ジゴワットレポート

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総括感想『機界戦隊ゼンカイジャー』 キャラクターの強度が凸凹を謳う、スーパー戦隊の根っこ

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しばしば、「キャラクターの強度」という視点で作品を観ることがある。

 

これは自分の中で、「キャラクターの魅力が大きい」と近いようで少し異なるもの。つまり、キャラクターという駒があまりに強力なため、それ自体が戦略を吹き飛ばして盤面を支配してしまうような……。あるいは、どんな相手にも駒の強さそれ自体でゴリ押しできるというか。

 

このボードゲームのような例えでいくなら、プレイヤーがプロデューサー・監督・脚本家といった制作陣、そこから放たれる戦略が物語、そして駒がキャラクターであろう。よって、本来キャラクターというものは、物語の「従者」である。キャラクターは対戦相手(視聴者)の方を向き、物語が指示する速度や角度で進行していく。しかし時に、駒それ自体があまりに強力なため戦略を喰ってしまう場合がある。「とにかくこの駒を進ませておけば勝てる!」状態。これが、私の言うところの「キャラクターの強度」だ。

 

結論から述べると、『機界戦隊ゼンカイジャー』はまさにそんな作品だったのではないだろうか。

 

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『ゼンカイジャー』は、どのような位置付けにあったのか。

 

それは明白である。「スーパー戦隊45作品記念」であり、同時に「シリーズの未来への布石」。現在は東映株式会社の取締役を務める白倉伸一郎プロデューサーは、同作放送開始時の雑誌のインタビューで下記のように語っている。

 

そもそもスーパー戦隊は44作品続いてきましたけど、かなり曲がり角に来ていると感じていたんです。仮面ライダーは裾野が広がって活気づいているんだけど、戦隊は人気こそあれど広がりがないな、と。(中略)にも関わらず、私はライダーばかりに手を出していて、戦隊には燃料を投下できていない状況が続いてしまった。そういった中、『仮面ライダージオウ』で平成仮面ライダーというムーブメントに一区切りを付けられたので、反省の意味を込めて作品内容だけではなく、制作体制や周辺環境も含めて戦隊を強化していこうということです。仮面ライダーでは『仮面ライダーディケイド』辺りから手を入れて、その後10年以上保てたので、戦隊でも『ゼンカイジャー』の1年に留まらず、次のアニバーサリーに向けた種まきを直接していこうと思い、私がプロデューサーを務めることになったという流れですね。

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「守・破・離」という思想、あるいは修行のプロセスがある。

 

まずは基本の型を守り、それを自らの工夫で破った後に、オリジナルに向けて離れていく。息の長いコンテンツほど、必ずと言っていいほどこのプロセスを辿る運命にある。スーパー戦隊シリーズも他ではなく、『ゼンカイジャー』以前の44作の歴史で細かな「守・破・離」を幾度となく繰り返してきた。「新しい」は、数年後に「王道」となり、後年は「よくあるパターン」に。そういったサイクルの中で、『ゼンカイジャー』は今回、「破」を担当したのだろう。

 

注目したいのは、前述のインタビューの「裾野を広げる」発言である。スクラップ・アンド・ビルド。「破」壊の次にこそ再生と拡大がある。この方法論は、それこそ白倉プロデューサーご本人が2009年に『仮面ライダーディケイド』で行ったものだ。平成ライダーというそれぞれ独立していた世界観を接続し、一旦めちゃくちゃにしてしまうことで、コンテンツそのもののパッケージ化やブランド化を押し進めた。氏の焼畑農業のような企画性は常に賛否両論だが、その剛腕ぶりと実にドライな視点に、私のようなオタクは長らく満面の笑みで振り回されてきた。

 

 

では『ゼンカイジャー』は、何を破壊し何を繋げたのか。

 

まずは一目瞭然。レギュラーメンバーの多くが人間でない、という点だ。主演の駒木根葵汰氏のみが俳優キャストで、それ以外はスーツアクター+声優という構成。『宇宙戦隊キュウレンジャー』をはじめ同様のチャレンジは過去にも行われてきたが、ここまで思い切ったものは初めてである。スーパー戦隊シリーズには「フレッシュなキャスト同士のアンサンブル」という独自の旨味があるが、そこをばっさり切り捨てた形だ。

 

他にも、「メインのヒーローが赤色ではない」に始まり、「レギュラーメンバーが機械種族なのでそっくりそのまま同一の存在として巨大ロボ化する」「最終合体ロボがある程度の登場頻度があるにも関わらず常にフルCGで描かれる」といった、一見すると斬新なポイントが散見される。

 

しかし、それらは決して無から生み出されたものではない。同シリーズが過去にチャレンジした要素を、巧みに引用・応用しながら、そのバランスを変えてきている構造である。この辺りも、これまた白倉プロデューサーが手掛けた『仮面ライダー電王』に色濃かったバランスだ。

 

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「斬新な見た目の家を、堅実という名の基礎の上に建てる」。こういった切り口において、『ゼンカイジャー』と『電王』は実に酷似していると言える。『電王』の作劇フォーマットが平成仮面ライダーシリーズに多大な影響を与えたのはもはや言うまでもないが、『ゼンカイジャー』もそのような功績を残せたのかもしれない。つまり、「スーパー戦隊は人間キャストでなくても成立する」という、驚愕の実例である。

そして、商業的な視点。白倉プロデューサーは以前より「(仮面ライダーの変身玩具とは異なり)スーパー戦隊はロボット玩具を売る番組だ」と方々で語っており、『ゼンカイジャー』も、そのマインドに沿って作られている。ここが、「レギュラーメンバーが機械種族なのでそっくりそのまま同一の存在として巨大ロボ化する」、つまるところ「巨大ロボットをそっくりそのままキャラクター化してしまう」という手法だ。愛すべきジュランが、愛すべきガオーンが、そっくりそのまま巨大化して変形して合体する。だからロボットにも愛着が沸く。そういった方程式を描こうとした。

 

あるいは、物語の作り方。スーパー戦隊は、なぜチームなのか。どうして個性豊かな面々が共に戦うのか。なにゆえ敵が1体なのにこちらは5人で受けて立つのか。そういったシリーズの大原則を根っこから見つめ直していく。今年のモチーフは、「車」でも「動物」でも「恐竜」でも「忍者」でもない。アニバーサリーとしての「スーパー戦隊」なのだ。だからこそ、そのコンテンツの表面要素をセンタイギアというギミックで映すだけに終わらず、戦隊はどうして戦隊なのか、いわゆる「戦隊性」の概念を掴まえようとした。

 

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……などなど、『ゼンカイジャー』の特性をバラバラに書き並べてきたが、これらは本作最大の特徴ひとつに収斂されていく。それこそが、「キャラクターの強度」だ。

 

我らが主役・五色田介人。底抜けの明るさと、相反するクレバーな一面。無限にも思える博愛主義とイマドキの価値観を体現する男。そこに、4人のキカイノイドが加わる。イケオジとして安定感抜群のジュラン。アクロバティックに場を回すガオーン。こじらせオタ女子な造形が見事なマジーヌ。文系の頭脳を体育会系に振り回すブルーン。そしてダメ押し気味に、少女漫画の「オレサマ変わり者イケメン」を戦隊向けにチューニングしたゾックス・ゴールドツイカー、作品のシリアスを一手に引き受ける曇り顔の貴公子・ステイシーと、強力な面々が参戦する。

 

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ぶっちゃけ、ここで全てが確定している。『ゼンカイジャー』の勝利である。キャラクターの造形があまりに見事で、完成されすぎているのだ。

 

全員が真面目に事を運ぶことができ、全員がおかしくなることもできる。全員がボケを担当できるし、全員がツッコミにも回れる。「こいつなら、こんな場面で、きっとこう言ってくれるだろう」。そんな視聴者のふわっとしたストライクゾーンに、毎週のように ドスンッ と剛速球ストレートが飛んでくる。キャラクターを語る上でしばしば「解釈」という単語が用いられるが、これ程までに視聴者と制作陣のそれが寸分の狂いもなく合致した例もあまり無いだろう。

 

それもこれも、特別編や番外編を除く本編脚本を全て香村純子女史がひとりで手掛けている、この功績が大きい。香村女史のキャラクター造形は『動物戦隊ジュウオウジャー』『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』等でもお馴染みだが、非常に丁寧で複雑だ。

 

あるキャラクターが「俺はAと思う」と言ったとして、(本当はBだと思っている)(相手のことを思ってあえてAと言っている)(言われた相手もそれを察している)(その上で自分もAだと返したりする)(言った方も更に全て分かっていて今一度Aだと繰り返す)(互いの視線が混ざる)(その水面下での心情描写の往復が視聴者にも正確に伝わる)……といった、形容しがたい深度のあるパズルが展開されていく。だからこそ、香村女史がメインライターを務める作品でサブの脚本家さんが参加すると、微妙にキャラクター解釈にズレが発生することが少なくない。「そういうこと言いそうだけどそういうこと言わない」。例えるなら、説明書に起こしにくいタイプの造形なのだろう。

 

だからこそ、『ゼンカイジャー』にはズレが無かった。説明書に起こせない類の、深みのある、それでいてヘンテコなキャラクター達が、正解の「解釈」を一年間全うした。これが非常に大きいのだ。

 

そして、ここに本作の構造的な狙いがある。「戦隊はどうして戦隊なのか」。それは、単体ではどこか欠落した多様で凸凹な面々が、互いを補完する目的でチームを組むから。集団で敵と戦うその前段に、チームを組むそれ自体が目的として存在しているから。ここに発生するキャラクター同士の掛け合いを重視するならば、「スーパー戦隊は人間キャストでなくても成立する」。色鮮やかな全身タイツでなくても構わない。だって、あくまでフィクションのキャラクターなのだから。加えて、「キャラクターの造形があまりに見事」だからこそ、「愛すべきジュランが、愛すべきガオーンが、そっくりそのまま巨大化して変形して合体する」という狙いに繋がる。

 

 

『ゼンカイジャー』は、およそこのような設計で組まれていったのだろう。スーパー戦隊という長期シリーズを、堅実さを担保しながら破壊し、後続へ種まきをする。その狙いにおいて、「キャラクターの強さで魅せる」という筋を通す。「戦隊性」をイチから見つめ直し、商業的なアプローチまで考えると、確かにこのバランスになるのかもしれない。

 

この狙いは、本編の特に1クールにおいて見事に達成されていた。ブルーンが加入する第4話までの一連の流れ、そして、ゾックスが登場してステイシーと決闘する第14話。キャラクターの魅力が、あらゆる「破」壊をむしろプラスに変えていく。いわゆる「こいつらがワチャワチャするのをずっと見ていたい」の究極完成形。そんなシリーズ最新作として、斬新な安定感があった。

 

戦隊シリーズ最大の特徴である「名乗り」。ここまでそれを重要視した戦隊がどれほどあっただろう…… と考え込んでしまうほどに、徹底してコスっていく。名乗りシーンは通例としてバンクで処理されるが、あろうことか新規の素材をこれでもかと盛り込み、セルフでいじりまくる。やっていることは突飛。しかし、戦隊が「名乗り」をフィーチャーして何が悪いというのだ。むしろそこは最も大事なポイントだったではないか。

 

そんな「名乗り」に華を添えるのが、レジェンドofレジェンド、渡辺宙明氏による軽快かつ重厚な劇伴だ。御年96歳である。言うまでもなく、1975年『秘密戦隊ゴレンジャー』の音楽を手掛けられた渡辺氏。こんなケレンな戦隊音楽を、我々は知っていたはずなのに、確かに脳に刻まれていたはずなのに、しばらく忘れてしまっていた……。その驚きの起用は企画色が強いが、反面、この上ない納得感がある。

 

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白倉プロデューサーと氏の愛弟子ともいえる武部直美プロデューサー、この2人による「平成ライダー畑らしい企画先行型の仕掛け」。それを受ける、中澤祥次郎監督と香村女史の脚本という「THE・スーパー戦隊として王道の座組み」。斬新なのに堅実。びっくりするけど安心。このバランスが、分単位での正解を叩き出していく。

 

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しかし、如何ともし難く「キャラクターの強度」なのだ。それは次第に盤面を支配し、物語という戦略を、あるいはプレイヤーである制作陣までもを逆支配していく。

 

ワルドが異次元の能力を発揮し、それをトンチの効いた方法で打破する。「相手の喉を常に渇かして戦闘不能にさせる」怪人には、給水所のバックサポートを設けて戦う。「前に進めないほどの向かい風を発生させる」怪人には、後ろ向きの姿勢のまま対抗する。「変身アイテムをびっくり箱化してフタを閉じられなく(変身不能に)する」怪人には、「仲間で互いにフタを押さえて変身」する。

 

絵面はこの上なくコメディだが、ロジックとしては『ジョジョの奇妙な冒険』のような「相手の能力を利用したりあえて身を委ねたりして勝つ」のパターン。特に中盤以降、『ゼンカイジャー』はこのパターンをくどいほどに何度も繰り返していくことになる。

 

 

しかし、これが まあ~~~~ 面白い。なんたって、キャラクターが強いから。お話よりむしろキャラクターで魅せているので、実のところ、ワルドの能力はいくらでも代替が効いてしまう。そして、おそらくそれを制作陣も自覚しており、半ば確信犯(正確には誤用)として展開されていく。作り手のキャラクターへの愛着が加速していく。

 

だって、ワルドがヘンテコな攻撃をして、それにいつものメンバーがリアクションを入れていけば、たったそれだけで十二分に面白いのである。介人が「えぇ~!?」と驚き、キカイノイド達があ~だこ~だ言いながらまとまっていき、美味しいところでゾックスとその家族が出てきて、物陰からステイシーが渋い顔で観察していて、なんだかんだあって変身して名乗って ヒィーロォォォ スーパァーゼンカイタァァァイムッ でワルドを倒せば、もうそれで120点満点なのだ。トンチキな絵面や展開、それを下支えするキャラ造形と技術。東映公式サイトでも度々「ゼンカイ脳」とセルフ揶揄された作劇こそに、依存性の高いバランス感覚がある。

 

こうして、「スーパー戦隊とは」→「5人がチームを組む意義」→「5人のキャラクター造形が大切」→「キャラクター造形を軸に展開を構築する」……という方針は、次第に加速し、肥大化していく。キャラクターとチーム内での役割が早期に完成してしまったため、それ以降、チーム内で分裂や意見相違といった方法論でドラマを作ることが難しくなった。個々のキャラクターとチーム感は盤石だが、裏を返せば、人間関係に柔軟性や将来性がない。一枚岩の弊害である。(本来であれば、クライマックスのドラマの盛り上がりはステイシー&ヤツデではなくゼンカイの5人であるべきだろう、という話)

 

『ゼンカイジャー』は、良くも悪くも、ずっと「自分達の話」をやっている。市井の人々を守る、平行世界を解放する、そういったヒーロー然とした活躍もしっかり配置されているが、やはり一際グッとくるのは「彼らのドラマ」にスポットが当たった時だ。ワルドの力で世界が危機に陥るより、介人の悩みにキカイノイド達が寄り添うシーンの方が、はちゃめちゃに盛り上がってしまう。とてもミニマムでスケールが小さい。セカイ系の手触りも感じてしまうほどに「自分達の話」だ。

 

よって、抜群の安定感とエンターテインメント性を持ち合わせながらも、クライマックスの「他の世界のスーパー戦隊が力を貸してくれた」という王道の展開に、今一つ照準が合わない。平行世界のスケール感とは裏腹に、印象として、ず~っと「自分達の話」をやってきた弊害だろう。しかし、「自分達の話」だからこそ、キャラクターが存分に活きてくる。そりゃあ、そうなのだ。サザエさんで磯野家の危機に町内全員が駆け付けたとして、果たしてそれはカタルシスを生むだろうか。「面白い」のは、延々に繰り返される磯野家の日常、「自分達の話」なのだから。

 

更には、前述の「合体ロボにキャラクター性を持たせる」という狙い。愛すべきキャラクターがそのまま巨大化・変形・合体するのだから、ロボットも愛すべきロボットに…… とは、ならないのである。う~ん、難しい。ならないんだよなぁ~~。

 

これは最終回終了後にTTFC(東映特撮ファンクラブ)で公開されたプロデューサー座談会でも話題になっていたりと、「うまくいかなかった点」の明確なひとつだろう。ジュランとガオーンは愛おしくても、ゼンカイオージュラガオーンはそこまででもない。介人とゾックスは愛おしくても、ゼンカイジュウオーに同種の愛着は沸かない。個々のキャラクターがあまりに強いがゆえに、印象の固定化が激しく、柔軟性に欠けるのである。(だからこそ、番組後半に登場したゼンリョクゼンカイオーのコクピットには、わざわざ彼ら個人の顔が描かれたのではないだろうか)

 

 

しかし、それらはいわゆる「必要悪」「必要無駄」なのかもしれない。

 

介人が、ジュランが、ガオーンが、マジーヌが、ブルーンが。彼らがずっと、ワルドと争いながらヘンテコで騒がしい日常を過ごす。5人一組だからこそ、戦「隊」。その大原則に立ち返り、疑似家族として補完し合っていく。終盤、敵幹部・イジルデを前に、「ぶっちゃけひとつだけ感謝してる」「大事な仲間と出会えたから!」とメンバーが言い放つシーンがある。力を合わせて悪を挫けることより、仲間との出会いの尊さを高らかに叫ぶ。まさに本作を象徴する台詞であった。

 

「5人」であることに最後までこだわり、ツーカイザーやステイシーザーが6人目や7人目として「ゼンカイジャー」を名乗ることは一度もなかった。戦隊だから、とにかく基本の5人なんだと。多様な彼らが集団でいることが最優先でマストなんだと。その軸が徹頭徹尾、ブレなかった。

 

アイキャッチ1

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最終回。決戦を終えた五色田介人は、精神世界で神様と対峙する。

 

そこで彼が真っ直ぐに主張したのは、多様性を尊ぶ意思だった。世界はとにかく残酷で、もしかしたら運命は呪われていて、他者を平気で踏み躙る者もいる。かと思えば、まるでジャンケンのような偶然の連鎖で人生は変わっていく。そんな不確かな世界だからこそ、身を寄せ合い、補完し合い、分かち合い、共に生きること。世界が広がる限り個人の可能性も無限であること。それは、ゼンカイジャーの5人が一年をかけて魅せてくれた日常(=「自分達の話」)、まさにそのものである。

 

凸凹だからこそ良い。バラバラだからこそ良い。カラフルだからこそ良い。世界を画一にトジようとする敵と、多様であることを体現するヘンテコチーム。スーパー戦隊の「戦隊性」を問いながら、これを最終的に、「多様であることが尊い」に着地させる。「キャラクターの強度」それ自体で、テーマを謳おうとする。

 

「スーパー戦隊とはそもそも何なのか? どういう成り立ちの作品なのか?」。『ゼンカイジャー』は、ここにしっかりと答えを用意したのである。十年前、「スーパー戦隊は何のために戦うのか? なにを守るのか?」を追求した『海賊戦隊ゴーカイジャー』とは、すこぶる対照的だ。

 

そして、この「多様であるそれ自体を誇る」をメタフィクションに解釈する方法論は、『仮面ライダーディケイド』や『仮面ライダージオウ』でも採択されたプロットである。白倉プロデューサーの作品史を追っていくと、『ゼンカイジャー』でやっと、氏のこの方法論が “わかりやすい” エンタメとして昇華されたような、そんな感動も見えてくる。やっと、“仕上がり” ましたね、という心持ちだ。(とはいえ『ディケイド』や『ジオウ』が “わかりにくい” のは、それはそれで良いのである。似合っているので。)

 

 

ゼンリョクゼンカイオーはのちのちの戦隊シリーズの技術蓄積を見据え、CGモーションキャプチャーでの表現に挑戦!!今までの特撮では見られなかったアングルや、スピード感! 着ぐるみという制限を超えたロボアクションの楽しみが詰まっていたと思います!!

機界戦隊ゼンカイジャー 第32カイ! 怒るサカサマ!まさかサルかい? | 東映[テレビ]

 

『ゼンカイジャー』が目指した「シリーズの未来への布石」。それは巨大なシリーズの根っこ、「戦隊性」を見つめ直すだけではなかった。

 

主に技術的な面でいくと、モーションキャプチャーで描かれ着ぐるみが造形されなかったゼンリョクゼンカイオーは、直接的に次年度に活かされている。キジブラザーとイヌブラザーの全身はフルCGで描かれ、等身大のアクションでそれが活用されていく。あるいは、コレクションアイテムの「ギア」を継続させ、ロボットの半身には前年のゼンカイジュランがまさかの続投(更にこちらもフルCG)。「戦隊とは5体の実写ヒーロー」「毎年新しいシステムで変身する」「着ぐるみのロボットが登場する」といった当たり前から、次々と離れていく。「破」の次は「離」。果たして、この先に新しい型は生まれるのか。

 

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長く続いてきたモノこそ、ひとたび変えた時に、その本質が浮かび上がってくる。

 

『ゼンカイジャー』はそれを力強く体現してくれた。同作を鑑賞しながら、きっと日本中の多くの視聴者が、思い、悩み、気づき、考え込んだことだろう。「スーパー戦隊って、なに?」。「どうしてこんなに規格外なのに、しっかり戦隊に見えるのだろう」。頭を捻り、脳をこねくり回し、その本質を探り当てようとする。

 

これぞまさに、番組が発信し続けた「ゼンカイ脳」の本懐なのかもしれない。

 

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