ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

君はインターネットに「感謝」しているか

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「あなたにとってのインターネットとは何か」。

 

もはや、そんな質問は無粋になったのかもしれない。インターネットは日常生活にもビジネスにもすっかり欠かせないものとなり、誰もが電灯に引き寄せられる虫のようにフリーWi-Fiスポットを探すようになった。

 

昨年、私はブログに以下のようなことを書いた。

 

思うに、一昔前のインターネットは、今よりいくらか本音が許される空気感があったのではないか。現実の社会で感じた憤りや鬱憤を、顔も見えない相手が集う夢幻の世界に書き殴る。そこでは、「思う」と「表現する」の距離が近かった。しかし今や、インターネットは「現実の社会」と密接な関係にある。ネットにも実名・顔出しが溢れている。その状況で「思う」と「表現する」の距離を測り間違えると、途端に火傷をしてしまうのだ。逆の言い方をするならば、昨今のインターネットは、「『思う』ことが許されなくなった」。南無三。

ネットで文章を書く人に読んで欲しい文章 - ジゴワットレポート

 

ブログを書き続けて10年ほどになるが、私にとって「ネットで文章を書くこと」は日常の一部に組み込まれている。ほんの数人のオタク友達は例外だが、基本は匿名ブログだ。嫁さんは、私のTwitterアカウントすら知らない。

 

こんな生活を続けていると、定期的に自問自答する機会が訪れる。「どうして自分はインターネットで文章を書くのだろう」「なぜブログを書き続けることにこんなにも固執しているのか」。近年はおかげさまでいくつかのメディアに文章を書いて、あまつさえ原稿料を貰えるという驚きの生活を送らせてもらっているが、やはりその根っこに居るのは「ネットで文章を書くこと」を「何か特別で大切なこと」と捉えている自分だ。

 

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今日、ふと目にしたエントリーの締めのセンテンスに思わず胸を締め付けられた。

 

しかしそれでも、「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」場を必要とする人はいるとおもうのだ。身の回りには打ち明けられない、普通だったら反社会的と糾弾されるような思い、でもそれを抱えていたら、自分が変になってしまうような、そんな思いを、打ち明けられる場。

「ここに書けば誰かが真剣に読んでくれる」という期待感が今のはてなにはない - あままこのブログ

 

ここ数日はてな界隈で議論されている、「言及文化」、ひいては「インターネットで文章を書くこと」に関した話題である。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

anond.hatelabo.jp

 

インターネットはやはり、私にとって「特別な場所」だ。

 

中学生の頃だったか、一丁前に大人に対して不満を抱き、学校というシステムに疑問を呈し、周囲とあまり分かり合えない趣味嗜好を持っていた時代。教室では「絵を描く」という属性だけでどこか白い目で見られ、「オタク」という存在がまだ今ほどの市民権を得ていなかった。あの頃、インターネットを「見つけた」時の喜びは、計り知れなかった。

 

そこには、日々の鬱屈した思いや、日常生活では吐露できない感情、あるいはいわゆる「オタク趣味」を愛好する者たちの熱を帯びた叫びが飛び交っていた。「こんな世界があるのか」、と思った。大人も子供も、「それらしい」顔をして日常を送っているけれど、内心では色んなことを考えている。そんな当たり前のことを、私はインターネットの世界に見い出した気がした。もちろんそこには、呪詛と罵り合いが飛び交う掃き溜めのような場所もあった。一方で、日常生活という水中からオタク趣味という水上に息継ぎをするように、熱心にそれを満喫している集団もあった。当時の私には、それがひどくショックであった。

 

だからこそ、インターネットというのは、どこか「特別な世界」なのだ。今考えればしょうもない感覚なのだけど、やっぱり、今でも根っこの部分はこの色に染まっている。インターネットという、良くも悪くも「人間の素」が飛び交う場所があって、だからこそ日常生活も存在する。どこかのアニメや漫画で描かれる地上の世界と地下の街のように、それらは「互いに存在する」ことでバランスを保っている。なんだか、そういうイメージに囚われていたように思う。

 

程なくして、私もそういうバランスで精神を保つようになった。人に話したら「そんなことは言うもんじゃない」と返されそうな鬱屈が、この世界には溢れている。インターネットは「行く」ものだった。他人に馬鹿にされそうな趣味にこんなにも精を出している人を、インターネットに行けば容易に見つけることができる。同級生から「まだそんなの観てるのかよ」と揶揄される特撮番組やアニメを、私の倍以上も歳上らしき人が、個人ホームページで熱心に論じている。こんな、こんな世界があるのか。

 

だからこそ、当然のようにそこで文章を書くようになった。インターネットという現実世界とは切り離された環境でこそ、書けるテーマがある。体育の授業というシステムへの鬱屈も、パパママ教室で抱いた助産師への憤りも、身の回りの誰も封切られたことを知らない映画の感想も、インターネットでは「書ける」。その喜びと価値を、あの頃からずっと、私は感じ続けている。

 

そういう「書ける」環境があることが、ありがたいのだ。これが無くては、私という人間はどこか「欠けた」状態ではなかろうか。言い換えればそれは依存で、あるいは無条件に過去を賛美する老害の始まりなのかもしれない。

 

でも確かに、インターネットへの「特別な場所」という認識は、私という人間の一部として組み込まれているのだ。今更、それを取り外すことはできない。こうしてブログの編集画面を前に、キーボードを勢いよく叩く。それこそが、私の「日常」なのだ。

 

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時は経ち、私が感じていた「特別な場所」という感覚は、次第に薄まっていった。インターネットは、「行く」ものから「在る」ものになった。

 

あえて大袈裟に馬鹿馬鹿しく書くが、インターネットは世間に「見つかった」のだ。テレビのワイドショーが「ネットで話題!」という文句を導入して、どれ程が経つだろうか。インターネットはそれまで切り離されていた(と、私には見えた)世界に食い込み、すっかり同居していった。それは当たり前のように認知され、周知された。欠かせないものになった。(もちろん、「見つかった」ことによる恩恵が無限にあったことは言うまでもない)

 

感覚が古いのを承知で書くが、私は未だに「インターネットで本名を公開して発言する人」を目にすると、心臓がキュッとなる時がある。すごい。自分には絶対に無理だ・・・。インターネットは地下の世界、Welcome to Underground なので、そこで真名(本名)を曝け出す訳にはいかない。第一、地上と地下の人格を紐づけてしまったら、誰にも言えない鬱屈とした思いや、地上で抱いた呪詛は、どこに書き殴れば良いのか。「匿名でいる」ということは、「インターネットを特別な場所として認識し続ける」ということなのだ。実名を出したら、「私の地下街」はすぐさま地上に浮上し、取り込まれてしまう。

 

「ブログはオワコン」と叫ばれて久しい。今思えば、「個人がインターネットでそこそこの長文を書く」という文化は、地上での鬱屈や呪詛といった負の感情と密接な関係にあったのだろう。日常生活で溜め込んだもの、あるいは、そこでは満たされない何か。それをインターネットに「見つける」ことで、バランスを保っていた。そんな世代が確かにあったと、私は信じたい。

 

しかし、現実とインターネットの距離が近くなり、あるいは同一となった今、「長文を書いてまで吐き出したい何か」は、鳴りを潜めたのだろう。もうここは相対的に、昔ほど「特別な場所」ではない。Tik Tok や Instagramでエモり合うのが、今の「インターネット=現実」なのだ。

 

そういった、これこそ鬱屈とした、ひん曲がった、ねじ曲がった、凝り固まった考えということを重々承知しながら、今日もインターネットに文章を書く。私が文章を書き続けるモチベーションは、そういったインターネットへの「感謝」だ。例えばここまで書いた約3,000字を実際に読み上げたとして、職場の上司も同僚も、多くの友人も、家族も、そのリビドーやルサンチマンをほとんど汲んではくれないだろう。でも、これを読んでいる貴方には、少なからず響くかもしれない。そこにこそ、私の「感謝」がある。

 

n=1 が「許される」環境、それが、私にとってのブログなのだ。この日常を止めることなんて出来ない。

 

ネット絵史 インターネットはイラストの何を変えた?

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