いつも楽しく聴いているラジオ番組『アフター6ジャンクション』。5月31日(金)の放送回、お馴染みの映画評論コーナー「ムービーウォッチメン」で宇多丸さんが扱ったのが、実写ポケモンこと『名探偵ピカチュウ』。
これまであまりポケモンに触れてこなかったという宇多丸さん。今回を機にDSを買って原作ゲームの『名探偵ピカチュウ』をプレイしたり、『ミュウツーの逆襲』のディスクを仕入れたりと、流石のハードな予習ぶり。オープニングの山本アナとのポケモントークなど、聴いていて笑いを堪えるのに必死でした。
といった一連の流れの中で、宇多丸さんが言及していたポイント。「ポケモンって動物虐待では?」問題。これ、実は割と「語りがい」のあるポイントだと前々から思っていて。
宇多丸さんは、一週間で急にポケモンというコンテンツに触れたからこそ、「捕獲」からの「使役」という土台と、『ミュウツーの逆襲』における生命倫理なテーマとの組み合わせに戸惑いを覚えた、とのこと。(ちなみに、『名探偵ピカチュウ』はその「虐待では?」を上手くロンダリングしているから良い、という評だった)
「ポケモンと動物虐待」の問題は、過去にも色々と話題になった。もちろん、ポケモンを長年愛好しているからこそ、私自身も「いやいや!ちょっと待って!」的な感覚が無いといったら嘘になる。ネットでも、この手の指摘に対しては、「フィクションと現実の区別がついていない発言」「非実在性動物(笑)」と辛辣な反応が並ぶことが多い。
・「ポケモン」は人間に虐待されている? 動物愛護団体が「ピカチュウ」解放運動 : J-CASTニュース
ただ、私もポケモンが大好きだと前置いた上であえてこう書くが、「野生の生物に攻撃を加え」「弱らせて捕獲し」「特定の環境に軟禁し」「戦闘用に使役する」というポケモンの基礎たる設定は、そういう指摘を受けてもある程度仕方のない性格を有している。こうやってあげつらうことが、容易にできてしまうのだ。
しかし、私の心に棲む「ポケモン大好き少年」は、こういう指摘に顔を真っ赤にして怒ろうとする。「ポケモンは人間の仲間であり友達なんだ!」「トレーナーとの友情が育まれる世界観なんだ!」、と。決して、虐待などというカテゴリーに属する行為ではないと、強く主張したい衝動に駆られてしまう。
この辺り、ポケモンというコンテンツの「巧さ」があると感じている。というのも、前述の「虐待では?」という指摘に対し、論理的な(決定的な)反証を繰り出すのは、実は結構難しい(「そもそもがフィクションだろ」はこの場合あまりにも直線的すぎると感じる)。だって、確かに「捕獲」して「使役」しているのだ。そこは構造として揺るがない。それでも、先の指摘に腹の底で火花が散ってしまうのは、ポケモンというコンテンツが、多重的にその疑惑を中和し、我々ユーザーの感情にじんわりと訴え続けてきたからだ。
論理的な反証というより、感情面に訴える、非常にエモーショナルな「かわし方」。そして、ここにこそポケモンというコンテンツの肝があるのではないか。以下、私なりに思うその背景を三つほど挙げてみたい。
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第一に、ポケモン世界観におけるポケモンバトルは、スポーツのように位置づけられている。まずもって、これが非常に大きい。ポケモンリーグという設定があり、各地には公認のジムリーダー、四天王からのチャンピオンと、「競技」の側面が強い。実社会にも闘牛や闘犬という文化があるため、想像としては容易だ。
スポーツの色が濃くなると、日本人はそこに「スポーツマンシップ」や「フェアプレー」といった、どこか清廉な精神性を見い出す。あくまで「競技」であるため、それは「虐待」とはかけ離れた、気高さすら有する行為なのだと。そういう印象が付加される。また、本筋のゲームにはシリーズを重ねていく中で「コンテスト」の設定も登場し、「かっこよさ」「うつくしさ」等を競う概念も存在する。これもまた、実社会におけるトリマー等の職業を考えれば、イメージが湧きやすく、グッと身近に感じてくる。
ポケモンバトルにスポーツの性格やコンテスト等の幅を持たせることで、「捕獲」「使役」という状況の印象がガラッと変化する。ここは実に上手いなあ、と感じるのだ。

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第二に、作中に登場するロケット団などの組織が挙げられる。ポケモンを悪事に利用する集団だが、メディアによっては結構ひどいことをしていたり。
私が一番印象に残っているのは、『金・銀』におけるヤドンのしっぽのくだり。ヤドンの尾を切って売りさばくロケット団は、当時の私には結構なショックだった。まあこれに関しては、実際にも動物の毛皮を扱う是非が叫ばれたりもするので、一筋縄な問題とは言えないところ。掘っていくと、いつの間にか動物を食する是非やエシカル・ヴィーガンにまで波及してしまう話だ。誰だって殺してる、何かを殺してる、Bastard! Oh 眼には眼を。
話を元に戻すと、ロケット団ら「悪の組織」は、何かとポケモンにきつく当たることが多い。ゲームの主人公は基本的に喋らないが、プレイヤーが「ロケット団め!ポケモンにひどいことを!許さないぞ!」という義憤に駆られるようにシナリオが作られており、そうして相手側に「虐待」の属性を持たせることで、敵対するこちら側は自動的にそこから免罪される、という構造が生まれる。これも、正面から感情に訴えるやり方と言えるだろう。もちろん、私はこれを良い意味で捉えている。
捕まえたポケモンにはニックネームをつけることができ、これもまた、ロケット団的なポケモンの扱い方とは対極にある。ポケモンは決して「使役」するものではなく、そこに「愛着」を持って接するものだと、ユーザーがそう感じられるゲームシステムになっているのだ(「旅パ」の概念にも通じる)。「ポケモンにニックネーム」というと、漫画『ポケットモンスターSPECIAL』を想起する人も多いだろう。

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第三に、アニメ『ポケットモンスター』での描かれ方だ。ゲームとは違い、サトシという主人公が自らの感情を言葉にするのだが、彼は、ポケモンは友達であり仲間であると何度でも主張する。
思い出深い第1話。ボールに入ることを嫌がるピカチュウは、サトシに電撃を浴びせてまでそれを拒否する。中々懐かず、不安たっぷりの旅の始まり。しかし、オニスズメの群れに襲われるピカチュウを、サトシはボロボロになってでも守ろうとする。それに感銘を受けたピカチュウは、電撃で群れを撃退。ふたりの間に、互いを認め合う友情が育まれた瞬間である。
これはリメイク映画『キミにきめた!』でも描かれたシークエンスで、私も世代のひとりとして、観る度に心の奥が熱くなる。こういったシーンを皮切りに、アニメ『ポケットモンスター』では、人間とポケモンの友情が何度も繰り返し描かれる。だからこそ、バタフリーとの別れに涙し、指示を聞いてくれないリザードンを前に絶望し、造られた存在・ミュウツーとの戦いにやるせなさを覚えるのだ。
「人間とポケモンの友情」が下敷きにあってこその展開。それが、原作ゲームに対するアニメ版最大の特徴と言えるだろう。
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先日のトークイベントでも少し触れたが、つい最近まで、『ポケモン・ストーリー』という本を読んでいた。
これは、ポケモンがどのような背景で生まれ、どのようにしてビッグコンテンツに成長してきたのか、その過程をインタビューの生の声を元に収録したものである。ポケモン世代としては、あの頃無邪気に遊んだゲームがビジネスの観点から語られてるので、読んでいて非常に面白い。(ポケモンショック当日の混乱模様やその後の政府絡みを経て放送再開に至るまでの流れは、読みながら思わず手に汗を握ってしまった)
同書には、ポケモンの根底には田尻智氏の昆虫採集の体験がある、という記述がある。そのノスタルジックな精神が基盤にあり、アニメ化の際には、スタッフ全員にゲームをプレイすることを義務付けたという。あの、野山を駆け巡る際の、万能感にも似た「わくわく」な感情。それこそが、ポケモン世界観の根にある。
だからこそ、スポーツ的にトレーナーが存在し、非道のロケット団が現れ、アニメでは他生物との絆を強く主張する。全ては「わくわく」が持つノスタルジックな原体験、その輪郭を維持するためのものだ。そこに、論理的な解説や、理屈は必要ない。心に訴える「原体験」の尊さ、仮に昆虫採集をやったことがなくてもそれを疑似的に体験できるような、真っすぐ感情に訴え、くすぐってくる性格。それこそが、ポケモンなのだろう。
つまりは、「ポケモンは動物虐待では?」の問いに対し、ポケモンで育った人間がつい反射的にムカッときてしまう、その感情の形成こそが、ポケモンというコンテンツの何よりの実績なのである。
ポケモンは、ゲームやアニメや漫画、その他様々なメディアで、多重的に、何年もかけて、ユーザーの中に「その感情」を形成してきた。ポケモンとの関係は、決して虐待なんかじゃない。何らかの根拠や理論を探すより先にそう叫びたくなるほど、我々は、ポケモンというブランドに丹念に育てられてきた。
そしてこの問題については、『ブラック・ホワイト』においてプラズマ団がポケモン解放を訴えるなど、作り手側もいくらか自覚的なのでは、と感じている。(ストーリー的には裏があるのだけど、あくまでひとつの思想として・・・)

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点だけをあげつらうと確かに「虐待」と言えてしまうかもしれない、ポケモン原作ゲームの根本的なメカニクス。そんな指摘を、ノスタルジックな原体験をスタートに、コンテンツの柔軟さと多彩さ、そして確かな年月をかけて、ゆっくり確実に、感情に訴えながら「かわして」いく。それこそが、ポケモンの面白さであり、盤石さなのだろう。
新作『ソード・シールド』も、今から非常に楽しみである。