こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。
前回に引き続き、「“平成”が終わる前にひたすらにシリーズへの自らの想いを語り尽くしてみよう」企画の第二弾。もし第一弾『さようなら平成仮面ライダー【クウガ~ファイズ編】シリーズ黎明期の作品群は日曜の朝に何を提示したのか?』を未読の方がいらっしゃいましたら、是非そちらからお読みください。
…ということで、本記事は『剣』から始まるいわゆる「第一期後期」の作品群にスポットを当てていく訳だが、『ファイズ』までを黎明期と称するなら、この辺りの作品は良く言えば成熟期 …もしくは動乱期とするのが適当だろうか。
というのも、『ファイズ』までの作品が繰り広げた“攻め”は、およそ同枠で可能な内容を一巡してしまった感もあり、個人的には『剣』以降の数作には「平成ライダーのフォロワー」としての側面を覚えることが多い。それは決して「二番煎じ」だとかの悪いニュアンスで言いたい訳ではなく、『クウガ』が拓き・『アギト』が確立し・『龍騎』が挑戦し・『ファイズ』が円熟させたその土壌において、「それを受けて何が出来るのか」「今後はどういった視点で作れば良いのか」といった何かしらの“アンサー”が盛り込まれているのかな、と。長く続くシリーズに付き物ともいえる“この時期”が、最も語るのが難しく、最も語るのが楽しかったりするのだ。
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そんな「平成ライダーのフォロワー」としての色を濃く持つのが、『仮面ライダー剣』だ。「仮面ライダーという職業」という切り口は『アギト』のG3ともまたニュアンスが異なり面白いものの、実はあまり「職業人」の側面が強くドラマに盛り込まれることはない。「職業人ドラマ」という切り口であれば、後年の『響鬼』『ドライブ』『エグゼイド』らの方がかなり意欲的とも言える。『剣』は、『クウガ』から『ファイズ』までが描いてきた「多数ライダーの群像劇」「敵怪人との種族を超えたドラマ」「戦いの意味そのものが持つミステリー要素」「カードを使った見栄えの面白い戦闘」といった要素で組み上げられ、実はシリーズにおける“新鮮味”という点では薄いと言わざるを得ない。
しかし、そんな『剣』が前後の作品群と絶対的に異なる点は、愚直なまでの「少年漫画性」を盛り込んでいることである。最初から人間が完成していた五代雄介や、マイナス(記憶喪失)を取り戻し周囲との関係性を築いていく津上翔一、その馬鹿正直さが信念と化した城戸真司に、迷いながらも自らの夢を模索する乾巧など、実はこれまでの同シリーズでは分かりやすい「成長型主人公」を採用してはこなかった(むしろあえて避けてきたのかもしれない)。『剣』の主人公・剣崎一真は、自らが戦う理由を常に自問自答し、迷いながらも確実に成長し、その果てに種族を超えた友情と後悔のない自己犠牲にまで辿り着く。
ある種の「ベタ」、もしくは「正直さ」、はたまた「分かりやすさ」とも言えるだろうか。前作『ファイズ』がいつまでもウジウジと悩み・すれ違っていたところを(褒めてます)、次作『剣』ではあっけらかんと打ち明けたり拳で殴り合いながら叫んだりする。そのカラッとしたどこか陽性とも言える空気感が持ち味であり、次第にそれが物語の謎と展開(バトルファイトの結末)と絡み合い未曾有のブーストをかけ出す第4クール目は、シリーズ屈指の盛り上がりだったと言えるだろう。
「今の世界は前回のバトルファイトでヒューマンアンデッドが勝利した結果である」という設定は、シリーズでもトップクラスの大風呂敷であり、そのスケールが大きければ大きいほど、それに抗おうとする剣崎たち4人のライダーの意思が光る。改めて通しで観たりすると、「睦月はいつまでウジウジ悩んでるんだ」とか「橘さん何度騙されてるんだ」とか思わなくはないのだけど、やはりどうしても“やみつき”になってしまう魅力を持っているのが本作である。人間とアンデッドの関係性を、友情・対立・恋愛・共闘のあらゆる側面で描き、そのどれもが前作『ファイズ』とはまた違ったアプローチだったのが、言い知れぬ魅力の正体だろうか。種族間の壁に何度もぶち当たるのが『ファイズ』とするならば、その壁を何度落ちても乗り越えようとよじ登るのが『剣』、とでも言おうか…。
また、『龍騎』でも試験的(?)に導入されていたキャストによる挿入歌が初めて定番化したのも本作である。後述の『響鬼』を除き、この手法は『カブト』に受け継がれ・『電王』で爆発的に花開き・『キバ』『ディケイド』以降も多くの作品で用いられていくこととなる。いわゆるアニメ業界における「キャラソン」の文法なのだが、「イケメンヒーローブーム」との相乗効果が見込まれたものだったと言えるだろう。ちなみに、橘役・天野浩成氏は、本作挿入歌におけるデビューを皮切りに次々とシングルやアルバムを発売していた。
話が逸れてしまうが、『剣』のバトルファイトについて語ると、やはり「ジョーカーがバトルファイトの勝者になる前にヒューマンアンデッドや嶋さんをリモートしておけば良かったのではないか」という疑問を避けては通れない。劇中でも、終盤にギャレンが試みた手法である。これについて私は、「リモートは完全なる“解放”ではない。故にあの流れでジョーカーが勝ち残ることは避けられなかった」という解釈を持っている。理由としては、エレファントアンデッドをはじめとする劇中でリモート解放されたアンデッドは完全にレンゲルに使役されていたので、「自らの種族の繁栄をかけて戦う」という本来のバトルファイトの参加動機に足りていないと判断されるのではないか、というものだ。操り人形が自分の種族の繁栄は願えないだろう。リモートは獏を模した絵柄でもあるし、あくまで“夢”であり真の存在ではないのではないか、と思う訳である。
…などと散々書き並べておいて今更だが、『剣』はどうしても、「クオリティが云々」や「作品の作り方が云々」といった考察じみた感想よりも、何故か「好き」という感情が先行してくる不思議な作品である。最終回のビターな終わり方も含めて、熾烈な1年間を堪能させてくれたなあ、という思い出も深い。
続く平成仮面ライダーシリーズ第6作となったのが、『仮面ライダー響鬼』である。そもそもの企画が「仮面ライダー」から出発していないとか、不振による明らかなテコ入れが行われ番組のカラーが変わったとか、そういった“大人の事情”トークに事欠かない作品だ。が、それを一々挙げても仕方がないので、そういった舞台裏ではなくあくまで作品が辿った足跡そのものについて語っていきたいと思う。
前作『剣』のくだりで「実はあまり職業人ドラマではなかった」と書いたが、その真逆とも言うべきド直球「職業人ドラマ」と言えるのが、この『響鬼』である。作中における「鬼」は、言うなれば「警察官」「消防士」等にそっくり読み替えてしまえるほどの職業倫理感を持った存在として描かれ、市井の人々を守って戦う背中とそれを追いかける少年というNHKドラマのような方針で固められている。例えば後年の『ドライブ』や『エグゼイド』も同じく職業人ドラマとしての色が濃いが、これらはあくまで『特捜戦隊デカレンジャー』のような「ヒーロー×特定職業」の方法論の上に成り立っている。『響鬼』は、「特定職業(=ヒーロー)」なのだ。近いようで、組み立て方は根っこから異なる。
また、完全なる2話前後編完結タイプのストーリーテリングを確立させたのも、本作と言えるだろう。と言いつつ、実は『クウガ』からずっと同シリーズは「2話前後編完結」のスタイルなのだが、『アギト』以降は割と「大まかなストーリーが2話前後編で終わったとしても“偶数回”の最後にもヒキを作って連続性を演出する」という手法が用いられることが多く、意識して観なければ「物語の切れ目」を感じることは難しかったように思える。『響鬼』はこれを完全にぶった切り、前後編をまとめて「週1で放送されている1話完結型の一般ドラマ」のように造り上げたのが面白い。もちろん、同作内にもイレギュラーな回はあったものの、この手法が更に『電王』で昇華され、後年のメインストリームになったことはもはや言うまでもないだろう。
作品のカラーが前期・後期で大きく変わったのは事実だが、後期が描いた内容は非常に丹念に前期を研究して出来たものだと感じる。というのも、例えば前期の明日夢はヒビキさんに憧れるも鬼や弟子になる決意までは届かず、善く言えば「成長期の特権とも言える悩みの時期」、悪く言えば「いつまでも白黒つけられずウジウジしている」という状態であったが、その現状に桐矢京介というキャラクターが力業で線引きしていく様は一周して爽快ですらあった。そのような、前期の同作が目指した「一から十までは語らない」という一般ドラマならではの“余白”の部分にガシガシと書き込みを加えていくような、そんな作り方がなされていたように思える。
“だからこそ”、後半になって作品のカラーは変わったものの、行き着く先というか、終着点は実は前期が目指したものと大きく逸れた訳ではなかったのでは、とも感じるのだ。「明日夢は鬼にはならないけれど、ヒビキさんの人生の弟子」というオチそのものは、この上なく序盤で描かれたふたりの関係性を尊重したものだったと言えるだろ。
響鬼のスーツに用いられたマジョーラは後年の『カブト』にも使用されるなど、その特異な外見と色合いはインパクトが非常に大きかった。どこが目かもよく分からない上に、何色かもパッと見では答えられない(光の当たり具合で変化するため)。もちろんヒーロー然としたストレートなカッコよさも持ち合わせてはいない。割と今でも本気で「よく“これ”でいったなぁ…」と感じるデザインだが、ある種の“隊服”としてのストイックさと神秘的な異形さを兼ね備えた、この上なく唯一無二のものであった。
『響鬼』は高寺プロデューサーが手掛けた作品だが、『クウガ』における病的なまでのこだわり・作り込み・練り込みは本作でも健在であった。前述のマジョーラも莫大な予算が注ぎ込まれたというし、屋久島でのロケもかなり意欲的な試みだ。それまでのシリーズでは劇場版でお馴染みだった「大型CGクリーチャー」が2週に1回出てくるのにも驚いたし、バイクに乗らないしベルトで変身しないし「変身」の発声も無いしで、何ならシリーズでもトップクラスに「仮面ライダーらしくない」仮面ライダーだ。しかし、その「らしくなさ」というのは俯瞰して見ると違う形で『クウガ』や『龍騎』も挑んできたことであり、まさに「不揃いという統一感」のスピリットを継承した一作だったとも言える。
「鬼になるということは、鬼にならないこと」。本編終盤で、ヒビキがあえて鬼に変身せずに戦う様を明日夢や京介の目に刻ませる名シーンがある。つまりは、「変身能力を身に着ける」ことと「人々を守ること(ヒーロー足り得ること)」はイコールではないし、それは裏を返せば、「力を有することで自らを見誤ってしまう恐怖」と常に隣り合わせという問いかけでもあったのかもしれない。この後者の側面、つまり「鬼になることのダークサイドの部分」をクローズアップしてみせたのが『ディケイド』の「響鬼の世界」であり、師匠殺しと音撃セッション(ナナシ惨事リベンジ合奏)には強く感動した記憶がある。
『クウガ』も『ファイズ』も『剣』も、平成ライダーは常に「何をもって“ヒーロー”を定義するのか」という番組上避けては通れない根元的な問いかけに、その時代ならではのアプローチを仕掛けてきた。『響鬼』はある意味、シリーズ中でも最も「人」を描いた作品でもあり、「直接的にヒーロー番組をやらないからこそ、逆説的なヒーロー物語になっていた」と評するのは、いささか過言だろうか。
そんな変化球シリーズ随一の変化球だった『響鬼』からバトンを受け取ったのが、『仮面ライダーカブト』である。『カブト』を一言で表現するならば、「節操の無さ」。これはあえての良い意味でも、時に悪い意味でもあるのだけど、「とにかく面白いエンターテインメントを創ろう」という大号令のもとに節操なく色んなものをブチ込んだ作品だったなあ、と感じる。『響鬼』の“事情”が大なり小なり反映されたものとは思うが、分かりやすい昆虫モチーフを思いっきり赤いボディで打ち出し、『アギト』のような群像劇・『龍騎』のようなライダーバトル・『ファイズ』のようなメカニカルでかっこいいギミックの数々で彩るという、言ってしまえば割と「ズルい」組み上げ方となっている。
…などと書くとどこか貶しているようにも取られかねないが、この「節操の無さ」はすこぶる「平成ライダー的」であるなあ、と思うのだ。前述した「平成ライダーのフォロワー」として、『カブト』は非常に面白い立ち位置にある。今になって振り返れば、次作『電王』がまるでアニメのようなキャラクター造形を盛り込んで大ヒットした前段階として、天道や神代といったある種“記号的”な人物造詣は、実はそれまでの同シリーズではあまり用いられてこなかった手法でもある。『クウガ』以降ひとつの面として存在していた「リアル調における“フィクションらしさ”の脱臭」というニュアンスの上に、非常にフィクショナルなキャラクターを配置することで発生する新種の化学反応。この絶妙な食い合わせの悪さが一転し、唯一無二の『カブト』の魅力としてエンジンをふかしていくのだ。
「ジャンプ漫画はとにかく主人公の魅力!」とでも言うような、他に類を見ない牽引力を備えた人物造詣。ストーリーそのものというより、キャラクターの存在感や行動原理で物語を転がしていく手法。「過去の平成ライダー」を受け取っていった結果、出来上がったものが「従来の平成ライダーとは少し異なるもの」に仕上がったという、その陣形のバランス感覚がそのままストーリーの組み立てにも反映されているような…。そんな『カブト』は常にガヤガヤと賑やかで、しかし決めてくれる時には供給過多くらいにキメッキメに決めてくれる。「結局アレは何だったんだ」とか「その勘違いや誤認はちょっと無理があるだろ」とか言いたいことが無くはないのだけど、やっぱり何度も観てしまう面白さに満ちている。
世代的にも『ビーファイターカブト』が大好きなので、ストレートな昆虫モチーフ+多彩なメタリックボディというゼクトライダーズの佇まいにはとっても「そそる」ものがある。また、「サナギマンからイナズマン」を踏襲した脱皮システムは、レベルアップという形で『エグゼイド』にも受け継がれているように感じる。単純に、変身が2度あると楽しいのだ。また、クロックアップは言うまでも無く『サイボーグ009』の加速装置であり、同作の「結晶時間」というストーリーが『ディケイド』「カブトの世界」に活かされたのも面白かった。ベルトといい、フィギュアといい、今もなお大人にも人気のあるディテールは、やはりストレートな訴求力を兼ね備えていたのだろう。ゼクトマイザーというものもあったような気がする。
前作『響鬼』を「人の物語」とするならば、『カブト』は「家族の物語」と言えるのかもしれない。主人公・天道総司は、祖母に叩き込まれた人生訓に沿って“2人”の妹を守る戦いを続けていく。劇場版とのベルト入手の整合性がグラついているのは本当に惜しいなあ… と思いつつ、その壮大な「愛」の物語は、まさにGODなSPEEDでLOVEなのだ。また、個人的にはシリーズでもトップクラスに耽美的な物語に感じている。
そして、この激動のシリーズ時期にひとつの「答え」らしきものを叩きこんだのが、シリーズ8作目となる『仮面ライダー電王』である。その大ヒットっぷりはもはや説明不要なほどで、『電王』を機に劇場版の年3回公開が安定していくという、平成ライダーの巨大コンテンツ化に大きく貢献した作品である。(下表は、2年前に書いた記事『仮面ライダー4号にみる“THE”シリーズ復権の兆し ~東映・白倉伸一郎の思惑を量る』からの引用)
電車に乗って旅をして鬼と亀と熊と竜と戯れながら時を超えて攻めて来る未来人種と戦いを繰り広げる… という、どう考えても意味不明なパズルの組み合わせなのだが、これが見事なまでのエンタメ作品にまとまってしまっているのは、『龍騎』を手掛けた白倉プロデューサー×小林靖子脚本の強力タッグの為せる技だったのかな、と。よくもまあ、こんな奇天烈かつ奇想天外なものを作ったな、と当時は驚きっ放しだった記憶がある。それでいて、「イマジンは特定の現代人の望みを曲解して叶える」という設定が「ゲストの問題を解決する主人公」という構図を生み出し、この作劇上の大発明がその後永らくシリーズに応用されていったことは、もはや言うまでもないだろう。
『アギト』以降常に3人以上の仮面ライダーをレギュラーとして登場させてきた本シリーズにおいて、『電王』はそれを2人に絞り、人格交代で分岐させるという手法を採用した。これにより、群像劇要素を薄め、代わりにゲストの悩みや人生に尺を割くことが出来る。これに限らず後年に受け継がれた要素は非常に多く、デンライナーという大型CG演出玩具や多種多様な音楽展開(PVまで製作)、映画で後日談を描く手法や陽性で笑って少し泣ける物語のテイストなど、『アギト』に準ずる「シリーズの祖」たる作品とも言える。
今でこそ『ディケイド』を境に「一期」「二期」という表現が用いられ、その作劇の変化や玩具販促の側面が語られることが多いが、実はそれほどハッキリと変化した訳ではない、と私は考えている。むしろグラデーションというか、『カブト』が取り入れた記号的なキャラ付けと演出による牽引力が、より精度の高い形で『電王』にて完成し、それが塚田プロデューサーの『デカレンジャー』手法により作られた『ダブル』に集約され… といった感じだろうか。それは、そもそもの『クウガ』や後の『響鬼』が紡いだ2話完結方式や、『龍騎』や『ファイズ』がヒットを飛ばしたプレイバリューの高いギミック&戦闘演出など、歴史とノウハウの積み重ねがあってこその“集約”であると言える。そのひとつの雛型とでも言うべきか、「集約への道筋」を太くしたのが、他でもない『電王』だったのではないだろうか。
モモタロスをはじめとするイマジンたちが実際のおとぎ話をモチーフにしていることは有名な話だが、それが関連するかしないかはともかく、『電王』本編も非常におとぎ話チックな物語を紡いでいた。同時に、小林脚本における丁寧な人物描写とロジカルな構成も相まって、『アギト』『ファイズ』の井上脚本とはまた別種の「ミステリーのヒキ」が魅力的であった。時を超えた先で必ずニアミスする桜井さんが、実は敵の目的そのものであった(=なのでニアミスすることは必然だった)というアンサーには大いに膝を打った記憶がある。また、それまでの劇場版では恒例だった「本編とのパラレル」という土壌を崩し、更にはクライマックスフォームの誕生背景は劇場版を観ていないと完全補完が出来ない、という構成までやってのけてしまった。意欲的ながら、がっちりと脇が締まっており、隙が無い。
そう、『電王』は本当に隙が無いのだ。今でこそ「あの頃はすごかった」といったどこか破天荒な印象に偏りがちだが、TVシリーズ本編の純粋なクオリティは相当なものである。前述のようなシナリオをはじめ、精神的にはすでにレベルMAXだった良太郎の人間的な成長物語としても、よく出来ている。『カブト』とはアプローチの異なる「家族の物語」でもあったし、『ドラえもん』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のようなタイムスリップ物の面白さも内包している。いわゆる「イマジンコント」の部分で好みが分かれる部分はあったと思うが、私は当時自分でも驚くくらいにハマっていた。CDも、当たり前のように全部買っていた記憶がある。
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そして、実は『電王』は『ディケイド』よりも先に世界を破壊して繋げていた訳で、それが当初OVで計画されながらも劇場公開にまで拡大した『劇場版 仮面ライダー電王&キバ クライマックス刑事』である。この映画の予告カットで電王とゼロノスとキバが並び立っていたのは物凄い衝撃であり、(一部のサービスビデオ等を除いて)これまで絶対に交わることの無かった平成ライダー作品の境界線が遂にぶち壊された瞬間だった。この『電王』が残した「平成ライダーも垣根を越えての共演OK」という実績が、後の『ディケイド』で盛大なお祭りへと発展するのは、更に1年以上後のことである…。
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『剣』『響鬼』『カブト』『電王』の4作は、それぞれが目指したものがそれ以前の作品以上にバラバラであり、しかし、その全ての試みがヒットしたかと問われれば、『ファイズ』以前の作品ほど結果を残せなかった時期に相当するのかもしれない。しかし確実に、何度も書いてきたように、この時期の試行錯誤はハッキリと後年に受け継がれているし、“ここ”を通過したからこそコンテンツとしての体力がついたような印象すらある。
この後「平成仮面ライダー」は、『ディケイド』を経ての玩具バブル時期に突入し、『クウガ』から根底にあった「挑戦の意思」が違うニュアンスを持ち始めるのだが、それはまた第三弾以降の記事で語っていきたい。
『キバ』から、『オーズ』もしくは『フォーゼ』辺りまで、【さようなら平成仮面ライダー】第三弾は近日更新予定。
◆続編