ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

僕の青春は2003年版アニメ『鋼の錬金術師』に持って行かれた

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その手の病をまだまだ患っていた当時の私は、『鋼の錬金術師』に熱中しすぎた結果、ホムンクルスを真似てウロボロスの紋章をサインペンで手の甲に書き、あろうことかそのまま学校に行ったりしていた。もし過去に戻れるのなら、ひと思いに殺してしまいたい。

 

この場合の『鋼の錬金術師』は、正確には原作を指さない。2003年に放送が開始された、水島精二監督によるアニメ版である。原作単行本はこの数年後、全27巻で完結したが、アニメ放送開始当時はまだ5巻か6巻あたり。原作の、序盤も序盤であった。

 

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▲我が家に残る、ムック本『オフィシャルファンブック』。ちゃんとバインダーまで買っていた当時の自分・・・。

 

ハガレンに触れたのは、アニメの事前告知映像がきっかけだった。当時すでに、自身がオタクという生物であることは自覚しつつあったが、仮面ライダーやゴジラといった特撮分野ばかりに熱中していた。アニメ畑には今でも疎いのだけど、ハガレンについては本当にたまたま、テレビのCMで観たものと記憶している。

 

びびっと、きたのだろう。まだアニメの放送が始まる前に本屋に駆け込み(数件で品切れだったので自転車で駆けずり回った思い出)、その時点で発売されていた原作コミックスを一気に購入。「すごい!なんて面白い漫画なんだ!」。そして、間もなくアニメの放送が開始。そのまま、本当にそのまま、止まることなく深く深くのめり込んでいった・・・。

 

鋼の錬金術師 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)

 

 

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アニメは毎週VHSに録画し、何度も繰り返し鑑賞した。果てには通学中にもハガレンに浸りたい欲にかられ、録画VHSを再生した状態で音声をMDにアナログ録音し、それを聴きながら通学していた。映像が無くても、脳内では鮮明に上映される。エドやアルの息遣い、大島ミチルによる雄大なスコアが、耳を震わせた。

 

原作のストックはどう見ても足りておらず、アニメは早々にオリジナル展開に突入。門の向こうにあった現実世界と、それを絡めた未曾有のクライマックス。そして劇場版。怒涛の展開に、血反吐を吐きながら振り回された。

 

前述のように、2003年版は原作とは異なる展開が特色である。・・・実は私は、むしろ原作よりこちらの方が、自身の性癖に合っている気がしている。いや、順序が逆か。これに育てられた、植え付けられた、と言った方が適切かもしれない。2003年は、この『鋼の錬金術師』と『仮面ライダーファイズ』が放映されており、翌2004年に『ウルトラマンネクサス』である。私のオタク人生における第二次性徴は、確実にこの時期を指す。

 

そんな2003年版の解釈だが、「ホムンクルスは人体錬成の失敗作である」、このオリジナル展開が本当に素晴らしい。もはや発明の域である。

 

ホムンクルスの全容も目的も、黒幕の存在すら謎に包まれていた原作序盤。この、まだ「種蒔き」のステップだった物語に対し、2003年版はオリジナルの答えを大きくふたつ用意した。ひとつは、「この世界は科学文明の代わりに錬金術が発達したパラレルワールドである」。そしてもうひとつが、「ホムンクルスは人体錬成の失敗作である」。主にこのふたつを軸に、当時まだ「種蒔き」だった物語に盛大に華を咲かせたのだ。

 

中でも、「ホムンクルスは~」の方。これがもう、今でも鮮明に思い出されるくらい、ショッキングな設定だった。これにより、エドとアルの前には母親が、イズミ師匠には亡くしたはずの子どもが、スカーには兄が愛した女性が、敵となって姿を現す。「人であれ」と願われ造られた存在たちが、人を超えた力を振りかざしながら、「人になりたい」という目的のために暗躍する。まるで「業(ごう)」に手足が生えたかのように、彼らの過去の罪が、そっくりそのまま敵となって襲い掛かってくるのだ。

 

原作途中でまだまだゴールが見えない段階にあったキャラクターたちに、対応するホムンクルスをあてがうことで、「精算」を用意する。「乗り越えるべき過去や障害」がキャラクターとして襲い掛かってくる展開は、あえて挙げるなら『NARUTO』の終盤が近いだろうか。浄化されるように消えていくスロウスは、エルリック兄弟による最大限の贖罪だったのだろう。

 

そんな構図も手伝ってか、兄弟に降りかかる負荷も、原作より重めだ。原作では「仲間がいる」「その声援を受けながらラスボスと戦う」という少年漫画の王道を往ったが、2003年版はすこぶるハードに寄せている。同作が持つ影の部分をより詳細に描き込んだ形になったので、原作とは味が異なるものの、確実にハガレンなのである。特濃ねっとりソースのハガレンだ。

 

物語中盤、持って行かれたはずのエドの手足を持つホムンクルスが登場。エドは、旅の最終目的が他人の身体にくっついているという、残酷な事実と向き合うことになる。更には、探し求めていた賢者の石に弟のアル自身が変容。石が目の前にあるのに使うことはできず、加えて傷口に塩を塗るように、母親の顔をしたホムンクルスまでもが現れる。

 

なんて、なんて酷なのだろう。エルリック兄弟を一番高い所に置き去りにして、優しさから遠ざける仕打ちである。「このスタッフ陣は、どこまで兄弟を追いつめれば気が済むんだ!もういい!もういいだろっ!」と、ガッツポーズを決めながら嘆いていた。

 

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『鋼の錬金術師』の根幹には、原作者・荒川弘による生命観や倫理観が太く生きている。

 

『百姓貴族』や『銀の匙 Silver Spoon』でも描かれた、雄大な大地で繰り広げられるシビアな命の連鎖。そこに最前線で触れてきた人だからこそ、ハガレンのような倫理的側面の強い作品を世に送り出せたのだろう。氏の読み切りに『STRAY DOG』という作品があるが、これもまた、生命倫理やクローン問題に触れた秀作である。

 

百姓貴族 (1) (ウィングス・コミックス)

百姓貴族 (1) (ウィングス・コミックス)

 
銀の匙 Silver Spoon(1) (少年サンデーコミックス)

銀の匙 Silver Spoon(1) (少年サンデーコミックス)

 

 

とはいえ、原作『鋼の錬金術師』は、どこまでいっても少年漫画であるという一線を守っていた。それは原作者による矜持でもあったのだろう。ハードな生命倫理をぶち上げながら、そこに傾倒し切らない。そっちに傾きそうになると、少年漫画路線に戻し、思い出したようにダークな拳で殴った後に、また熱い展開を持ってきたり。そういう絶妙なバランス感覚で完走したのが、原作版という印象だ。

 

しかし、2003年版は、いわゆる「少年漫画らしさ」を潔く放棄している。反面、原作が持っていた「ダークでハードな生命倫理」、あるいは「業の物語」という部分を増幅させ、そこにオリジナル設定を持ち込むことで、原作とは異なる全51話を完成させた。

 

だからこそ、さすがに「やりすぎ」な部分もあったのだろう。諸々のムック本等のインタビューを読むと、制作スタッフからの「どこまでやっていいのか」「さすがに局サイドからNGが出てしまった」といった証言が頻出している。そもそも、機械鎧(オートメイル)を扱う点についても、人体欠損という意味でアニメに出来るか否か揉めたようである。なのに、その人体欠損の要素を真正面から取り扱う回をやったりと(16話)、製作スタッフは「ダークでハードな生命倫理」にがっぷり四つであった。

 

原作コミックにおける後書きにも、原作者とアニメスタッフによる鍔迫り合いが(コメディ調ではあるが)記されている。「少年誌作家としてそこはゆずれんのです~」「そこをなんとか」。相当なディスカッションが重ねられたのだろう。また、「ものを作る情熱がいやという程伝わってくるので、そんならこっちも本気でぶつかるべ、と原作の最終回もぶちまけてあります」とも書かれており、その真相はまさに原作が最終回を迎えた数年後に判明したのであった。

 

そう、連載が終わった2010年。私はずっと、先の「原作の最終回もぶちまけてあります」発言が頭に残っていたため、「こういうことだったのか!」と数年越しの衝撃を味わった。「兄弟が互いを錬成し合う」「エドは錬金術を使えない人間になる」という怒涛の展開は、2003年版でもそっくりそのまま行われたものであった。原作終盤の最も大事な部分のネタバレを、すでにこの2003年版の時点で、我々は喰らっていたのだ。この屈折した爽快感は、今でも忘れない。

 

鋼の錬金術師 27巻 (デジタル版ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師 27巻 (デジタル版ガンガンコミックス)

 

 

「この世界は科学文明の代わりに錬金術が発達したパラレルワールドである」「ホムンクルスは人体錬成の失敗作である」。

 

このふたつの要素で推進力を生みながら、原作に用意されていた展開を実のところその数年前になぞっていた2003年版。続く映画『シャンバラを往く者』では、このオリジナル要素の前者にフォーカス。原作とはすっかりかけ離れた物語になったが、爽快感やカタルシスより「史実との融合」「世界と個人」の話に落とし込んでいく辺り、スタッフはどこまでも生真面目であった。

 

当時の私は、なぜこんなにも同作に惚れ込んでしまったのか。それは、2003年版のスタッフに、原作への明確な「敬意」を感じていただからだろう。一歩違えば「敬愛」とも言えるだろうか。ハガレンという原作の持ち味を理解し、ダークかつハードな部分と少年漫画な性格を分解し、オリジナル設定を持ち込んで再構築する。その姿勢に、「まぁこれくらいでいいでしょう」といった感覚は、微塵も残っていない。

 

例えば、賢者の石を吸収したオリジナルの巨大なホムンクルスでも登場させて、エドとアルと大佐が協力して戦い、倒した際に霧散した賢者の石の元素(?)を使うことで兄弟の失った身体が取り戻せてハッピーエンドとか、そういうオリジナル展開の可能性だって、いくらかあったはずなのだ。よくあるタイプの、「毒にも薬にもならないアニオリ」。

 

しかし、水島監督をはじめとするスタッフ陣は、むしろそれは原作にとってこの上ない失礼に当たる、このテーマなら突き詰めることこそが最大の敬意である、という意志を見せつけた。

 

結果、その「敬愛」の「愛」が暴走してしまった場面もあったのだろう。今振り返っても、確かに「やりすぎ」な部分はあった・・・。最終回かと見間違うほどの緊迫感だった第五研究所編からラースやグリードが登場する後半戦への流れは、独自のドライブ感が加速していった反面、序盤のエピソード構成にはややぎこちなさもあった。決して、完全無欠という印象ではない。しかし、毒も薬も、臆することも薄めることもせずに散布しまくったそのスタイルに、当時の私は強く感銘を受けたのである。

 

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生まれて初めてアニメのDVDを買ったのも、この2003年版であった。

 

当時の私のお小遣いからしたら、あまりにも高額だったアニメDVD。これだけの話数しか入っていないのに、なぜこんなにも高いのか。泣きながら財布を開き続けた。キャラソンCDも、サントラも、ゲームも、小説も、画集も、ガンガンも、副読本も、ムック本も、脚本集も、アニメコミックも・・・(あまりに節操なく漁っていたため、生まれて初めてBでLな禁忌に触れてしまったのもこの頃)。同級生がアオハルを謳歌していた頃、私の時間とお金の大部分は『鋼の錬金術師』に費やされていた。

 

まさかその後、2度目のアニメ化や映画化、果てに実写映画にもなるだなんて、当時は想像すらしていなかった。アニメ2作目『FA』については、「大佐がラストを撃破する」と「ロス少尉が実は生きている」のエピソード順を入れ替えたのを未だに根に持っているのだけど(原作における大佐のキャラクター造形のために用意された緻密な構成を崩してしまっているため)、原作の「少年漫画らしさ」がカラッとした質感で堅実に映像化されており、こちらもまた、今も繰り返し鑑賞している。

 

『嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』は国土錬成陣の応用がアイデアとして好きだし、実写映画版は中盤の兄弟喧嘩のシーンで劇場で涙した。どれもこれも、大好きな作品である。

 

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鋼の錬金術師 DVD

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しかし、もはや「好き」の域を超えて「翻弄」されていたのは、やはり2003年版なのだ。熾烈であった。観る者の心臓に鎖を埋め込み引っ張るような、そんな独特の引力があった。時間も、お金も、青春も。オタクとして色んなコンテンツに手を出しながらも、やはり断トツに心を奪われていたのは2003年版だったのだ。

 

とはいえ思い返せば、等価交換を超えて、同作には沢山のものを貰ったような気がする。アラサーになった今、映画や特撮やアニメを観てはブログにテキストを叩きつける生活を送っているが、その趣味嗜好の土台には、確実にハガレンが生きていることだろう。

 

・・・などとセンチに浸りながら、定期的にGoogleでミュンヘンの街並みを画像検索する生活を、今も送っている。

 

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劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 Blu-ray Disc

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BSアニメ夜話 Vol.8 鋼の錬金術師 (キネ旬ムック)

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