「“平成”が終わる前に平成ライダーについて語ってみよう」企画の第三弾は、ついに突入、シリーズいちの異端児『ディケイド』前後の作品群でお送りします。
忙しさにかまけてしまい気付いたら前回よりかなり間が空いてしまいましたが、第一弾『【クウガ~ファイズ編】シリーズ黎明期の作品群は日曜の朝に何を提示したのか?』、第二弾『【剣~電王編】動乱期の作品群が挑み、蓄積させたものとは何か?』を未読の方は、良かったらそちらからお読みください。
前までの記事にも書いたように、『クウガ』から始まった同シリーズは初期で様々な「攻め」を展開し、それを受けてのアンサーが多彩な時期を経て『電王』というヒットタイトルに到着、その後更に「ビッグコンテンツ化」を加速させていく ・・・というのが大まかな流れという印象がある。
過去ライダーを登場させた『ディケイド』や、玩具の売れ方がバブル化した『オーズ』など、『クウガ』や『龍騎』の頃には想像もしなかった姿に変わっていく平成ライダーシリーズ。本記事では、その「過渡期」とも言える作品群について、感想や考察などをざっくばらんに語っていきたい。
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・・・というバブル期の前段階として、まずは実質的な「一期最終作」となった『仮面ライダーキバ』を忘れてはいけない。
同シリーズでは初、というよりおそらくこれからも唯一無二だろう「異なる時間軸の平行描写」という語り口が採用され、親子二代に渡るファンガイアとの種族を超えた愛の物語が紡がれる。
前作『電王』の大ヒットの影響か、部分的にかなりコミカルな要素も持ち込まれたが(タツロットなど)、メインテーマやそれを織り成す各要素はかなりダークでゴシックな印象となっている。敵怪人であるファンガイアの造形や二つ名の設定も含めて、いわゆる良い意味での「中二的」な魅力にあふれた作品だ。
『キバ』はメインとなった井上脚本の味がこれでもかと活きた作品であり(良くも悪くも)、『アギト』で描かれた群像劇や、『ファイズ』で展開された愛憎劇など、それらが「異なる時間軸」という多重的な枠組みの中で紡がれていく。
『カブト』『電王』と「家族」がキーとなる物語が続いていたが、今作ではそれを更に太くメインに据え、「親子」に焦点を絞っている。結果、最終的には親子二世代のブロマンスとも言えるような、よもや子供番組とは思えない地点にまで到達するから面白い。
真っ向からそれなりの尺を割いて浮気や不倫や恋の悩みを描いているのも挑戦的であったし、むしろこの辺りは『鳥人戦隊ジェットマン』を思えば井上脚本のひとつの十八番であったとも言える。また、絶大な人気を誇った紅音也というキャラクターも、『超光戦士シャンゼリオン』涼村暁の系譜と言えるだろう。
ヴァイオリニストである音也を主役に据えた「過去編」では、世に跋扈するファンガイアという種族と戦う素晴らしき青空の会の戦士・麻生ゆりをヒロインとし、やがて開発される初期型イクサシステム、ファンガイア以外の怪人種族との出会い、入り乱れる恋愛関係などを展開していく。
一方の「現代編」では、なぜかキバに変身できる力を持っている渡が、父が残したヴァイオリンの響きに導かれ闇に紛れてファンガイアを討伐する。渡の出生の謎や亡き父が辿った真実を抱えながら、物語は次第にファンガイアと人間の種族間抗争にシフトしていく。
親子であるふたりの“紅”が主人公だが、それぞれそのキャラクターとしての前後が明かされぬまま逆方の編で答えだけが提示される。音也は女ったらしで恋多き男だが、誰と結婚し子を儲けるは分からない。しかし現代では実際に子供がいて、その子はなぜかキバという人外の力を宿している。息子である渡は父親がどんな人間だったのか・どんな人生を送ったのかをほとんど知らないが、それをまた同時進行で過去編にて紡いでいく。互いに先にミステリーの答えを配置し、「何がどうなってそうなったのか」という過程部分を1年間かけて解き明かしていくのだ。
その意欲的な試みが必ずしも上手くいったかと問われれば、正直なところ、そうではなかったかもしれない。部分部分で、引っ掛かりやネタに走りすぎたような面は散見されたし、過去と現在を同時進行で描くことの作劇的難易度は一介の視聴者にも感じられるところがあった。『電王』と『ディケイド』に挟まれているからこその印象も手伝ってしまうとは思うが、正直、純粋なる「完成度が高い」といったニュアンスを覚えることは少ない。
しかし、それらの足枷を感じつつも全力で跳ね返したくなるほどに、やはり『キバ』には独特の魅力がある。
「愛」と「憎」を太く描き切ったからこその、親子・男女・兄弟の各々の終着点。そしてそれらを彩る、血統・主従・異種族・掟のある世界。散りばめられたピースが時に大きな「うねり」となって爆発するタイミングは本当に素晴らしいし、麻生親子の戦いに涙し、紅親子の数奇な運命を観て手に汗を握るのだ。
熱量が振り切れているかのような音楽展開も併せて、当時は毎週テレビに噛り付く程にハマっていたし、ワンセグ携帯で録画して出先で復習したりなんかもしていた。非常に思い出深く、独特の懐かしさを感じさせてくれる作品である。
そんな、ワンセグ携帯しか録画環境を持っていなかった私にバイト貯金を解禁させレコーダーを買わせたのが、他でもない『仮面ライダーディケイド』である。
『クウガ』からずっとリアルタイムで平成ライダーシリーズを追っていた自分にとって、よもやその全員が登場する作品が作られるだなんて、夢のような、むしろ形容しがたい恐怖を覚える程の衝撃だった。
昭和ライダーとは違い「共演」という二文字とは基本的に無縁だったこのシリーズが、(むしろ無縁だったからこその独立した世界観が魅力的だったシリーズが)、ひとつの作品として「繋がる」。それは、シリーズの集大成でありながら、最大の禁じ手でもあったのだろう。
結果として『ディケイド』は、視聴者だけでなく作り手までもが「このライダーはこういう作品だったなあ」という壮大なる「復習」を行っていく作業と化し、懐かしさとそれが描き直される新鮮さが同居するあの半年間は、とても貴重な体験だったと思う。
同時に、過去のライダーを知らない視聴者にはプレゼンとして機能し、シリーズをコンテンツとして太く育て上げる役割も兼ね備えていた。
そうして幕を開けたディケイドは、過去のライダーの世界をリイマジネーション(=パラレル)だと明言し、本当に根っこのテーマだけを残して設定を書き換えていった。
クウガは割と原典に忠実だったものの、「親子の物語」に焦点を当てて子供をライダーにしたキバの世界、「ライダー同士の争い」に裁判という解釈を与えた龍騎の世界、「人間とオルフェノクの共存」を学園モノに落とし込んだファイズの世界など、原典の根幹中の根幹だけはそのままに、新しい“主役”を据えて、そこをディケイドが渡り歩いていくという異色の物語に仕上がっていた。
主人公・門矢士の不透明な過去、なぜか“破壊者”として襲われるディケイド、過去のライダーを敵として差し向ける謎の男・鳴滝、その鳴滝となぜか協力しているキバーラというモンスター、士の過去を知るという神出鬼没のお宝ハンター・海東、ディケイドが世界を破壊する予知夢(?)を見た夏海。
なぜ夏海の世界は崩壊したのか、紅渡とはどういった存在だったのか、ネガ世界の音也やライダー大戦世界の剣崎とは何だったのか、仮面ライダーキバーラとは、ライジングアルティメットとは、どうして昭和ライダーや戦隊の世界とも繋がったのか。
そんな沢山の「伏線」(誤用)に答えを示したのは、2009年の年の瀬に公開された「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」だった。
ディケイド完結編に登場した紅渡に言わせると、「ディケイドに物語はありません」。「ライダーの世界を一度破壊することで、消える運命にあった仮面ライダーの物語を永遠の物にする」、それがディケイドの存在理由だった。
文字にすればかっこいいが、要はこれは「クウガ~キバまでの“過去のライダー”をディケイドに再登場させ活躍させ、“コンテンツ”としての価値を付加するのがディケイドの目的だよ」ということであり、もっと汚い言い方をすれば「東映とバンダイが過去のライダーで商売したいからお祭り作品やって知名度アップだ!」というものだ。これを超マイルドに言い換えると、「ディケイドに物語はありません」になる。
だから、「伏線」なんてそもそも意味がなかったのだ。ディケイドの目的は、「クウガ~キバまでのライダーを活躍させ、現代の消費者(子供たち)に過去のライダーを宣伝すること」。
だから、とにかく盛り上がれば良いし、思わせぶりにして煽れば良いし、画的に豪華なら整合性はおざなりで良いのだ。鳴滝という存在は意味不明でも彼が送り込んだ過去のライダーとの戦いは盛り上がったし、海東がその場その場で一貫性の無い行動を取ってもそれで視聴者の気を惹ければ構わないのだ。
引用した部分はあくまで私個人の解釈であるが、おそらく「当初」はこういうメタメタな落とし所では無かったのだろう ・・・とも思いつつ、どこまでも異端児であり続けたディケイドの「旅の意義」として、とても気に入っている解釈である。(とはいえ、こんなトンデモ解釈でも持ち込まないと『ディケイド』は消化不良のまま何年も胃もたれする事になるだろう、という整理の付け方が無かったかと問われれば嘘になる・・・)
振り返れば『ディケイド』で本格的に破壊された同シリーズの「独立性」は、『MOVIE大戦』という形で今に続くまで継承される結果となり、果てには本編最終回に次作の新ライダーが登場するという方法論にまで発展し、昭和ライダーと同じような「先輩・後輩」「ライダー仲間」「同じ志を持つ戦士たち」といった概念に膨れ上がっていった。
従来の特撮ヒーローに対する変化球として組み上げられた『クウガ』からシリーズが続き、そこに『ディケイド』というこれまた豪快な変化球が投げられた結果、変化に変化がかかり一巡し「従来の特撮ヒーローシリーズっぽさ」に着地したのは必然だったとも言えるだろう。
考えてみれば、『ダブル』以降のいわゆる「二期」の作品群は、「一期」ほどに「分かりにくく」は無い。むしろ「分かりやすい」という印象が強い。それは短絡的に「子供向け」とか「安直な描写」とかを言いたい訳ではなく、『クウガ』からの10年間で様々な角度から実践された挑戦が「(『クウガ』以前の)従来の特撮ヒーローが持っていた“分かりやすさ”をより現代風にアップデートする」ことに繋がった、という意味だ。
だから、「二期」の作品群はそれ以前よりベタで王道でヒロイックで直球な展開が多いと感じるが、それらを裏打ちしているのは、「一期」の頃に模索された挑戦の蓄積に他ならないのだ。(後に更なるカウンターとしての『鎧武』のような作品も登場するが、それはまた次回以降で・・・)
そういった、「ヒーロー番組」→「仮面ライダー」としての大河を俯瞰して見た時に、思いっきり強引な転換点として存在しているのが『ディケイド』であり、その力技は他シリーズのいわゆる「集大成作品」とは一線を画するインパクトを有している。
単なる「集大成」に留まらず、過去を無理やり繋げた上で破壊し、未来への試金石を強引に残していく。まさに番組キャッチコピー通りの立ち位置が相応しい、稀有な作品である。
また、この『ディケイド』における「集大成作品」のノウハウがより精度の高い形で継承・発展した末の産物が、『海賊戦隊ゴーカイジャー』だったとも言えるだろう。
そして、そんな異端児中の異端児の次に登場したのが、『仮面ライダーダブル』である。
『電王』が確立させた「2話前後編でゲストのお悩み相談をしながら戦う仮面ライダー」という方法論を、『特捜戦隊デカレンジャー』を手掛けた塚田プロデューサーが職業ヒーローのフォーマットに落とし込む。
更にここに、『DRAGON QUEST ダイの大冒険』『冒険王ビィト』の三条陸氏がメインライターを務めるという、今考えてもあり得ないくらい「隙の無い布陣」の強みが存分に生かされた作品であり、今なお根強い人気が衰えない。
劇中のキーアイテムとしてUSBメモリを模した「ガイアメモリ」が設定され、これが麻薬のように街に流通した末に起こる奇怪な事件を探偵である主人公らが解き明かすという作劇のスタイルは汎用性が抜群であり、「犯人当て」「トリックの妙」「人情モノ」をはじめとしたバラエティ豊かなエピソードを次々と送り出すことに成功した。
「ガイアメモリ」はそのまま「それを製造・販売する敵組織のバックボーン」や「敵怪人固有の能力」、そして言うまでもなく「主人公の変身アイテム」といった役割を与えられ、「コレクター向けも兼ねたコレクション性の高い玩具商品」として現実世界でも大人気を博したのは記憶に新しい。「敵と同種の力を使って戦う」という『仮面ライダー』の偉大なるフォーマットを、作劇・玩具・その他あらゆる側面に綺麗に落とし込んだ大発明である。その大発明故か、キーアイテム商法が後年びっくりするくらいに拍車がかかる事にも繋がっていくのだが・・・。
よく「このシリーズで初心者にオススメなのはどれだろう」というトピックが用いられるが、「平成仮面ライダー」においては、私ならこの『ダブル』を挙げておきたい。
それほどに「最大公約数の面白さ」を獲得できるであろうポテンシャルを持ち合わせており、酷で陰鬱な要素もありながら大筋は陽性で観やすく、しっかりテンションを上げてくれる計算高さにも隙が無い。
また、『クウガ』を彷彿とさせるガイアメモリの使い分けにおける能力&相性の戦いであったり、『電王』のような家族をメインに据えた悲哀のドラマ、主人公2人が1人に変身するという『超人バロム・1』『ウルトラマンA』のような懐かしさを感じる設定など、従来からの特撮ファンをも熱中させる魅力に満ちていた。
作品のいたるところに散りばめられたオマージュやリスペクトの数々、『電王』で本格的にシリーズに取り入れられた感のある「アニメ的キャラクター造形」、三条氏が描く「少年漫画的プロット」に、塚田プロデューサーが得意とする「職業人ヒーロー」の面白さ、そして何より、純度の高い「バディ物」としての完成度。
あらゆる要素がこれでもかと「かっちり」噛み合った本作は、一種の「お手本」とも言える整然とされた物語として極まった。
TV放送終盤時に公開された劇場版『運命のガイアメモリ』の満足度の高さも相まって、後に『風都探偵』としてオリジナルスタッフによる漫画続編が叶うなど、作り手&ファンが持つ熱の保温性はやはりピカイチである。
続く「二期」二作目となるのが、『仮面ライダーオーズ』。偉大なる「欲望」と「友情」の物語である。
『キバ』に続く武部直美プロデューサー二度目の担当作品である本作は、メインライターに『龍騎』『電王』の小林靖子氏、メイン監督が『アギト』『ファイズ』の田崎竜太氏と、非常に豪華な布陣となっている。
「欲望」、つまりは「〇〇をしたい」「〇〇になりたい」という想いの複雑さをメインテーマに据えているのが最大の特徴で、しかし、「欲望」というのは得てして多くの作品で「悪」という捉え方をされることが多い。「誰もを守れる手が欲しい」「力を取り戻して完全復活をしたい」、そういった様々な欲望を単なる二元論で片づけるのではなく、「欲望を抱くことそれ自体が明日を創る」という肯定的なアンサーを用意したのが非常に興味深い。
言うまでもなく、2011年の東日本大震災の時に放送されていた作品であり、「何かを願うこと」の危うさや尊さを描き切るにはそれなりの覚悟が求められたのでは、という辺りは、想像に難くない。
終盤には人がメダルの塊になって溶け、最終回では暴走したメダルの器によってビルが倒壊し、都市部は崩壊寸前にまで追い込まれる。そして、主人公にとって大切な存在が、文字通りその命を賭して主人公を助ける。
「ただのメダルの塊」が「一見無欲な人間」と出会い、しかし、その「一見無欲な人間」は、実は誰よりも力を欲するという欲にまみれていて・・・。そういった縦軸を最後まで絶対にぶらすことなく描き切った、その幹の太さ、作り手のプライドと意地の真剣勝負。そんな、『ダブル』とはまた違った少しセンチな「熱」を感じる作品である。
また、ヒロインに「映司くんは神様じゃない!」と叫ばせたのも非常に印象的で、「時に自分を犠牲にしてでも誰かを助ける尊さ」というヒーローの概念に真正面から疑問を投げかけたのも、『オーズ』ならではだなあ、と感じている。
その概念の通り、映司は自身をグリードに貶めてでも「誰かを守れる力」を欲し、「自分を犠牲にしてでも」を意地でも地で行こうとする。そんな主人公に、「なんでもひとりでやろうとするな!」「他人を頼れ!」と叱咤してくれる仲間がいて、そして、文字通り「手」を繋いで互いを助け合う。
どこまでも届く手が無ければ、誰かと手と手を繋ぎ合って、その距離を伸ばせば良い。
それは、「震災の爪痕があまりにも大きかったあの頃に、我々がどのように生きていくべきか」という点について、“日曜朝8時” がやれる大きな提案だったのかもしれない。
さて、物語のテーマ以外の部分に視点を移そう。
本作は「欲望」の名の通り、コアメダルというアイテムを敵味方が入り乱れて奪い合うストーリーが描かれた。そして、同種のメダルが3枚そろって初めて「コンボ」という強い姿になることができる。これによって、それまでの平成ライダーのフォームチェンジにおける「上位互換」のイメージを廃し、「並列」という概念を持たせることができた。
つまりは、「プトティラ」はそのメダルの特性もあり強大な力を有するが、それは常に「最強の力」ではない。いくつかの強化形態のひとつである。だからこそ、最終回に「タジャドル」を満を持して登場させるロジックの確度が高く、納得感が生まれるのだ。
また、劇中通りの「メダル争奪戦」が我々の実生活で行われたのも記憶に新しい。
新しいメダルの発売日には早朝から玩具店に列ができ、ネットでも阿鼻叫喚が飛び交うという地獄絵図。仮面ライダーというコンテンツが確かなバブル期を迎えた瞬間であった。(かくいう自分は組み換え遊びが最高なOCCシリーズを買い漁っていました)
その他の展開でいくと、音楽展開におけるコンボチェンジを模した「常に3つの声質が同居する楽曲」「各楽曲のコード進行とBPMを共通にすることで組み換えが可能」等々のアプローチは非常に面白かった。今でもコンボソングはヘビロテである。
1000回記念回など、色々と思わないこともないが、総合点としてまた『ダブル』とは全く異なるベクトルで「高い」作品だったと感じている。・・・というより、「深い」と捉えた方が、本質には近いのかもしれない。
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まさに「過渡期」としか言い様のない、シリーズでもトップクラスに色が変化したこの時期。「平成仮面ライダー」というシリーズは、それまであえて取り入れなかった「シリーズを俯瞰する視点」を自らの作品内に導入し、時代に応じた新たな作劇を提案し続けた。
「愛を貫くこと」や「欲望を抱くこと」を常に肯定していくそのシリーズは、まさに休日の朝に体感するに相応しい。
『ディケイド』の項で「変化に変化がかかり一巡した」と書いたが、ここにまた大きなうねりとして通算三度目の「変化球」が投げ込まれていくことになる。
それは、更にこの後の作品群が持つ役割であるからして、次の『さようなら平成仮面ライダー【フォーゼ~ドライブ編】』でまた語ることにしたい。
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