ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

コロナ禍が終わったことになっていく世の中で

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ゴールデンウィークに家族で遠出をした。何処に行っても人が多いのは分かり切っていたが、連休中に娘を何処にも連れて行かない訳にもいかず、うんと早起きして早朝から車を走らせた。地方民は、取りあえず大型ショッピングモールに行くのだ。

 

偶然にも、そこで大道芸のショーがあるという。これ幸い、娘は生まれてから一度も大道芸というものを観たことがない。私も、コロナ禍以降はこういった生(ナマ)のショーをほとんど観ていないので、家族でそろって観覧することにした。モール内のだだっ広い箇所に設けられた簡易なステージ。並べられたパイプ椅子。ステージ裏の四方を囲んだテント控室。当たり前の光景に、無性に懐かしさを覚える。

 

ショーが始まると、「いかにも!」な大道芸人が出てきた。この場合の「いかにも!」は「チャップリンに似ている!」を指す。もう若くないだろうに、積み上げた椅子に登ってポーズを取ったり、玉乗りのままお手玉をしたりと、プロの技を次々と披露する。見渡せば、パイプ椅子に座っていない客も大勢足を止めている。吹き抜けになっていたので、2階から観ている人もいる。大道芸人が故意か偶然か小さな失敗をすると、「あぁ~!」と同情の声があちこちから漏れる。声を掛けられ、助手として駆り出される観客席の子供。ひとりは逆に怖くなって母親にしがみつき、別の子が意気揚々とステージに上がる。大役を成し遂げ、拍手に包まれて得意げに席に戻り、父親と笑顔を交わす。投げたボールが散らばって観客席の後ろまで流れる。投げ返され、お茶目な所作でそれを受け取るチャップリン。物珍しさから立ち止まっていた人たちもいつかは熱中し、次第に場の空気が一体になり、息を飲んで見守ったクライマックスの大技が決まると大きな拍手が巻き起こる。娘も、大いに楽しんでいた。

 

なんだか久しぶりだった。いや、コロナ禍中も感染対策をしながら娘を色んなイベントに連れて行ったが、5類に移行するこのタイミングでのショー観覧は、なにかこう、少し思うところがあった。「ああ、こういうショーをナマで楽しんでいた『日常』に、これから戻っていくんだろうな」、と。

 

コロナ禍は、別に終わる訳ではない。むしろゴールデンウィークでの人混みを見るに、このタイミングで感染者は増える傾向にすらあるだろう。ただ、国が季節性インフルエンザと同じ分類だと定めたので、終わったことになっていくのだろう。実際に終わったか否か、なんてこととは無関係に。というより、そもそも感染症に終わりも何も無いだろう。しかし、ただただ、今回の5類移行を契機に世の中は「終わったこと」にしていくし、なっていくし、そう順応していくのだ。その流れは、良し悪しとは全く別のところで、止まらないものとして進行していく。その事実だけが、ただ、ある。

 

大道芸人の技術を見たければ、そりゃあ、YouTubeを観れば事足りるのかもしれない。家のテレビで、クーラーの効いた部屋でお菓子とジュースを食べながら大道芸を観ることは出来る。が、カメラが捉えない人間の視野が拾ってくる情報、空気感、臨場感、一体感といったものは、やはり、ナマの現場でないと味わえないのだろう。チャップリンにそれを改めて痛感させられた。娘は周囲の観客を(無意識にせよ)観察して観覧の所作を学ぶし、感動したら大きく拍手をするし、恥ずかしいかもしれないけど帰り際にステージに近寄ってチャップリンに手を振るという貴重な体験を得る。それは、「リモートで代用すればいい」なんて言葉じゃ絶対に済ませられないものだ。

 

Zoom等での会議や打ち合わせ、もっといえばリモートワークも同様である。もちろん絶対的な感染対策だし、効率的だ。細かく縛られない働き方には浪漫もある。その一方で、なんてことない時間に発生する同僚との世間話や、会議で発生する空気や顔色の交錯には、それはそれで絶対に意味がある。インターネットにはこれ幸いと相対する機会を必要以上にオミットしたがる人がいるが、それは単にコミュニケーションをサボる言い訳を探しているだけではないだろうか。その一方で、上司のくだらない話に付き合わされるのはやっぱりちょっと面倒だし、配られた資料を黙々と読み上げるだけのクソみたいな会議もやっぱりクソである。決して、ゼロヒャクで語れるテーマではない。

 

ただ、世の中は気付いてしまった。「別にこれわざわざ集まらなくてもいいんじゃね?」というものがあることに。そして逆に、「だからこそあえて集まるべきでは」というものも、あることに。そういう意味で、仕事を中心としたあらゆる行動やイベントの本質、これは何のために・誰のために・何処に目的を置いているのか、それを再考する大きな機会だった。

 

コロナ禍が「終わったこと」になっていく世の中で、今からゆるりと、「答え合わせ」が行われていくのだろう。「再考の結果、あなたはどう思います?」の答え合わせ。「国がもうコロナ禍は終わったと言っている!」も、「これってそもそも不要っぽかったので引き続き無しでいいんじゃないですか?」も、「5類移行でやっとアレが出来る~」も。ここ半年ほど、じわぁ……っとこういうターンに入っていた肌感があるが、この2023年5月8日を持って正式に、「答え合わせ」のフェイズに移行するのだろう。

 

そして、「答え」が違う者同士の小さな小さな戦争が、今日からまた改めて、無数に発生するのだろう。ひとつひとつ、話し合って、場合によっては戦って、そうして日常を送っていかねばならない。

 

全てが綺麗さっぱり「元通り」にはならない。なるはずがない。しかし、「戻らない」も起こらない。その流れもきっと起こらない。何を戻して、何を戻さず、変えていくのか。あらゆる本質を皆が一度は立ち止まって考えた、その後の世界に突入していく。

 

少なくともうちの会社は、コロナ禍を通してDX化が随分と進んだ。もちろん、無駄に終わったものもあった。しかし、「仕事ってのは顔を突き合わせてやるもんだ。それはそうと何もしてないのに今日もパソコンが壊れた」という上司を説得するのには良い機会だった。他方で、「これもあれもそれも、何もかもリモートやデジタルでいいじゃないですか。全てが無駄なんだ、無駄無駄無駄」というDIOの息子のような部下に、もうちょっと色んな視点を教える必要があると感じている。

 

こんな乱文はもう誰もが書いていると思うが、私自身も、この2023年5月8日当日の雑感として残しておきたい。ようこそ、「答え合わせの世界」へ。

 

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