ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

人生初のプリキュア、『トロピカル~ジュ!プリキュア』の「日常」に泣かされる

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娘が幼稚園に通い始めプリキュアに興味を持ち始めたのが、約半年前のこと。そして、ドンピシャのタイミングで放送が開始されるシリーズ最新作、『トロピカル~ジュ!プリキュア』。「娘・・・ やるんだな!? 今・・・!ここで!」「ああ!勝負は今!ここで決める!」「俺のすべきことは、自分のした行いや選択に対し・・・ 父親として最後まで責任(『メイクアップ変身!トロピカルパクト スペシャルセット』の購入)を果たすことだ」。

 

数ヶ月後、そこには毎週日曜8時30分、テレビの前に並ぶ親子の姿があった・・・。

 

www.youtube.com

 

OPが流れると、ソファから急いで降り、跳ねてからリビングを走り出す娘。言うまでもなくOP映像におけるキャラクター達の真似であり、この動作が毎週の恒例となっている。この家はリビングを広く作ったから、有効活用(有効活用?)してくれてお父さんは嬉しいよ。序盤の頃はトロピカルパクトを取り出すタイミングに慣れなくて、変身が終わる頃に起動させてたよね。今では、ヤラネーダ出現のタイミングで「お父さん、やばい!」と言いながらパクトを準備してるよね。これが、そう、これが "成長" ・・・!

 

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シリーズ1作目『ふたりはプリキュア』をなんとなく観ていたくらいで、詳しい中身は正直ほとんど覚えていない。私にとってのプリキュアシリーズは、そういうステータスであった。というか、女児向けアニメをしっかり観たこともない・・・。本当にこの方面については疎いので、『トロピカル~ジュ!プリキュア』は人生初のプリキュア&人生初の女児アニメである。

 

率直に、毎週とても面白く、見事にハマっている。というか、こういった低年齢層向けに作られたアニメーションを観ること自体が久々で(最近はホビーアニメ系統もあまり観れておらず、非常に遺憾である。気になるのは沢山あるのに・・・)、なんというか、自分の「感じ方」が少し変わってきているな、という実感を得ている。それは歳のせいか、娘が生まれたことによる心境の変化なのかは分からない。要は、「些細なシーンにえらく感動してしまう」ということだ。キャラクターが試練を乗り越えるとか、誰それが劇的な死を迎えるとか、衝撃的に勝利を勝ち取るとか、そういった攻撃力の高いシーンではない。あくまでさらっと、日常生活の中で、キャラクターがほんの少し成長したり、感じるところがあったり、前進したりする。そういった描写にえらく感動を覚えてしまい、不意に涙が込み上げる。

 

『トロピカル~ジュ!プリキュア』は、そういったキャラクターの「ほんの少しの変化」を描くことに、非常に長けている。とにかく「丁寧」という単語に尽きるのではないだろうか。まなつという作品テーマの擬人化のようなキャラクターを中心に、自身の「好き」に迷う者や、仲間の大切さに疑心を持ってしまった者が、少しずつ確実に変わっていく。みのりがメイクをして文化祭の中継に出演するシーンが、どうしてあんなにも感動的なのか。さんごがランウェイを歩くシーンで、どうして感情が込み上げてしまうのか。それは、同作が個々のキャラクターの「変化」や「機微」について、半年以上をかけてとにかく丁寧な描写を欠かさなかったからである。縦軸に反映されない単発の回であっても、それを受け、キャラクターが少しだけ成長する。そんな構造を、何度も何度も、積み重ねてきたのだ。

 

どうしても特撮ヒーロー作品を準拠に考えてしまうのだが、構造としては、『獣電戦隊キョウリュウジャー』や『仮面ライダーフォーゼ』辺りが近いのではないだろうか。つまるところ、「番組テーマの擬人化とも言える究極のパワーアイコンが物語の中央に居る」パターン。夏海まなつはそれほどまでに完成されたキャラクターで、初回からすっかりレベル100なのだ。反面、他のキャラクターの「変化」を促す立場に置かれているため、彼女自身には一切と言っていいほど「変化」が訪れない。レベル100の夏海まなつは、どの回も基本的にはレベル100で居続ける。彼女のキャラクターとしての課題や試練、あるいは乗り越えたい過去のようなものは設定されず、ひらすらに「トロピカル~ジュ!プリキュア」という概念を演じてみせる。そんな、とても割り切ったバランス。言うなればジューサーの「刃」の部分で、他を回転させて変えることはあっても、自身は決して折れずへこたれず、といったところか。

 

そういった意味では、最も大きく変化したのはローラだろう。高飛車で自信家、常にハイテンションなマイペースを崩さない自称・次期女王。そんな彼女が、「女王になる」以外の人生(人魚生?)の目的を見つけ、そこに向かって決心する。「まなつ達と一緒に過ごしたい」という、非常にミクロな願い。作中でも引用された『人魚姫』は選択と代償のお話だが、ローラにそんな事は関係なかったのである。プリキュアになるのも覚悟の上だ・・・。『次期女王になる』『人間として仲間と生きる』、「両方」やらなくっちゃならないってのが「キュアラメール」のつらいところだな。覚悟はいいか? 私はできてる。

 

febri.jp

 

こちらのインタビューでも触れられているように、特に序盤のローラは一歩間違えれば「嫌な女の子」。しかしそんな側面を一切感じさせなかったのは、シナリオは勿論だが、演じた日高里菜さんの声の力が大きいだろう。

 

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また、これは「トロプリの特性」なのか「プリキュアの特性」なのか判断が出来ないのだが、敵がここまで「お話と無関係」なのがすごく面白いな、と。前述のようにどうしてもヒーロー番組と比較して観てしまうのだが、その多くの敵怪人は何らかの能力や行動によって、メインのキャラクターに積極的に関係してくる。敵怪人の能力がお話の出発点になっていたり、攻略そのものが成長を促したり、といったふうに。しかし『トロピカル~ジュ!プリキュア』では、ヤラネーダの出現は物語上の「邪魔もの」「アクシデント」の域を出ず、それとは本来全く関係のない学校行事や部活の様子が淡々と進行していく。ヤラネーダの行動は、あくまでまなつ達の「日常ドラマの障害」として機能し、それはぶっちゃけヤラネーダでなくても良いのでは、といった塩梅だ。(多くがキャラクターの行動を制限するギミックなので、例えばそれが一般的な災害イベント等でも成立してしまう)

 

むしろ、そういった構成だからこそ、彼女たちの「日常の変化」をしっかり積み上げていけるのかもしれない。ヤラネーダや敵陣営とは全く関係のない所で展開されたドラマ、それを受けてのキャラクターの変化や成長について、戦闘シーンではすでに「完了」した精神性がお披露目されている場合がほとんどである。つまるところ、ここを突き詰めていくと、まなつ達がプリキュアをやる作劇上の必然性というのは、実はあまり強くないのである。「プリキュアに変身する」よりも、「ヤラネーダを倒す」よりも、まなつ達が「なんでもない日常」を通して少しずつ変わっていく事の方を、物語の本質に設定している。というより、「プリキュアに変身する」と「ヤラネーダを倒す」を「なんでもない日常」が吸収してしまっている、といった格好だろうか。良い意味で「別にプリキュアじゃなくてもいい」と言ってしまえるくらい、潔いバランスだ。

 

前述のまなつのキャラクター性も含め、そういった「割り切り」が作品に多く込められており、同時にしっかりと機能している。割り切っただけはある。トロピカる部は日常を平常運転させ、キャラクターがゆっくりと成長あるいは変化し、それとは全く無関係にヤラネーダが出現しプリキュアで迎撃し、また日常が続いていく。そんな、一見すれば代り映えのない「日常」。学校に行き、友達と過ごし、行事や部活をするという「日常」。しかし、実のところ「日常」こそが最も変化に富んでいるのだ。メイクで心を滾らせ、勇気が湧いてくるように、そこで生きる個々人の「捉え方」ひとつで世界は変わっていく。気に入った服を着て街に出たら、ちょっとだけテンションが上がっているように。髪の分け目を少し変えてみるだけで、ちょっとだけウキウキするように。「メイク」という「変化」を広義に解釈しながら、「なんでもない日常」こそを描いていく。

 

プリキュアとしての試練が待ち受けている訳でも、敵幹部を倒す訳でも、仲間うちで衝突する展開がある訳でも、何か社会派なメッセージを担っている訳でもない。ただただ、淡々と、賑やかに、ゆっくりと、彼女たちの「日常」が着実に流れていく。コロナ禍という時勢も相まって、花火大会や海水浴、文化祭や修学旅行といった「日常」描写がすこぶる幸福なものに感じられるのも、作品の狙いだろうか。

 

もうすぐ終盤の展開が見えてくる頃だろうが、どうか彼女たちには、ギリギリまで「日常」の中で少しずつ「変化」する尊さに、気付き続けていて欲しい。そして娘よ、サンタさんからは『パワーアップ変身!トロピカルハートドレッサー』を持参すると連絡を貰っているので、もう少しだけ待っていような。まずは今週末、映画が楽しみだ。