ジゴワットレポート

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【総括】閉眼!『仮面ライダーゴースト』のメッセージ!

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最終回放送から約2ヶ月半遅れで、『仮面ライダーゴースト』TVシリーズ全話の視聴を終えた。当ブログを以前から読んでいただいている方はご承知と思うが、『ゴースト』は1クールあたりまで「ゴーストウォッチメン」と題して毎週必ずレビュー記事を投稿していて、年明け辺りからそれが止まってしまっていた。これは単に私が面倒臭がった末の怠慢なので弁解の余地は無く、加えて、「作品が面白くなかったからレビューを止めた」という訳ではないことは、表明しておきたい。と、このような疑い(?)をかけられてしまう程に、『ゴースト』という作品は大手を振って「良かった!」とは喜べない諸々を抱えていたのかな、と、改めて全話観てもその感覚が拭い切れない。

1年前、私が『仮面ライダードライブ』の総括記事を書いた際に、要は「惜しい」という感想を残した。グングンと上達していく役者陣、魅力的なキャラクター、公権力が存在するミステリー要素。『ドライブ』は沢山の“魅力的な点”があったが、主に販促事情を中心としたスケジュールの関係か、積み上げや消化が少々不足した展開になってしまったのかな、と。「やりたいことは分かるけど、前振りが足りていないから・唐突だから惜しい」。個人の感想として、自分の中でこのようにまとまっているのが『ドライブ』だ。

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では、果たして『ゴースト』はどのような作品だったのか。前述の「ゴーストウォッチメン」で当時書いていたように、私は本作の1クール目はかなり気に入っている。というのも、平成ライダーではある種画期的ともいえる“1話完結”を推し進めていたからである。『電王』が確立し、以降『ダブル』で定着した「ゲストキャラクターのお悩みに対応しつつ2話前後編でストーリーを構成する手法」は、途中の『鎧武』が連続ドラマを掲げた1年を除き、『ドライブ』まで脈々と受け継がれていた。『ゴースト』の1クール目は、ゲストのお悩み相談を1話の中で消化しながら毎週新しいアイコン(=新フォーム)を登場させるという驚異のハイペース作劇で、シリーズとしては非常に目新しいものがあった。

島本和彦氏を怪人デザインに起用した結果か、怪人もゴーストと同じく「素体にパーカーを被る」というデザインに統一されており(後のガンマイザーを除く)、そのために新造箇所がパーカー部分のみで済む=怪人を1話で1体倒すことが出来たのも、“1話完結”に大きく貢献していたことと思う。とはいえどうしても割を食うのはドラマパートで、タケルの「ヒーリングハグ」で心を繋げてお悩みが解決するという驚異の省エネテクニックが横行したことは、色んな意味で印象深い。そんな部分がありつつも、毎週必ず新しいフォームが出てくることで単純に“目が楽しい”し、偉人の属性が多様なおかげでアクションもバリエーションが豊かで、組み換えとガジェット合体で多彩な顔を持つガンガンセイバーに好感を持ちながら鑑賞していた。

 総じて、1クール目は「確かに描き足りない部分はあるものの、補って余るテンポの良さと画的な楽しさがあった」というのが私の感想だ。では、更に続けて、2クール目以降がどうなったかというと、「確かに描き足りない部分はあるものの」が次第に肥大化していき、「補って余るテンポの良さ」が失われていくという、まさかの展開に突入していった。加えて、前作『ドライブ』でも見られた「前振りや積み重ねの不足」がそこに上乗せされ、おそらく描きたかったであろう「眼魔世界の設定」や「タケルの主張」が全く伝わってこないという事態を引き起こしてしまった。

改めて振り返ってみると、『ゴースト』は「個性と繋がりの物語」だったと感じる。タケルは父から受け継いだ「英雄」という信条を念頭に、武蔵をはじめとする“強い個性”ともいえる「英雄」の力を借り、仲間との「繋がり」を常に意識しながら戦っていく。自身の蘇生が目的としてあるものの、そこをハングリーに追い求めていたのはむしろ周囲の方で、彼自身は常に第三者を思いやるというまさに仏のような存在であった。対する眼魔は「個を奪うことが平和」という概念で世界が構築されており、あちらの世界の住民は肉体と魂が分離され、肉体を一種の人質にすることで完全に統率された社会を完成させていた。「個と繋がり」を絶った末に平和を実現した眼魔が、その方法論で人間社会に攻めてきた、という図式である。

タケルは、幼馴染であったマコト兄ちゃんの心を(自分=自分の仲間と)繋ぎ、アランの心を自分を通し人間社会そのものと繋ぎ、諸悪の根源であった仙人=長官を自分に惚れさせ、最後にはアデルの心をその他大勢と繋げた。こうやって書き出すとまるで『フォーゼ』のように「みんなを友達にしていく」作劇でもあったのかな、という気もするが、それに対する眼魔軍団が「個と繋がりを奪った末の完全なる平和」を掲げて攻めてくるのは、構図としてはむしろ綺麗ですらある。タケルはムゲン魂を通して「人間の感情」を学び、そして英雄を通して「色んな人間の生き方」を知り、「繋げる」という手法の様々なアプローチや側面を会得していく …というストーリーだったと思うのだが、思うのだが、思うのだが……。

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全体構造を整理するとタケルと眼魔は綺麗に表裏一体なのだが、タケル自身が何かを学んだらしきことは度々描写されるも、それが本当に彼の“成長”として積み重なって観えたのかと問われれば、疑問符が浮かんでくる。どこまでいっても、何度やっても、ゲストキャラクターには「信じて!繋がり!希望を!可能性を!」という定型文を“無条件に”投げかけるばかりで、個々の人生に一見寄り添っているようで非常に利己的なカウンセリングにしか見えないパターンが頻出した。加えて、タケルもマコトもアランも、何の脈略もなく「命、燃やすぜ!」「俺の生きざま~」「心の叫びを~」と“叫ばされて”“必殺技を打たされる”ばかりで、そのキャラクターに生気が薄く、作劇の傀儡として動かされている感覚が常に拭えなかった。

結果、「個性をはぎ取らんとする敵」に「個性と繋がりで立ち向かう」はずの主役サイドが、タケルを筆頭にどうにも「個性に欠けたストーリーの駒」として見えてしまうという、作品の根幹に関わる致命的なバランス感覚の欠如が、こちらは“ゆっくりと確実に”積み上がってしまっていた。

父の信念を屈折した形で継ごうとするアデルと、ひたすらに繋がりと可能性を主張するタケル。その禅問答カウンセリングバトルは『ゴースト』らしさの塊でもあったが、つまりはその「描き方」が、単に下手だったな、と。タケルは常に第三者のことで頭を悩ませ、アデルは後半ずっと「父の掲げた理想の社会を~ガンマイザーとひとつに~タケルは特別で~」という結論が見えそうで一向に見えない悩みにずっと振り回されていた。そう、お話そのものが、「進んでいそうで進んでいない」のである。これも、前述の「タケルが一見成長していくストーリーに見えてそれが実感できない」と同じである。

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仙人がタケルに与えたゴーストドライバーとマコトが眼魔世界で与えられたゴーストドライバーが全くの同型であったことから、観ている側は自ずと仙人のマッチポンプ展開を警戒し、構える。そしてやがて登場したイージス長官は仙人と瓜二つなのだが、散々引っ張った末に“とっっってもあっさりと”同一人物だったことが判明する。長官がタケルの父と対立した過去を持っていたのは面白かったが、どうしようもなく種明かしが下手であった。

その他にも、知将・イゴールとアカリの科学者ライバル構造も、「面白くないギャグ描写であるビンタで目を覚ます」「ザコ眼魔からアカリを庇って、あろうことか一撃で絶命する」というまさかの落とし所であり、目が点になった。アカリ関連でいえば、ディープコネクト社の社長・ビルズとの偽りの友好関係が着々と築かれてはいたものの、そのゴールは「普通に台詞で説明される」というものであった。

上で「積み重ねが足りていない」という趣旨の感想を書いたが、『ゴースト』は『ゴースト』なりに積み重ねていたのだと思う。仙人と長官、デミアプロジェクトとビルズ、アカリとイゴール、マコトと偽マコト。しかし、ことごとくその“落とし所”が安易すぎたために、ただただ鑑賞しながら「え?」と声を漏らす作業を生んでしまった。果てには、タケルは実質のラスボスであるアデルが父の仇だと知ってもなお“繋ぐ”説得を試みるも、その中身は「実は父親はお前のことを想っていたぞー!」の事実後だしジャンケンであり、「1年間、様々な感情や生き方を学んできたタケル」の大舞台としてはあまりにも陳腐であった。

ふわふわと、話が進んでいるようで進まず、積み重ねは次第に自壊し、登場人物は深みを見せず台詞を言わされるだけの立ち回りで、主人公の成長が実感として伴わず、1クール目にあったスピード感も失われ、そうして『ゴースト』は、永久に解けないクロスワードパズルを解かされているような物語として終幕を迎えた。

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それでも、タケルが最終回で「周囲の皆にとっての英雄」になったのは、テーマの本懐だと感じた。マコトやアカリ、アランや御成、皆にとっての英雄は、武蔵でもエジソンでもなく“タケル”なのだ。そしてその認定が行われた背景には、タケルがどんな時でも他者を優先し、誰かと関わり、自己を犠牲にしてでも“人と人の心を繋ぐ”ことに奔走してきた経緯がある。同時に、英雄をはじめとする先人からの、“学び”だ。つまりこれは、メインターゲットである子ども達をはじめとした全ての視聴者が「誰かにとっての英雄になれる」というメッセージでもあるし、そのためには「他者を助け先人に学ぶ」ことが大事であると、非常に普遍的で真っ当な方法論を教えてくれている。

それがつまりムゲン魂が体現した「無限の可能性(=誰もが英雄になれる)」であり、そのためには、眼魔が否定した「個性」や「繋がり」を大切にしなければならない。各人が「個性」を発揮すれば眼魔世界のような“完全なる平和”は遠のくかもしれないが、それによって起こる人間関係のいざこざも含め、清濁全部ひっくるめても「人間には無限の可能性がある」。多様性を尊重する『ゴースト』の肝は、タケルが英雄に認定された時点で綺麗に帰結しているのだ。

だからこそ、惜しいのだ。『ドライブ』とはまた違う“惜しさ”だ。常に命の大切さを説く死者の「切なさ」が、「覚悟」が、「成長」が、観ている側の心にどうしても届かない。しかし、物語は「届いた“てい”」で進行していく。こうやって、次第に何故か物語と自分との距離が開いてしまう哀しさ。『仮面ライダーゴースト』は私にとって、キャッチコピー通り「切ない物語」であった。無論、「虚しい」というニュアンスでの「切なさ」だが。


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 「お前… 高校生だったのかよ…」という最終回特別篇での驚きの裏で、「まあ、ゴーストだし仕方ないな…」と思ってしまった自分が切ない。『ゴースト』は今後も『平成ジェネレーションズ』やOV『仮面ライダースペクター』と続いていくが、タケルの成長と多様性の尊重、個の尊さと繋がりが持つ意味、この辺りの「伝えたかったであろう部分」が描かれることを、心から願ってやまない。
 
※当記事は引っ越し前のブログに掲載した内容を転載したものです。(初稿:2016/12/9)