ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

サウナという嘘に、私はいつまで騙されるだろうか

FOLLOW ME 

今から約半年前、2022年の夏ごろ。見事にサウナにハマってしまった。それはもう、ずっぽりとハマってしまった。

 

 

巷ではサウナブームだと聞いていたが、それまで特に興味はそそられず。しかし温泉は大好きだった。家より広い浴槽に浸かると、言い知れぬ解放感がある。言葉にできないリラックスがそこにある。綺麗に清掃された温泉などは特に良くて、あのスンとした香りと湯の蒸気が混ざった独特の空間には言い知れぬ中毒性がある。が、しかし。私は大変残念なことにのぼせやすい体質だった。温泉は好きだが、湯船にゆっくり浸かることができない。数百円の入浴料をほんの十五分ほどで終わらせてしまう人間であった。

 

加えて、「温泉は暇」というのが私の定説だった。今でも家で風呂に入る時は、ほぼほぼスマホを持ち込む。何かに迫られている訳ではない。情報が常に身近にないと、どこか怖いのだ。SNSじゃなくても構わない。YouTubeでなくとも構わない。漫画アプリでなくとも構わない。ナニ!という訳ではない。ただただ、情報という河川に常に体を浸らせておかないと、妙に居心地が悪い気がする。果てには薄い焦燥感がある。完全なる情報中毒だ。現代病だと言われればそうなのだろう。だから、「温泉は暇」なのだ。スマホを持ち込めないし、音楽も何も聴けない。おじさん達の世間話はエンターテインメントになりやしない。

 

「温泉が好き」なのに、「すぐにのぼせる」体質で、加えて「温泉は暇」。こんな頓珍漢なことがあるだろうか。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、私は長らくこういうステータスの人間だった。

 

きっかけはYouTubeのとあるチャンネルだった。私が尊敬している経営者が出演しているチャンネルで、その経営者が熟練のサウナ―だというのだ。東京都心の個室サウナを巡りながら、サウナの良さを説く動画が数本あった。ほう、サウナってこういう「入り方」をするものなのか。いや、だって、サウナといえば、自分は熱すぎて5分と居られない “おじさん達の謎の集会所” じゃあないか。そしてあの水風呂。頭おかしいのかってくらい冷たい水風呂。あれに浸かっている人の気が知れない。よく分からないモノだ、と、思っていた。何度か興味本位で水風呂に入ろうとしたが、生まれたての小鹿みたいな挙動で太ももより上を浸けることはできなかった。ましてやサウナなんて、なぜわざわざ汗をかきに行くのか、意味が不明だった。だって温泉って汗を流しに行く場所なのに。

 

「入り方」。ネットに情報が溢れているので、サウナに行かない人でもおよそご存知なのではないだろうか。サウナに入り、汗を流し、水風呂に浸かり、体を拭き、休憩する。これを数回繰り返す。そうなると、俗にいう「ととのう」瞬間が訪れるという。いやいや、「ととのう」って何やねん。とはいえ、そのYouTubeで経営者さんが熱弁していた通りに、一度試してみようじゃあないか。百聞は一見に如かず。興味に気軽に踏み出せるか否かが、精神の老化の岐路。私はまだ老けたくはない。

 

自宅から車で近い温泉に出かけ、頭に叩き込んだ分数と所作をそのまま繰り返してみる。まずは体を洗い、湯船に少し浸かって、体を拭いてからサウナ室へ。言うまでもなく熱は高いところに集まるので、慣れていない自分は下段に座る。あの12分で一周する謎の時計。なんであんなスピードで周るのだ。普通の時計の方がよっぽど見やすいのに。そんなことを考えながら、2分、5分と入ると、次第に我慢の限界が訪れる。姿勢を変えたりして自分を誤魔化すも、喉がカラカラだ。ああ、もう無理だと思ったタイミングで外に出て、かけ湯で汗を流す。

 

さてここからが本番。水風呂に浸かれるのか。色々とネットで読んでみたが、要は「躊躇ったら負け」らしい。意を決して体を沈めると、もちろん極寒の中で死を覚悟する訳だが、次第に別の感覚が内側から襲ってくる。サウナで蓄積した熱を体内にくっきりと感じるのだ。水風呂が冷たいので、相対的なものもあるのだろう。

 

やがて水風呂を出て、体を拭いて、露天風呂の側にある椅子に座って休憩する。するとなるほど、これは気持ちがいい。そうハッキリと自覚する瞬間があった。要は、体の内側はサウナの熱で熱く、皮膚まわりは水風呂のおかげで冷えている。この温度の差を中和し調節する動きというか、内側からの「熱するパワー」と外側からの「冷やすパワー」がぶつかり合って混ざるような感覚が、非常に独特なのだ。近いのは、「夏の暑い日に外を歩き回ってからクーラーが効いた商業施設に入る」とか、ああいうの。しかしサウナの場合は、直前に体を洗っているので精神的にキレイなニュアンスがあるのと、股間にタオル一枚なので物理的な解放感があること。これらが混ざり合って、じわ~っと、ぐわ~っと、感覚の波が押し寄せてくる。

 

なるほど。理解した。理解してしまった。

 

そこからはもう、雪崩のようだった。時間を見つけてはサウナに行く生活が始まった。いや、訂正しよう。時間は見つけるのではなく作るものだ。最初は、前述の休憩の時間が目的だった。あの「あたたか~いとつめた~いがマーブルする瞬間」を楽しみにサウナに通っていた。しかし、次第に目的の焦点が移り変わっていく。休憩の手前、水風呂。あれに入った瞬間の「い、生き返った!灼熱から救われた!」という安堵。あるいは、サウナでじっと座っている時の虚無の時間。スマホは触れない。SNSもYouTubeもない。ラジオも音楽もない。間違いなく「温泉は暇」だ。しかし、「すぐにのぼせる」湯船と違って、こっちは5分以上もそこに居られる。

 

サウナの魅力とは何だろうか。よくネットでは、「サウナは実は危険だ」「ととのうと言われているがあれが健康に良い訳がない」「ヒートショックのようなもので自殺行為だ」という声を見かける。そういう人は、さぞかし健康に留意した生活を送っているのだろう。酒もタバコもやらず、ファストフードや揚げ物を食べることなく、適度な運動を習慣にしたヘルスでケアな世界に生きているのだろう。きっとそうに違いない。サウナが健康に良くないと言われれば、そうかもしれない。しかし、別にそういう目的で通っている訳ではない。

 

ひとつに。死と生還の疑似体験。文字にすると仰々しいが、例えばジェットコースターだったり、バンジージャンプだったり、体が死を身近に感じてサインを出し、その後に地面を踏みしめると生きている安堵に包まれる。サウナは、とってもお手軽に死にかけることができ、すっごく気軽に生き返ることができる。この疑似体験が、どうにも中毒になるのだ。体を安心させるためにわざわざ危険に晒す。自分でも馬鹿なことをやっていると感じる時がある。そりゃあ、体に負担がかかっているとしか思えない。しかし、この死にかけ体験、妙にクセになるのだ。

 

ふたつに。サウナで座っている時の虚無の時間。やることがない無の数分間。これはある種、映画館に似ていると私は感じている。要は、「わざわざお金を払って」「それしかやってはいけない空間に」「自分を限定する」訳だ。だから、どうしたって映画に集中する。それしかやることが無いからだ。サウナも同様で、ただ黙々と瞑想する他にやることがない。情報中毒で、常に文字か言語か音をまとって生きている自分のような人間は、サウナにでも入らないと虚無になれない。「いや、スマホを手放せよ」と思われるかもしれないが、それができないから中毒なのだ。私はサウナに、スマホを手放しに行っているようなものだ。やることがないので、思考だけがオートで巡っていく。明日やる仕事のことをぼんやり考えたり、昨日読んだ本の感想をぐるぐるさせたりする。それが次第に、熱でうなされたように抽象化していく。腕を見ると、玉汗がいい感じに浮いている。これ。この瞬間がたまらない。「温泉が暇」がこういう形で反転するとは。

 

みっつに。先の、「あたたか~いとつめた~いがマーブルする瞬間」。実は、ブームの火付け役と言われている漫画『サ道』では、常に「ととのう」と表現されている。「整う」ではなく「ととのう」なのだ。なので、なにか肉体的に良い作用をもたらす「整」ではないのだろう。マーブルした結果、感覚のまどろみを経て、最終的にリフレッシュしてシャキっとした気持ちになる。要はこの「気持ち」の話で、それ以上でもそれ以下でもないと私は思っている。

 

 

色んな人に怒られるかもしれないが、私は世にある「リラックス」なんてものはそのほとんどが嘘っぱちのプラシーボだと思っている。

 

アレやソレが本当に体に良いのか、医学的に効果があるのか、ナンチャラ効果やウンヌン物質も、ま、そりゃあ0ではないのかもしれない。1ミリでも効果があれば「効果がある」と言えるのかもしれない。しかし真に重要なのは、その人の脳が「リラックスした」と感じることなのだ。そのために、脳を騙すことに精を出す。リラックスもテンションも自己肯定感も、アゲられるのは他でもない自分だけだ。いかに脳を綺麗に騙し、アゲられるか。公序良俗に反しなければ、各人がやりたいだけ自分を騙せば良い。私にとって、そのひとつの手段が今やサウナとなっている。

 

サウナで汗を流すことで血行が良くなるかどうかは、知らん。「血行がよくなってるっぽい!」と脳が感じれば、私の世界ではそれが真実だ。サウナでデトックスして老廃物が流れ出るかどうかは、知らん。「老廃物がすっきり流れ出た!」と脳が感じれば、私の世界ではそれが正義なのだ。このストレス社会、これくらいの割り切った角度で波に乗らないと私は泳ぎ切れない。もちろん、虚言として他者に伝える気は毛頭ない。嘘が真になる訳でもない。私が私を騙して、私だけが幸せになるためのスタンスだ。

 

話を戻して、サウナである。気づけば、温泉に行って平気で一時間以上は出てこない人間になった。こ、これか……。おじさん達は「これ」をやっているからあんなに温泉が長かったのか……。サウナの12分計も、今ではよく理解できる。あれ、ものの数分しか入っていないのに、針がぐんぐん進むのだ(当たり前である)。だから、極めて小さな達成感が小まめに訪れる。大切なのは、小さな目標設定と小さな達成感の連続。日常生活にはこれが大事だよな、などと蒸されながら達観めいたことを考えたりもする。

 

「サウナや水風呂には何分入る?」、愚問だ。その施設の温度や湿度、そして自分の体調による。サウナ巡りはカフェ巡りと似ている。その空間に身を置いた瞬間、どれくらい「しっくり」くるか。「あ、いい!」と感じられるか。その一瞬を求めて未踏のサウナに出かけていく。出張先の宿選びもすっかりサウナ規準になった。この前はちょっと奮発して部屋に個人サウナが付いているホテルに泊まってしまった。あなたならどうする…? 最高だった…。もちろん常に黙浴、無の世界に自分を持っていく。その場にテレビがあっても目と耳のシャッターを降ろす。姿勢は色々と検討したが、背筋をピンと伸ばし手を膝に置き、卒業式の如く正しく真っ直ぐ座るのが好きだ。汗が縦にツーっと流れていく感覚がたまらない。時間帯、曜日、客層、温度、湿度、動線、広さ、高さ。木刀の竜ばりにベストプレイスを求める日々。

 

サウナで人生が変わったとか、体質が改善されたとか、そういうことを言うつもりはない。「ブーム通りにハマった奴」だと言われれば、そうなのだろう。ただ、サウナで熱に包まれてぼ~っとする時間が好きだし、水風呂に入った瞬間が好きだし、休憩のまどろみの感覚が好きだ。それだけで、厚い「リラックス」がある。そう、「リラックス」なんて嘘っぱちなのだ。だからちゃんと自分に嘘をつく。

 

さて、この嘘から醒める日はやってくるのだろうか。

 

MUSIC FOR SAUNA

MUSIC FOR SAUNA

Amazon