何かと、良い意味でも悪い意味でも盛り上がる「実写化」。主に漫画やアニメからの実写映像化を指すが、2021年1月にこれを語るのならば、まずは2020年末に放送されSNS等で話題沸騰となったNHK制作『岸辺露伴は動かない』に触れねばならないだろう。
・引用 https://twitter.com/nhk_dramas/status/1316259949366964224
『ジョジョの奇妙な冒険』の実写映像化には、2017年公開の映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』がある。当時の感想ブログにも書いたが、私はこの作品が非常に気に入っており、ストーリーを整理しながら一本の映画にまとめる手順としては、かなり真摯な作りだったと記憶している。興収が10億を割っていたり、メインキャストの逮捕だったりで、続編が望み薄なのが非常に哀しい・・・。
そんな前提を経ての「再度の4部実写化」だったこともあり、発表後も、様々な期待と不安の声が飛び交っていた。しかし結果として、「理想の実写化」のひとつの形を力強く示すような作りになっており、端的にこの上なく面白かったのだ。
スポンサーリンク
そもそも、『岸辺露伴は動かない』シリーズは、荒木先生が過去何度も描いてきた奇怪・ホラー短編の文脈にあり、そこに岸辺露伴という語り部を設けることで「ジョジョのスピンオフ」という性格を付与→シリーズ化したものだ。なので、原則として露伴は「動かず」に、奇妙な物語を観測する立場として登場する(が、その初期コンセプトは後に音を立てて崩壊し、露伴は潜ったり走ったりする)。
つまり、「オムニバス」「短編集」という土壌に岸辺露伴が追加されている構造なので、これをどのように連続ドラマとして映像化するのか、と。何を削り、どこを膨らませるのか。どのように連続性を設けるのか。
お出しされたのは、「スタンドは発動するけど『スタンド』の概念やビジュアルは出さない」「原作ではドラマより出番の少ない女性編集者をワトソン役に据えて物語を進行させる」「3話連続で登場するキャストを設けて一貫性を演出する」等々、「ジョジョの映像化」という課題に対してこの上なく解像度の高いアプローチの数々であった。第1話の冒頭で原作にはない強盗シーンを追加し、岸辺露伴のキャラクターを視聴者に説明する。第3話では原作のストーリーを大幅に改変しながら「血脈の物語」というジョジョには欠かせないテーマに視線を送る。心の底から続編を期待してしまう、そんな映像化に仕上がっていた。
令和にもなって「実写化」の一報だけで脊髄反射に怒り狂う方々には、私はもう心の底から決別を表明しているのだが、じゃあその次のステップとして、どうやったら実写化は「成功」するのか、というレイヤーが存在する。まあ、そんなの分かるはずもなく、分かっていたら私がとっくにプロデューサー業で食っていけている訳で、当然のようにそこに絶対的な公式は存在しない。そもそも、この場合の「成功」とは何なのだろう。「売れた」ことなのか。「面白かった」ことなのか。「原作ファンが喜んだ」ことなのか。「新規ファンを獲得した」ことなのか。
もっと「そもそも論」に踏み込むと、「なぜわざわざ実写化するのか」という問いが存在する訳だが、これが『かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~』の作者・赤坂アカ先生の2019年当時のツイートが分かりやすい。
漫画の実写化は、漫画の連載を100年やっても読まないだろうなっていう遠い層に向けて「かぐや様」を届けてくれる漫画家としては滅茶苦茶有り難く、かゆい所に手が届く文化です
— 赤坂アカ (@akasaka_aka) 2019年5月21日
原作を好きで居てくださる方々には、かぐや様がより遠くの人へ届く様に、後押しする感じで応援して欲しいと願っております!
オタクとして生活していると忘れそうになるが、「漫画を読まない人」「アニメを観ない人」というは、当然存在するのである。というより、もしかしたらそちらの方がマスなのかもしれない。生身の人間が演じていて、知っている俳優が演じていて、そうして初めて「触れる」段階に至る。「漫画の連載を100年やっても読まないだろうなっていう遠い層」は、すぐ近くに沢山いるのだ。(念のため補足すると、これは単に生息地の違いの話なので、どちらが上とか下とかそういう馬鹿なことを言うつもりは毛頭ない)
そういった人たちに向けて実写化することで、作品が届く。何より「認知」の分母は大切だ。普段は漫画を読まないけれど、これをきっかけにちょっくら手に取ってみるかもしれない。そうして、実写版が公開されるタイミングで、原作漫画は書店で平積みになる。漫画アプリで無料公開話数が増えてプッシュされる。完全版や番外編や新作読切が出たりもする。作品の「成功」が判断できる前段階で、「実写化」における目的の大部分は、すでに達成されているのかもしれない。あるいは、「実写化は実写化が決まった時点で成功」という、禅問答のような話か・・・。
スポンサーリンク
よく、「原作への理解度が高い」ことが、実写化の成功要件として叫ばれることがある。これもまた非常にふわふわした表現だが、言いたいことはよく分かる。要は、上っ面だけを模倣するのではなく、その作品の根幹の部分、あるいは魂を、映像に真摯に翻訳して欲しい、と。こういった話の際に、「(このクリエイターは)原作を読んでいないのか?」という怒号が飛ぶことがあるが、まあ、主要スタッフ全員が原作を全く参照していないなんてことは、常識的にあり得ないだろう。製作費がいくらだと思ってるんだ、という話である。
ただ、前述の赤坂アカ先生のツイートが皮肉にも告げているように、「実写化のメインの客層は原作ファンではない」という、残酷な事実がここにある。だから、原作ファンを手厚く接待する必要は無く(あるいはそこは「切り捨てても構わない配慮」に数えられ)、出演俳優にオイシイ構造にしてみたり、一本の映画の尺に収めるために唐突な切り貼りをしてみたり、そういったテクニックが発生してしまう。でもそれは、作り手とメインの客層にとっては十二分な「成功」かもしれなくて、「失敗」判定をしているのはマイノリティである一部の原作ファンだけ、なのかもしれない。何とも、世知辛い話である。
「honto」が実施した2018年の「漫画の実写映画化に関する調査」がある。これによると、「Q2.好きな漫画が実写映画化されたときに、映画館まで見に行ったことはある?」の問いに対し、男性の「ある」は45.5%、女性の「ある」は46.0%だ。つまり、原作ファンの4割以上は、実写映画を観に行っているのだ。これだけでも、「成功」の背景が見て取れる。ただ単にオリジナルの作品をこしらえて映画化するより、原作がある作品を選んだ方が、「原作ファンの4割」というほぼ確約された興収が見込めるのだ。やっぱり、「実写化は実写化が決まった時点で成功」なのかもしれない。
話を元に戻す。「原作への理解度が高い」とはよく言ったもので、つまりはオタク用語でいうところの「解釈」だ。原作ファンの、原作への「解釈」。この作品のポイントはどこで、絶対に外せないシーンはあそこで、こういったテーマが通底しているべきだ、という「解釈」。対する、作り手の「解釈」。この原作を使って、どう改変すれば面白くなるのか。キャストの演技との相乗効果はどの程度見込めるのか。適切な宣伝の切り口は何か。そういった、ビジネスの視点をが中心となる「解釈」。それら双方の「解釈」が奇跡的に一致した時、もしかしたら、そこに理想郷が生まれるのかもしれない。
例えば。私が「実写化の成功例は?」と問われたら、一番に挙げるのは『帝一の國』だろう。これは、原作ファンが同作を読んで楽しんだ「エキセントリックなキャラクターたちの群像劇」「昭和を舞台としたピカレスクロマン」「ブロマンスとコメディの絶妙なバランス感覚」といった「解釈」が、作り手による「売れ線のイケメンを揃えた超話題作」「原作終盤の展開を巧妙に引用してまとめ上げる改変」「渡邊崇によるスリリングかつ雄大な音楽」等の「解釈」と、見事に一致した好例ではないだろうか。未見の人がいたら強くオススメしておきたい、大好きな一作である。
また、「成功例」としてよくタイトルが挙がる『るろうに剣心』。これは実は、原作における和月伸宏先生特有の、アメコミ文化に影響を受けたコミック活劇としての要素はかなり大胆に削られている。「るろうに剣心らしさ」は、実はめちゃくちゃスポイルされているのだ。
その代わりに持ち込まれたのは、大河ドラマ『龍馬伝』を作り上げた大友啓史監督の世界観や技術。徹底した美術の作り込みと、「汚し」を主体とした衣装にメイク。幻影的で美しいライティングとひりつく空気感。そういった世界観に、更に、谷垣健治氏による緻密なアクションが加わる。「少年漫画らしく必殺技でドカン!」という原作のパターンを捨て、柔術を織り交ぜた手数の多い高速アクションを披露する。
するとどうだろう。「るろうに剣心らしさ」は実はごっそり無くなっているのに、この実写版の「明治剣客浪漫譚」はアリだぞ、と。そう思わされてしまう。原作の少年漫画然とした面白さの中にも、確かに、この殺伐とした空気や時代感は流れていたのだと、改めて気付かされるような・・・。作り手の、作品を「当てる」ための座組みやアプローチといった「解釈」が、ともすれば、原作ファンが持っていた「解釈」をやや力業で引き寄せる。そういった「成功」パターンも、あるのかもしれない。
スポンサーリンク
つまるところ、「解釈」の数だけ「成功」も「失敗」も存在する。
原作ファンといっても、十人十色なのだ。原作キャラクターの容姿を髪の色や服装までばっちり真似ると「コスプレ大会だ!」と揶揄され、実写映像向きに全体の色を押さえた見てくれにすると「誰?」「こんなのは○○じゃない」と揶揄される。原作通りの話運びにすると「知った展開すぎてツマラナイ」と文句を言われ、原作から足したり引いたりすると「なぜ改変したんだ!?」と文句を言われる。オタクの「解釈」は一種の宗教戦争なので、その構図がそっくりそのまま実写化の舞台にも持ち込まれる。どうしようもない。『帝一の國』や『るろうに剣心』を心の底から忌み嫌う原作ファンだって、きっと、いや絶対に、いるのである。
その点、NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』については、無数の「解釈」がかなりの割合で同じ枠の中に集うことができたのではないか。作り手の、「ドラマ『カルテット』での癖のある演技が忘れられない高橋一生を主演に迎える」「同作のアニメにも参加した小林靖子女史をスタッフに加える」といった、この度の実写化に対する「解釈」は、おそらく多くの原作ファンが持つ「解釈」に肉薄していた。
一方で、「解釈違い」が起きそうなポイントはしっかりと認識し、避ける。同作の土橋圭介プロデューサーは、インタビューで「とてもNHKでVFXバリバリでスタンドを表現する予算は組めない」と述べているのだ。無理にやるくらいなら、むしろやらない方が「解釈」の解像度が増すパターン。そして、「江戸川乱歩や横溝正史に通じるミステリーやホラーのような雰囲気」「心理戦や知恵くらべみたいな要素」を軸に勝算を見込んだという。おいおいおいおいおいおいおい。それはまさに、ジョジョの、特に4部が持つ大切なポイントじゃあないか!
・・・といった経験も踏まえつつ、仮に自分の中で「失敗」に数えられる実写化作品と出会ってしまった時は、それはひとつの「解釈違い」であり、誰かにとってはきっと「成功」だったのだと、そんな「not for me 精神」を忘れずに構えていきたいものである。
藤原竜也主演『DEATH NOTE』はオリジナルの結末がスリリングだけどあのタイミングで月がLの死亡を確実に確認しないのはやっぱりどうしてもおかしいし、山田涼介主演『鋼の錬金術師』はクライマックスで兄弟がろくに活躍しないのが大問題だけど兄弟喧嘩のシーンでは思わず涙してしまったし、小栗旬主演『銀魂』は確かにめっちゃ爆笑したけど原作とアニメが作り上げた悪ノリ大正義の文脈と福田雄一監督の趣味に依存しすぎだったりと、私ひとりの中でも「解釈一致」と「解釈違い」が細かく戦争を起こしているのである。こんなの、片がつくはずがない。