ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

「感想を書く」は「解釈や考察の正解を当てて発表するイベント」じゃあない

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下記の『感想のすゝめ』というnoteを拝読しまして、「そうだよなァ~!」とTwitterでRTして自分の “感想” を書いていたら割と反響があったので、「感想を書くこと」についてぽつぽつと書いてみる。

 

note.com

 

 

冒頭のnoteの序盤にあった「貴方の感想が読みたいから〇〇を観て欲しい」という声が届くやつ、私もかなりの頻度で経験していまして。もちろん、とても嬉しいです。こんな場末のブロガーのテキストに需要があるということが、そこはもうマジに普通に割と嬉しい。ありがとうございます。

 

とはいえ。その反面で。そこに「自分の感想に自信が無いから貴方の感想を読ませて欲しい」というニュアンスが伴っているケースがあって。「初見の感想ウメェ~」でもなく、「君はこれ好きそうだから布教させてくれ!」でもなく、なにかこう、云い辛いのだが、救いを求めるような、縋るような雰囲気で頼まれることがある。気付けばいつの間にか懺悔室の片方に配置されているような。(あくまで比喩です)

 

note文中にもあったように、「感想は、あくまで作品を受けた己の心の動き、感情に誠実であればそれでいい」と、私もそう思う。強くそう思う。

 

私の感想なんて、所詮は他人の感想なのだ。他人の感想なんて、10集めても、100集めても、1,000集めても、どこまでいっても他人の感想だ。それよりたった1つの「自分の感想」に何物にも代えられない価値がある。そう思わんかね? ……と思って私は生きてきた。そう信じて疑わずに、ブログやTwitterで感想を吐く日々を送ってきた。

 

だから、「自分の感想に自信が無いから貴方の感想を読ませて欲しい」なんて、なんでそんなことを言うのかと、両肩を掴んで揺さぶりたい衝動に駆られてしまう。もっと自分の感想を大切にしろよ、と。面白かったなら面白かった、つまらなかったならつまらなかった、落涙したなら落涙した、分からなかったなら分からなかった。それで良いじゃあないか。私という「他人の感想」を、貴方のかけがえのない「自分の感想」に混入させて良いのかと。肩をグワングワンに揺らしながら、本当はそう問いかけたくなる。

 

Twitterに書いたように、「感想を書く」は「解釈や考察の正解を当てて発表するイベント」じゃあない。決して、そうじゃあない。作品として世に出力された時点で、創作者という名の神の手すら離れている。受け手が個々に何を胸に抱いても良いし、それはどこまでいっても自由だ。感想なんて、それ以上でもそれ以下でもなく、そういうモノだと信じている。

 

そしてそれは、脳内から外に零してこそ面白い。頭の中にあるだけでは、ただ「あるだけ」で終わっていく。良いインプットは、良いアウトプットが絶対にセットだ。作品を摂取して、それを自分の中で咀嚼して大切に味わいたい、つまり(自分に適した)インプットの精度を上げたければ、先に鍛えるべきはアウトプットなのだ。出口が不透明なのに入口もへったくれもない。出力し、出力し、出力し続けていくことで、「自分はこういう趣味嗜好の人間なんだ」と気付けていく。それが面白い。指針を自覚できれば、作品選択の幅も精度も増す。同じ作品でもより深く広く味わえる。「感想を書く」は、要は「作品をより味わう」ための手段なのだ。

 

そんなプライベートでパーソナルでインフォーマルな儀礼に、「他人の感想」を介在させて良いのか。どうしても、そう思えてならないのだ。「自分の感想に自信が持てない、ってどういう意味?」「感想に自信もへったくれも無くない?」「貴方が抱く感想は貴方の中で決定版としてノータイムで確立するものじゃないの?」、と。

 

……といったことを書くと、「そりゃあそう思うでしょうね。驕るでしょうね。累計1,000万PVを数えるブログを書きながらTwitterのフォロワーも1万を超えているのだから。はいはい感想強者。はいはいはい」と思われるかもしれない。スマン、わざと厭味ったらしく書いた。そりゃその数字は事実さ。しかし私個人に限ってはダウトだ。ブログをもう20年近く書いているが、PVがミジンコでウンコみたいな文章を綴っていた20年前からこのスタンスでやっている。数字は結果に過ぎない。

 

なので、「感想はそれぞれが好きに書くもの」であり、「己の感想に自信が持てない」という思考それ自体が間違っているし、その行為は決して「解釈や考察の正解を当てて発表するイベント」じゃあない、ということで、FAだ。はい、終わり。終わり終わり。かいさァ~~ん。打ち上げは会場を近くの居酒屋に移して行います田中の名前で予約しているので準備が出来た人から順次移動してください会費はまた後で徴収します アッ お疲れ様っした~~~~~!!どうもどうもどうも~~~!!いぇぇぇ~~い!!

 

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……で、話が終われば、世話は無い訳で。いや、ぶっちゃけ結論は変わらない。ちょっと語気が強いかもしれないが、上に書いたものがFAだと本当にそう思っている。だからそれを覆す気はない。

 

とはいえね。「感想に正解があるような気がする」「間違えちゃいけないような気がする」。だから、「解釈や考察の正解を当てて発表するイベント」のように錯覚する。その感覚、ニュアンス、薄い強迫観念。それはとても分かってしまうのだ。分かって “しまう” 。

 

もはやインターネットは「行くもの」から「在るもの」に成り果て、誰も彼も発言者になれてしまう時代。考察や評論という単語の意味はどこか曖昧になり、その全てが感想というふんわりしたワードに吸収され、膨張するようになり。ホームページを持っていなくても、ファンサイトに通わなくても、ブログを開設していなくても、SNSのアカウントひとつあればすぐに何かを語れるようになってしまった。

 

有名な映画監督も、大学の同期も、尊敬すべきアニメーターも、大嫌いなバイトの同僚も、一生追いかけたい漫画家も、いち個人に過ぎない自分も、SNSでは同じ肩の高さ。同じアイコンの丸の中に居る。昔は専門誌や密かな独白サイトくらいでしか得られなかったような「作り手の声」も、評論本をあたらないと読めなかった同好の士の熱い語りも、同じ肩の高さのSNSでノータイムで読めてしまう。今さっきテレビで観たものの、今さっき映画館で観たものの、今さっき書店で見かけたものの、その生産者や濃度の高いファンの声が、ノータイムで読めてしまう。

 

そこには時に「正解」が書いてある。生産者の生々しい声がリアルタイムで届き、「こういう意図を込めました」「こういう感情で演じました」「こういう狙いがありました」と、思考が本格的に走る前にそれが目に飛び込んでくる。

 

あるいは「正解のようなもの」が書いてある。自分よりはるかに知識や経験に長け界隈で支持されている者が、ひとつの解釈を ドバァァーーン と叩きつけ、RTやいいねのカウンターが回り続ける。思考が本格的に走る前にそれがTLを埋め尽くしていく。

 

それらと違う、例えば真逆の意見を述べようものなら。「正解」に群れた誰かに攻撃されるかもしれない。「正解のようなもの」に群れた誰かに厭味を言われるかもしれない。あるいはそれを挙げた本人から直々に否定される可能性だって無い訳じゃない。それなら、わざわざリスクを冒して「自分の感想」をアウトプットしなくてもいいじゃあないか。

 

で、あるから。「感想に正解があるような気がする」「だから間違えちゃいけないような気がする」。その気持ちはよく分かってしまう。今の時代、色んなものが近すぎるし速すぎるからだ。「自分が言おうとしたことはコレです」「一言一句同意です」「言語化されてた!助かった!」。そうして、「答え」や「答えのようなもの」に救われた気になる。

 

しかし、それでも。それでも私は、どうしても私は、両肩をグワングワンと揺らしたい。それで良いのかと。「自分が言おうとしたことはコレです」、本当にそうか!? 本当にそうなのか!? それはただ、自分の頭の中にあったモヤモヤと相似の、なにかちょっと歯切れのいい文字列に、思考を塗りつぶされているだけじゃあないのか!? 貴方は本当に「考えた」の!? 「自分の感想」を一時でも保存したの!?

 

もちろん、こんなふうに書けば「お前なんかただの感想マッチョだ」と言われそうだ。感想マッチョが筋トレを啓蒙している図式と言われれば、多分そうだ。そこはスマン。でも、やっぱり「自分の感想」は唯一で最高で不可侵だし、それをもっと大切に扱って欲しいと、「感想を書く」ひとりとしてそう思ってしまうのだ。

 

とはいえ、「それが表現しているもの」を正確に汲み取るには、ある程度のスキルが要る。慣れが要る。国語の現代文の問題じゃあないけれど、「意図しているもの」を正確に把握する術は必要だし、それにはシンプルに物量をこなす必要がある。まったく書いていないことを読み取ったり、微塵も映っていないことを受け取るのは、はっきり間違いだ。ここに関して言えば、どうしても「正解」が存在する。というより、正確には「不正解」の方が存在している。

 

桃太郎を読んで「なるほど全ておじいさんの陰謀だったんだ!」は許されないし、「過去の鬼が桃を川に流したってことか!」も通らない。しかし、「桃太郎は鬼を倒すためだけに生まれた可哀想な子かも」は尊重されるし、「悪さをした鬼と桃太郎が倒した鬼は本当に同一の存在だったのだろうか」には価値がある。この!違いが!分かるだろうか!!

 

あるいは。「やっぱり桃太郎は最高。それに比べてかちかち山は駄作だった」は矢が飛んでくるかもしれない。「桃太郎を素直に楽しめない奴は逆張り野郎だな」には火炎瓶が飛んでくるかもしれない。「感想を書く」はそれ自体がシンプルな行為だが、それとは別に、「インターネットやSNSでテキストを公開する」という点でのマナーのようなものは、やっぱり存在する。ただ、繰り返すが、それは「インターネットやSNSでテキストを公開する」場合のマナーだ。ただの処世術だ。「感想」それ自体のルールじゃあない。

 

言い方ひとつ。マナーひとつ。しかしそれを易々と突破してくる酔狂な人もまた、インターネットには存在する。交通事故のように遭遇する時だってある。しかし、それでも。感想マッチョはこう考える。「君はそう思った。私はこう思った。それだけの話だ」。そう呟き、対向車線から突っ込んできた車を指先一つで受け止める。相手の運転手が何かを喚いている。おかしいな、私は「感想」を書いただけだ。中傷も、攻撃も、不快な表現も無かったはずだ。そう思えたなら、「感想」に突っ込んできた相手の過失だ。日々の筋トレ(アウトプット)により鍛えられた指先は、上腕二頭筋から掌を経由して伝わる覇気によって力を増し、車をひょいと薙ぎ払った。フン、私の領域に入ってくるな。これは私の、私自身との大切な感想戦だ。すると負け惜しみが聞こえるかもしれない。「それを全世界に公開しているのはお前だろォ!突っ込まれたくなければ日記にでも書いてろ!」。うるさい、黙れ。センターラインを越えてきたのはお前だろう。そういうことじゃあない。

 

ここに、「結論」も、「結論のようなもの」も無い。そういう締め方はしない。「そうまでして感想を書くことを強要するな」と、そう言われそうな気もする。別にそう言ったつもりは無いが、もうなんか別にそれはそれでどうでもよくなってきた。感想強者と言われようと、感想マッチョと言われようと、貴方がそう思ったのならそれでいい。

 

それでもやっぱり、「感想はそれぞれが好きに書くもの」であり、「己の感想に自信が持てない」という思考それ自体が間違っているし、その行為は決して「解釈や考察の正解を当てて発表するイベント」じゃあない。私はそう思っているし、そう主張する。

 

だって、「自分の感性や嗜好の定規」を見つけていく楽しさを知っているから。

 

独暑感想文

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