前々から何となく感じていたことをTwitterに投稿したら驚くほどRTされたので(まさか1万を超えるとは・・・)、補足というか、雑感というか、ひとつのテキストにまとめておきましょう、という記事。
物語の楽しみ方は、大枠で「キャラ派」と「作劇派」に分かれると感じていて、例えば「作劇派」寄りの人は「推しキャラが死んだ。辛い」みたいな感想が全然ピンとこなくて、「そのキャラの死が物語の構成として必要なものであるのならむしろ素晴らしいことである」くらいに考えたりする。自分は後者。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2019年10月28日
「作劇派」寄りの思考で受け取る人は、「登場人物にとって必要な死だったか」というより「物語のピースとして意味のある死だったか」を重要視するところがあって、すごく極端に言えば、キャラはあくまで物語の駒であって、そこに「生きている」という概念を最初から持ち込んでいないのではないか。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2019年10月28日
だから、物語の筋としてはキャラは死ぬのだけど、そもそも概念として「生きているキャラ」なんてものはいない、という感じ。全ては作り手が配置する駒であり、パズルのピース。そのパズルの組み方・崩し方が自分の好みがどうか、整然としているか否か、という点を楽しんでいる。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2019年10月28日
だから、「作劇派」としては、究極的には「推しキャラの死というイベントは起こり得ない」。だって、そもそも生きていないから、という話。一方「キャラ派」の人は、そのキャラを駒やピースではなくひとつ人格として捉えて、更には命と生を見い出すので、当然、死ねば死んでしまう。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2019年10月28日
「キャラ派」の人は「登場人物とそれを取り巻く関係性や世界観」というルートで物語を見ていて、「作劇派」の人は「世界観や設定の中で必要とされるキャラやその関係性」というルートを辿る。だから、そもそもここが違う人は同じ作品でも全く違う感想を抱くし、場合によっては断絶が起きてしまう。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2019年10月28日
もちろん、明確に白黒という話ではなく、傾向の話だけどね。あと、作品によって行ったり来たりする人もいるんじゃないかな。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) October 28, 2019
ツイートにも書いているけど、これはあくまで私が感じるところの傾向の話であって、誰もが必ずどちらかに属するとか、そういうことではない。リンゴを前にして「美味しそう」と感じるか「赤い」と感じるかはそれぞれである。いつもは「赤い」と思う人も、お腹が空いているタイミングだと「美味しそう」に傾くかもしれない。「青森産かな?」の人もいれば「バラ科リンゴ属の落葉高木樹!」の人もいるだろう。あくまで、そういう話。
先のツイートがRTされた先を追ってみると、様々なパターンが観測された。「7:3」や「4:6」といったハイブリッドタイプ。「5:5」の完全中庸(未だに「中庸」という単語を見ると『シャーマンキング』を思い出してしまう・・・)。作品によって立ち位置が変わる人もいれば、現在進行中(連載中・放送中)は「キャラ派」だけど一度終わると「作劇派」に移行するとか、そういったグラデーションを描く人もいる。視点は移り変わりますからね。
私の場合は、ツイートの通り割とゴリゴリの「作劇派」だと自覚していて、特定のキャラクターに思い入れて作品を咀嚼するタイプではない。なので、許されるなら何時間でも語れるほどに大好きな作品でも、「好きなキャラは?」と聞かれると途端に言葉に詰まってしまう。「いや・・・誰か特定のキャラという訳ではなく・・・ストーリーの流れや展開でどのキャラが活きたとかはあるけど・・・うーん・・・」という感じ。だから、「好きなシーンは?」だとまたベラベラと喋り出す。
「そもそも概念としてキャラクターが生きていない」については、リプライでいただいた表現が一番近くて、「生きる」より「活きる」に注視している、というニュアンス。
創作物における登場人物は、あくまで「登場人物」「作中人物」であって、それをひとつの生命として捉えたことはない。なので、そのキャラクターのプライベートや人となりは、物語に必要であれば摂取するし、それ以上はあまり追いかけたりも想像したりもしない。よく人気が出た漫画のメディアミックスで小説版が出るけれど、「本編開始前の過去編」「○話と○話の間の物語」とかは大好物で、「お馴染みのメンバーのプライベートを描いた番外編」「あのメンバーの意外な一面が!」には食指が動かない。
なので、例えばオタク同士の集まりやSNSで特定のキャラについて盛り上がったりしていると、羨ましいなあ、と感じる時もある。前述のように、「好きなキャラ」という枠組みを感じ辛いタイプなので、話に混ざれない・・・。Twitterではよく「推しが死んだ。辛い」という通夜あるいは葬式ムードが観測されるけれど、おそらく私は「推し」という概念がよく分かっていないのだ。
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具体例として挙げると、例えば『仮面ライダーエグゼイド』。
知らない人向けにざっくりと説明すると、かなり序盤の方で、ある登場人物が敵に殺されてしまうんですね。その人物は、最初は取っつき辛い印象もあったのだけど、段々と主人公との仲を深めてきていて。その関係性が出来上がってきた、最も脂の乗ったタイミングで、敵との激闘に敗れ、追って駆け付けた主人公の腕の中で消滅してしまう。ある真実を知ってしまったがために、敵に消された形。
その回が放送された日曜の朝、Twitterでは悲壮なお葬式ムードが漂っていて。該当キャラの死を嘆き、悲しむ人が多く、トレンドを席巻。しかし私はむしろ、「ある真実を知ってしまったがために殺された」「その秘密は主人公の過去と関係している」という展開があったため、言うなれば祝杯モードだったのです。考えれば考えるほどに、序盤から「このタイミングで命を散らすこと」が計算されていたことが見えてきて、そのパズルの美しさに感嘆する感じで。「やった!やりやがった!」。なので、同じような盛り上がりをしている界隈をのぞきながらツイートを連投してました。
しかし数ヶ月後、なんと、今度はそのキャラが蘇るという展開がやってきた。
今だからこそ言えるけれど、その展開を知った最初のタイミングでは、「え!それは嫌だ!」と感じたのをよく覚えている。彼は、物語のために至高のタイミングで散ったと感じていたので、そのまましっかり死んでいて欲しい、と。作品のテーマ的にも、どういう理屈で復活を果たすのだろうか。Twitterでは、私のように復活展開にやや懐疑的な人もいれば、そのキャラの帰還に喜ぶ人もいた。実際に劇中で復活した後も、私はギリギリまで、その展開を自分の中でどう噛み砕くか苦心したものである。(その後、最終回Bパートの展開を経てやっと最後まで飲み込めたのであった・・・)

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「物語のために死んだままでいて欲しかった」とは、何ともまあ傲慢な表現だが、そういう思いが頭をよぎってしまったのをよく覚えている。そして、今やネットを通してファンの盛り上がりが見事に可視化されるようになったが、「自分も混ざりたい盛り上がり方」と「あまりピンとこない盛り上がり方」の違いはどこにあるのだろう、と。その糸口のひとつとして、前述の「キャラ派」「作劇派」という視点の捉え方は、そう遠くないのかもしれない。
先の一連のツイート、その反応を追っていくと、「キャラが死んでファン界隈がお葬式ムードになったけどその空気に混ざれなかった自分」という人が結構いたんですね。そういう方々は、傾向として私と近い視点で物語を受け取っていたのではないでしょうか。先の『エグゼイド』の例でいくと、怒涛の展開に慄きはしたけれど、そのキャラの死そのものが辛いという感覚は自分の中であまり無かったので。
うーん、とはいえ、「派」にしちゃったからどこか対立めいたニュアンスが伴ってしまうのだろうか。そういう意図じゃないので、今更だけど、「型」とかの方が良かったかな。