ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

子供はファンタジーからは生まれない

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センシティブな話題でもあるので、以降の内容はあくまで私見であると、最初に記しておきます。

 

娘が生まれる前に、産婦人科が主催するパパママ教育に夫婦で参加した時のこと。講師として壇上に立った助産師さんは、その道のベテランらしく、実体験に基づいた様々な話をされた。ただ、会話の端々に「男は育児も家事もしない生き物」という前提が見え隠れしており、私はまだ父親にもなっていないのに、その決めつけのもとに叱られているような感覚を抱いてしまった。その点については、シンプルに不愉快だったのだが、最も心がざわついたのは講演の冒頭である。

 

助産師さんは「目を閉じてください」と語りかける。「想像してみてください。雲の上の世界を」。続けて、「雲の上には天使の国があり」「そこには沢山の天使が今か今かとその時を待っていて」「今まさに声に導かれて地上に舞い降り」「お母さんのお腹に宿ったのです」。あるいは、「天使が貴方たち夫婦を選んだのです」「選ばれた幸せを噛みしめて」といった諭すような言葉。

 

正直、目が点になったんですよね。なんでそんな唐突に、ファンタジーでスピリチュアルな話になるんだ、と。そして同時に、急速に心がざわつく、あの嫌な感じ。苛立ちを通り越して、おそらく哀しみにまで到達していた。

 

私にとっては、「子供を儲けること」をファンタジー風味に語られることが、とても嫌だったのである。結婚する前、もっと言うと、嫁さんと知り合うずっと前から、将来子供を持つことが私の夢であった。だからこそ、結婚する前にはそれをしっかり相手に伝え、「生き方」の共有が可能なことを相互理解し、その上で結婚に踏み切った経緯がある。もちろん、それだけが結婚の理由ではないのだけど。

 

しかし、結婚してすぐに子供を儲けることはしなかった。そこに生じる責任と求められる覚悟が、まだ十分とは思えなかったからだ。

 

子供ができたら、夫婦の生活は一変するだろう。何より、出産という「人が人を産む」行為には、嫁さんの命がかかっている。もし生まれてくる子供が何らかのハンディを持っていたら、我々夫婦はどういう向き合い方ができるだろうか。彼、あるいは彼女に、十二分な教育や環境を与えることができるのか。事故にあってその命を落としてしまうかもしれないし、自ら死を選ぶこともあるかもしれない。もちろん、その前の段階として、ゴールの見えない不妊治療にふたりで挑む可能性もある。

 

そういった、「子供を儲ける」ことの意味や意義、誤解を恐れずに言えば、そこにあるリスクについて、夫婦で何度も話し合った。必要な時間、必要なお金、必要な覚悟。「こういう時はどう考えるか」「こんなケースには親としてどうありたいか」。それを、折を見て夫婦で何度も討論し、互いの価値観の擦り合わせを行った。あるいは、子供を儲けることによる幸せや充足感、子孫を残すことの意義なども、夜な夜な語り合った。

 

やがて、結婚して数年。「それでも我々夫婦はやっぱり子供が欲しい」という結論に至った時、その責任の重さに鳥肌が立ったのをよく覚えている。「避妊をしない」という決断をした最初の機会では、ついその意味を考え込んでしまい、「する」ことができなかった。そうしてまたある程度の時が経ち、妊娠が分かり、夫婦で涙を流しながら喜んだのだ。

 

これの、どこに「天使の国」があるのか。誰が「声に導かれた」のか。我々夫婦がそこに至るまでにかけてきた時間と意識、何より覚悟のようなものを、何かのファンタジーとしてふんわりと語って欲しくはないのだ。時には育児における考え方の違いから喧嘩もして、それでも子供を儲けようと行為に至り、誕生した命である。声に導かれた訳でも、天使が我々夫婦を選んだ訳でもない。今共に暮らす娘は、私たちが希望する家族の形に向けて積み上げた結晶である。

 

そうして、嫁さんが文字通り命をかけてこの世に送り出した娘を、親としての責任を感じながら、適度な距離感で、見守って・導いてあげたいと、毎朝顔を合わせる度に実感するのだ。娘は天使の国から転生してきた訳じゃない。我々夫婦が、望んで・選んで、儲けた存在だ。

 

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沸点が低いと、そう言われるかもしれない。「そういう考え方もある」と、たしなめられるかもしれない。しかし私にはどうしても、この「天使の国」講話を自分の中で消化することができないのだ。娘が2歳になった、今になっても。うーん、このざわつくニュアンスを、どう説明すれば良いのだろう。

 

私見のフェイズを更に一段階進めてしまうが、私はいわゆるスピリチュアルな思考に非常に関心が薄い。子供が生まれることについても、魂が宿るとか、前世の記憶とか、そういった言説が全くピンとこないタイプの人間である。そういう背景もあってか、「天使の国」講話に過剰に反応してしまったのだろう。しかし、こればっかりは数十年をかけて積み上がってきたものだ。そう易々と変えられるものではない。

 

だからこそなのか、やはり私は、「子供を儲ける」という行為をファンタジーで語って欲しくはなかった。そんな耳触りの良い寓話とは一番遠いところに、私の想いはあったのだから。パパママ教室よりは後の話になるが、痛みと出血が伴う出産を経験した嫁さんを見て、これのどこにファンタジーを挟む余地があるのだろう、と。そこにある残酷なまでのリアルを、寓話を用いて中和しておきたいということなのだろうか。自分としてはむしろ、「ぼかされた」「軽視された」ようにも感じてしまうのだけど。

 

なんだかこう、もはや「信念」にも近い、自分の中で時間をかけて積み上げてきた何かを、いきなり予想だにしなかった方向から撫で回された感覚、というか・・・。

 

もちろん子供は、儲けようと思い立ち、それがすぐに結果に繋がるとは限らない。そういった、いわゆる「授かりもの」のニュアンスで「天使の国」講話があったのだろうということは、理屈として分かる。まさに天使との邂逅のように願いを込める人もいるのだろう。だからこそこの鬱屈した想いは、誰にぶつける訳でも投げかける訳でもなく、ネットの海に放流するしか道はないのだ。

 

最後に、全てを台無しにするオチとして、娘は可愛すぎて喩えるなら天使のようである。

 

天使 (新紀元文庫)

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