ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

小説を読みながら脳内で「映画監督ごっこ」をしてしまう

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先日、「小説を読む際に内容を脳内で映像化してしまう」というTogetterを読んだ。

 

あるある過ぎるというか、私もこのタイプだなあ、と。小説を読んでいる最中は映画やドラマのように映像が進行しているし、登場人物も、「キャラクター」というより「俳優」に近いニュアンスで行動している。勿論、全て脳内での出来事。

 

togetter.com

 

例えば、今読み進めている小説に「主人公が宿泊する宿の一室に入る」シーンがあった。この時、まず脳内でなんとなく宿の一室が映像化され、文章が「部屋から見える景色」「窓の大きさ」「ベッドの位置」「机の有無」等を続けて補足していく度に、該当箇所が連動するように修正され、描き込まれていく感覚である。うーん、この脳内での動きをどうテキストで表現したら良いのだろう・・・。難しい。

 

なので、描写(美術設定)のベースとなる「なんとなくの宿の一室」は、私の見聞きしたものが基になる。というか、そうならざるを得ない。つい最近泊まったホテルだったり、昨晩観た映画に出てきた内装だったり。そういったベースが、続けて出てくる描写によってどんどんカスタマイズされていくのだ。特にミステリー小説だと、家具の配置・窓の大きさ・施錠の可否などは重要なポイントとなる。そのため、本筋を一刻も早く追いたい衝動を抑えながら、情景描写を何度も繰り返し読んだりもする。(正確に脳内映像化する必要があるため)

 

情景描写が足りない場合でも、前述のように記憶の引き出しから「なんとなく」を仮で設定しているため、映像自体が途切れることはほとんどない。

 

登場人物も、およそ「俳優」で映像化される。人数が少ない場合だと、説明描写を読み込みながらオリジナルの存在を作り出したりもするけれど、およそ実在の俳優を当てはめてしまうことが多い。その方が、脳内での処理が楽、というか。イメージが容易なのだ。「キャスティング」に近い感覚である。

 

あと、前述のTogetterでも触れらていた、「頭で作った映像の中で貴方はどこに居るのか」問題。私はこれ、主人公視点ではなく、映像を撮る際のカメラですね。というか、そうでないと「主人公がその場に居ないシーン」が成立しなくなるので。そのため、「このシーンはおそらくこっちからカメラがこう動いて、ここでズームして、どーん!」みたいな、そういう思考が頭の中で繰り広げられたりする。

 

・・・などと書いていると、これまで改めて意識したことは無かったけれど、私は小説を読みながら無意識に「映画監督ごっこ」をしているのかもしれない。美術を設定して、俳優をキャスティングして、カメラワークを考える。一丁前に演出の緩急なんかも意識しちゃったり。

 

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そういう意味では、自室で小説を読む際は、BGMを鳴らすことが多いですね。歌詞のある楽曲はそっちに意識が持っていかれてしまうので、専ら、ジャズとかクラシックとか。物語の進行にあわせて、劇的なシーンでは壮大な交響曲を、物悲しいシーンはピアノソロを、という感じ。こういう時、Amazon Music や Apple Music の多種多様なプレイリストが実に助かる。(ちょっと話が逸れるけれど、例えばアニメや特撮の小説版を読む際には、自分なりに「ここ!」と思ったシーンでスマホから主題歌を流したり、サントラをヘビロテしながら読んだりする)

 

なので、小説を読むペースとして、序盤にとっても時間がかかってしまうのである。登場人物それぞれの俳優を脳内キャスティングして、声や顔のイメージを定着させて(わざわざ顔写真や映像を検索する時もある)、舞台となるロケーションもガチッと作り込んで、そうしてようやく本筋に集中できる体制が整う。おそらく、終盤を読むペースの何倍もの時間が、序盤に要されていると思われる。

 

だからこそ、叙述トリック等の仕掛けは面白いんですよ。自分の中で作り上げてきた「映画」が、完全に崩壊する。例えば、「ずっと男だと思わされてきた登場人物が実は女だった」というトリックが判明した場合、いい感じのダメージが一気に効いてくる。この登場人物には玉木宏をキャスティングしていたのに、まさかお前!女!!女だったとは!・・・じゃあちょっと待てよ。これが最初から北川景子だったとしよう。男言葉を操るスーツスタイルの北川景子だ。それだと、最初のシーンはこう書き変わって、あれはそう修正されて、これがああなって、嗚呼~~だからあのシーンはそうだったのか~~北川景子の方がしっくりくる~~やられた~~~! ・・・という感じ。

 

この、「映画が崩壊する」瞬間が楽しいので、叙述トリックの香りが漂うミステリーだと余計に映像化に熱が入ったりする。崩すためのジェンガを時間をかけて組み上げる感覚。そして、崩壊した瞬間に、まるで走馬灯のようにこれまでの映像が新キャストや設定変更した美術で修正されて、脳が瞬時に疲弊する、その感覚こそが心地よい。

 

よって、その引き出しの数を豊富に保っておきたい、という意識が常にある。脳内で、沢山の俳優と親交を深めておきたい(比喩です)。やっぱり、よく知らない俳優は出演してくれないのだ。また、ロケ地についても、手札は充実させておきたい。旅行先で見た景色や、映画やドラマで観る普段では味わえないロケーションを、脳内で無意識にストックして、小説等を読む際に必要に応じてセレクトする。毎日がロケハン。

 

思えば、ラジオを聴くのも日課だけど、これも無意識に脳内で映像が繰り広げられるので(身振り手振りを含むパーソナリティの動きやスタジオの様子をイメージする)、私は多くの物事を「映像」に頼って飲み込むタイプなのかもしれない。音楽を聴く際も、そのアーティストの架空ミュージックビデオを曲ごとに妄想して沁み込ませることが多いし、あるいは架空ライブ映像でカメラの位置とかに凝ったりもする。人の話を聞く時も、情景を脳内で映像化しないと辛い。

 

こればっかりは感覚的なものなので、だからどうこう、という話ではない。前述のTogetterのように、脳内映像で小説を読む人は割と多いのだろう。逆に、「そうでない」人は、どのように小説を受け取っているのか。そちらに興味がある。

 

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