ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

出世しても「自分らしく」働けるのか、という課題を前に

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最近珍しくブログの更新頻度が落ちているのは、精神的にモヤモヤを抱えているからである。

 

というのも、春から仕事の環境が変化することになった。転職や大きな配置転換という訳ではなく、自分で言うのもなんだけど、要は「出世」だ。今いる部署の上役が動くことになったので、私がそこに繰り上がるとのこと。然るべき筋から内示が来てしまった。

 

そりゃあ、嬉しくないと言ったら嘘になる。めちゃくちゃ嘘だ。嬉しい。嬉しいんですよ。転職を数回繰り返して辿り着いたこの会社で、それなりに揉めたことも、反発を受けたこともあったけれど、「良い方向」に物事を変えてきた自負はある。ただ仕事を右から左に流すのではなく、「どうやったらもっと良くなるか」「なぜこれが行われているのか」を考えて、可能な限り改善してきた。新しいアイデアやアプローチも沢山持ち込んだ。上に呼ばれて説教された経験も一度や二度じゃないけれど、目に見えて数字の結果は出たし、それを評価してくれる人にも恵まれた。ネットでは忌み嫌われる表現だが、「やりがい」の四文字は、かなり濃く感じている。

 

だからこそ、その奮闘が評価されたのだろう。今よりもっと責任のある立場を任せてもらえることになった。会社でもそこそこのポストだ。それはとっても嬉しい。「評価される」というのは、こんなにも自分を満たしてくれることなのか、と。

 

しかし、今までやってきたバイトリーダーに毛が生えた程度の「暫定まとめ役」ではなく、正真正銘の「まとめ役」を仰せつかってしまった。その内示を受けた日から、寝つきが悪く、胸がざわつき、どうにも落ち着きがない。

 

もちろん、権限は増すだろう。自分だけの判断でより大きな仕事や大きな数字を動かすことが可能になる。そこにワクワクする自分もいる。そして、給料も上がるのだろう。今年は家も建つし、娘もスクスクと育ってきた。ローン返済や習い事など、出費は増える傾向だ。そういう意味でも、大変ありがたい。

 

とはいえ、とはいえ、なのだ。自分にその立場が務まるのか、そこへの大小様々な不安がどうにも拭えない。当たり前の話だが、職場に居る時間は膨大だ。嫁さんや娘より上司と同じ空気を吸う時間の方が長いし、家のソファとは比べ物にならない頻度で会社の椅子に腰を下ろす。だからこそ、「その環境」に抱くモヤモヤの大きさも果てしない。うーん、自分は春から「自分らしく」やっていけるだろうか。不安である。

 

そのモヤモヤが決して小さくないので、ブログを書こうとChromebookを開いてもどうにも手が止まってしまうし、映画を観ている最中も集中力に欠ける。ならいっそ、と、そのモヤモヤをこうしてブログに吐き出している始末である。

 

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最も不安なのは、「自分らしくやれるのか」、という部分だ。

 

これが良いか悪いかは分からないのだけど、私は割と「変化」を好む方だ。例えば映画のシリーズなら、長く続く以上、そこに何かしらの「変化」を見い出したい。言うなれば、「変化し続ける」という状態こそが至高だとも感じていて、「そうでない」ものに感情をひどく揺さぶられてしまう。仕事においてもこのマインドは生きていて、常に「最適な変化」を考えながら日々を過ごしている。よって、会議等で「昨年通り」「前回同様に」などという文言があまりに頻繁に飛び交うと、つい発言してしまうのだ。「何をもって『前回通り』なのですか?」、と。

 

例えば、そのプロジェクトの目的や意義を「最新の情報と状況」をもとに再設定して、それが結果的に「前回通り」なのであれば、全く不満はない。むしろ大変素晴らしいことに思える。しかし、「前回こうだったから今回もこうする」以上の視点が見られない指針には、非常に懐疑的だ。なぜ変化しないのか。なぜより良くしようとしないのか。そこにカロリーがかかることも、時間を要することも、よく分かる。しかし、サラリーを貰って仕事をするというのは、「そういうこと」じゃないはずだ。右から左にコピペで仕事をすることが美徳だと、本当にそう思っているのか。

 

もちろん、疎まれることもある。こういうことを言う奴は面倒臭いのだ。自分でもよく分かっている。だからこそ、発言こそするが、それを押し付けたり強要したりすることがないよう、極力気をつけているつもりである。色んな意見の人がいて、その交換が「落としどころ」を作る。会議とはそういうものだ。「思っているのに発言しない」ことも、また一種の悪である。

 

そうして、私は自分なりに「変化」を続けてきた。新しいスキームを考え、提案し、却下されれば再考し。「今より少しでも良くする」「最低限、良くしようと奮闘した結果の『現状維持』とする」。それらを自分の合言葉として、多くの業務に手を入れてきたつもりだ。前述のとおり数字の結果は出たし、顧客からも「良くなった」と声をかけられることが多くなった。そこへの自負や満足感は、多分にある。

 

話を戻すと、出世してしまうことへのモヤモヤである。「変化し続ける」ことを自分の社会人としてのアイデンティティにも感じていたので、これまでにない役職に就くにあたって、そのスタンスをどこまで維持できるのか。それが怖いのだ。

 

「くっそー!!なんでこんなことになっているんだ!!上は何も分かっちゃいないのかよ!!!俺が偉くなったら変えてやるんだ!!!」。そう、同僚との飲み会で冗談交じりに話していたが、そっくりそのまま本心である。もし自分がそれなりのポストに就けたら、今と同じように「変化し続けて」いこう、「良くして」いこう、と。

 

しかし、いざそのタイミングが訪れると、尻込みがすごい。ここでやる気に身を奮わせることができない自分自身に落胆しているのかもしれない。私は、あの椅子に座っても今まで通り「変化し続ける」ことができるのだろうか。すでに開始された水面下での引き継ぎ業務の中で、私が知らなかった状況や情報を沢山目にすることになった。上は、「何も分かっちゃいない」なんてことは無かったのだ。分かった上で、様々な都合やバランス、多くの人のモチベーションがそれなりに維持されるよう、捻り出して決断されたのが「今の環境」だったのだ。

 

私もそうなってしまうのか。「立場」が「変化」を封殺してしまうのだろうか。そうなると、いよいよ仕事人としてのアイデンティティが危うくなってくる。自分なりに懸命に築き上げてきたプライドが崩れそうな予感がして、怖いのだ。

 

思えば、下っ端は良かった。とにかく得られる情報が少ない。目の前の仕事を どんっ とテーブルに載せて、色んな角度から眺めればそれで済んでいた。しかしこれからは、その仕事に紐づいている多種多様な思惑や大人の都合が見えるようになるのだろう。眺めている最中に肩を叩かれ、「もう眺めるな」と、そう言われてしまう時もあるのだろう。今よりはるかに強力な攻撃を受けることもあるのだろう。これまで通り、物事にメスを入れることができるのか。

 

などと、答えのないことを、ここ最近ずっと悩んでいる。基本的に「悩み事に必要以上の時間を費やすのが嫌い」なタイプなのだけど、今回は久々に到来してしまった。常に「なるようになる」「なるように『する』しかない」と前向きにアクションを起こしてきたが、こうも立ち止まったのは数年ぶりである。

 

これからもこの働き方で良いのか。それが最善の選択なのか。「変化を貫く」べきか。「変化しないという変化」に傾くべきか。でも、こんな私のような人間をこのポストに選ぶということは、会社が求めるのはやはり前者なのだろうか。うーん。

 

答えが自分の中にしかないことは、よく分かっている。正式にその椅子に座る日まで、あと少し。柄にもなく「悩む」ことにする。

 

好きなようにしてください たった一つの「仕事」の原則

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