ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

公式にはどうか地上に降りずにいてほしい、というささやかな祈り

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以下、オタクの面倒臭いテキストです。ご注意ください。

 

「ファンサービス」という単語について、昨今考えることが多い。一般的には「良いもの」「あると嬉しいもの」とされるが、様々なコンテンツを楽しむ中で、自分の好みのファンサービスとそうでないものがあるなあ、と。いずれも、公式が「ファンが求めるもの」を分析し、その最適解を作品に込めたものがサービスになるのだろう。なので、分水嶺はおそらくその「分析」、そして「最適解」だ。

 

もっと端的に言ってしまえば、「ファンの盛り上がりを公式が逆輸入することへのモヤモヤ」、である。

 

例えば、放送中のアニメにおいて、SNSを中心にあるキャラクターに関するネタが流行ったとする。作中では描かれていない属性がファン界隈でいつの間にか付与されたり、実際には言っていない台詞をあたかも言っているように扱われたり、台詞の応酬が構文としてネットミーム化したり。それ自体は「ファンの盛り上がり」として、それ以上でもそれ以下でもないのだが、私が話題にしたいのはこの後である。

 

その番組公式Twitterアカウントが、前述の盛り上がりに乗っかるツイートをしたとしたら。あるいは、その属性や構文に寄せた形でのグッズをリリースしたとしたら。更には、実際の作品そのものに、ファン界隈の解釈やネタを逆輸入する形で使ったとしたら。

 

正直に言ってしまうと、私はこのパターンにおいて、心臓が変な汗をかいて スッ・・・と無の境地に至ることが多い。おそらく、大衆居酒屋で出てくる刺身盛り合わに添えられた魚の頭部のように、ただただ、虚無を見つめていることだろう。そして次第に「戦争」の二文字が頭をよぎり、そのコンテンツを一気に離れたくなる衝動に駆られるも、ずっと愛好してきたそれとそう簡単に別れる訳にもいかず、変な汗が滝のように流れ続けるのだ。

 

なぜ、そんなリアクションが生まれてしまうのか。

 

 

思うに私は、「公式とファンはある程度の距離を保っていて欲しい」タイプなのだろう。

 

例えるなら、公式は天上の存在なのだ。あくまで、雲の上にいる。そこから陽が差したり、雨が降ったり、雷が落ちたりするのを、一喜一憂しながら振り回される。空を仰ぐ時もあれば、目を伏せる時もある。しかし絶対的に、自らの手は天上には届かないのである。「公式」とは、私にとってそんなイメージだ。見上げた雲の向こうには、我々庶民には計り知れない矜持とイズムがあるのだろう。

 

だから、前述の「公式がファンの盛り上がりに乗っかる・それを逆輸入する」パターンは、言うなれば公式が地上に降りてきてしまった感覚なのだ。天を仰いでいたはずが、いつの間にか公式が自分と同じ地上に立っており、更には肩を抱いて一緒に盛り上がろうと誘ってくる。私は、思わずその手を払いのけてしまう。「ど、どうして・・・」。そのまま天上にいてくれれば、それだけで良かったのに。

 

公式には、ずっとポピュラスやシムシティでいて欲しいのだ。ファンと一緒に牧場物語をするのはどうか勘弁してくれないかと、そう祈ってしまうのだ。

 

あるいは、楽しみ方の違いの問題もあるだろう。ひとつのコンテンツの楽しみ方は無限である。ストーリーに熱中する者、世界観に浸る者、キャラクターを愛好する者、ジャンルの文脈を読む者、エトセトラ。その中のひとつに、「ネタにして盛り上がる」という楽しみ方があるのだろう。私自身、ひどいツイ廃でもあるので、視聴中の作品のネタ扱いについては一通り目にしているつもりである。好きなネタがあれば乗ることもあるし、あまり好みでない場合は静観したりする。

 

問題は、この「あまり好みでない場合」だ。ひとつの作品のファンといっても、楽しみ方の違い、言うなれば宗派の違いがある。「ああいう盛り上がり方は自分の好みじゃないな」と感じることは往々にしてあるし、私自身が第三者にそう見られることもあるだろう。それ自体は「not for me」に過ぎないし、大した問題じゃない。

 

しかし、一度公式が逆輸入してしまうと、それはもう「確定」になってしまう。公式が特定の盛り上がり・ネタ・構文・解釈を採用することは、無数に存在している宗派のひとつを選んでしまうことなのだ。その宗派が自分にとって「あまり好みでない場合」、どうしようもなく辛く、哀しく、虚しい。(まあ、自分の宗派が選ばれたとしても、それはそれでいくらかモヤるのだけど・・・)

 

とはいえ、以前Twitterで似たようなことを呟いた際に、「ネタが実際に使われると公式と一緒に盛り上がれるから楽しい」といった反応を目にした。自分の中には全く存在しないリアクションだったが、確かにそういう人にとっては、この上なく嬉しいことなのだろう。公式と肩を抱き、例えるなら一緒に火を囲んで酒を飲みつつ語り合うような、そういう距離感が好みの人もいるのだ。

 

そして、例えば自分が公式側の人間だと仮定すると、SNSでファンの盛り上がりが可視化されるほどありがたいものはない。例えばネタ構文がTwitterのトレンドに上がったとしたらどうだろう。そりゃあ、乗っかりたい衝動に駆られるだろう。だって、それだけ支持されているのだから。それを踏まえたグッズを出せば売れるだろうし、本編に逆輸入すればまたトレンドに上がるかもしれない。ビジネス的にも、そういう「ファンサービス」の「分析」は十二分にあり得るし、有効だとも思う。

 

 

だからこそ、この私のしょうもないボヤキすらも、単に「not for me」という話でしかない。

 

公式が選んだ宗派からすれば、私が異教徒だったのだ。それ以上でも、それ以下でもない。公式がやったことは、もはや聖書に記されたも同然で、覆ることはない。そのページだけを目に入れずに サッ とめくってしまうのか、はたまた本自体を閉じてしまうのか。それだけの話である。

 

しかし、場末のブログでくらい、祈ることが許されるだろうか。叶うなら、「ファンサービス」というビラを地上に降りて撒くことだけは、避けてほしい。同じ「ファンサービス」だとしても、一度天上に吸い上げて、そこにある矜持とイズムでろ過したものを、あくまで雲の上から地上に落として欲しい。このテキストは、そういう面倒臭い一匹のオタクの、ささやかな祈りである。

 

以上、センシティブな話でもあるので、実際の作品名には一切触れずに書きました。「○○のことですね!」と問われてもお答えできませんので、あしからず。

 

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