ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

ネットで文章を書く人に読んで欲しい文章

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「善いアウトプットにはその何倍ものインプットが必要」が信条なので、こうしてブログを書く以上に、ブログを読んでいます。少ない時でも、日に20~30は目を通しているだろうか。

 

最大140字のTwitterとは違い、ブログは書き手の「テキストの癖」が如実に表れるため、言い回し・表現・文体・レイアウト・段落構成など、参考になるポイントが多い。「ああ!こう書けばこのニュアンスを伝えられるのか!」という驚きを、大小様々、常に大切にしていきたい。だからこそ、同じように「ネットに文章を書く人」のテキストは大好物である。「ネットに文章を書く人」が「ネットで文章を書くこと」について書いたエントリー、それはもう、美味ですよ。至高のメニュー。こちらも涎ダラダラ。傍から見ても、ご本人の心の底にある想いが溢れ出ているのが分かる。そういう文章を目にした時、私も大いに刺激を受けますね。

 

そんなこんな、「ネットで文章を書くこと」について書かれたテキストで、特に私が何度も読み返しているお気に入りのものを紹介させて欲しい。同じく「ネットで文章を書く人」として生きている人、ブログやそれに類する環境を持っている人には、ぜひオススメしたいものばかりです。

 

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id:kiriminさん『アウトプットの結果はだいたい期待通りには返ってこない』

 

kirimin.hatenablog.com

 

ここで一つ自分の経験則として共有したいのが、表題にある「アウトプットの結果はだいたい期待通りには返ってこない」ということだ。
これは特に最初のうちはそうで、もちろん自身のアウトプットの質の問題もあるが、タイミングであってりとか、その人の元々の知名度や固定ファンの多さなどの外的要因により大きく左右される。

しかし、やはり何かをアウトプットする時というのは反響を期待してしまうものだ。

 

ネットに文章を書く、取り分けブログ執筆というアウトプットは、やはり何かしらの「反応」を期待してしまうものだ。具体的には、はてなブログならブクマやはてなスター、TwitterならRTやいいね、PVという形でその「反応」は正確に測れてしまう。だからこそ、意気込んでブログを始めるも期待通りの「反応」が無くてやめてしまう、という人が多い。私も、そういう人を沢山見てきた。

 

きりみんさんのこのエントリーは、そういった「心が折れそう」な状態からいかにアウトプットを継続するか、期待する「反応」に少しでも近づくためにはどうすれば良いか、ということが記されている。それは、具体的なSEO対策だのSNS連携といったことではなく、「アウトプットという行為」をどのように自分に浸透させるのか、という視点。モチベーションのコントロールという、普遍的ながら核心の部分。

 

id:ese19731107さん『Twitter脳×加齢=考えられない人間のできあがり』

 

ese.hatenablog.com

 

ブログを書くために事実を調べたり資料を読んだりするのが面倒なの。ある程度の文字数を使って自分の意見を書くためには下調べが必要だし、補助線をいくつも引いて調べた事実と自分の意見を紡いでそこから結論に至らなければならない。
それがね、もう面倒なの。

 

これはもう本当に、痛いほど分かるんですよ。エセさんのこのテキスト、内容は「Twitterの手軽さに負けそう」「でもブログでの言語化は大切」というものなのだけど、そこに散りばめられた考え方や単語のチョイスが分かりすぎて首がもげそうである。この記事の冒頭でも「ブログはまとまった文章だから良い」みたいなことを書いたけれど、なまじ「まとまっている」ばかりに、弱点を突かれたり、誤解を招いてしまうことがある。Twitterの140字が持つ「許されるライン」と、ブログのそれは違うのだ。

 

だからこそ、下調べをして補助線を引くという作業が必要になってくる。これが至極面倒。分かる。分かりすぎる。私も、大なり小なり「下手なことは書けない」という思いがあって、自分なりに表現に気を配ったりしている。Twitterなら勢いでストンと落とせてしまう(誤魔化せてしまう)着地点に、何度も何度も遠回りしながら辿り着く。そういった行為の面倒臭さ、でも、それを嘆きながらも大切に思っている、そういったアウトプットへの愛憎が垣間見える名文です。

 

id:tyoshikiさん『「誰かに対する批判や悪口」が自分のメインコンテンツになってはいけない』

 

www.tyoshiki.com

 

経験上、誰かを批判することで賛同や共感の声を得るのは、自分が作ったもので賞賛を得ることより圧倒的にお手軽です。特にはてなでは、何かを否定したがってる人がわんさかいるので、そういう記事を書けば人がやってきて「自分が言いたいことを言ってくれた」などといって褒めてくれます。この前はわざわざ目立たないようにサブブログで書いたのにそれでも誰かが目ざとく見つけてホッテントリになってしまいました。そのくらいネットにおいて、「自分で真っ向から誰かを批判しに行くリスクやコストは負いたくないが、誰かの尻馬に乗って気に入らないやつをたたきたい」というニーズは非常に強いみたいです。 「自分にとってどうでもいい話題」であればあるほど、そういう記事が人気になりやすいということを身に染みて感じました。

 

私もブログをやって長いですが、最も簡単かつ効果的にPVを稼ぎやすいのは、何かを批判する、つまり「刺す」タイプの文章です。これはもう間違いないと断言できるくらいに。ネットで話題になっていること、世間を騒がせるニュース、自分が愛好しているコンテンツで騒がれている事象。それらを挙げつつ、持論と共に「刺す」。こういったテキストは、引用した部分でよしきさんが書いているように、圧倒的にお手軽なんですね。

 

だからこそ、ついつい「刺す」テキストの誘惑に負けそうになってしまう。ただそれは、「批判するな」ということを言っている訳ではなく、「刺し方」の問題なんですね。知識と下調べ、配慮とユーモア、それらが全て備わった「刺す」は、むしろ賞賛されるべきである。でも、それを創るのは相当難しい。安易に手を出すと、それこそ気づかぬうちに認知が歪んでいってしまう。そういう危険性を生々しく綴られたよしきさんのこのテキストは、定期的に読み返すだけの効能があります。

 

id:fujiponさん『「優れたコンテンツを生み出す原資として収益は不可欠なもの」なのだろうか?』

 

fujipon.hatenablog.com

 

 ただ、これだけは言っておきたいのです。
 ブログやSNSが起こした、いちばん大きな「革命」というのは「それでお金が稼げるようになったこと」ではなくて、「お金にならない個人の言葉や文章が、多くの人に読まれる可能性ができたこと」なんですよ。
 インターネット以前は、マイクを持って駅前で演説するとか、同人誌にお金を払って載せてもらうとか、新聞に投書するとか、ラジオやジャンプ放送局のハガキ職人になるしかなかったのに。

 

「ネットで文章を書く」が「お金を生む」に繋がる現代において、どのように精神を健康的に保つかというお題は、割と深刻だと思うのです。かくいう私も、ブログに広告を貼っている訳ですし。だからこそ、よりPVが得られる内容に、より儲けが出る方向に、そういう悪魔のささやきがあることについては、十二分に分かるつもり。言うまでもなく、それを完全に無視しているかと言ったら、そうではない。現在はこのブログを副業としてもカウントしているので。しかし、そればっかりに引っ張られる訳にもいかない。一体、自分を「どこ」に置くべきか。

 

FUJIPONさんのテキストは、そういった「個人のコンテンツ」の(金銭面を含めた)可能性について綴られていて、すでにもう何度も読み返している。「お金になるかもしれない」という誘惑と、コンテンツとしての精度、そして自分の胸の内にあるリビドー。これらのバランスをいかに設定して文字を並べるのか。ブログを「長すぎる遺書」と形容するそのセンスに脱帽です。

 

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id:zeromoon0さん『最近「感想」について思ってること』

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

要は「どんなに気をつけても万人受けする表現はないし、万人が納得する意見もないんだからその都度折り合いを付けていくしかないだろう」ということです。宇崎ちゃん*2や変な感想を見つけて「嫌だな」と思うことはあっても、「不快だから取り下げろ」と言うのはちょっとどうかと思う。その代わり「私はこの表現が嫌だと思った」ということを伝える権利はあると思う。ただ、万人が納得することは絶対ありえないのでどこで落とし前をつけるかはその時次第、ということでいいんじゃないのかなぁと思う。

 

だが無力ださんの文章って、すっごく「読ませる」んですよ。毎回、二度は繰り返して読んでしまう。一方的なもので恐縮ですが、考え方とか、テキストとの向き合い方に、勝手にシンパシーを感じておりまして・・・。挙げさせてもらった記事は、「好き」という胸に抱いた感想と、それをいかにネットの海に放出するか、という話。まさに今話題のネタがふたつも絡んでいるので、未読の方は早いうちに読んでいただきたい。

 

思うに、一昔前のインターネットは、今よりいくらか本音が許される空気感があったのではないか。現実の社会で感じた憤りや鬱憤を、顔も見えない相手が集う夢幻の世界に書き殴る。そこでは、「思う」と「表現する」の距離が近かった。しかし今や、インターネットは「現実の社会」と密接な関係にある。ネットにも実名・顔出しが溢れている。その状況で「思う」と「表現する」の距離を測り間違えると、途端に火傷をしてしまうのだ。逆の言い方をするならば、昨今のインターネットは、「『思う』ことが許されなくなった」。南無三。

 

竹村俊介さん『リーダビリティってなんだ』

 

ji-sedai.jp

 

リーダビリティを構成する条件は「受信者に対する敬意」。

どうだろう、僕は敬意をきちんと持って編集できているであろうか。

「わかりやすく」「噛み砕いて」「どんな人にでも届くように」

それはきちんと敬意だろうか。

 

「分かりやすい文章」「読みやすい文章」とは何か、という話。それは、文法が正しいとか内容がどうこうとか以前に、「受信者への敬意があるか」否か。仮にいくらか内容が過激であったとしても、そこに一定水準の「受信者への敬意」があるならば、きっと読んでもらえるばず。

 

『あなたの知性を以てすれば、私が言いたいことをただしく理解できるはずである』という一文、すごくドキッとしますよね。受信者の知性をどれほど見込んで、そこに寄り添い、訴えるか。これ、「読み手がどれほどその話題へのコンテクストを把握していると見込むのか」、という話とも同じだと感じていて。自分の設定した知性の線引きと、それがしっかり通じた時の快感は、替えがたいものがあります。

 

id:yasuteru24さん『なぜ「作者の気持ち」を考えなければならないのか』

 

www.yasuteru24.com

 

その中で国語という教科は、言語によるインプット・アウトプットの基礎を請け負っています。そして、こんなにも重要な部分を扱う科目だと言うのに、不当に軽視される現状に私は強い危機感ともったいなさを覚えます。

 

現役国語教師のyasuteru24さんが語る、国語教育と文章についての話。もはや「ネットの文章」に限らないテーマですが、これまた何度も読み返している記事なので、どうしても紹介したかった。私も学生時代から国語という教科が大好きな人間だったので、「作者の気持ちw」などといって国語教育を揶揄する風潮には、本当に嫌気がさしています。

 

文章を読みながら、そこに込められている「思考」と「表現」を汲み取る、それが大事なんですよね。「作者がどんな想いで書いたか」という内面は究極には問題ではなくて、それをいかにロジカルに、技法として文章に起こしたか。それを識ることで、逆算するように、「書き手の思惑」という迷路の出口に辿り着く。そういったインプットの仕方を学習することで、アウトプットの精度も上がる。その反復。ネットではタイトルだけ目にして暴れる人や、よくよく読まずに字面の雰囲気だけで何かを批判する人が多い。だからこそ、この「読む」という行為の難しさと尊さは、しっかり認識しておきたいですよね、と。

 

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・・・以上、私が繰り返し愛読している「テキストに関するテキスト」でした。色々と思い悩んだ時に読み返すことが多く、大変感謝しております。

 

最後に、手前味噌ながら、私もよく「ネットで文章を書くこと」について書くので、その手の記事をいくつか再掲しておきます。よしなに。

 

www.jigowatt121.com

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しっかり! まとまった! 文章を書く

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文芸オタクの私が教える バズる文章教室

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