ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

温かい雨はキュートでなく

FOLLOW ME 

 男は気づき始めていた。

 

 学生時代、数学の時間にベン図というものを学んだ。集合の関係や範囲を視覚的に表現したもので、ふたつの円を並べて描き、重なった部分が「且つ」となる。結婚した当初、男にはふたつの円があった。円の名は、ひとつは家族。もうひとつは自分である。家族のための自分と、自分のための自分。それらは相反するものであり、どちらかを優先すればもう片方が幾許か犠牲になる。そういう性質のものだと直感的に理解していた。

 

「私はオール電化がいい」

 

 それはハウスメーカーの担当者を前にした出来事。妻が隣でそう言った時、男は自分の円を心の奥にしまい込んだ。料理は、ガスで調理した方が美味しいのではないか、それに何より……。しかし、そんなことは口が裂けても言えない。オール電化の方が請求は一本化され、なによりIHヒーターの安全性と掃除の手軽さは目に見えていた。家計と台所の主担当者が男の妻である以上、男にそれ以上の権限はない。されど、こんなものは些細である。家族という円、自分という円。それらは一体どこが異なるのか。元は他人である者同士がひとつの共同体を作るのだから、その内訳は違って当たり前なのだ。

 

 しかし、男は気づき始めていた。結婚して間もなく十年。娘が生まれ、家を建て、半生を賭けようと思える会社に勤めているうちに。ふたつの円が、次第に重なり始めていることに気づき始めていた。「且つ」の面積はゆっくりと広がっていた。

 

 最たるものが健康である。

 

 幸いにも、男に特筆すべき持病はなく、心身ともに健康であった。しかし、生粋の文化系であり、運動とは縁遠い人生を送っていた。本は読めても腹筋はできず、文章は書けても持久力はなかった。老化とは恐ろしいもので、三十路を目安に身体機能は明らかに下り坂に向かう。男の海馬には娘の運動会の親子競技がこびりついていた。「もう、恥ずかしい」。男の妻はそう言って、耳まで真っ赤にした。本気になるあまり足をもつらせ盛大に転倒した、惨めな配偶者に投げかけた言葉だった。

 

 家庭を運営する経済面において、男は特記戦力に数えられた。もし体を壊してしまっては、その柱が折れることになる。あるいは、医療費も生易しいものではない。医療保険や生命保険、そういった人類の叡智は、心身を健康に保ち続ける以上の強みを持たない。体が資本。先人たちが口酸っぱく唱えていたフレーズが、否が応でも身に沁み始めていた。まともにトラックを走ることができなかった男の頭上には、明らかな黄色信号が焚かれていた。

 

 健康でいることは、家族のためであり、自分のためである。心身の健康を保つことは言うまでもなく「且つ」、それもプライオリティの高いところに位置している。食事の内容に気を配り、適度な運動を心掛ける。体重がこれ以上増加することもまた、好ましくない。

 

 年の暮れ、男はスポーツジムを訪れていた。会員の契約を結ぶためである。施設を見学すると、肩回りが膨れ上がった筋肉質な男性と何人もすれ違った。男は、在りし日の妻のように耳を赤らめる。目を伏せると、腹部には自堕落を象徴した肉の塊がぶら下がっていた。雑魚の魚交じりという慣用句が頭を泳ぐ。いや、この羞恥心こそが、きっと自分を健康な体に導くのだ。男は祈るような心境でそう言い聞かせた。

 

 新年を契機に、男のジム通いが始まった。

 

 適切なトレーニングの手順を知らない男は、まずはゆっくりと、出来るところから始めた。簡単なストレッチの後に、ランニングマシンに搭乗してみる。隣では、自分の倍の年齢にも思える男性が軽快なステップを刻んでいる。その奥では、十も下であろう若い女性がしなやかな動きを見せる。ジム全体に鳴り響く、過度なEDM。心臓を奮い立たせるためだけに鳴るそれは、男の焦燥感ばかりを駆り立てていく。

 

 やらなくては。

 

 誰も、男のことなど気にしてはいなかった。自意識過剰と言われればそれまでである。しかし、体を動かすために金を払う、それすらも初めてだった男にとって、ジムはひとつの異世界であった。異世界への切符を買った過去は、もう変えられない。入会金が免除になる代わりに、六ヶ月は通わなければならないのだ。この異世界の空気に慣れなければ、男は途方もない散財をすることになる。それだけは避けたかった。

 

 男は走った。体中の無駄な肉が悲鳴を上げる。早くも筋肉がきしみ始める。これほどか。これほどなのか。男は唸った。いかにこの四肢は、胴体は、走ることに慣れていないのか。一秒ごとにその事実が重くのしかかってきた。目の前のタブレットでアニメを再生し、イヤホンから台詞が流れる。しかし、その台詞が正常に脳に届かない。男はこれまでの人生を悔いた。こんなに情けないことがあるだろうか。無力感は足を速めるも、身体機能がそれを拒む。ほんの数分後、海に転落した船員が投げられた浮輪を掴むように、男はランニングマシンの停止ボタンを押した。ベルトはすぐに止まらず、ゆっくりと速度を落とす。安全のためまだ足を止められないその僅かな時間にさえ、男は憎悪を覚えた。

 

「走るだけじゃだめです。全身の筋肉を満遍なく鍛えた方が、結果的には体に良いと思いますよ」

 

 根っからの体育会系である従弟から、そう聞かされていた。男は足をふらつかせながら、ランニングマシンを除菌する。ぜぇ、ぜぇと、息を切らしながらマシンを拭いていくその様子は、すこぶる滑稽に映っただろう。マシンの仕様説明を読みながら、いくつかを試していく。これは腕。これは腹。これは脚。筋肉の細かな名前など、到底、知る由はなかった。牛肉の部位の方がまだ言える。

 

 一時間を数え、男の全身は汗にまみれていた。シャツは胸を中心に濃く色を変え、それは少なからず運動の成果として男を喜ばせた。まずは、まずはここからだ。男は毎日のジム通いを自身に課していた。夜更かしを辞め、仕事前の早朝にジムに通う。綺麗なシャワールームがあることも契約の決め手であった。

 

 空室を確認し、シャワールームに入る。一畳半ほどのそのスペースは、しかし必要最低限の機能を満たしていた。手間の半分が更衣室、更なるドアの奥が電話ボックスほどのシャワールームである。置かれた籠に脱いだシャツを投げ入れ、全裸になる。自宅以外で全裸になることの、この形容しがたい高揚感はどうだ。男は決して変態ではない。しかし、運動をやり遂げた充足感も手伝い、シャワールームに歩を進めた男は上機嫌であった。

 

 そして、目の当たりにしたのである。

 

 レバーを動かすと、シャワーが流れ出す。強さと温度は……

 

「えっ」

 

「あ」

 

「ガスっ!」

 

 三度、男の口から漏れた。体表を叩くこの湯圧は、まさか。

 


 駆け巡る男の脳内物質っ……!

 


 β-エンドルフィン……!

 


 チロシン……!

 


 エンケファリン……!

 


 バリン…!

 


 リジン!

 


 ロイシン!

 


 イソロイシン……!

 


 圧倒的愉悦。オール電化、そしてエコキュートゆえに諦めた『ガスのシャワー』。それは、ガス給湯器による絶対的な『ガスのシャワー』であった。シャワーヘッドから洪水のように噴き上がる湯。自然と、腕が持ち上がる。いつか韓国ドラマで見ただろうか、シャワーの打点を高くし、頭上から豪雨を浴びるように佇む。皮膚を強く打ち続けるその軌跡は、もう出逢えないと諦めていた『ガスのシャワー』、その人であった。

 

 言うまでもなく、マイホーム建築後も男は出張先のホテルでそれと遭遇していた。あっと、思わず声が漏れる瞬間。オール電化のシャワーとは違う、こちらが体を寄せ、浴びに行くように漏れ出るそれではない。『ガスのシャワー』はまるで滝行のように、こちらのちっぽけな人生を無視して降り注ぐ。それに突き放され、包まれ、肌が応えるあの瞬間。これからは、出張の時だけではない。ジムに通えば、毎日これを浴びることができる。毎日。エブリデイ。毎日だ。それは失ったはずの日々だった。

 

 男は、泣いていただろうか。流れ落ちる湯に紛れ、それは定かではなかった。

 

 それからというもの、男はジムに通い続けている。家族のため。自分のため。ガスのシャワーを浴びるため。体を動かし汗を流せば流すほど、シャワー室へ熱い視線が注がれる。この運動の果てに、シャワーを浴びることができる。じゅるりと、つい涎が溢れるかのようだ。

 

 次第に、シャワーとの逢瀬が目的となっていることに。

 

 男は気づき始めていた。

 

雨は次第に弱まる

雨は次第に弱まる

  • アーティスト:ice
  • UNION MUSIC JAPAN
Amazon