ジゴワットレポート

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感想『VIVANT』 おそらく本気で信じられた、邦ドラマなりのエンターテイメントの形

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『VIVANT』、とても面白いドラマだった。契約しているU-NEXTがParaviと統合し、放送直後に即配信のスケジュールが組まれていたのにも助けられた。毎週のように夫婦で感想戦を行い、アーデモナイ・コーデモナイ・ソーカモシレナイと会話を繰り広げる。

 

このドラマは、制作発表の時点から物語の詳細を全く明かさないという手法を取っていた。意味をググっても物語の内容までは察せない「VIVANT」という単語、海外ファッション誌のような黒背景に赤でバキッと彩られたタイトルロゴ、スーツやドレスに身を包んだ国内最高峰に技アリなキャスト陣がスタイリッシュに立ち並ぶ。詳細は全く分からないが、とにかく「面白そう」なオーラを感じる。「すごいものが観られそう」な香りがぷんぷんする。

 

引用:https://twitter.com/TBS_VIVANT/status/1692475934228758682

 

実際に幕を開けると、とても日本のドラマとは思えないスケールで撮られた映像が広がる。どこまでも続く砂漠や草原、大規模なモンゴルロケで撮られた眼福の景色。素人目にも桁違いの予算が投じられたことが分かるセットや美術、迫力のあるカースタンドに銃撃戦。これらは、多くの視聴者の脳裏にあるフレーズを走らせたことだろう。「まるで映画みたいだ」。かくいう私もその一人である。

 

しかし。「映画のスケール感をドラマに落とし込む、そういう企画なのかな」と思って観ていると、段々と、そうではないことが分かってくる。むしろ、無意識に覚えていた前提に齟齬があることを実感する。私は頭のどこかで「映画 > ドラマ」と思っていたのかもしれない。いや、これはある意味で真のはずだ。本邦では往々にして映画の方が予算をかけられるし、ロケーションもセットもキャスティングも豪華になる。ドラマシリーズの映画化はヒットの証だし、興行収入というドラマとは全く異なる収益構造がそこにはある。しかし、なるほど。『VIVANT』を観ていると、この作品それ自体が「映画 > ドラマ だなんて、誰がそう決めたんだ?」と問いかけてくるような、そんな意地を感じる。

 

ドラマが映画に勝るポイントがあるとしたら、それは何か。単純に、語れる時間が違う。映画は長くとも150分ほどだが、ドラマは50分が10話あったとして500分も語れる。それも毎週に分けて10分割して語るのだから、観客の興味を上手く惹きつけることができれば、それは3ヶ月も持続する。この点に限れば、映画は150分しか興味を持続させられない。こう書くと、なんだかドラマの方が映画より強そうな気がしてくる。いやいや、映画の方が予算をかけられるし。セットもキャストも豪華にできるし。オーケー、じゃあ仮に、『半沢直樹』や『下町ロケット』を手がけたTBSのヒットメーカー・福澤克雄監督が氏の威信をかけたオリジナル脚本で映画制作に引けを取らない莫大な予算をかけられるとしたら、どうなる? 「映画の強みを内包した500分で3ヶ月のドラマ」が作れるとしたら、それはもしかして最強なのでは? 高級食材を提供できる24時間営業のファストフード店みたいな、理屈の上では無敵のキメラが出来上がるのでは?

 

そんなニュアンスを感じながら観ていくと、なるほど『VIVANT』は非常にクレバーである。20年以上も前から洋ドラではスタンダードなクリフハンガーをきっちり踏襲しつつ、「観客の興味を3ヶ月持続させる」ことに命を懸けている。

 

まず、前述のように放送前に内容を秘匿する。始まってみれば規格外の国外ロケとスケール感で好奇心を煽り、しかし物語の骨子や道筋をろくに明かさずに次回に送る。得体の知れない渦に巻き込まれる主人公と、得体の知れないスケール感に慄く視聴者の視点を重ね合わせたかと思えば、その主人公が実は日本国を守る特殊部隊の精鋭で全部分かっていてやったことだとちゃぶ台をひっくり返す。なるほど、じゃあこれは特殊部隊に属する主人公の和製スパイ物なのかと思って構え直すと、今度は主人公が組織を裏切って敵側についてしまう。「これは◯◯ジャンルのお話で、それはきっとおよそ、アアなってコウなってソウ終わるのだろう」......といった予測を視聴者に抱かせてたまるものか、と。ある意味でアトラクション的、ある意味で連続ドラマの基本に忠実な、そんな作りであった。『VIVANT』、とにかく類型を見ないのだ。終わってみた今だって、この作品が何のジャンルか一口には説明し難い。

 

しかし、やっていることが実はそこまで高尚じゃないというのがミソである。サーバールームに忍び込むぐだぐだミッションインポッシブルや、公安・特殊部隊・テロ組織・世界的ハッカーにしてはどこか才覚に欠ける段取りの数々、株価が上がるだの下がるだのの睨めっこシーンなど。家具の裏の壁に穴が空いているなんて、一歩間違えればコントである。しかし、「んな馬鹿なw」となりつつも、なんだかんだで面白い。演技力に間違いのないキャスト陣が真剣な面持ちで技を交わし、ヒヤヒヤでハラハラなカット割りが続き、重厚なメインテーマが ど〜ん と流れる。するとどうだろう。面白い。なんだか「しょぼくない」。ここまで真剣に大真面目にやられると、なんだか「しょぼくない」感じがする。いや、これはもしかして「面白い」のか? そうなのか? ......と思っているうちに、段々とこのトーンに慣らされてしまう。

 

VIVANT <Main theme>

VIVANT

 

  • 千住明
  • サウンドトラック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

この辺りは完全に、福澤監督を始めとする日曜劇場スタッフの手腕によるものだろう。思い返せば『半沢直樹』だって大概である。銀行の金庫に忍び込んだかと思えば死角に隠れて助かった、疎開させた資料が機械室にあることがバレたかと思えばバレなかった、そんなしょうもないピンチが何度も何度も訪れる。しかし、堺雅人がこれでもかと眉間に皺を寄せ、及川光博が目を泳がせてそわそわし、片岡愛之助がノリノリで舌舐めずりをして、最後にメインテーマが ど〜ん と流れて大逆転!それ見たことか!直向きさと正義は必ず勝つのだ!......と、カタルシスが訪れる。この「分かりやすいピンチ」。これだ。これが大衆向けにかなりの確度で効き、しっかり訴求できるのだと、『VIVANT』の作り手は分かってやっている。

 

邦ドラマのジャンル性に限った話、「分かりやすいピンチ」は大衆向けのひとつの様式美だ。「マスにウケる程度の低い安直なピンチ」と表現すると俗で嫌らしいが、あえて書こう、その通りだ。しかしこれは、例えば「ロボット物における司令室とコクピットが連携する発進シークエンス」や「特撮ヒーロー物における変身や名乗りのバンク」と同じようなもので、“対象の観客” が愛して止まない偉大なパターン、様式美なのだ。日曜劇場の作り手、及び『VIVANT』のスタッフは、この「分かりやすいピンチ」をちゃんと分かりやすく、それでいて「しょぼくない」水準の絵と演出でキレキレに魅せることに、やけに長けている。ここが実に巧い。これ以上難しくても、これ以上分かりやすくても、きっと駄目なのだ。

 

無論、シナリオや演出をもっと詰めに詰めてブラッシュアップして、「分かりやすいピンチ」なんか配置せずリアリティを高めることは出来るだろう。ハードなエンターテイメントを目指すことは出来るだろう。そこを追求すること自体は、不可能ではないはずだ。しかし。仮にそれを追い求めたとして、その先にいるのは既存の洋画や洋ドラなのかもしれない。今や誰もが配信サービスで超お手軽に鑑賞できて、本邦よりはるかに技術が上で、水準が高く、経験が豊富で、土壌が育ち、予算が潤沢な、洋画や洋ドラとの戦いにしかならないのかもしれない。その戦いに、果たして日本のドラマというバジェットが勝てるだろうか。肉薄できるだろうか。それならいっそ、“そうではない” 、日本のドラマという環境下・文化圏における最大値(マス)を獲りにいく、そんな戦い方に地の利があるのではなかろうか。

 

現代式:日本のドラマならではの戦い方とは。とにかく観客の興味を惹くことに専念する。予想を裏切り情報を伏せクリフハンガーで翻弄する。技アリのキャスト陣の演技合戦を展開する。「分かりやすいピンチ」を配置し歌舞伎や舞台のように様式美とハッタリで魅せる。宣伝攻勢をかけ特番を組みSNSで考察を呼びかけ、マスメディアの力を行使して「流行ってる」をプッシュする。その渦がムーブメントとなり、「流行ってる」は「流行ってる」を呼び拡大していく……。

 

これらは、決して観客を小馬鹿にして興味の牽引だけにテキトーに注力した訳ではない。興味の牽引こそが「邦ドラマなりのエンターテイメントの形」だとおそらく本気で信じ、それを実現するための技術と規模を勝ち取った大人達が、マジでやっているのだ。そして、最後に勝つのは「勤勉さ」「直向きさ」「正義」、あるいは「愛」。情報過多で誰もが何かに疲れている現代で、日本人が古来より美徳としてきたものが最後にちゃんと真ん中にある。そのバランス感覚に、作り手が誰よりもマジなのだ。

 

『YOUは何しに日本へ?』などの「日本アゲ」が日本人は好きだ。日本は素晴らしい、日本は美しい、そういうメッセージが大好きだ。最終回、役所広司が「日本は異なる文化を尊重できる国だ」と熱心に語りかける。どうだろう、これがそこまでキャリアの無い役者さんだったら、同じ台詞でも「んな訳ねぇだろ、日本だってひどい対立や差別で溢れとるわ」と鼻で笑ったかもしれない。しかし役所広司だ。あの優しい目と熊さんの図体で、重く踏み締めるように言葉を紡ぐ。するとなんと、「ああ、実際のところは日本にも対立や差別があるけれど、役所広司が言うように、そういう国を改めて目指していかないといけないな」と、もはや襟を正す気配すらある。これが役者のパワーだ。更には、赤飯・日本家屋・神社・饅頭・桜並木など、日本ならではの情景をいくつも散りばめていく。よく意味が分からなかった英字タイトルのドラマを観ていたはずなのに、いつの間にか日本国民として嬉しくなってくるではないか。そういう、くすぐり。ここも実に巧妙だ。まあ、あまりに右すぎると言われればそれまでだが、ここまでファナティックな愛国者が手を汚してまでガンガン活躍するドラマをこのご時世にやるの、それはそれで結構面白いと思ってしまうのだ。

 

2023年、令和5年現在の邦ドラマにおける「勝利の方程式」が仮にあるとしたら、『VIVANT』のやり方はかなりの精度でそれだったのかもしれない。とても翻弄されたし、とても楽しかった。このバランスのこの手触り、おそらく日本のドラマ以外じゃ中々味わえない。SNSでの盛り上がりを含め、言うまでもなく単なるドラマを超えたムーブメントだ。我々は電波歌舞伎の客なのだ。