ジゴワットレポート

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気高き「敗者」の物語。荒木飛呂彦の納得と重力。 ~『ジョジョの奇妙な冒険』第7部「スティール・ボール・ラン」

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「絵」を描くという作業は『無限』である。どこで終わっていいのか、一枚をずーっと描いてられる。そして『物語』。仮に「恋人」が穴の底に落ちている設定があって、そこに「嫌いな友人」を身代わりに突き落とすと、その『恋人』は命が助かるという状況があったとしたなら、もし、あなたならどうしますか? 嫌いなヤツを突き落とす? それは「正しい行動」じゃない気がする。考えると『無限』に答えが出なくなってしまう。ちなみに「絵」は、自分の「心」が終わりとした時が完成。自分勝手だと思う。

 

引用したこの文章は、『ジョジョの奇妙な冒険』第7部「スティール・ボール・ラン」単行本22巻における著者・荒木飛呂彦のコメントである。

 

この、作者の自嘲をも感じさせる一文が無性に好きで、事あるごとにふと読み返してしまう。たった200文字程度だが、私の感じている「スティール・ボール・ラン」のテーマのようなものが、ここに凝縮されているからだ。

 

 

「スティール・ボール・ラン」は、ある意味で、ジョジョっぽくない。どちらかというと、「荒木飛呂彦っぽい」。ジョジョから少年漫画らしい分かりやすいエンターテインメント性(単純という意味ではない)を少し差っ引くと、そこに元からあった荒木飛呂彦らしさがより露出したような、そんな印象を受ける。では、荒木飛呂彦の作家性とは、なにか。

 

同作で最も好きなポイントとして、これは確実に、『敗者の物語』であるということだ。「スティール・ボール・ラン」は負ける話だ。ジャイロは大統領との戦いで命を落とし、死刑を待つ少年を自身の手で救うことは叶わなかった。ジョニィはギリギリの局面で大統領を打倒するも、別次元から召喚されたDioに見事に敗北する。あれだけ渇望した遺体を手に入れることも、SBRレースで優勝はおろか上位に食い込むことも出来なかった。自身の愚行が招いた下半身不随、そのマイナスをゼロにして物語が終わる。決してプラスには届かない。

 

しかしどうだ。あの最終回のジョニィの晴れやかな表情は。清々しい佇まいは。それはジョニィが、敗北という結果ではなく、そこに至るまでの「生き方」に「納得」を覚えたからだ。

 

「スティール・ボール・ラン」という物語は、終始、生き方の話をしている。もちろん、結果は『いい』に越したことはない。因縁の敵を倒して母を救っても良い。ラスボスを打倒して平和を守っても良い。自身が組織のトップに上り詰めても良い。しかし、仮にそんな結果に届かなくても。近づけなかったとしても。遠い遠い廻り道だったとしても。そこに向かうまでの生き方が正しければ、人は納得を得ることができる。

 

オレは「納得」したいだけだ。マルコが本当に処刑されなくてはならないのか!? ジョニィが見つけたがってる「遺体」とは何者なのか? 「納得」は全てに優先するぜッ!! でないとオレは「前」へ進めねぇッ! 「どこへ」も! 「未来」への道も! 探すことはできねぇッ!!

・『STEEL BALL RUN ジョジョの奇妙な冒険Part7』8巻

 

リンゴォ・ロードアゲインとの戦いにおいて、ジャイロはこのように叫ぶ。私は、ジョジョの全ての台詞の中で、これが最も好きである。今や我が人生の格言にもなっている。仕事でも、プライベートでも、いつでもどこでも。なにかに迷った時に、すぐに脳裏にこの台詞が走る。大事なのは「納得」。たとえ結果が好ましくなくても、理想とかけ離れていても、忸怩たる思いが残るものであっても。自分自身が正しいと思う行動に生きた経験があれば、「納得」だけは手に入れることができる。

 

極めてパーソナルかつミニマムな話で。マイホームを建てる際に、完成した家に大なり小なり不満点が出ることを絶対に予感していた。初めてのマイホーム建設で、向こう数十年に渡ってミリも不満がない家を建てるのは無理である。土台無理な話なのだ。おそらく、どれだけ熟考して建てたとしても、不満点は出る。「ああしておけばよかった」「こうしておけばよかった」。事実すでにそれは感じている。我が家に対する不満は確実にある。しかし、後悔はない。約半年に渡り5つの建築会社と並行して打ち合わせを行い、作り込んだ見積もりをその全てから取り付けた。休日はほとんどの時間を家に費やし、間取りも、資金計画も、可能な限りのパターンを並べ立てた。そうして辿り着いた今のマイホームに、私は強い「納得」を覚えている。オレは『やった』。とことん『やった』のだ。だから後悔はない。自分の「心」がそう判断できる。こうして、胸を張って言い切ることができる。

 

むしろ、実生活で「勝てる」人はどれだけいるのだろう。我々はフィクションには生きていないし、主人公でもない。「負ける」方が多い人生だ。大なり小なり敗北し、その中で落としどころを見つけて生きている。そういう意味で、「スティール・ボール・ラン」はすこぶる「私たちの話」だ。ジャイロやジョニィは負けてしまう。勝って終わることはない。しかし彼らは、自分自身に恥じない、正しいと信じる生き方を選択し続けた。その結果はなるようにしかならない。結局のところ、ネットにはじかれたテニスボールは、どっち側に落ちるのか誰にもわからない。

 

だからこそ。ファニー・ヴァレンタイン大統領はシステムや理不尽の象徴(つまり「世の中」そのもの)として君臨する。権力者が右のナプキンを取れば、他も追随して右を取るしかなくなる。これは、世の中のルールやシステムは誰かが必ず作っていることの比喩として、実に鮮烈である。また、遺体の影響でラブトレイン現象を得た大統領は、自身に向かうダメージ(害悪)を別次元のどこかに飛ばし、名も知らぬ誰かに押し付けてしまう。直接的に「そう」なるように意図せずとも、誰かの利益の裏には誰かの不利益がある。この国は、この世界は。誰かがルールを作り、誰かが自身に害悪が近づかないように調整し、そうした結果の上に存在している。これは、必ずしも特定の「誰か」ではない。倒せば終わるラスボスがいるとも限らない。世界は、そういった性格のもとにある。

 

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しかし、同時に。大いなる自然が我々を取り囲んでおり、人類の叡智がそこにある。黄金長方形は自然の中にこそある。美しさや正しさは、人の手が届かないところに存在している。ツェペリ家が大自然への敬意を忘れなかったように、生き方のヒントは、そこらに生えている樹木に、宙を舞う蝶々に、降りそそぐ雪の結晶に、見つけられるのかもしれない。あるいは。たゆまぬ鍛錬によって築かれた叡智は、「技術」となって鉄球を回す。時間を操り、雨を操り、恐竜をも操るスタンドに対し、ジャイロは「技術」(スタンドではない)で立ち向かう。「技術」にアイデアを加え、覚悟も足す。敬意を払い、先人に学び、そうして理不尽に一矢を報いようとする。

 

「正しい行動」に向かった時に、はじめて「納得」が得られる。例え、結果が伴わなくても。敗北したとしても。理不尽(「世の中」)を前に諦めず向かっていく行為。それ自体に価値がある。そしてその「行為」を助けてくれるのは、我々のすぐそばにあるなんでもないモノやコト、生命の基盤である大自然、そして先人が積み上げてきた技術。それらをフル活用し、「納得」するために行動する。

 

「スティール・ボール・ラン」は、このテーマに対し非常に明確なストーリーを辿っている。ジャイロが原則としてスタンド使いではないのがその最たる部分だ。彼は敬意と技術だけでスタンド使い達と渡り合う。「納得」を得るための生き方を邁進する。だからこそなのか、荒木飛呂彦のライブ感たっぷりの筆致のせいなのか、設定はなんだかコロコロ変わりゆくし、それでいいのかという落とし所のキャラクターは少なくない。ポコロコに物語上の意味はどこまであったのか。サンドマンは本当にサウンドマンでよかったのか。そういった気持ちが無い訳ではない。

 

しかし、まあ。それも流れゆく群像劇として捉えれば、なんだか呑み込めてしまう自分がいる。「スティール・ボール・ラン」は歴代ジョジョでも圧倒的に「味方」が少なく、ジャイロとジョニィはほぼずっと2人のみで行動する。アメリカ大陸を横断するレースにおいて、度々挿入される引きの絵。見事な風景画と緻密に描かれた街並み。ひとりの人生などちっぽけに思える程の雄大かつ広大なアメリカ大陸。そこで起きては終わり、交錯し、通り過ぎていく、個々人の小さな小さな人生。たっぷり砂糖を入れたイタリアン・コーヒー。打ち明ける秘密。ぼろぼろになったクマちゃん。雪降る街で飲んだワイン。思い付いた歌やギャグ。あっけなく命を散らす男たち。物語全体にはびこるスケール感は、ジョジョシリーズにおいてもずば抜けている。

 

あるいは、荒木飛呂彦という漫画家の暴走。過去にも見られたことではあるが、急カーブの拡大解釈や力業での説得が多用される第7部。細かいツッコミを挙げていけばきりがない。しかし、これすらも作家本人が「納得」するための筆致なのだとしたら。途端に、許せてしまうのだ。むしろ敬意を払いたくなる。物語終盤、次元を超える敵を倒す唯一の方法は「重力」だと力説し、重力相互作用を踏まえ、あろうことか「馬と回転が勝利のカギ」だと結論付ける。暴論が過ぎる。無理もある。しかし、確実に筆が乗っている。作劇が興奮でイキイキとしている。馬のレースで始まった物語で、「ジョジョ」はジョッキーで、そのメンターが回転の後継者。全ての要素が一撃に収束していく最終決戦。タスクACT4のオラオラという強烈無比なカタルシス。荒木信者と呼ばれても構わない。この場合の「重力」の発生源は、荒木飛呂彦本人だ。

 

しかしその末に、きっちりとジョニィを敗北させる。物語上、大統領は打倒せねばならない。しかしジョニィは負けさせたい。「生き方」を語る上で、ジョニィをプラスではなくゼロで終わらせるために、彼は勝ってはいけないのだ。とはいえ、今更ぽっと出の敵キャラが出てきても展開が弱い。大統領を倒した後にダラダラと物語を続ける訳にもいかない。最短距離で、効率よく、読者に「ジョニィは全力で戦ったが惜しくも勝てなかった」と思わせるには。

 

ザ・ワールドを従えて登場する別次元のDioは、単なるファンサービスではない。「ジョニィを勝って終わらせない」ための、究極の舞台装置なのだ。Dioのプライドの高さも残忍さも支配欲も、そしてザ・ワールドの圧倒的な性能とパワーも、多くの読者が既に知っている。そして、それをいきなり物語に登場させるための設定も揃っている。読み返せば読み返すほどに、この突然のDioの登場には舌を巻く。実に素晴らしい。亡きジャイロからLESSON5を受け継いだ「作劇エネルギー」最強に到達したジョニィでも、勝てない。その結果に説得力がある。

 

ただ、最後に書いておきたいのは。この「スティール・ボール・ラン」は、「負けてもいい」とは言っていない、ということだ。

 

凡百の創作が、「負けたっていい」と優しく撫でる時代になった。「人には人それぞれの価値観がある」「勝てなくたって構わない。負けても良い」「多様な幸せがあるのだから競争なんてしなくていい」「誰かと自分を比べなくてもいい」。それは、正解なのだろう。正解だと言わねばならぬ時代なのだろう。

 

しかし、「スティール・ボール・ラン」はそうは言わない。「飢えなきゃ」勝てない。ずっとずっと気高く「飢え」なくては!「生き方や納得には課程が大事」は、「結果はどうでもいい」を指さない。「勝てなくてもいい」を意味しない。「負けてもいい」を肯定しない。むしろ、勝ちに飢えなくては「納得」など得られない。決して。

 

『社会的な価値観』がある、そして『男の価値』がある。昔は一致していたが、その「2つ」は現代では必ずしも一致はしていない。「男」「社会」はかなりズレた価値観になっている………。だが「真の勝利への道」には『男の価値』が必要だ…。おまえにも、それがもう、見える筈だ…。レースを進んでそれを確認しろ……。「光輝く道」を…。

・『STEEL BALL RUN ジョジョの奇妙な冒険Part7』8巻

 

唱える価値観が、もし、時代とズレていたとしても。荒木飛呂彦という作家は、それでも飢えて勝てと語る。「納得」は、その末に『結果的』に現れるもの。この、ともすれば時代錯誤で、前時代的で、カビが生え始めたかもしれないテーマでも。おそらく荒木飛呂彦自身が「納得」するために描いている。その傍若無人ぶりに、独奏の芸術家ぶりに、なにか言い知れぬスケールを感じてしまうのは悪いことだろうか。

 

ジョジョがシリーズを通して描いてきた「生き方」について。そのテーゼやイズムが、最も露出した形で垣間見えるのが、この第7部だと信じている。

 

「絵」を描くという作業は『無限』である。どこで終わっていいのか、一枚をずーっと描いてられる。そして『物語』。仮に「恋人」が穴の底に落ちている設定があって、そこに「嫌いな友人」を身代わりに突き落とすと、その『恋人』は命が助かるという状況があったとしたなら、もし、あなたならどうしますか? 嫌いなヤツを突き落とす? それは「正しい行動」じゃない気がする。考えると『無限』に答えが出なくなってしまう。ちなみに「絵」は、自分の「心」が終わりとした時が完成。自分勝手だと思う。

 

つくづく、荒木飛呂彦は唯一無二である。3キュー4ever。

 

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