマンブレーザー pic.twitter.com/WtiVVDgDjQ
アースガロンの目については、演出意図としてはよ~~く分かるし、成功していると思うのだけど、私としてはその「黒目なし」に特に理屈が無いのが引っかかったり。上からの「可及的速やかに討伐せよ」等の命令で「デストロイモード起動!」とか、まぁ分かりませんけど、そういうロジックがひとつまみ欲しかったかな、って。
あと、防衛隊は相変わらず火力でゴリ押ししか知らないんですねぇ。よくこれで約60年間も怪獣災害を扱ってきたな……。まあ、だからこそSKaRDの存在に価値が出てくる訳ですが。
映像面では、ブレーザーの変身後の背中のカットなんかまさに「父の背中」で燃えますし、ミサイルを咆哮で破壊するくだりは劇伴も無く「うわ~~なんかヤバいぞ~~~!なんか!なんかヤバい!」感がひしひしと伝わってくる。緊迫感重視というか、パンドラの箱が開いちゃったような感覚の調整が実にお見事。デマーガを鎮静化させる光のバレードはちょっと唐突に出てきた便利技すぎるのですが、前述の通り、「デマーガを殺すか否か」は実は主題ではないので、この辺りが落としどころなのでしょう。
物語として、アゲるためには一度サガらないといけない。勝利の前にはピンチが。撃破の前には苦戦が。結束の前には不和が無ければならない。今回のこの、色んな意味でのモヤモヤを扱った第10話、必ずや後の『ブレーザー』の展開に活きてくる。そう信じられる回でした。では、続く第11話へ。
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