「旅行は行く前が一番楽しい」、という言説がある。
ガイドブックを開いて観光地を選ぶ。ホテルを検索して宿泊先を決める。交通手段を検討し、持ち物を取捨選択し、出発当日に思いを馳せる。いくつになっても、まるで子供の頃の遠足前夜のように。どうしようもなく心が高ぶってしまう。
旅行先で、アンナコトが出来るだろう。ソンナコトで楽しめるだろう。オイシイモノにも、タノシイコトにも、きっと出逢えるのだろう。胸の内を占めるのは、途方もない期待感。そしてこれは、「宝くじが当たったら嬉しいな」といった夢物語ではない。このまま進んでいけば絶対に実現すると、それが分かっているからワクワクできる。本当の所は、予定通りにいかないかもしれないし、つまらないことで喧嘩になったり、忘れ物や準備不足を悔いたりするのかもしれない。それでも、やっぱり、「旅行は旅行に行く前が一番楽しい」。その時にしか味わえない体験に思いを馳せるからだ。
……では。もし仮に。その期待感を一年を通して持続させるような物語があったとしたら。それは、途方もなくワクワクに満ちた、感情が忙しく乱高下するような、めくるめく日々なのかもしれない。『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』は、言うなればそんなテクニカルな作品であった。
『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』は一体どんな物語で、何を目的と位置付けているのか。そういった構成面、スーパー戦隊史におけるポジショニングについては、以前たっぷりと記事に書いたので、こちらをご参照いただきたい。
しかし『ドンブラザーズ』は、型それ自体を疑い、必要とあらば変えている。大筋で既存の型を踏襲しながらも、機能やタイミングを組み換え、新しい選択肢や新しい効果を狙っていく。
一介の特撮オタクの正直な感想として、ぶっちゃけ、その試み全てが成功とはならないだろう。「やっぱりこっちが良かったのでは」はあるだろうし、反面、「これはもっと大胆に変えられるかも」も生まれるだろう。そういった未来の議論の叩き台として、『ドンブラザーズ』は暴れ回る。スーパー戦隊シリーズそれ自身を、どこかけしかけるように。あるいは発破をかけるように。この明確な指針のもと、同番組は恐ろしいほどに合理的かつクレバーに構築されている。
スーパー戦隊の裾野を広げるために、白倉伸一郎プロデューサーの旗のもと、二年連続で同シリーズの定型にメスが入れられる。「大いなる型」を今後も末永く運用したいのであれば、「型そのもの」を定期的にアップデートしていかなければならない。平成仮面ライダーが通った換骨奪胎の流れを、スーパー戦隊で再演しようと、そういった試みだろうか。事実、続く『王様戦隊キングオージャー』は、作劇面・撮影技術面ともに、どこか「パワーアップした新しい型」を感じさせる風格だ。
色んな意味でSNSのトレンドを騒がせまくっていた『ドンブラザーズ』だが、私が感じるところでは、その感想はシリーズを俯瞰したような表現が多い。「こんなスーパー戦隊は見たことない!」から、あるいは「こんなのはスーパー戦隊じゃない!」まで。はたまた「初めてスーパー戦隊を見たけど何だこれは!」であったり、「スーパー戦隊の定石をここまで外すなんて大胆な!」など。もし『仮面ライダー龍騎』の頃にTwitterがあったとしたら、同じような投稿で埋め尽くされたのだろうか。
それもそのはず、『ドンブラザーズ』の多くの要素は、「反・型」、かっこよく言えば「アンチテーゼ」で設計されている。スーパー戦隊といえば同じシルエットで色が違う全身タイツの5人組。だから、フルCGで極端にサイズが違うイヌやキジを混ぜる。スーパー戦隊といえば最後にロボに搭乗してお決まりの巨大戦。だから、ロボそのものをキャラクターと同一にして巨大戦でもコントなやり取りを継続させる。スーパー戦隊といえば5人が揃ってチームを組んで名乗って背後で爆発ど~ん。だから、ろくすっぽ揃わない上にチームワークは皆無に近く名乗りもほとんどやらない。
それでも、なんとも不思議なことに、『ドンブラザーズ』はスーパー戦隊に見える。それは、制作陣がただの逆張りでアンチテーゼを仕込んだ訳ではないことに、視聴者が自然と気付くからだ。シルエットが違う、からこそ、並び立った際にひと画面に収まる喜びがあるのだろう。ロボそのものがキャラクター、だからこそ、ルーティンな巨大戦でも楽しんで観られるのだろう。ろくすっぽ揃ったり名乗ったりしない、からこそ、いつかそれが実現する時のカタルシスはさぞかし美味しいのだろう。
視聴者の多くは、『ドンブラザーズ』のいくつもの「違う」の向こうに、「いつもの」を見据えていたのではないだろうか。単に「いつもの」がお出しされるのではなく、その順番や味付けが組み替えてあったり、違う方向から捉えられていたりする。それでも、最終的な一年を通して得られる丼の満腹感は、ベクトルとして「いつもの」であることを期待してしまう。これが、スーパー戦隊の「大いなる型」という強み、あえて言えば一種の枷である。ここまで積極的に崩しても、それでもやっぱり型への期待感(枷)から解放されることは無いのだ。
もちろん、『ドンブラザーズ』はそれを分かった上で、ひどく自覚的に構成されていた。スーパー戦隊はどうしたって「型のシリーズ」であり、それが意図しても崩せない枷であるならば、あえてそれを利用してやろう。意地悪に言えば、「型の素晴らしさ」を人参のように眼前にぶら下げれば、視聴者は喜んで蹄を鳴らし続けるのではないか。言うまでもなくそれは逆説的な「型の賛美」でもあり、初期平成仮面ライダーが「こんなに『仮面ライダーらしくない』のに『仮面ライダーらしい』」と言われてきた歴史を、やはり彷彿とさせる。
2003年、『仮面ライダーファイズ』の頃に発売された『仮面ライダーSUPER BOOK』という書籍で、白倉プロデューサーは自身の創作論をこう語っている。
ーー白倉さん独自の物語創作法などはあるんでしょうか?
「創作法というよりも哲学に近いんですが、物語というものはしょせん作り物であって、赤の他人の空想であり絵空事にすぎないという認識は持っています。だからこそ作り手は、それを越えるべく努力しなければならないということです。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』という小説があります。物語というものには必ず終わりがあるわけですが、『はてしない物語』において、エンデは物語が持つそうした構造自体と格闘したと思うんです。ただ、この戦いはエンデだけのものであって、ほかの作り手が流用していいものではない。おのおのの作り手が、自分のやり方で物語と戦わないと読者や視聴者は納得させられないわけです。どういうドラマになるにせよ、僕の物語に取り組むスタンスには、こういう思いがありますね」
・学研『仮面ライダーSUPER BOOK』白倉伸一郎インタビュー
また、『ドンブラザーズ』に際してメインライターである井上敏樹氏のインタビューや対談を本棚から引っ張り出して読み返してみたが、例えば「今まで観たことがないような斬新な構造に取り組んでみたい」、そして「まずシナリオの書き方の方法論を考える」といった文言が印象に残った。井上脚本は、時に乱暴に細かい部分を放り投げることがあるため、なんとなく「感覚の人」と思われているような節がある。しかし、実はかなりテクニカルというか、技巧的にシナリオを紡ぐ人であることを、読者諸賢はご存知のことだろう。氏が「感覚の人」に思えるならば、それは人間そのものが感覚や感情で生きているからだ。
ーー長く第一線で活躍するために、気力や体力をどうコントロールしているのでしょうか。
井上:意地だよ。「俺はまだまだ面白いものが書けるんだ」という意地。男はね、意地で生きるものなんだ。まぁ、若い頃は仕事よりも遊びを優先してヘラヘラしてたね。でも、今は遊び飽きちゃったのかな。若いときより今のほうが真面目に働いてる。30代でジェットマンを書いたけど、今はその3倍くらいのエネルギーを注いでるし、仕事をしてることが幸せだね。
物語と戦い、それでもって視聴者を納得させたい。この哲学を持つプロデューサー。常に人間の感情を描き、脚本構造や方法論への貪欲さに余念がない脚本家。そして、それぞれと何度も一緒に作品を作り続けてきたのは、他でもない田崎竜太監督。勘所も、狙い所も、おそらくかなり深いポイントで互いに共有しながら。この度の「こんなに『スーパー戦隊らしくない』のに『スーパー戦隊らしい』」は、こうして築かれていったのだろう。
こうした挑戦を定期的に繰り返すことで、時代に合わせて「型」が変化し、ひいてはシリーズの末永い継続に繋がっていく。こんな変態な戦隊、何度だって観たいし、同時にもうこりごりなのだ。嗚呼、素晴らしきかな暴太郎戦隊。
さて、そんな『ドンブラザーズ』。実は私としては、明確に「惜しい!」「そこはもうちょっと……!」という展開が、いくつか存在する。
例えば9話、「ぼろたろうとロボタロウ」。ドンモモタロウが初めてドンロボタロウにチェンジする回だが、そのドンロボタロウギアが一体どこから出てきたのか、果たしてそれはこのお話の焦点に存在していたのか、甚だ疑問である。続く10話「オニがみたにじ」においても、他の4人のメンバーは何の前触れもなく自然にロボ形態にチェンジする。パワーアップ展開の「パ」の字すら無い。
もっと続けるならば、12話「つきはウソつき」におけるドンオニタイジンの初登場もそれとは関係のないアイドルや嘘の話をずっとやっていたし、33話「ワッショイなとり」のオミコシフェニックスもあの汁がどうして金色の鳥に繋がるのかさっぱり分からないし、44話「しろバレ、くろバレ」も遂に訪れた犬塚の正体バレにメンバー間の劇的なドラマはろくに無く、48話「9にんのドンブラ」でもジロウは仲間との関係や経験に頼ることなく完全セルフで人格融合を果たしてさらっと難を乗り越えていく。
そう、これらは、私の脳にこびりついている「戦隊の型」が見せる、幻との差異なのだ。新しいアイテムやパワーアップ展開があるならば、そこが盛り上がりの頂点になるようなドラマが描かれるはず。劇的な展開が予告で映ったならば、そこへの必要十分な紆余曲折と転機が描かれるはず。追加戦士が何かに悩み壁にぶつかったならば、それを救う初期メンバーとの絆や経験が描かれるはず。
もし『ドンブラザーズ』が、いつもはやたらめったら好き放題しながら、それでもこういったキメの展開だけはびしっとキメたとしたら。言うまでもなく、それは拍手喝采で迎えられたのだろう。しかし、そうじゃないのだ。オンラインゲームにログインするような手法で人間ドラマと戦闘パートを切り離したこの物語は、引き続き徹底して、「戦隊らしさ」をも切り離しにかかった。もっと言えば「特撮ヒーロー番組らしさ」。そうまでして切り離し、反抗し、距離を取ってなお、何かが残るとしたら。それが「スーパー戦隊」の骨子なんだろう、と。焼き畑の跡に転がる石を拾うような、そんなアプローチが導入されている。
もちろん、上記の諸々は、いくらでも好意的に補完することができる。ドンモモタロウが所持していたロボタロウギアをそれまで使わなかったのは、別に使わずとも勝ててきたから。それぞれが前触れもなくロボにチェンジできるのは、鬼頭はるかが前線を離れ世界が改変された「描かれなかった日々」でそのギアを手に入れていたから。日常のルーティンとは怖いもので、小さな変化があったとしても「いつもやっている行為」に紛れて気付かない…… たとえ、指名手配犯が仲間の犬に変身しても。ジロウが誰にも頼らずにセルフで立ち直るのも、彼が「全てをひとりでこなすあのドンモモタロウの後継者」に足る人物ならば、その一歩目だったのだろう。
「旅行は行く前が一番楽しい」。それは、意識的にせよ無意識にせよ、「理想の旅行」を夢見るから。マスクを着けた顔が五割り増しで美男美女に見えるように、人間の脳というものは、「まだ訪れないもの」「見えないもの」を、好意的に補完してしまう。だから、期待が ず~~~っと 維持され、その焦らしが長いほど、感情が高まっていく。『ドンブラザーズ』はこの点で、視聴者の期待値の誘導、調整、蓄積がおそろしく巧かった。そしてそれは、「スーパー戦隊の型」という本来そこにあるべき絶対的カタルシスや方法論を作為的に引用したもので、すこぶる技巧的、すこぶる挑戦的、すこぶる実験的なものであった。
しかし、こう思うのだ。『ドンブラザーズ』、確かに「キマらない」ポイントがあった。「無限に抱いた期待値がしっかり満たされましたか?」と問われれば、部分的にはNOだったかもしれない。それでも、この『ドンブラザーズ』という人を嫌いになったり、苦々しく思ったりするだろうか。これもまた、NOである。
「いやね、あいつ、肝心なところでビシっと決められないところもあるんですけど……。でも、すごく一生懸命なんですよ。色んなことを考えて、色んなことにいつも挑戦してるっていうか。そして、とにかく面白い奴なんです。だからきっといつかデカいことやってくれますよ。たまに遅刻してきたり、財布がすっからかんだったりもするんですけど、なんだかんだ、いつも飲み会に来いよって誘っちゃうんですよ。なんでしょうね。不思議と馬が合うっていうか。一緒にいたいっていうか。きっと、これも何かの縁なんでしょうね」
なんか、こういう……。こういう人なんですよね、暴太郎君。ましてや、誰かに暴太郎君のこと悪く言われたら、ちょっと機嫌が悪くなっちゃうんじゃないかまでありますね。自分のこと言われた訳じゃないのにね。暴太郎君、すごくこう、茶目っ気があるというか、愛嬌があるというか、目を離せないところがあるというか。全然こっちの思い通りにいかないから、ずっと注意を向けてしまう。
だってそれは、「縁」をテーマに、極めて実直で大真面目に「人間」を描いているから。ここに、全くの嘘が無い。照れも無い。それどころか、作品のあらゆる質感から、「人間」という生き物の面白さも可笑しさも、その純然たる美しさや力強さを信じて疑わないような、そんな信念を感じ取れるから。井上脚本の十八番である「美醜こそが人間」が、令和最新版で鮮やかにドラスティックに紡がれていく。だから、目が離せない。
戦隊といえば、何より「仲間」。あるいは「絆」「家族」「チーム」。がっしりとスクラムを組むように、互いの酸いも甘いも知り尽くしたかけがえのない奴ら。しかし、我々「人間」の実生活に、そんなレベルまで達した関係性はどれほど存在しているだろうか。かけがえのないコミュニティを、我々はいくつ持っているだろうか。
それよりも、休日に遊ぶことはないけど仲が悪いこともないクラスメイトや、たまたま同じ部署で給湯室で会釈する程度の同僚や、SNSで何年も相互フォローなのに顔も名前も知らないアカウントや、毎朝同じ電車で顔を合わせる名も知らないあの人といった、“その程度の仲” の方が、存外、身の回りには多いのではないか。
「仲間」ほど近くはない。しかし「他人」ほど遠くもない。そんな、一言では表現できない、微妙な人間関係。意図せず知り合って、偶然の結果、なんだかんだ顔を合わせるように日常に登場する人たち。もしかしたら、その人は友達の友達かもしれない。もしかしたら、その人は地元が同じかもしれない。そうであったならば、きっとそれは何かの縁で、これをきっかけに仲が縮まることがあるかもしれない。
学校では友人で、職場では仕事人で、家庭では父や母や子で、ネットではハンドルネームで。どれもが同じ人だけど、それぞれちょっとだけ違う。求められる役割や環境に応じて、人は仮面を被り、仮想のスキンを纏う。アバターだらけのそんな世の中だけど、人と人とが出逢わないことはない。
「うえっ、なんだこの人」と思うこともある。「いやいや、なに言ってるんだろう」と心中でツッコミを入れることもある。考え方も暮らしも全く違うのだから、相容れないと呆れ、自身の「当たり前」が通用しないことを嘆く。しかし、ひとたび縁があったならば。なんだかんだ同じ空気を吸っているうちに、「人間」って自分でもよく分からないままに誰かと仲良くなったりする。必ずしも、そこに劇的な展開は要らない。カタルシスをもたらす爽快感があった訳でも、涙を誘うドラマがあった訳でも、ましてや予定調和な展開があった訳でもない。人生って、誰にも予測できない「よくわからないこと」がいっぱい起きて、それに振り回されていくうちに、一緒に汗を流したアイツやソイツのことが意味もなく好きになったりする。
『ドンブラザーズ』の「人間を描く」とは。つまりこういった、上手く言語化できないけど誰もが絶対に知っている「人間関係の肌感」のようなものを、「縁」という謳い文句で、そしてまさかのスーパー戦隊という枠組みで喜劇的に描いてみせた、そこに本懐がある。
スーパー戦隊という45作以上続いた絶対的な枠組み、そしてそれに慣らされ、あるいはよく知らずともパターンだけは知っている視聴者の、既知の「型」を質に入れて。そうすることで、「集まらない」「揃わない」「名乗らない」、そんなスーパー戦隊を描くことに成功した。近くも遠くもない距離感だからこそ、集まらない。アバターを着込んでいる時にしか合わないから、揃わない。わざわざお互いを名乗って自己紹介なんかもしない。けれど、そんな人とだって縁は出来る。だからこそ「人間」は面白い。
関わりあって。影響を与えあって。誰かの人生と並走することで、自分の幸せをなんとなく見つけていく人がいるのだろう。秘めていた信条を自覚する人がいるのだろう。誰かに依存してしまう自分を見つめ直し、あるいは誰かのために生きることが向いていると気付ける人がいるのだろう。一方で、自分の世界観を徹頭徹尾大切にする人も、関りの末に己の責務に疑問を抱く人々も、欲を膨らませて自暴自棄に陥る無数の人間も、いるのだろう。
『ドンブラザーズ』は、その「関り」それ自体をずっとやっていた。縁で偶然にも繋がった人々が、一年を通して あ~だ こ~だ と関わっていく。その結果、次第に影響され、ゆっくりと変わっていく。彼らと出逢わなければこうは変われなかったかもしれない。そんな経験、誰もが一度や二度、あるのではないだろうか。だからこそ、結果は単に結果でしかない。パワーアップも、合体も、敵を倒すのも、それは結果でしかない。重要なのはその手前、「関り」そのものと、そこに発生する「変化」なのだと。
本来であれば、「許しの輪」なるギミックが唐突に登場して、それを使って人間を復活させたからソノイたちの禊が済んだ! ……なんて展開に納得がいくはずがないのだ。「それに足りる前振りがあったのか!?」と、私の中の煩いオタクはそう叫ぶ。しかしこの場合の「それに足りる前振り」は、「許しの輪の存在を前もって仄めかすこと」ではない。「ソノイたちが人間を好きになってしまった結果、人間を許し、そしてタロウたちと共に居たいと願ってしまったこと」なのだ。前振りは、こっちである。だから、許しの輪は単なる結果なのだ。大切なのは、縁と関りそれ自体なのだから。
そして縁は、もし途切れたとしても、また出逢って結べば良い。「関わって得られたもの」よりも「関われたこと」を尊ぶ。だからこそ、「関わり」は何度だって再演できる。なんでもない、数分後には顔も忘れるような配達人が、その縁を持って今この時もやってくるのかもしれない。
もし、そう思えたなら。明日、家を出て最初に逢うあの人が。学校や会社で逢うあの人が。コンビニや電車で逢うあの人が。もしかしたら、自分を変えてくれる誰かかもしれない。ああ、世の中って、なんて素晴らしいのだろう。人間って、なんて美しい生き物なのだろう。
……などと、センチに語りたくなるほどに、『ドンブラザーズ』はとってもハチャメチャに「我々の話」をしてくれた。もちろん我々はアバターチェンジは出来ないけれど、誰かと縁を結ぶことは出来る。我々にキビポイントはないけれど、生活は「好事魔多し」だし「情けは人の為ならず」だ。であるならば、日常がほんの少しだけ輝いて見えるのかもしれない。なんでもない生活に心が高ぶるのかもしれない。
特殊撮影の技術面、文芸面、演者のパフォーマンスの高さなど、『ドンブラザーズ』を本気で語ればきりがない。もうあと何千字だって何万字だって、惚気るように喋れてしまうだろう。しかしやはり一番に挙げたいのは、この作品と自分に縁があった、それ自体を喜びたい感情なのだ。
ああ、『ドンブラザーズ』、面白かったな。よく分からないけれど面白かったな。そして、人生も多分、よく分からないけれど面白いのだ。もしかしたら人生って、ずっと「旅行に行く前の晩」なのかもしれない。そう思えたら、きっとそうなのだ。