最終回の放送から数日遅れで鑑賞できた『ウルトラマンジード』。
『ギンガ』から復活したテレビシリーズが、『ギンガS』『X』と目に見えて画が豪華になり(おそらく予算が増え)、『オーブ』では遂に『ウルトラマン列伝』の看板が外れスピンオフまで製作されるに至り、一時期の「冬の時代」を考えるとファンとしては非常にありがたい流れだなあとしみじみしてしまう。
『オーブ』では、「歴代ウルトラマンの力をお借りしていた存在が遂に自分自身の力で戦う」というドラマが描かれ、今ではすっかり「スペシウムゼペリオン」より「オーブオリジン」が基本形態になった訳だが、さて一体 “その次” はどんな作品が来るのだろうとワクワクしていた。「歴代の力」をある意味で脱した作品の後に、どのようなアプローチが描かれるのか。
そして、その答えはまさかの、「歴代の負の部分を受け継いでしまった者の運命」であった。
大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE [Blu-ray]
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今でも『ウルトラ銀河伝説』はよく観返すのだけど、この作品を映画館で鑑賞した日のことはよく覚えている。
夕日に照らされながらベムラーと戦うメビウスに感動したと思ったら、「巨大感」を無視した光の国でのハイスピードバトルに度肝を抜かれ、マントをはためかす歴戦のウルトラマンたちに惚れ惚れし、そして、圧倒的なパワーを誇るベリアルと誰もが好きになれるキャラクターのゼロが新世代の到来を予感させてくれる。一種のエポックメイキングと言っても差し支えない作品だ。
そんな劇的なデビューを果たしたゼロとベリアルが、ついにメインストリームのテレビシリーズにレギュラー出演し、しかも主人公はベリアルの息子というから驚いた。「息子」というキーワードは言うまでもなくゼロのアイデンティティだった訳で、ある意味の「ゼロとベリアル、双方の設定を内包した存在」がジードなのだ。
『ウルトラ銀河伝説』から数えて8年。こんな設定の作品が作られたことそのものが、とても感慨深い。「ここまできたか」、と。
商業的な面で言えば、ゼロとベリアルの人気は国外でもかなりのものらしく、本年上半期に放送された『ウルトラマンゼロ THE CHRONICLE』は、先んじて海外展開されていた『Ultraman Zero The Chronicle』の国内版でもある。前作『オーブ』でもベリアルの闇のパワーはかなり印象的に扱われており、「ベリアルの息子」という看板は数字を獲れるものと認識されたのだろう。
しかも、そんな『ジード』をメインで撮るのは坂本浩一監督。こちらも言うまでもなく、『ウルトラ銀河伝説』の監督であるからして、ベリアルやゼロに対する思い入れは人一倍だろう。シリーズ構成とメインライターには小説家の乙一氏、音楽は『ウルトラマンネクサス』の川井憲次氏と、熱く厚い布陣である。
そんな川井氏作曲の主題歌『GEEDの証』は、聴けば聴くほど味が出るストリングスの厚みが最高な一曲。サビ後半の「僕は強くなる」の直前でグーッと上昇するストリングスは何度聴くいても胸が熱くなる。最終回を終えてから改めて歌詞を追って聴くと、その良さもひとしお。
あと、変身バンクシーンで用いられた『ジード戦いー優勢2(M-9)』。これは『ウルトラマンネクサス』で誰もが印象的だった「デッデッデッデッデデレデレ」の発展進化系という感じで、高揚感を煽ってくれる最良のテーマであった。
バンクシーンそのものも、玩具の操作を魅せながらテンポ感を損なわない良い出来だったと感じている。バンクの最後の「ジーーーードッッ」を最終回で「ジード・・・」ってやったの、最高すぎましたね。オタクはこういうのに弱い。
ストーリーは、さながら「攻めの側面」と「オーソドックスさ(王道要素)」のフュージョンライズであった。
「攻めの側面」は、主にジードの出生について。
「今度の主人公はベリアルの息子!」と報じられた時から「え?母親は誰?」と思っていた訳だが、その答えはまさかの「試験管ベイビー」。ベリアルを敬愛する伏井出ケイ(ストルム星人)によってリトルスターを収集するためだけに作られた模造ウルトラマン、それがジードの正体であった。
奇しくも同時期に放送中の『仮面ライダービルド』も似たような展開になっているように、「主人公が打ち込んでいたヒーロー活動はそれそのものが仕組まれた『ヒーローごっこ』にすぎなかった」という展開は、「出生が悪(=敵側)」という意味でとても「仮面ライダー的」なアプローチであるとも言える。
元来「光の巨人」は人間離れした神秘性がアイデンティティであり、前作『オーブ』も「ウルトラマンの光を継承する」といった描かれ方をしていた。その神秘性を生まれた時点から剥奪されていた存在が、仲間を得て、市民に支持され、最後にはウルトラの父やウルトラマンキングに「若きウルトラマン」として認められる。そんな、『オーブ』とはまた違った、マイナスからゼロに至るまでの「ウルトラマンになるまでの物語」であった。「ウルトラマン」とはその生まれ云々ではなく、一種の概念なのだ。
続く「オーソドックスさ(王道要素)」は、そのドロドロの出生に対するアンサーの部分。
ほとんど前述してしまったが、アイデンティティが揺らぐ主人公を救う存在が、かけがえのない仲間や、共に戦うウルトラマン、そして、かつてはジードを訝しがっていた市井の人々という構図になっており、これ以上ない直球のアンサーが設けられた。しかも、「主人公は子供たちのヒーローに憧れており、最終的に自分自身もそれに成ることができた」というダメ押しのおまけ付き。まさに「GEED(ヒーロー)の証」である。
そのため、主人公・リクは悩みはするものの大きく道を外れることなく、ほぼ光が差す場所に居続けることができた。(いわゆる主人公の闇堕ち展開は無かった)
「模造ウルトラマン」というテーマに対して「皆がいてくれるから僕は『ウルトラマン』になれる」という答えが用意されたのは、確かに王道で分かりやすいところではあるが、個人的にはせっかく攻めた設定だったので、もう一歩くらい暗い側面に踏み込んでも良かったかな ・・・とも思わなくもない。まあ、2クールならこれが最良か。
「みんながいてくれるから~」というテーマは、レイトとゼロにおける「家庭を持つサラリーマンなウルトラマン物語」にも共通しており、そのテーマが明瞭で王道だからこそ、それ以前のベリアルやゼロを知らなくても鑑賞できるバランスとも言える。
そう考えると、上では「もっと踏み込んでも・・・」と書きはしたが、「ベリアルの息子」という一見新規さんお断りな続き物要素をメインに据える以上、テーマを王道で分かりやすい物語にすることで誰もが楽しめるエンタメ性を持たせる、という狙いがあったのかもしれない。(とはいえ。市民のジードへの好感度を度々ワイドショーの世論調査で見せるのは面白かったが、せっかくの実写ドラマなので、もう少し説明でなく映像・演出の説得力でその変遷を観たかったな、という思いもある・・・)
そんな作品全体を牽引し続けたのは、ストルム星人こと伏井出ケイである。ジードの事実上の生みの親であり、リクにとっては父親でも母親でもありながら、宿敵でも縦軸の謎を持つ存在でもある彼は、その屈折したベリアルへの信仰心が見所であった。
自らが創り上げたジードという存在に、「ベリアル様の遺伝子を受け継いだ者」としてあろうことか作った自分自身が嫉妬するという強烈な変態っぷり。ベリアルに裏切られて捨てられてもその忠誠心を曲げないあたり、私自身もとても好きなキャラクターである。
土壇場で改心するのも悪くないが、個人的に、やはり悪には悪の美学を貫いていて欲しい。
終わってみれば、ウルトラシリーズが得意とする単発回的なストーリーをほとんど描くことなく、その大部分をメインストーリーの縦軸で消化するという構成だった。
そのため、(これは私が感じてしまった最大の難点なのだが)、前作『オーブ』のストーリー構成にかなり近くなってしまった印象が拭えず、せっかくの攻めた設定がどこか既視感のある展開に薄まってしまう惜しさも感じてしまった。これについては、「2つのウルトラマンの力を融合してて戦う」というスタイルの継続も含めた既視感であり、『オーブ』が好評だったからというのは嬉しいのだけど・・・ などとモヤモヤを抱えながらの視聴だったのが本音である。
とはいえ、「自信を喪失していたので他のウルトラマンの力をお借りしていた→そこから脱却するストーリー」「模造ウルトラマンゆえ他のウルトラマンの力を重ね合わせないと変身できない→その血筋の運命をひっくり返す」という、同じシステムに違うアプローチやアイデアを盛り込んだことについては、非常に興味深かったと感じている。
特撮面では前作に続き凝ったミニチュアワークが多用され、とっても眼福であった。近年テレビシリーズではあまり用いられなかった「夜戦」「水辺の戦い」「雨模様」といったシチュエーションの工夫も多く、また、『シン・ゴジラ』のような怪獣=災害としての描き方にも意欲的であった。
メインである坂本浩一監督は、それまでの氏の持ち味であった「スピード感のある戦い」や「CGを多用した別次元バトル」を意図的に少し封印した印象もあり、良い意味での「のっそり具合(=巨大感)」を、手前に配置した電線や鉄橋の向こうに捉えるカットが多く、色々と挑戦もしくは模索をしているのかな、などとも感じた。
市野龍一監督のゼガン回では街になだれ込む冷風がミニチュア特撮の真骨頂であったし、田口清隆監督のマグニフィセント回ではかの川北紘一監督を思わせる後光の演出に膝を打った。武居正能監督回の沖縄セットも新鮮!
リク自身が劇中で述べていたように、「GEED」には「運命をひっくり返す」という意味が含まれている。
登場から8年間、常に「悪のウルトラマン」として邁進してきたベリアルの運命は、本作をもってひっくり返り、幕を閉じた。まさかあそこまでしっかりレイブラッド星人を登場させるとは思いもしなかったが、彼の呪われた運命は、ライバルのゼロでも、因縁のケンでもなく、自身の遺伝子を受け継いだ息子によって決着することになった。
本当に「運命をひっくり返された」のはむしろベリアルの方だったかもしれないし、それは、満を持してベリアルとゼロがテレビシリーズという本流にメイン格で登場した時点で始まっていたのかもしれない。仲間のライハも両親の仇であるケイに屈することなくその因縁をひっくり返し、一方で、ケイは意地でも選んだ運命を変えることなくその身を散らせた。
「運命をひっくり返す」というのは、リクにとっては「克己」であり、ベリアルやケイといった「父を超える」物語でもあった。そう考えると、『ジード』の物語は非常に「少年漫画的」なそれだったとも言えるし、その陽性で元気な物語が、演じる濱田龍臣くんの屈託のない笑顔に象徴されていたことは言うまでもないだろう。
「ジーッとしてても、ドーにもならねぇ!」。それは、右肩上がりでコンテンツの底力を増していく近年のウルトラマンというコンテンツそのものが持つべき姿勢とも言える。だからこそ攻めて繰り出されたであろう「模造ウルトラマン」の物語は、その暗いテーマに反し、明るくストレートな着地を見せてくれた。
さて、これに続くウルトラマンは、今度はどんな物語を魅せてくれるのだろうか。今からそれが、楽しみでならない。
ジードのOP、あのイントロと歌い出しで毎回キングのじいさんが「わしの登場じゃよ!」という感じで威厳たっぷりで出てきてたから、最終回も同じタイミングで「わしじゃ!」って出てきたの、すごく良かった。オタクはOP再現が好き。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年12月28日
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