ジゴワットレポート

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ブログにおける「文脈」の濃度設定、あるいは検索やSNSに強いサイトが失っていくもの

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先日、もう何年もの付き合いになるオタク仲間と飲む機会があったのだが、その際に、「ブログの文脈を読む人は少なくなった」という話をした。

 

世代的に、テキストサイト最盛期やブログ黎明期を生きたため、そのサイトにおける文脈というものは、当たり前のように読んで楽しむものであった。文脈、つまりはコンテキストだ。「このサイトにはこういう個性があって」「あんな主張があって」「書き手の筆癖はこんな感じで」「更新される記事にはシリーズや連続性があって」・・・。ブックマークしたサイト群を巡回する日々の中で、サイトごとの文脈を自然と読み、それをベースに各記事を楽しむのが常であった。

 

そうなると、書き手サイドとしては、文脈をひとつの芸風と位置付けることができる。読者が汲み取ってくれているであろう文脈を上手く頼ることで、表現の幅を広げることができたのだ。「この人ならこの話題はこう斬ってくれるだろう」「あの人なら思わぬ角度からフォローを入れてくれるだろう」。読者は、そのサイトに並んだ文字の向こう側に、文脈という名の書き手の個性を見る。そして書き手自身も、その文脈を自ら利用することで、読者との距離感を作ってきた。

 

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しかし、今や大SNS時代。「ブックマークしたサイトを閲覧して回る」という文化が事実上消滅し、その更新を「巡回先で知る」のではなく、「SNS等で通知のように受け取る」ようになった。更には、純然たるインターネットの利用者の増加。スマホの加速度的な普及。今や「サイトの記事」というものは、「巡回先にあるもの」ではなく「SNSや検索で目にするもの」に移り変わってきた。

 

そうなると、以前よりそこにあった文脈という代物は、途端に意味を失っていく。毎日のように読みに行くサイト、ではなく、Twitterのリツイートで回ってきた単体の記事。あるいは、ググって出てきた単体の記事。そこには、前後の繋がりも、連続性や主張も、書き手の個性も見えない。そのページだけで繰り広げられる、「読み手」と「書き手」の仁義なきインファイト。

 

言わずもがな、その判定はシビアだ。文脈、つまりは書き手の個性が見えないまま記事を単体で目にすることになるので、それそのもののクオリティや相性だけが判定材料になってしまう。前後の記事や、そのサイトの人気記事を一通り閲覧すれば、「ああ、この人はこういう書き方をする人なのか」「なるほど、こういうタイプの人なのであればさっきの記事にも頷ける」ということもあるだろうが、このご時世、そこまでやってくれる人は稀だろう。よって、仮に文脈に依存しすぎた記事を書いてしまうと、初見さんにピックアップされて炎上したりもする。

 

もちろんこれは、読み手だけの話ではない。書き手サイドも、やれSEOだ、やれSNSで拡散だと、サイトの周知に躍起になる風潮があった。確かにそれはアクセス数という結果に繋がっていくが、同時に、古のサイト文化が培ってきた「サイトごとの文脈」を希薄にしてきたのである。検索に強くなればなるほど、SNSに強くなればなるほど、そのサイトが持つ文脈は細切れになっていく。

 

なので、書き手にとっては、文脈に頼らない記事構成が求められる時代になったのかもしれない。ちょっと面倒でも、回りくどくなっても、「私はこういう人間なのでこういう考え方をします。なので、こうです」と、「インスタント文脈」のようなものを各記事に盛り込んでいく。毎回、毎回、それをやる。もちろん、それをやらない方法もあるが、完全に取っ払ってしまうと個性のない薄味のサイトに寄ってしまい、かのテキストサイト文化との距離は離れていくばかりだ。

 

とはいえ、今度は読み手視点の話になるけれど、文脈って本当に面白いんですよ。私も毎日のように沢山のブログやサイトを読んで回るのが趣味なので、何度も通うことでジワジワとそのサイトの文脈を掴んでいくあの流れ、とにかく大好きで。最初はどこか居心地の悪かったバーや居酒屋に、通えば通うほど慣れていって、遂には店員さんの動きのパターンや会話のノリを実感して、気付いたら常連になっているような。その上で繰り広げられる会話ややり取りは、とにかく楽しい訳ですよ。

 

サイトやブログにおける、書き手と読み手の距離感も、昔はこれに近かったのかな、と。「常連」の概念だ。

 

もちろん、現在でも「常連」としてそのサイトを読む人は沢山いるのだけど、同時に、「ご新規」の割合が加速度的に増してきた。それは検索から、それはSNSから、「ご新規」が思わぬタイミングで来店する。しかしこれは、言うまでもなくお店側も「ご新規」向けにポスターを貼ったりしているので、当たり前の話なのだ。そして、「ご新規」さんはシェアという形でまた別の「ご新規」さんを呼び込む。この拡散性は、「常連」さんとは比較にならない。

 

よって、完全に「常連」さん向けにサイトを構築してしまうと、「ご新規」さんへのウケが悪い。知らない文脈や知らないノリが飛び交っている、つまりは「常連」だけで盛り上がってるようなお店は、足が遠のいてしまう。

 

しかし逆に、完全に「ご新規」さんに向けた記事ばかりを書いてしまうと、「常連」さんとしては面白くない。通いに通って培った文脈こそを味わいに来ているのに、それを取っ払った営業スタイルでは、つまらないと感じてしまうだろう。甲斐がない。

 

私は最近、ブログを運営しながらこの点を考えることが多い。大変欲張りな話だが、「常連」も「ご新規」も、そのどちらにもある程度満足してもらうには、どういう記事を書けば良いのか。これを、日々悩みながら試行錯誤しているのである。文脈を濃く活用すれば「常連」にウケるが、薄めれば「ご新規」が入りやすい。さあ、一体どのくらいの濃度に調整すれば、双方に満足感を提供できるのだろうか。

 

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なので、これは単に私の実力不足も大きいと思うが、「常連」の方は、私の記事を読んで「くどい」と感じることがあるだろう。あるいは、「その話は前にも聞いた」とか、「またこの話をしてるよ」とか、そういう思いが頭を過ぎることもあるだろう。言い訳がましくて恐縮なのだが、私自身もそう感じつつ、分かってあえてやっている時がある。

 

それは、「ご新規」さん向けに文脈をインスタント化して盛り込みたいからだ。サイト全体に流れている文脈をすくって煮詰めて固めて、小分けにして「その記事」にふりかける。「その記事」は、「常連」さんにとっては100回目の記事かもしれないが、「ご新規」さんには1回目かもしれないから。

 

ブログの文章を書き上げて、校正をする際に、毎回、ふたりの自分が登場するように心がけている。ひとりは、検索やSNSを通して初めてこのブログを訪れた自分。もうひとりは、嬉しいことにこのブログに以前より通ってくれている自分。文脈の濃度設定に関して、極端にどちらに寄りすぎていないか。濃すぎては「ご新規」さんは途中で帰ってしまうかもしれないし、薄すぎては「常連」さんに見限られてしまうかもしれない。慎重に、出したり引っ込めたり語り直したりしながら、その濃度を見極めるように気を付けている。

 

・・・などと大層なことを言っているが、それをしっかりやれているかというと、非常に怪しいものである。こうやってわざわざ表明してしまうことで、より一層気を配っていこう、という向きすらある。一定の「読みごたえ」を提供しつつ、「ご新規」さんが「あ、このブログの文脈、掘ってみたら面白そうだぞ」と思うような、そんな記事を書けたら良いなあ、と。

 

ちなみに、この記事は文脈濃いめでお送りしました。

 

仕事文脈 vol.14

仕事文脈 vol.14