ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

感想『シン・仮面ライダー』 可笑しさに酔え。歪曲に震えろ。これが再認識エンタテインメントだ。

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平成ライダー世代である。

 

幼心に『BLACK RX』に思い出がありつつも、しっかり腰を入れて鑑賞したのは『クウガ』が初めて。それ以降、日曜に仮面ライダーを観る生活を送って二十年以上が経った。昭和ライダーにしっかり触れたのは、無限の時間を持て余していた大学生の頃。レンタルビデオ屋でDVDをごそっと借りてきては、タワーのように積んで連日をかけ鑑賞した。

 

そうして出会った初代『仮面ライダー』を、この令和5年にまた、『シン・仮面ライダー』への予習として鑑賞した。久方ぶりに第1話から鑑賞すると、藤岡弘の体当たりの演技に感銘を受ける。大野剣友会による生々しいアクションは、ショッカー戦闘員をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……。カットを細かく切り替え、跳躍と共に岩壁の頂に降り立つ仮面ライダー。番組のフォーマットが確立するにつれ、そのヒロイズムに安定感がもたらされていく。

 

引用:シン・仮面ライダー : 作品情報 - 映画.com

 

しかしながら、私は『シン・仮面ライダー』に明確な不安があった。それは、原典『仮面ライダー』の今となってはノスタルジックな演出の数々を、そっくりそのまま再演するのではないか、という点だ。

 

「ライダぁぁぁぁァァ……」と鋭い眼光のまま溜めるように叫び、見栄がキレる変身ポーズを放ち、画面が極彩色に包まれ仮面ライダーが登場、目出し帽を被ったショッカー戦闘員が仮面ライダーをわらわらと取り囲み、泥臭いカットが長回しで展開され、ライダーの跳躍にワンカット+SE、空中回転にワンカット+SE、ふらっと落下しつつもキックのポーズにワンカット+SE、そしてショッカー怪人は突如として人形になり崖の上から人権の無い勢いで落下し爆散する。まさか、「そういった様式美」をあえて描き直すような、そういった作品になるのではないかと。予習をしながら、様式美の数々に頷きつつも、少しの不安が過ぎる。

 

というのも、シンシリーズの前作にあたる『シン・ウルトラマン』が、割とそういった方向性にあったからだ。吊り人形の操演をそっくりそのままやったり、当時の印象値や名場面の数々をかなり忠実に再映像化する。ただ、『シン・ウルトラマン』に限ってはこれが功を奏していた。『ウルトラマン』のTVシリーズを一本の映画に再構成しつつ、青い星を守ってくれた銀色の巨人への憧憬をテーマとするならば、牧歌的かつノスタルジーに浸れる塩梅で構築することに異論はない。「懐かしさ」や「古めかしさ」を感情的なギミックに用いていた訳だ。

 

 

しかしながら、『仮面ライダー』はちょっと違う。

 

変身ポーズ、戦闘員、藤岡弘によるドスの効いた低い声、男臭い掛け声、跳躍、そしてキック。その全てが様式美としてあまりに強く認知されたが故に、それをそっくりそのままやると何かのコントやコメディを見せられているような、そんな恐ろしさを孕んでしまっている。本家東映が平成以降に制作した場合においても、大集合系の映画で昭和ライダーがその様式美を強めに振りかざすと、途端にフィクションの線引きが乱高下するのだ。なんだかちょっと、おもしろ可笑しくなってしまう。もはや、あの様式美それ自体の美学は、当時のフィルムの中にしか存在し得ないのではないか……。

 

それでは、アプローチを変えてみるか。『シン・ゴジラ』はどうだったろう。こちらは、我々のよく知るゴジラを、進化前というアイデアで「全く知らない恐いもの」として銀幕に登場させた。何か得体の知れない巨大な動く災害が、東日本大震災を想起させながら、福島第一原子力発電所を暗示しながら、無慈悲に日常を踏み潰していく。終戦からまだ数年のあの頃、戦争の記憶が生々しい当時の観客は、初代『ゴジラ』を如何に観たのだろうか。そんな時代背景をも疑似体験できる映画として、『シン・ゴジラ』は実に本歌取りに長けていた。

 

 

『シン・ウルトラマン』が「ノスタルジックの再演」だとするならば、『シン・ゴジラ』は「鑑賞体験の再演」。そしてトリを務める『シン・仮面ライダー』は、何をどう描いてくれるのだろう。庵野秀明監督は、当時『仮面ライダー』を「どういう作品」に観たのだろう。

 

例によって前置きが長くなったが、以下、『シン・仮面ライダー』のネタバレを交えつつ感想を記す。

 

※※※

 

作品冒頭、大型トラックに追われるサイクロン号。派手な映像的な見せ場を重低音と共に立て続け、暴力性を制御できない仮面ライダーがバイオレンスに暴れ回る。「掴み」の強い導入だが、物語はそこからノンストップで転がり続ける。クセが強すぎる敵怪人が次々と顔を見せては、あの手この手でライダーを殺そうとする。元となった虫や動植物のパワーを振りかざし、ある者はシンプルに暴力で、ある者は実験都市の長として、ある者は狡猾な暗殺者のように振る舞う。本郷猛と緑川ルリ子は、政府筋の謎の男らの協力を得ながら、ショッカーの怪人達を退ける。そして、物語はルリ子の兄に迫っていく……。

 

正直なところ、一本の映画として巧いかと問われれば、私はあまりそうではないと答えるだろう。懐かしの『キューティーハニー』の匂いがするぞ!……などと感じつつも、庵野監督の絵作りは、凝り性と不親切を忙しく反復横跳びし続ける。

 

 

一周してイマドキにもなりつつある人工知能を盛り込んだショッカーの再解釈や、それによるロボット刑事Kのようなキャラクターの立ち回り、プラーナという設定を用いた科学と観念を紐づける構成に、父よ母よ妹よのダブルタイフーンな0号に至るまで、その全てが映画として効果的に機能したとは思えない。盛り込みすぎたが故の結果か、はたから整然さを目途としていないのか。シンプルに劇場用映画としてのクオリティで言うならば、間違いなく『シン・ゴジラ』に軍配が上がるだろう。

 

しかしながら、私は『シン・仮面ライダー』を観ながら強烈な思いに襲われた。正直びっくりした。頭では「なんでこんな粗雑な作りなんだ」と眉間に皺を寄せつつも、身体は反応していた。確かに血が躍っていた。それは、大学生のあの頃にDVDで観た、そして最近までまたもや配信で観ていた初代『仮面ライダー』の、その番組としてのリズム、テンポ、ケレン味、こういったものが見事に再現されていたからだ。

 

結論から言うと、今回は「ノスタルジックの再演」でも「鑑賞体験の再演」でもなく、「テレビ番組の再演」だったのではないか。割と早い段階でそう思い至った。

 

改めて『仮面ライダー』を観ると、作風やテイストが安定するまでの試行錯誤が凄まじい。突貫工事で制作されていた背景もあるだろうが、それによる突発的な展開や整合性をかなぐり捨てたような話運びには、独特の味がある。まずショッカーの怪人が攻めてきて、ライダーはそれを受けて行動を開始する。毎回のエピソードを回すのは、ライダーでもおやっさんでも滝でもなく、あの手この手で人類征服を試みるショッカーの怪人達なのだ。素っ頓狂な計画を進める怪人もいれば、頭脳派な性格を覗かせる怪人もいる。その多彩な造形も相まって、まずはショッカー怪人ありきでバラエティさが担保されていく。

 

演出やテンションもぶれぶれだ。初期にまだ変身ポーズが無かったのは有名な話だが、ライダーが登場するシーンも各監督によってかなり自由な解釈が加えられている。突然コミック的な絵が挟まってコマ送りに変身するシーンもあれば、サイクロンを伴って劇的なライティングで出現したりもする。ショッカーの被害者や戦闘員も、泡になって消えたり、糸が引っ張られるように消えたり、ライダーにビルの屋上から投げ飛ばされて血しぶきを撒き散らしたりする。たまに何が起きたのかよく分からない必殺技が唐突に登場するし、緊迫の危機をなんだかぬるりと脱したり、意図が汲み辛いシーンもあったりする。そしてこれは偶然の結果ではあるが、藤岡弘の撮影中のバイク事故により仮面ライダー2号が登場することとなり、作品のテンションはまるで別物のように変貌する。

 

番組の空気感が明るく刷新され、都会派で小意気な一文字が番組を牽引する。変身ポーズが持ち込まれ、少しずつ我々の知る仮面ライダーの型のようなものに近付いていく。ダブルライダーがそろってからも、当初のおどろおどろしい怪奇テイストからは考えられない、少年仮面ライダー隊やライダーガールズなる組織まで登場する。ゲルショッカーの戦闘員はもはや番組初期の戦闘員とは並び立てないほどにフィクション性を増し、孤独に苛まれていたはずの本郷は数えきれないほどの支援者や戦友を獲得していく。

 

そんな偉大なる歪曲の歴史…… なにがどうしたってそう変化したのか、偶然と結果論と視聴率に応えた末に完走した『仮面ライダー』は、東映の社風に実に忠実な作品だ。言うまでもなく、この手の荒唐無稽さは『仮面ライダー』に限らず時代性による部分も大きい訳だが、とはいえこれが国民的ヒーロー番組として人気を博すこととなった。

 

なにか「きれいなもの」「ととのったもの」というより、とにかくテンションが高く、ハッタリとケレン味に満ちた絵作りが続き、ハイライトでは主題歌をギャーン!と鳴らしながらライダーがエネルギッシュに立ち回る。お話は何がどう飛び出すのか分からないが、正義の飛蝗怪人の格闘がかっこいい。けたたましく響くバイクの排気音がかっこいい。怪人達が仕掛ける多種多彩な作戦がお話に色を付け、それをことごとくライダーが砕いていく。目の前の回が終われば間髪入れず現れる次週の怪人にご期待し、その時その時の都合で演出も設定も着のままに降って湧いてくる。そんな、なんだかちょっと変な作品。

 

あの目まぐるしさ。絵としての熱気の高さ。「荒唐無稽」と書いて「豊かさ」と読むような、番組としての軌跡。

 

『シン・仮面ライダー』には、その足跡が確かに打ち込まれていたのだ。それも、我々の知る「昭和ならではの様式美」に頼ることなく、庵野秀明の作家性による筆致で。この点に、私はどうしようもない愛着を抱いてしまった。「す、すごい!『仮面ライダー』だ!」「俺は今、びっくりするくらい『仮面ライダー』を観ているぞ!」と。

 

引用:シン・仮面ライダー : 作品情報 - 映画.com

 

本作に関する最初のメモの日付は、2016年1月8日。

それから完成までの7年間強の間、自分を支えた最大のモチベーションは「僕の考えた仮面ライダーを作りたい」ではなく「仮面ライダーという作品に恩返しをしたい」でした。

自分にできる恩返しは、ATAC等で過去作の資料保存と啓蒙活動に加えて、「新作」を作ることでオリジナル作品を自作で越えるのではなくオリジナルの魅力を社会に広げ、オリジナルの面白さを世間に再認識して貰う事でした。

・東映(株)事業推進部発行『シン・仮面ライダー』パンフレット(P29)庵野秀明監督のコメント

 

組織の追手であるクモオーグとの戦闘は、文句なしのロケ地で高低差を意識した縦の組み立ててで魅せる。続くコウモリオーグは科学者としての罠を張り、それを変形したバイクで空中に追い詰めキックを叩き込む。サソリオーグが全身全霊で映像を賑やかしたかと思えば、ルリ子との因縁にまみれたハチオーグは実験都市を組織し、高速すぎてコマ抜きやフレームが落ちたアニメ的なアクションでライダーと渡り合う。

 

カマキリ・カメレオンオーグは透明能力を用いて物理ナイフでルリ子を殺め、心を取り戻した2号に力の限りの一撃を喰らう。群生バッタのショッカーライダー群を決死の覚悟で迎え撃つダブルライダー。そしてボスであるチョウオーグは、言うまでもなく仮面ライダー然としたスタイルに身を包み、人類補完計画の紛い物のような信念と謎の念力パワーで襲い来るのだ。迎え撃つ仮面ライダー達は、泥臭く、汗と血にまみれて応戦する。

 

このお話の豊かさよ。見せ方のバラバラ加減よ。単体のオーグの数でいくと、ライダーと交戦していないサソリオーグを除いて5体もいる。『仮面ライダー』を5話連続で観ると、なんだかだいたいこういう観心地にならないだろうか(もちろん偶然だろうが、上映時間121分を5で割ると約24分。およそ放送1回分である)。それも戦闘シーンではほぼ毎回、ギャーン!と主題歌の攻撃的なアレンジが流れるのだ。倒しては次が現れ。倒しては次が現れ。エキセントリックなキャラクター達が叫び合いながら、仮面ライダーがとにかくかっこよく、ケレン味たっぷりに痛快にそれぞれを撃破していく。

 

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思えば、『仮面ライダー』にシリーズ構成のような巧さを感じたことはなかった。むしろそこは、あまりに無軌道に移り行く部分だと感じていた。それでも、『仮面ライダー』には何か強烈な、他にはない個性のような、引力のような、目を離せないテンポやリズムやテイストがあったのではないか。そういったオリジナルの魅力、テレビ番組としての持ち味を再認識できた体験として、私は『シン・仮面ライダー』がとっても好きになってしまった。

 

重ね重ね、『シン・仮面ライダー』は「出来が良い」とはあまり感じられなかった。でも、その理論の筋で言うならば、原典の『仮面ライダー』は同じような意味で「出来が良かった」のか? ……という話なのだ。当時の熱狂やムーブメントは、「出来が良い」から起きたものだろうか?

 

また、『仮面ライダー』の「仮面ライダー性」を際立たせるためか、特に石ノ森章太郎の萬画版で顕著だった「大自然の使者」「科学と自然の闘い」といったスケールの大きいテーマは、ほとんどばっさり切られていた。仮面ライダーの特性とは何か。それは、宇宙からやってきた巨大な宇宙人でもなく、個性が集まった5人のヒーローチームでもなく、改造人間の悲哀を抱いたごくごく個人の物語であることだ。個人の小さな物語を、個人の視野で語る。ショッカーという組織を相手取りながら、結局のところ個人vs個人(オーグも仮面ライダーもルリ子も同様に)が連続する作りは、他の有名特撮シリーズより仮面ライダーの専売特許と言えよう。

 

そしてこの萬画版でいくならば、言うまでもなく、ラストの落としどころは萬画『仮面ライダー』のPART4「13人の仮面ライダー」の引用である。萬画ではショッカーライダーに殺されてしまった本郷の「心」が、そのショッカーライダー群から反旗を翻し仮面ライダーを継ぐことにした一文字に移植され、ふたりは一心同体を果たす。「サイクロンの排気音も、そのにおいも、そしてからだにぶちあたる風の力も」。ここでホルマリン漬けにされた本郷の脳みそらしきものが映る訳だが、『シン・仮面ライダー』はプラーナという設定を用いてこの一心同体を達成している。

 

 

プラーナは、設定としてやや持て余し気味だったと感じていた。肝心のショッカーが何をどう目指した組織なのかよく分からないことになっているのと同じで、もう少しここを整理して描いて欲しかった気持ちがある。とはいえ、庵野監督よ……。もしかして、これが……。この、「本郷と一文字が継承の名の下に一体化し新1号になる」、これがやりたいがためのプラーナの設定だったんですか……。これは……。いい……。いいですよ……。仮面ライダーって、個人の話だもんな……。そしてそれが後輩達まで脈々と受け継がれていく、魂のリレーの番組だもんな……。このバトンの受け渡しっぷり、こんなんやられたら……。痺れますよ、私ァ……。ううう……。

 

最後に。仮面ライダーの佇まい。造形やルックの説得力。これがもう何より、素晴らしかった。誤解を恐れず言うならば、私は仮面ライダーを「正統派のかっこよさ」だとは解釈していない。元が骸骨のヒーローだったことは有名だが、飛蝗のデザインのヘルメットを被ったライダースの男がぬぼっと立っている、その異形感が重要なのだ。どこか滑稽で、奇天烈で、一歩間違えれば妙に可笑しい存在。学芸会の被り物のように可笑しく、人生を憂うように冷たい。そんな異形が、人を簡単に絞め殺してしまえるようなパワーを、自身が信じる正義のために振るう。

 

可笑しいヒーローが歩んだ、歪曲の歴史。それが唯一無二、あの頃の熱狂の根源的正体なのだとしたら。『シン・仮面ライダー』は、作り手の深い敬意と怨念めいた情熱を原動力に、そこに肉薄していたのではなかろうか。