ジゴワットレポート

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感想『テン・ゴーカイジャー』 10年ぶりの「ゴーカイジャーはなぜ面白かったのか」にしてやられる幸せ

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「やるのか!?」という驚きが、初報へのリアクションだった。「やったー!」や「うわあああ!」もあったが、何よりもまず、「やるのか!?」と。適度な緊張感と、ほんのりこわばる体。それ程までに、『海賊戦隊ゴーカイジャー』はやはり特別な作品なのだ。

 

もちろん、本編終了後も劇場版や後続番組で彼らは何度も復活してきた。とはいえ今回は、『ゴーカイジャー』の冠がつく正真正銘の正統続編なのだ。来年に公開を控える『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』も同様に、時が経ってからの続編は間違いなく「戦争」である。「ありがとう、もう感謝しかありません」と両手を重ねて祈りのポーズを取るのか。はたまた、「なぜ作ってしまったんだ・・・」と森羅万象を恨むのか。それは、エンドロールの最後の最後まで分からない。ファンの数だけ、解釈の数だけ、この「戦争」の勝敗は存在する。

 

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出典:https://twitter.com/gokaiger_10/status/1445660106247393286

 

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宇宙からやってきた、とにかくド派手なヤツら。死ぬまで忘れることはないだろう、2011年2月13日7時30分。監督は中澤祥次郎氏、脚本は荒川稔久氏。親の顔より見知った「いつもの土地」に集う、歴戦のスーパー戦隊たち。

 

「ブラックコンドルがいる!?」という不安や焦燥の感情は、圧倒的な興奮で塗り潰されていく。ゴセイジャーを先頭に彼らはポーズを取り、無数のザンギャック兵士を目がけて駆ける。背中に刀を回して攻撃を受け止めるシンケンレッド、掌から炎を発するギンガレッド、リュウレンジャーとゲキレッドの拳法コンビ、色鮮やかな影が舞うカクレンジャーとハリケンジャーのドリームチーム。そして、アカレンジャーの号令による特攻。どれだけ、録画を繰り返して観ただろうか。当時はまだ、サブスクなんて一般的ではなかった。中古のHDDプレイヤーに録った第1話を、寝ても覚めても何度も何度も、繰り返し鑑賞した。あの興奮を忘れることは、死ぬまでないだろう。

 

宇宙海賊現る

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  • 小澤亮太,山田裕貴,市道真央,清水一希,小池唯,池田純矢,田村ゆかり,関智一
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しかし『海賊戦隊ゴーカイジャー』が真に素晴らしいのは、その強烈な「レジェンド要素」に決して全身を預けなかった点にある。

 

当時、2006年の『ウルトラマンメビウス』、続く2009年の『仮面ライダーディケイド』と、過去作をピックアップしたアニバーサリー作品の波が国内3大ヒーロー特撮界に吹き荒れていた。『メビウス』はウルトラ兄弟の設定を巧みに引用しつつ未熟で経験の浅いウルトラマンが先輩戦士の背中に学ぶ物語を、『ディケイド』は自シリーズが積み上げてきた荒唐無稽さを多角的に再演するリ・イマジネーションという荒業で過去ライダーの商業コンテンツ化を、それぞれ異なるアプローチでシリーズへの賛歌を達成した。では、続く『ゴーカイジャー』にはどのようなアプローチがあったのか。

 

まずは、東映サイドのプロデューサーが宇都宮孝明氏であることから触れていきたい。それ以前には『侍戦隊シンケンジャー』、後年は『烈車戦隊トッキュウジャー』『動物戦隊ジュウオウジャー』『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』と、作風のイメージとして割と「カチっと」した作品を手掛けられる印象が強い。白倉伸一郎イズムの、いわゆる「ライブ感」な属性とは対極にあると言えるだろう。『ゴーカイジャー』においては、イエローやピンクがゴーカイチェンジした際に元が男性ヒーローだとわざわざ新造のスカートが着くといった、深いこだわりが見え隠れする。ビジュアル的には、むしろスカートが無い方が「正規」なのだ。しかしこれは、レジェンド本人ではなくあくまで「仮(借り)の姿」=ゴーカイチェンジ 。そういった設定への「カチっと」した(むしろやや生真面目な)姿勢が、宇都宮氏が手掛けられた作品の何よりの魅力だと感じている。

 

その最たるポイントとして、『ゴーカイジャー』がそれ単体として尋常でなく「魅力的な戦隊」である、ここを強く主張しておきたい。

 

マーベラスを始めとする5人の宇宙人と1人の地球人。その計6名のキャラクターが、とにかく魅力的なのだ。『ゴーカイジャー』の一年間が、なぜああも熱狂的に我々を魅了したか。それは、「ゴーカイチェンジでレジェンド戦隊がまた戦う」だけではなく、「レジェンドキャストが多数出演する」だけでもなく、「海賊戦隊ゴーカイジャーがそれ単体で十二分に “イカす” 戦隊だった」からなのだ。派手な出物の数々が迷彩となるが、『ゴーカイジャー』の芯は間違いなくここである。

 

それぞれのキャラクターとしての強度はもはや言うまでもない。全員が剣と銃を操る無双っぷりもさることながら、その武器を特定の相手と交換するという「お決まりのパターン」が何より印象深い。二丁拳銃で腕を雑に動かすゴーカイグリーンも、ワイヤーで縦横無尽に剣を操るゴーカイイエローも、メリハリのある動きの二刀流で敵を斬って捨てるゴーカイブルーも、円形に銃を乱射して鮮やかに撃破を繰り返すゴーカイピンクも、それはもしかしたらゴーカイチェンジの活躍以上に我々の脳裏に焼き付いているのである。加えての、ファイナルウェーブ。全員が横一列になって放つ例の必殺技は、毎回必ずと言っていいほどにゴーカイチェンジを解除し、律儀にゴーカイジャーの元の姿で放たれる。トドメを刺すのは、「スーパー戦隊」ではなく「ゴーカイジャー」なのだ。

 

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お隣同士である仮面ライダーとスーパー戦隊の、何が違うか。それは、作品ごとのアプローチや差異のバリエーションにある。

 

『クウガ』以降の仮面ライダーは原則として作品世界観がリセットされ、仮面ライダーの見た目も、戦い方も、操る武器も、動機も、作品ごとに多彩なオリジナリティが込められる。一方のスーパー戦隊には偉大なる型があるため、全身タイツで煌びやかなチームが、個人武器を操ってから合体技を放ち、巨大化した怪人をロボットで迎撃する。だからこそ、スーパー戦隊は「個性」が浮き彫りになりやすい。仮面ライダーは(相対的な)自由度が高い「個性そのもの」だが、スーパー戦隊は同じ土台の上に異なる「個性」が乗っかっているのだ。

 

だからこそ、『ゴーカイジャー』として都合34の戦隊を振り返った際に、それぞれの戦隊の「個性」をしっかりと拾い上げ、一覧にし、それらを「ゴーカイジャーの個性」で正面から迎え撃つ必要があった。宇都宮プロデューサーの私の言うところの「カチっと」した姿勢は、まさにここである。

 

34の偉大なるレジェンドに、必要以上に頭を下げることもなく、必要以上に対立することもない。34の個性に匹敵する、35番目の個性がそこには必要だった。だからこそ、キャラクターは印象深く濃い味付けで、チェンジする前の戦闘スタイルもしっかりパターンが作り込まれており、ファイナルウェーブは絶対に自分たちで放つ。「34のレジェンド戦隊を取り扱う」ということは、つまり、「35番目のレジェンドで在る」ことなのである。

 

・・・という、当ブログお馴染みの3,000字ほどの前置きを経て、『テン・ゴーカイジャー』本編の話である。多くの人に観ていただきたいのであえてネタバレを避けて書くが、まさにこの長ったらしい前置きを要約したかのような映画であった。つまるところ、「『ゴーカイジャー』って面白かったよな!」、である。

 

『ゴーカイジャー』という作品は、決して「レジェンド頼り」ではなかった。その決定的な事実、あるいは実績を、10年越しに痛感したのである。『ゴーカイジャー』はなぜあんなにも面白かったのか。なぜどうしようもなく魅力的だったのか。それは、「地球にお宝探しに来ただけの無法者たちが」「地球を守り続けてきた34の戦隊と触れ合うことで」「この星に守る勝ちを見い出し」「35番目のレジェンドとして自己を確立させる」という、絶対的な縦筋がシリーズ構成に流れていたからだ。これにより、34のレジェンド戦隊は(あえてこう書くが)無条件に神格化されるため、旧来のファンは、そりゃあもう嬉しくなってしまう。ウハウハである。それを軸とした「継承」の物語。う~ん、揺るぎない。垂涎の物語設定。

 

だからこそ、『テン・ゴーカイジャー』はそれを丁寧に再演していく。「地球に守る価値があるのか」という10年前のシリーズ構成が持っていた主題を、今度は「過去に守った側」が改めて自分らに問い直す構成に。レジェンドの要素を沢山登場させつつ、それらをあえて脇に置き、本筋はメイン6人で回す構成に。もはや「神格化される側」に属した現ゴーカイジャーの面々が、どんな登場をしたらかっこよくて、どんな活躍をしたらかっこよくて、どんな台詞を言えばかっこいいのか、それらを全部ちゃんと把握してくれているスタッフ陣が、ひとつひとつ丁寧に実現させていく。「継承」もしっかり盛り込む。いやぁ、まさかの配役とまさかの話運びですよ。(前日に『ゴーカイジャー』の序盤数話を観ておいて本当に良かった・・・。)

 

10年前、レジェンドというお祭り騒ぎの狂乱の中に、ゴーカイジャーという「芯」が確かにあったのだと。むしろ、レジェンドに匹敵するそれ単体で魅力的な「芯」があったからこそ、お祭りがあれほど楽しかったのだと。『テン・ゴーカイジャー』を咀嚼すればするほどに、10年前の『ゴーカイジャー』が持っていた作品のバランス、レジェンドとの距離の取り方や向き合い方に、改めて舌を巻くことになるのだ。中澤祥次郎監督と、荒川稔久氏の脚本。2011年2月13日に我々の度肝を抜いたこの座組みに、またしてもしてやられたのである。それはもう、見事に。

 

もちろん、「スーパー戦隊ダービーコロッセオ」という設定がそもそもどうなんだとか、そういうモヤる感覚も無くはない。アイツらとか、絶対レンジャーキー貸さないだろうと、想像も難くない。しかしこれらも、「過去に34の個性バラバラな戦隊が一致団結して敵を迎え撃った」「10年前にもレジェンド傀儡が沢山登場して敵になった」という、動かしようのない実績が巧妙に先回りしてくるのだ。「昔これがあったんだから」「あの時この展開を受け入れたんだから」。そういう、ギリギリの線を突くような設定。この辺りのクレバーな感覚も、「ゴーカイジャーらしさ」のひとつと言えるのかもしれない。

 

10年前の『ゴーカイジャー』にありがとう。2021年の『テン・ゴーカイジャー』にありがとう。あなたたちの後輩で、ちなみに45番目の個性なんですけど、その個性が変態的に強すぎてえらいことになってますよ・・・。