ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

「読むラジオ」のような文章が書きたい、あるいは読みたい

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「文章の書き方」については、色々と思うところがある。

 

こうして趣味のブログを(移転を繰り返しながら)10年以上やっている訳で、自分なりのスタイルであったり、試行錯誤だったり、創意工夫だったり・・・。出来不出来に関わらず、それなりに一家言だけはある。

 

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先日こちらの記事を拝読して触発されたので、私が思うところの「書きたい文章」や「読みたい文章」について書いてみたい。

 

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結論から言うと、私は「読むラジオ」のような文章が好きだ。

 

ラジオにおけるパーソナリティのトークを聴く感覚を、テキストで味わいたい。そういう文章が好きで、だからこそ、そういう文章を書きたい。どんなポイントに気を配れば「読むラジオ」のような文章が出来上がるのか、現在進行形で試行錯誤中である。

 

これは先の記事における「リズム」の概念ともリンクするのだけど、「話し言葉」のような文体は、書き手のキャラクターが伝わりやすいとされている。俗に言う「いかがでしたか?」ブログのような無味無臭の文体は、私も好むところではない。せっかく個人が書いたテキストを読むのだから、「その人なりの」「その人らしい」、そんな文章を読みたいと思っている。

 

私の思う個人ブログの最終到達点は、「何が書いてあるか」ではない。「誰が書いているか」である。後者に辿り着く読者をひとりでも多く獲得することが、運営者冥利というものではないだろうか。そのためには、「その人らしい」文章を構築しプレゼンすることで、「誰」の印象を強める必要がある。無味無臭の量産テキストでは、「何が書いてあるか」の域を出ることはできない。

 

では、実際問題として、それをどのように書いて表現するのか。

 

何より気を配っているのは、(むしろ「気を配っていない」のは)、「正しい文章」という正解を目指さないことである。例えば、「です・ます調」と「だ・である調」の混同。もっと言えば、論文等では「だ」「である」の混同も良くないとされている。しかし、私が書いているのは卒論ではなく、個人ブログなのだ。「私らしい文章」が、「ある程度の伝わりやすさ」を持っているのであれば、文章が正しいか否かは正直どうでも良い。

 

それこそラジオを意識して聴くと面白いのだけど、話し言葉において「調」のルールを完璧に守っている人は、そうそういない。話の流れやジャンル、トーンによって、馬鹿に丁寧に話すこともあれば、わざとくだけて表現する時もある。それは日常会話でも同様。「話し言葉」は、びっくりするくらい無法地帯なのだ。つまり、私のように「読むラジオ」な文章を目指す人間にとっては、「調」といったルールを正確に守ることが、そもそも課されていないのである。

 

だからこそ、あえて意識しない。喋る時と同様、流れ出るままに書く。

 

その時々によって、スパッと止める時も、ダラダラと濁す時も、感情に任せる時も、妙に畏まる時もある。でも、バラバラに見えるそれらは、「私というキャラクターのトーク」という条件で統一されているため、通して読むとあまり違和感がない・・・ といった文章を、目指しているのだ。例えるなら、私が読み手の隣の席にいて、トークしているのを聴いてもらう感覚。そういった疑似体験を、「耳」ではなく「目」から誘導したい。うーん、偉そうなことを言っているが、果たして本当にそれが出来ているのだろうか。まあ、あくまで目標の話なので。ご勘弁を。

 

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また、それこそ「リズム感」も意識している。「話し言葉」だからこそのリズム感を、なんとかテキストで表現したい。それを試行錯誤するのが楽しいのだ。

 

実例を挙げてみる。先日書いた『ポケットモンスター ソード』感想記事の一節。

 

現チャンピオンの実弟であり、主人公と同じ街の出身。共に旅に出てジムを巡ることになるが、このホップという少年、ことあるごとに主人公にまとわりついてくるのだ。新しい街に辿り着けば、まずホップ。ジムリーダーに勝利したと思ったら、いきなりホップ。洞窟の奥にもホップ。観光地にホップ。野道にホップ。ホップ、ホップ、ホップ。頻度としては完全にストーカーである。ステップもジャンプもしない、ただただホップ。ホップホップホップ。

ポケモン老害は国民的ヒーローの夢を見るか。感想『ポケットモンスター ソード・シールド』 - ジゴワットレポート

 

この一節では、主人公のライバルキャラであるホップというキャラクターについて書いている。彼が事あるごとに登場して、ちょっと煩わしく思えてしまった。文章の後の展開のためにも、ここではその感覚を伝えたい。

 

この場合、まずは「ホップが煩わしい」というニュアンスを共有したいので、その3文字を多く盛り込む。実際に、文章の中でもゲーム同様に「煩わしい」のだと、そういう状況を作る。しかし、特定のキャラに対する一種のヘイトであることは間違いないため(もちろん後にフォローは入れているが)、あまり辛辣に書いては気を悪くする人もいるだろう。ニュアンスを伝えつつも、角が立たないように面白おかしく。その辺りの塩梅に調整する必要がある。

 

であるならば、「リズム感」は重要だ。「話し言葉」における感情の機微は、主に「リズム感」と「トーン」で表現される。声の高低といった「トーン」をテキストで伝えるのは困難なため、「リズム感」で攻めるしかない。仮に同じ内容でも、機微によって全く伝わり方は異なる。それを再現したいのだ。

 

中盤の『洞窟の奥にもホップ。観光地にホップ。野道にホップ。ホップ、ホップ、ホップ。』のくだり。これは、段々と前のめりに、早口に駆けていく「リズム感」を狙ったものだ。『洞窟の奥にも』が9文字、『観光地に』が6文字、『野道に』が4文字。フレーズを順に短くしていくことで、トン・トン・トン、という前に倒れていく感覚のリズムを演出する。そして、『ホップ』の3文字を3連続でダメ押し。なぜ3連続かというと、言うまでもなく「ホップ・ステップ・ジャンプ」のリズムを引用するためである。読み手が無意識にそのリズムで脳内再生することを期待して構成した。

 

それを受け、『頻度としては完全にストーカーである。』でリズム的に一旦落ち着かせ、緩急をつける。続いて、『ステップもジャンプもしない、ただただホップ。』で、直前の「ホップ・ステップ・ジャンプ」のリズムという「読み手の脳内に浮かんだもの」をフォローする(無意識に引用したものを当てられた痛快さを狙う)。ラストにもう一度、『ホップホップホップ』で締める。今度は合間に読点を挟まず、更に前のめりにしている。

 

何度もこのブログで書いたことだが、私は記事を更新する前に、必ず音にして読み返すようにしている。脳内で喋ることもあるが、環境が許せば、実際に声に出す。「話し言葉」としての再現性、そこにある「リズム感」が狙った通りに表現されているか。ひとつの楽曲のように、前奏から盛り上がって、メインテーマ、聴かせ所、そして終曲と、「べしゃりが上手い人のプレゼン」のような感覚を真似できているか。リアルに音に出すことで、それはある程度把握できる。あとは、何度もトライ・アンド・エラーを繰り返すだけだ。

 

せっかくなので、同じ記事でもう一ヶ所引用したい。カッコ→「」の使い方である。

 

ポケモンは常に、「人とポケモンの共生」をあらゆる角度から描いてきた。ヤドンの尻尾が売買される現場で憤り、天変地異を巻き起こす神話の存在に恐れおののき、その主従関係からの解放を訴える男と相対する。今回の『ソード・シールド』は、このテーマに「人間とポケモンが共に挑む国民的スポーツ競技」という答えを打ち出しており、これもまた新たな「共生」の形として納得したものである。大きなポケモンが「ちゃんと大きいまま」その辺りをウロウロする。このセンス・オブ・ワンダーといったら!

ポケモン老害は国民的ヒーローの夢を見るか。感想『ポケットモンスター ソード・シールド』 - ジゴワットレポート

 

ラストの『大きなポケモンが「ちゃんと大きいまま」その辺りをウロウロする。』のくだり。この『ちゃんと大きいまま』にかかっているカッコ→「」は、本来必要のないものである。その前にある「共生」とは違って、何か印象的なフレーズや単語という訳ではない。

 

それでもカッコで閉じているのは、「話し言葉」としての抑揚、これまた「リズム感」を演出するためだ。カッコは非常に便利な代物で、スラスラと読み続けている人の足を一瞬だけ止めることができる。そこに、単語ではなく部分的なテキストを閉じることで、少し強調して喋るリズム感を演出できるのではないか。そういう狙いがある。

 

実際に耳で聴くイントネーションを無理やり文字に起こすと、私が狙ったのは、こういうニュアンスだ。

 

大きなポケモンが、 ち ゃ ん と お お き い ま ま !! その辺りをウロウロする。このセンス・オブ・ワンダーといったら!

 

しかし、これだとあまりにウザったいので、テキストに起こすとこうなる。

 

大きなポケモンが「ちゃんと大きいまま」その辺りをウロウロする。このセンス・オブ・ワンダーといったら!

 

この、ほんのちょっとの「立ち止まり」、ひいては「違和感」や「引っ掛かり」のようなものが、文章全体としての「リズム感」に繋がるのではないか。

 

「べしゃりが上手い人のプレゼン」には、常に抑揚や緩急がある。スッと音を引く時も、ドンと発する時もある。あえて難を設け、入り込みにくさを演出する時だってある。これを、どうにかテキストで再現したい。それ自体が趣味である。

 

同様に、(このタイプのカッコ→()に関して)、文字サイズを下げるのも好きだ。これもまた、抑揚という「リズム感」の演出。話が少し横道に逸れたり、補足を入れたりする際に、声のボリュームが少しだけ小さくなる。ジェスチャーでいくと、口の前で人差し指を立てる感覚だ。あの流れをテキストで再現すると、こうなるのではないか。そんな超個人的なこだわりを、脳内で常に考えながら、日々駄文をまき散らしている。

 

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とはいえ、とはいえ、だ。完全に「話し言葉」に寄ってしまうと、それはそれで読み辛い。

 

「目」で読むテキストには、それに適した表現方法がある。あまりにトークを完コピしてしまうと、えーっと、うーん、そう、えーっと、えー、あ、っといった些細な表現すら盛り込まれてしまう。「話し言葉」を意識しつつも、「書き言葉」としての一定の固さ、読み応えのようなものも担保したい。だって、あくまで「ブログ」なのだ。これはYouTubeではない。

 

そのために、魂を置いてきたテキストサイトの先人たちを常に意識している。好きだった作品評論サイト、何度も読みに行った個人ホームページ、喧々諤々の掲示板。そういった世界に生きていた先人のオタクたちは、「話し言葉」をニュアンスとして廃し、「書き言葉」に特化させていた。わざと難しい漢字を使っちゃったり、時には文学的な魅力さえ漂わせたり。SNSも無かった、懐かしいあの頃。そんなテイストを、「読むラジオ」に少しずつ混ぜ込んでいく。そうすると、いい塩梅で「話し言葉」と「書き言葉」のバランスが出来上がる・・・ のではないだろうか。

 

この点、今でもよく思い返すのは、アニメ『ジョジョの奇妙な冒険』のシリーズ構成をつとめた小林靖子氏の言葉である。

 

 

同番組のウェブラジオにスタッフとして出演した際に、彼女は、「原作ジョジョの読み心地の再現」について語った。原作漫画の、あの特有の読み心地をアニメで再現するために、「原作のコマを全て丁寧に拾ってアニメ化する」ことをしなかった。漫画には漫画の、アニメにはアニメの、スピード感や技法がある。重要なのは「完コピ」ではなく「『心地』の別メディアでの再現」なのだ、と。

 

私も、これを目指しているのだ。「ラジオの聴き心地」を、「ブログの読み心地」に再現する。そのためには、どう表現するのが適切なのか。沢山のブログを読み、脳内再生していく中で、私がそれまで知らなかった「技法」によって音が再生されることがある。「やられた!この手があったか!」。そして、それを自分のブログでも試してみる。何度もやることで、段々と板につく。その繰り返しである。

 

なんだか偉そうなことばかり書いてしまったが、つまりは、このブログが誰かにとっての「ラジオ番組」であることを心底願っている、そういう話なのです。

 

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