ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

30代のオタク、再分配の必要に迫られる

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単に文字通りの意味で、山なし・オチなし・意味なしの内容です。

 

タイトル通り、「再分配の必要に迫られる30代オタク」a.k.a「自分」について、思うままに書いてみたい。オタクを自認しこれまで長く生きてきたが、なんというか、その生き方をもう少し微細に調整していかなければならないな、と感じ始めている。これまでと同じ生き方では、もう回らなくなってきた。しばらく前からそのことに気付き始めていたが、心のどこかで気付かないフリをしていたようにも思う。だから、こうしてブログに書き残すことで「気付いた」ことにする。

 

いきなり違う話をするが、30代に突入し急速に酒が弱くなった。

 

大学生の頃は日付変更線を超える行為がその場の盛り上がりの一助だったし、新社会人の頃は会社の先輩や上司と頻繁に飲みに行っていた。何度か手痛い失敗をしたこともあるが、25歳を超えた辺りからは経験則から自身の限界を知っていたように思う。お酒の量、食事のペース、体の反応。体感で「あっ、このままだとやばい」と黄色信号が光るので、そこからは烏龍茶に切り替えたりさっと切り上げてしまったり。そうして、「自分は酒量のコントロールができる人」という自覚を持って生きていた。

 

それがどうだろう。アラサーを過ぎ、もちろんコロナ禍で酒席そのものが減ったこともあるが、急速に酒に弱くなってきた。開始時間にもよるが、22時あたりで眠くなり始め、23時にはダウン寸前。脳が黄色信号だと認識した時点で体は赤信号、といった手応えである。酒量のコントロール、その定規がなぜだか一気に使い物にならなくなった。でも、経験則でどうしようもなく既存の定規をあてにしてしまうので、結果、ちょっと飲み過ぎてしまう。言うまでもなく二日酔いからの復帰も驚くほど遅い。翌日の正午あたりには復帰していたあの頃、あれは夢か幻か・・・。

 

といったことが、割とそのまま、オタクとしての生き方にも表れてきている。ような気がする。

 

独身の頃、あるいは結婚してからも、割と貪るようにあらゆる作品に触れていた。映画もドラマも漫画も小説も音楽もエトセトラも。映画館に行けば流れる予告編はほぼ全て一度観たものだし、音楽番組で流れる曲はほとんどサビにノれたし、本屋のコミックスコーナーに並ぶ漫画もその多くを知っていた。とはいえ、さすがに全てを摂取していた訳ではない。こういうものが今は流行っていて、こういう絵柄やコンセプトの作品があって、こういう雑誌や出版社から単行本が出ている。そういった浅い知識が書店の本棚をめぐれば無限に連続する。高校生あたりから、そういう人間として生きていた。

 

何事も、「摂取する」の手前には「知っている」がある。「知っている」の母数が増えないことには、「摂取する」は増えない。そういうマインドで、結果として手に取らずとも色んなジャンルの作品を知るように心がけていた。ネカフェに寄った時は知らない漫画を手に取り、出会いを楽しんだ。映画館に行っては連続で3作品ほど観た。ラジオを聞いて未知のアーティストの曲と何度も出会った。なんでも食える、なんでも飲み込める、緩い万能感。そういうオタクとして生きてきた。

 

そして、その多くを自身のオタク肝臓で分解してきた。これはどっぷり。こっちはほどほど。あっちは順番待ち。適宜、適切に。なにも問題なく、それを繰り返してきた。「自分はコンテンツ量のコントロールができる人」。そういう自認があった。

 

しかしどうだろう。ここ数年、急速に肝臓の働きが悪くなった。本物の肝臓も、オタク肝臓も。「これくらいなら当たり前に消化できる」。そう思ってコンテンツに触れていくと、なんだか体が悲鳴を上げる。どうやら従来と同じ量は難しいらしい。どうしてだろう。

 

まず、単純に時間の問題だ。結婚し、娘が生まれた。娘はすくすくと成長し、休日に家族連れでどこかへ出かけたり、幼稚園関係のイベントも増えてきた。あるいは、仕事。年齢に応じてそれなりに責任のあるポジションになってきた。誰かの相談を受けたり部下のサポートをしているだけで日中が終わる。悩みも尽きない。最後に、体力の問題。20代の頃のように夜中まで映画を観ることはほぼほぼ不可能になった。寝落ちする。疲れが取れるのもべらぼうに遅くなった。以前までは「ちょっと多めに寝る」くらいで心身が回復していたが、今やかなり意識して「しっかり寝る」「美味しいものを食べる」「温泉に行く」「必要に応じて薬を飲む」辺りを配置しないといけなくなった。

 

40代や50代、それ以上の諸先輩方には、なにを30代でナマ言ってんだと思われるかもしれない。とはいえ、坂は下り始めが一番びっくりするんです。それまで登ったり、あるいは平坦な道を歩いていたのに、同じ歩行フォームのまま道が下がる。足元の違和感。もつれ。

 

そうして、オタクとしてのパフォーマンスやリソースが劇的に低下したように感じている。こういうことを書くと「結婚したんだから我慢しろ」「仕事を休んででもオタ活しろ」といったオタク強者ムーブをぶつけてくる人もいるが、そういう話でもないのだ。家庭も、仕事も、趣味も、それぞれ大切。容易に優劣をつけてカテゴライズするものでもない。

 

まあ、実際のところ、色々とチャレンジしていた副業がある程度は起動に乗っていて、オタク活動をする資金には特に困っていない。本業の収入もあるので、家を建てた。念願のホームシアターも作った。十年来ずっと欲しかった車も契約した。家族旅行もまあまあ行く。欲しいBlu-ray BOXは取りあえずポチる。観たいサブスクにはまず入る。娘がやりたい習い事は全てさせている。有休を取って温泉に行き、サウナと水風呂と外気浴をループする。コーヒー豆に凝る。ランニングマシンで朝晩走って汗をかく。週末には家族で出かけて外食をする。そういう人間になった。

 

しかし、どうしてもオタク肝機能の低下は免れない。色んなコンテンツをチャンポンする余裕がなくなり、必然として知っている作家や知っているシリーズを中心に追いかけるようになる。たまに書店に行くと、見たこともない漫画が平積みになっている。焦る。Apple Musicのランキングに知らないアーティストが沢山並んでいる。焦る。・・・さて、この「焦る」とはどういうことだろう。なぜ自分は多くを知らないことを内省するのか。知識量で殴り合う古の価値観はもう滅びたというのに。今は瞬間瞬間の共感でエモり合う時代なのに。知識などはWikipediaを見てください、それが正確かは知りません。そういう潮目だというのに。

 

「摂取する」が減っていく。「知っている」が減っていく。棲むコンテンツが、自身が昔から特に愛好したものだけにゆっくりと限られていく。コンテンツ摂取の余白が無くなっていく。まるで、一度も転職したことのない生え抜きの社員のように、狭い世界に限った知識と経験だけが積み重なっていく。

 

これの行き着く先が何か、自分はよく知っているはずだ。インターネット用語で言うところの、「老害」。かつての自分が忌み嫌ったその存在へのルートを、確実に歩んでいる気がする。あるいはもう成り果ててしまったか。しかし、今から摂取範囲を広げるのは大変だ。これ以上「知っている」が少ない場所へ行くのが怖い。新たに踏み出し、そこで「知っている」に到達するまでの時間やエネルギーが足りない。いや、「知っている」じゃなくてもいいのだ。「知らない」でも構わないのだ。頭では分かっている。しかし、今更「知らない」から始めることになぜこうも抵抗があるのか。知って蓄えている知識の連続性や関連性でしかモノを語れないからか。あるいは、その抵抗を乗り越えるだけの体力が今の自分に無いからか。

 

なにか、新しいことをしたい。新しいことに触れたい。いや、触れなければならない。そんな、薄く固い強迫観念。オタク肝機能の低下に伴い、これまでの生き方を変えねばならなくなった。どうしたら今の限られた体力と時間の中で、適切に生きていけるのか。これまでのようなチャンポンはできない。目についたものを片っ端から摂取することもできない。

 

そういった妙な感覚から僅かでも脱するため、今年は元旦から毎日ショートショート(掌編)を書くという行為をやっている。昨日時点で累計242作品。ここまで連続した物量で創作活動をしたのは生まれて初めてのこと。例え小さくても、拙くても、自分で何かを創ることでオタク的な筋肉が少しは養われるのではないか。新しいこと。やってこなかったこと。ひとつでも、ひとつでも、ひとつでも・・・。

 

kakuyomu.jp

 

分かっていたはずのこと。生き方を、変えていかなければならない。

 

家庭も仕事も何もかも、そしてオタクとしての自分も。これまでの経験則が、急速に通用しなくなってきた。ライフステージの変化により、あらゆる前提条件が変わってきている。どうしたらそれぞれ満足できるか。どうしたらそれぞれを両立させられるか。どうしたらそれぞれに投じるお金と体力を適切に分配できるか。

 

再分配の時がきている。変わっていかなければならない。まずは、「知らない自分」を許すところから。